国を憂える聖女様、悪女になる
2026.4.9、加筆修正版と差し替えております。
聖女エスメラルダは、目の前の群衆を見下ろして思った。
(ああ。これは、もうダメだわ)
彼らは目の前の美しき聖女、つまり私を、手を合わせて見上げている。その目は家畜のそれだ。全てを与えてくれ、自分たちの苦痛を取り除いてくれる、その存在に依存し切っている。
なぜ私が空に手をかかげただけで涙ぐめるのだろうか。
確かに私は実りを豊かにするように神に祈ったけれど、それは実際には大した効力はない。
そんなものでは収穫量の増加は見込めないのは、もう彼らにも分かっているはずだ。そうでなければ、こんなに何度も祈る必要はない。
それを求めるのであれば、作物の品種改良だとか、肥料の開発だとか、面倒で時間のかかる仕事に根気よく向き合わなければならない。
私は、一段高いところにある特等席から満足げに私に微笑みかけてくる王族たちを見やった。
(何を悠長に笑っているの? あなた方が、聖女頼みの政治をしてるから、この国がこんな状況になっているのに)
私は彼らが目を向けようとしない者たちを見るために、広場に集まった群衆の、そのまた先に視線をやった。
この広場の端の端、路地から顔をのぞかせた路上生活者たちに目を向ける者は少ない。職もなく、やせこけた様子の彼らがこちらを見るその目は濁っていて、聖女に心酔するような様子は見られない。
どんなに聖女が祈ろうが、恵みがもたらされようが、その実りのわずかな残りカスさえも自分たちの元には届かないのだと、彼らは嫌と言うほど知っているのだろう。
儀式を全て終えると、私は祈りの場から降りて、豪華な馬車に乗り込んだ。
聖女たる者、祈りを捧げ続けるだけの日々を、この力が無くなるその日までおくり続けることになる。
聖女は元来長生きで、力を失うことなく老い、その生涯の全てを祈りに捧げた者もいるという。
でも、私はまだ十八歳だ。先は長い。それにやり残したことが山ほどある。
馬車の窓から手を振ってくる人々に微笑みながら、私は心の中で叫んだ。
(冗談ではないわ。そんな人生、ぜっっっったいにイヤ!)
この日、私はついに決心した。聖女失格だと罵られることになろうとも、自分の人生を取り戻すのだと。
◆
聖女こと私、エスメラルダは、元は商売で成功したダドリー男爵家の生まれだ。お金に困ったことは無かったし、教育も十分に受けさせてもらった。
ダドリー商会の会頭である父は、海をまたいで商売をしていた。そんな父は、私が幼い頃から一緒に船に乗せ、何度も海の向こうへ連れて行ってくれた。
外国には聖女はいなかったけれど、それでもこの国よりも豊かで、よほど進歩的な生活をしていた。
父から商売のやり方を教わって、いつかはその仕事を手伝うつもりだった。その他にも、やりたいことがいっぱいあった。
だから、自分に聖女の印が現れた時には絶望した。
ある朝起きて、洗い終わった顔を上げたら、鏡の中の、なぜかおでこが光っている自分と目が合った時の驚きたるや、思わず大声で叫んでしまったほどだ。
人生で初めてと言っていいほどの大きな声を出したので、お母様やばあやだけでなく、お父様までやってきてしまった。
せめて印が表れたのが、おでこでなかったら、何とか隠し通せたかも知れないのにと、家族や使用人たちと一緒に二晩考えた。でも聖女になるのを回避する道は思いつかなかった。
これ以上、聖女の印が現れたのを隠していたら、この家自体が反逆罪で取り潰され、私は連れ去られる。もう、神殿へ名乗り出るしか方法は残されていなかった。
それは今から一年ほど前のことだった。
◆
私は困惑した様子の神殿の神官や使用人たちを部屋で迎えた。
聖女は神殿で暮らしていて、普段そこから出ることは許されない。その代わり、退屈しないようにと、一定のお金は自由に使える。
「せ、聖女様……こんなにたくさんのドレスをお買い求めになって、どうなさるおつもりでしょうか」
そう言った年をとった神官は、私が書いた注文票を持つ手を小刻みに震わせている。
「それをどうしようと、私の自由なのではないかしら」
そう言うと、彼は何か言いたげな表情のまま引き下がったが、その隣にいた女性の使用人が一歩前に出た。
「こちらの宝石類も、お求めになる必要がございましょうか」
彼女の言葉にも、私は先ほどと全く同じ答えを返した。
この一年、生活に必要な石鹸やブラシや室内着、そして本しか買わなかった私に、二人は不信に満ちた目を向けつつ、部屋から出て行った。
彼らと入れ替わりに、小間使いの少女がお茶とお菓子を運んで来てくれた。そして、彼女は微笑みながら、エプロンの中に隠し持っていた封筒を取り出して、私に差し出す。
私はお皿に盛られたお菓子を清潔なナプキンに全て包むと、それを彼女に渡し、手紙を受け取った。
「いつもご苦労様。これから少し忙しくなると思うけれど、よろしくね」
彼女はお菓子を隠すと、満面の笑みを浮かべながら可愛らしくお辞儀をして去って行った。
誰もいなくなった部屋の中で、私はその封筒を破り、中から便箋を取り出した。その筆跡は確かに父のものだった。
私が聖女として神殿で暮らし始めて数か月たった頃、父からこうして手紙が届き始めた。小間使いの少女によれば、それはいつも特定の神官から渡されるのだと言う。
「お父様がどうして神殿にも顔が利くのか、早く家に帰ってお聞きしたいわねぇ」
私はそうつぶやきつつ、便箋を取り出して、ダドリー商会の会頭である父親に手紙をしたためた。
よほどのことがない限り、こちらからは手紙を返さないようにと言われている。回数が増えれば誰かに知られる可能性も高まるからだ。
つまりは、私がこれを返すことで、父はだいたいの状況を察してくれるはずである。
私は便箋のインクが乾くと、それを封筒に入れて、小間使いの少女を呼んだ。
「これをお願い。方法は聞いているわね?」
少女は微笑んで封筒を受け取り、またいつものお辞儀をして軽やかに扉の向こうに消える。
私は格子のはめられた窓から外を眺め、これからすべきことをもう一度おさらいしたのだった。
◆
ある晴れた日の街角で。
「おい、聞いたか、最近の聖女様の噂を」
「今頃、何言ってんだ。随分前からその噂でもちきりだ。何でも、王都中のドレスや宝石を買い漁って。それどころか、祈りの間にすら姿を現さなくなったそうだ」
「何だそれは。それでは、どこぞの大貴族のご令嬢と変わらんじゃないか」
「この国はもうお終いだ……」
ある貧しい農村で。
「おい、聞いたか。海の向こうから持ち込まれた堆肥ってやつ。ダドリー商会が破格の値段で売り出しているそうだ。試した奴らが、収穫量が格段に上がったと!」
「あの、贅沢三昧で何もしない聖女……いや、もう聖女だなんて呼びたくないが、あの女の祈りなんぞより、ずっといいじゃないか」
ある裏町の、屋根が傾きかけた家々に住む者が集う井戸の脇で。
「ねえ、奥さん聞いた? あの縫製工房、人手不足で大変だって、人を探してるわよ。旦那が職にあぶれてんなら、あんた、話だけでも聞きに行ってみたら?」
「それは助かるねぇ。雇ってもらえたら。でも、何でまた急に?」
「噂だけどさ、なんでも、どこかの大きな商会が、この国の刺繍がされたドレスを外国に大量に持ち込んだら、直接外国の商人が買い付けに来るようになったんだってさ。珍しい刺繍だって」
「本当かい? そう。こんな、昔から皆んなが刺してる刺繍がねぇ。分からないもんだねぇ」
夜の酒場で。
「俺の田舎じゃ、しょっちゅう起こる洪水で、よく畑のもんがダメになってたんだけどよ、最近、外国からよく技術者ってやつがやってくるだろ」
「ああ、ダドリー商会の紹介で、農作業に使う器具やら何やら持ってきてる奴らかい?」
「そうそう。んで、そいつらが川の周りでしばらく何かやってんなぁって思ったら、この前の大雨では、何の被害も出なかったんだとさ」
「ほおお。よその国は、聖女様もいない、どうしようもない所だと思ってたけどなぁ! なかなかやるもんだ」
「うちの国にだって、もういないも同然だろうが」
その場にいた者たちは声を揃えて言った。「確かに!」と。
国中で聖女の評判が地に落ちた頃、王宮でも議論が交わされていた。
「陛下、最近の聖女様の行状は見るに堪えません」
「祈りもしないとは、すでに聖女とは呼べませんな」
「いくら許されているとはいえ、聖女様がこの二年で使った金額は、そろそろ国庫にも影響を与え始めておりますぞ」
「祈りを捧げていた間も、その力は大きな実りをもたらしはしませんでしたな」
「それよりも、他国よりもたらされた技術の方がよほど有益でございますよ」
「あの者は、何かの間違いで印が現れてしまっただけの出来損ないの聖女だったのではないでしょうか」
大臣らの言葉に、しかめっ面で話を聞いていた国王は深く息を吐きだした。
「しかし、聖女は一人しか現れない。あの者が力を失って、新たな聖女様がお姿を見せてくださるまではな……」
そこで神殿からやって来ていた、ある神官が言った。
「私見で恐縮でございますが、申し上げてもよろしいでしょうか」
「許す」
「では、申し上げます。陛下、残念ながら、聖女様はすでにお力を失っているのではないでしょうか。それを察したから、祈りを捧げなくなったのかもしれません。印が消えないのは不思議ではございますが、力のなくなった聖女などただの人でございます。その席を空席とすれば、新たな聖女様がお出ましになるやもしれません」
その神官の言葉が決め手となって、国王は聖女の解任を決めた。
かくして、祈りもせずに気ままな生活を送っていた私は、聖女の称号を取り上げられた。
そうすれば、新しい聖女が現れるのではないかと発言したのが、父と繋がっている神官だなんて知らない国王によって。
それに、国全体の景気が良くなり、税収も上がり、しばらくは聖女が居なくても構わないと国王や大臣たちは判断したのだろう。
買い漁ったドレスと宝石は私の物ではあったけれど、もうドレスは手元にないし、宝石はもともと非常用の財源として国庫に納めるつもりだった。
小間使いの少女一人に見送られて、私は神殿の裏口から、こっそりとそこを後にした。
私はほぼ手ぶらで、おでこにある印を隠すようにこそこそと、三年ぶりの実家に喜んで帰ったのだった。
◆
私は、実家の、神殿よりもよほど豪華に飾り付けられた居間にいた。神殿を後にして、もう何か月も経っていた。
大昔に、聖女の印を偽装して、その家族が国政を牛耳りかけた事件があった。
そのため、聖女はその出身を明かさずに神殿に入る決まりだった。そして、神殿も王宮も、聖女を輩出した家を調べようとはしない。
そのおかげで、私は全くの自由の身になったはずだったけれど、一つだけ大きな問題があった。
「はぁぁ~~。やっぱりダメねぇ。どうしても光が漏れてしまうわ」
「だから言ったでしょう、お母様。名乗り出る前にも考えましたし、私もあちらにいる時にいろいろ試したのですけど。どんなに分厚いお化粧でも、布でも、この光は貫通してしまうのですわ」
私の目の前には、様々な形の帽子や、舞台化粧用の化粧品が山と積まれている。
「でも、そのおでこをどうにかしないと、お買い物にも行けないわよ、エスメラルダ」
家に帰った私は、母や使用人たちと楽しく過ごしていた。
ただし、この光るおでこが目立ってしまうので外には出られない。
ため息は出るけれど、今では「悪女」と呼ばれるようになってしまった元聖女だと人に知られるわけにはいかない。
私たちは日常の生活をおくりつつ、こうして時おり、この印を隠せはしまいかと躍起になるのだった。
そんな日々が続いていたある日、船に乗って外国に行っていた父が戻ってきた。
「お父様!」
「やあ、エスメラルダ。また綺麗になったね」
「あら、そちらの方は? 異国のお客様?」
見知らぬ相手に丁寧に挨拶をした私に、父はニンマリと言う言葉がぴったりの笑みを浮かべた。
そのお客様は、おば様とお婆様の間くらいのお歳に見えた。
「やあ、お嬢さん。これはまた立派な印だ」
「ああ、ごめんなさい。消したいのですけれど、お化粧も透過してしまうんです。この光が」
「なになに、それを消すために私は来たんだから、何の問題もないさ」
お客様の口調が、あまりにも普通だったので、私も母もそれを聞き逃しかけた。
しかし、私たちはどちらからともなく視線を合わせ、お互いの顔に理解と喜びが満ちるのを見た。
「ほ、本当ですか!?」
「娘の、このおでこ、何とかできますの!?」
「お母様、ぺちぺちしないで、痛いから!」
そのお客様は、自分のご先祖様が、「始まりの聖女」にその印を刻み、力を与えたのだと説明してくれた。
「この国にかけられた術を消す方法はきちんと伝わっているからね。そうすれば、その印も消えるよ。安心おし」
「ああ、ありがとうございます! お父様も、そんな方を見つけ出してきて下さって。さぞかしご苦労されたでしょうに」
「我が商会に莫大な利益をもたらしてくれた、可愛い可愛いお前のためなら、苦労というほどのことではないさ」
私は、聖女をしていた時に大量に買ったドレスを、父と連絡を取り合って港に運ばせ、ダドリー商会を通じて外国へ持ち込んだ。
昔から、外国へ行くと、私が来ているドレスに施された刺繍がとても珍しがられたのを、私は商機ととらえていたのだ。
そこで得た利益で、ダドリー商会は肥料を買い付けて国内で売った。
そして、技術者を雇って最新の技術をこの国に持ち込んだ。
ダドリー商会は今や、この国で一番と言ってもいいまでに成長した。
父がご機嫌なのも当然なのだ。
お客様からお話を聞いて、「すぐにでも印を消してもらおう」と両親や使用人たちが盛り上がる中、私はあることに思い至ってしまった。
「あのう……。先ほどのお話ですが。私のこの印を消すと、この国全体にかけられた術も消滅してしまうように聞こえたのですけれど。この印を消すと、次の聖女はもう生まれないのでしょうか……?」
「そういうこったね」
お客様は、とても気軽にそう言った。
私はほんの少し不安になった。
もし、この国に未曾有の災厄が訪れ、本当に聖女が必要とされた時に、この国はもうその恩恵を受けられない。
それは、果たして国のためになることだろうか。いや、国はどうでもいい。
でも、市井の人々は? 弱い立ち場の人たちが、きっと一番ひどい被害を受けてしまうだろう。
ところが、私の心配事をお客様は笑い飛ばした。
「この先聖女が生まれたって、そう大した力は持っていまいよ。あんただってそうだっただろう?」
「はい。この程度の力を、なぜありがたがるのか、よく分かりませんでした」
「それはそうさ。もうだいぶ古い術だからね。力も弱まっているのさ。だから、遅かれ早かれ、この国を覆う術は消え去る運命なんだよ」
「まあ……。そうでしたの」
私は、国庫に非常用の財源として、今後値が上がるだろう宝石の原石を置いてきた。
それは、次の聖女が現れるまでの間のためだったけれど、それを今後長らく大切に使っていただこう。
私は心の底から安心して、お客様にこの印を消してもらうことにした。
私は両親や使用人たちに見守られる中、お客様の正面に座り、向かい合った。
「エスメラルダ! 頑張って!」
「落ち着いてくださいませ、お母様。私は座っているだけです。頑張るのはお客様ですから」
お客様は母からの声援が聞こえている様子も見せず、私の額に手をかざすと、呪文を唱え始める。それは、神殿に代々伝わる、聖女が唱える祈りの言葉によく似た響きを持っていた。
おでこがいつにも増して大きな輝きを放つと、やがてその光は収縮し、完全に消えた。
「まあ~~エスメラルダ! もうあなたのおでこ、光ってないわよ!」
「嬉しいわ、お母様! ありがとうございます。お客様。これで、普通の生活がおくれます」
「あたしもこの役割がこなせて良かったよ。先祖代々受け継がれてきたもんだったんだ。心残りなくいけるよ」
少し疲れた様子のお客様も、晴れ晴れとしたお顔をしていた。
私がお客様のためにお茶をいれてくれるように頼もうとした時、喜びに沸く使用人たちの中で、年老いた庭師がポツリと、「もうここは祝福された国ではなくなりましたか」とつぶやいた。
仕方がないと分かっていても、言わずにはいられなかったのだろう。私は、庭師のじいの肩を慰めるように抱きしめた。
ところが、「あんた、何を言っているんだい?」と、急に呆れたようなお客様の声が……。
「祝福? 何言ってんだい。これは呪いだよ。大昔、この豊かな島国を恨んだ大国の王が、あたしのご先祖に大枚をはらって、この国に呪いをかけたんだ」
(え……? 呪い……だったの?)
静まり返る部屋の中、お客様は笑いながら言った。
「人々が皆んな神秘的な力頼みになって、自堕落に生きていくようになる呪いさ」
私は心底驚いた。
そんな私の肩に手を置いた父が、素晴らしく楽しげな笑顔で言った。
「では、その呪いを解くきっかけを作ったお前は、ある意味では本物の聖女だったのだね」
父は「我がダドリー商会にとってもね」と楽しくてたまらないといった様子でまた笑う。
そんな父が命じて、その場は宴会の会場になったのだった。
さて、その後の私は、外国への留学中に出会った男性と恋に落ち、自分が生まれ育った国を離れて生活することになった。
しかし、人々が、また何者かに責任をなすりつけて楽をすることばかり考えてしまわないようにと、聖女だった頃に覚えた祈りの言葉を唱えてしまうのを、私はまだ、やめられそうにないのだった。
終
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