第57話 それぞれの恋のはじまり
休日の午後、私はキッチンでお菓子を焼いていた。
甘いバターの香りが漂う中、リビングにいる希美のスマートフォンから、何度も通知音が響いていた。
「そんなに連絡、来るもんなの?」
ふと尋ねると、希美は照れくさそうに笑った。
「うーん……最近、ちょっと気になる人がいて」
手を止めた私の目を見て、娘は少しはにかみながら話し始めた。
美容室に勤めてもうすぐ一年。
数カ月前に系列店から異動してきた年上の先輩スタイリストがいるという。
仕事に真面目で、後輩の面倒見もよく、お客様からの信頼も厚い。
けれど気取らず、何気ない雑談の中でも、いつもさりげなく彼女を気遣ってくれるのだという。
「別に、まだ何かあるわけじゃないんだけど……」
そう言いながらも、頬が少し紅く染まっていた。
希美の恋。
初めての、職場での恋かもしれない。
親としては心配もあるけれど、それ以上に、彼女の笑顔がとても眩しくて、私はそっと応援しようと思った。
一方、雅紀のほうにも、変化があった。
大学のサッカー部での練習が忙しい中、連絡の頻度は減っていたけれど、ある日突然、彼から電話がかかってきた。
「……あのさ、紹介したい人がいるんだけど」
「えっ、誰? 彼女?」
「うん、同じ学部の子で……マネージャーやってる子。すごく優しくて、話してて落ち着くんだ」
驚きつつも、電話越しの彼の声はどこか照れたようで、けれどとても嬉しそうだった。
彼女は地元が少し遠く、休日には一緒に散歩したり、小さなカフェに行ったりと、大学生らしい静かな交際を重ねているという。
「まだ先のことだけど、ちゃんとした人間になって、いつか胸を張って紹介できるように頑張るよ」
そんな風に言う息子の言葉が、心に深く残った。
春は、恋の季節だ。
我が家の子どもたちにも、それぞれに優しい風が吹き始めている。
夕飯の席、二人が楽しそうに笑っている姿を、優斗と私はそっと見守った。
「ねぇ、あの頃の私たちも……こんな感じだったかな?」
「いや、もうちょっとぎこちなかったかも」
笑い合う私たち夫婦に、子どもたちは「なにそれ、やめてよー」と顔を赤らめる。
けれどその照れた顔の中に、たしかに大人になっていくまっすぐな想いが、確かに息づいていた。




