第16話 決別の時
実家を離れた帰り道、私はこれまでと違う、どこか静かな覚悟を胸に抱いていた。
「……もう、いいよね。」
誰に言うでもなく、ぽつりとつぶやくと、優斗が隣で小さくうなずいた。
「いいよ。もう、十分だよ。」
その言葉に、張りつめていた心がふっと緩んだ。
ずっと縛られていた。
"娘"として、親に認められようと努力していた。
でも、どれだけ頑張っても、愛されることはなかった。
母からの言葉はいつも否定と比較だった。
「お姉ちゃんはちゃんとしてるのに、あんたは……」
「そんなことで疲れたなんて甘えてるだけでしょ」
「結婚相手だって、もう少しマシなのがいたでしょうに」
そんな言葉に、ずっと傷ついていたことを、やっと認められた気がした。
車窓に映る夕日を見つめながら、私は幼い頃の記憶を辿った。誕生日に手作りのカードを渡しても、母は忙しそうに受け取るだけだった。運動会で一等賞を取っても、「お姉ちゃんはもっと早かったけどね」
と言われた。私が笑顔でいるのは、母が機嫌よくいてくれるときだけだった。
でも今日、実家での最後の食事の席で、母はまた同じことを繰り返した。
「孫の顔を見せに来るのも遅い」
「こんな遠くに住んで、親不孝な娘だ」
そして、まだ一歳にもならない我が子を見て、
「この子も躾をちゃんとしないと、あんたみたいになるわよ」
と言ったのだ。
その瞬間、何かが切れた。
私の中で、長い間耐えてきた糸が、静かに断ち切られた。
数日後、私は一通の手紙を書いた。
母宛てだった。
筆圧の強い文字で、淡々と事実を綴った。
「これまで、私なりに精一杯、家族として向き合おうとしてきました。
だけど、私が何をしても、あなたは私を認めてはくれなかった。
あなたの期待に応えようとして、心も身体も壊しました。
私の人生を、もうこれ以上、あなたの言葉で汚されたくありません。
だから、今日をもって、私はあなたと距離を置きます。
お互いのためにも、この関係を終わりにしましょう。
どうか、これ以上私たちの人生に干渉しないでください。」
何度も下書きを重ね、涙で文字が滲むこともあった。それでも、一字一字、自分の気持ちを正直に綴った。愛されたかった想いも、認められたかった願いも、そしてもう限界だという現実も。
投函した後、心が軽くなる感覚があった。
悲しみや痛みではなく、"自由"だった。
郵便ポストに手紙を入れた瞬間、長い間背負っていた重い荷物を下ろしたような感覚に襲われた。空は抜けるように青く、風が頬を撫でていく。こんなにも世界が軽やかに感じられるのは、いつ以来だろう。
それから一週間、母からの電話が何度も鳴った。最初は怒りに満ちた声だった。次は泣き声だった。そして最後は、いつもの冷たい声で
「勝手にしなさい」
と言われた。
私は電話に出なかった。優斗が
「出なくていいよ」
と言ってくれたから。
そんなある夜、優斗が子どもをあやしている姿を見ながら、私は静かに涙を流した。
「私、ちゃんと前に進んでるよ、陳念さん……」
あなたが教えてくれた言葉の数々が、今の私を支えてくれた。
「あなたの価値は、誰かに認められることで決まるのではない」
「自分を大切にすることは、わがままじゃない」
「愛されるために自分を殺すなら、それは愛ではない」
ようやく、私は"娘"ではなく、"母"として、そして"私自身"として生き始められたのだ。
優斗が私を見つめて、そっと微笑んだ。
「君は強くなったね」
「いえ、弱くなったんです。やっと、弱い自分を認められるようになった」
腕の中で眠る我が子を見下ろす。希美には、私が受けられなかった無条件の愛を注ごう。この小さな命が、ありのままの自分でいられるように。希美の存在そのものを、心から祝福しよう。
過去との決別は、逃げることではない。
自分を守るために、手放すという"選択"だ。
そして私は今、自分の足で、新しい人生を歩いている。
母からの手紙や電話は時々まだ来る。でも私は、それらを見ることも聞くこともない。私たちの平穏な日常を守るために。
春が来て、希美が初めて花を指さして笑った。その瞬間、私は確信した。この選択は正しかった。愛に満ちた家庭を築くために、毒のある関係を断ち切ることができた。
時々、罪悪感が顔を出すこともある。でもそんな時は、陳念さんの言葉を思い出す。
「自分を守ることは、他者への責任でもある。幸せな人だけが、本当の愛を与えられるのだから」
私は今、本当の意味で母になれた気がする。そして、本当の意味で自分らしく生きている。




