第35話 やさしさの置き場所
母の認知症の診断が下ったのは、ある梅雨の晴れ間のことだった。
最初は「ちょっとした物忘れ」程度だった。ポットを空焚きしたり、ガスの火を切り忘れたり。だが、ある日、母が夜中に家を出て、近所の交番に保護されてしまった。
姉から連絡を受けたとき、私は仕事帰りの電車の中だった。画面に表示された「緊急」の文字に、心臓が跳ねた。
「……あの人、迷子になってたの」
駅前の交番に母を迎えに行くと、母は心細そうに椅子に座っていた。私の顔を見るなり、小さな声で「来てくれたの」とつぶやいた。
そこから、母の介護生活が始まった。
最初は在宅でのサポートだった。姉と交代で通い、ヘルパーの手配をし、ケアマネージャーとの面談を重ねた。母は頑固だったが、不安を抱えているのがわかるほどに、表情が曇っていた。
「お母さん、ここ、わかる?」
「……うん。ここ、わたしの家でしょう?」
「そうだよ。私たちも一緒にいるからね」
そんな会話を何度も繰り返した。
ある日、母が唐突に言った。
「この子……誰?」
それは、娘の名前だった。
一瞬、心がざわついたが、私は笑って答えた。
「希美よ。あなたの孫だよ」
母は、しばらく娘の顔を見つめていた。
「……そうだったね。やさしい顔してる」
そう言って、母は娘の手を取った。娘は不思議そうに私を見て、そして小さくうなずいた。
在宅介護は、予想以上に心身を削った。
私と姉は、シフト表のように予定を組み、週末は必ず“母の時間”を持った。夫の優斗も、送り迎えを手伝ってくれた。
「疲れないようにね」と彼は言ったが、疲れないはずがなかった。
それでも、母が穏やかな顔を見せた日には、何か報われたような気がした。
ある晩、母がこたつの中でぽつりとつぶやいた。
「私ね……若いころ、あんたたちにずいぶんきつくあたってしまったね」
私は黙っていた。姉も。
母は笑った。
「でも、あんたたちは来てくれた。あれは、何だったのかね……あんなに怒鳴ってたのにね……」
私はそっと答えた。
「わからないけど……でも今は、一緒にいられることがありがたいよ」
母は、ふっと目を閉じて、「そうかね……」とつぶやいた。
介護には正解がない。
感情がぶつかることもある。姉と意見が食い違い、夜中に電話で言い合いになったこともあった。
でも、帰り道、どちらかが必ず言った。
「……ありがとうね」
その一言だけが、翌週の力になった。
やがて、母は施設入居を選ぶことになった。
「最後まで家にいたい」という母の気持ちをくみながらも、安全を優先した決断だった。
「見捨てるわけじゃないよ。また来るからね」
母は、うなずいていた。
夕暮れ時、施設のベンチで母の手を握る。
希美と雅紀が、芝生を走り回っている。
「いい景色だね」と母が言った。
「うん。家族って、こういう時間かもね」
母の目には、夕日がやわらかく映っていた。




