カサブランカの符牒
青年はカードに書かれた住所を頼りに道を辿って店を探した。瀟洒で流麗な文字が示すのは埃臭い路地裏。苔がこびり付いた建物の外壁と外壁によって成った道におずおずと大通りから入っていく。ところどころに我楽多の散乱したその場でひときわ目を引く、輝くような白百合の鉢植え。その目映さに惹かれるように近づいてふらふら指先で触れた。なめらかで湿度を帯びた薄くやわらかな花弁の感触。この世のものではないような美しさをしていた花が、生き物であると分かって青年は謎の安堵を覚えた。
「いらっしゃいませ」
「!」
「宝石店・ピクシーの店主をさせてもらっている者です。受け取りのご予約のお客様ですね。こちらへどうぞ。」
壁だと思っていた白百合の向こうは、いつの間にか深い緑に覆われていた。その奥にこちらを待っている店主は愛想のいい微笑みを浮かべている。年齢も性別もよくわからない黒髪の店主は気配も感じさせなかった。驚くことの連続だが店主をあまり待たせてしまうのも忍びないので青年は後を追った。緑の中のけもの道の前庭を少し歩いた後に古そうな小さな建造物が見える。よく磨かれた木材でできたチョコレート色のドアをくぐると、紅茶や紙やインクの眠たくなるようなにおいのそよ風が全身をか弱く圧した。
「どうぞおかけになってお待ちください。」
巨大な本棚の向こうに消えた店主の言うように、空間に刻みつけられているような印象を受ける布張りのアンティーク調のソファに腰かけてから店内を見回せば、家財の一切が古くともよく手入れされていると気づいた。ヴィンテージと思われる脚部に精緻な蔦の装飾があるテーブルにはささくれ一つなく、クリーム色をしたランプシェードには塵一つない。古典的な枠をはめられている窓は透明な午前の木漏れ日を透過して床の木目を水面のように見せている。これまた古い柱時計の針の音に居心地の良さを感じて青年はソファに全身の体重を委ねて店主を待った。からからと引き出しを開ける音や何かをカタカタと置く音がした後に時計の針以外の音が無くなって、店主が棚の向こうから出てくる。
「お待たせいたしました。こちらがお約束の品になります」
小さな黒いベルベットの箱が差し出された。鎮座していたのは蒸留酒やシェリー酒を連想させる透明な宝石。艶消しの繊細で上品な台座はミモザをモチーフとしているが、甘すぎず男性にも使いやすいデザインだ。そう小さくはないが成金のようなけばけばしさのない上等なものとわかる一品。箱をそっと持ち上げて、角度を変える。底面からの反射光でちらちらと小さな焔が踊っていた。
「…こんな素敵なもの…あの、代金は」
「あなたのご友人がすでにお支払いですよ」
「…そう、なんですね」
「そうなんです。着けて行かれますか?」
穏やかな微笑みを浮かべた店主の問いに、青年は首を縦に振りかけてやめる。今日のような、あとは帰って家事をして寝るだけのなんでもない日につけるにはなんだかもったいなくて気が引けたのだ。
「いいえ、持って帰ります。ありがとうございました」
「ええ。またのご来店をお待ちしております」
店主に見送られて店を出、来た道を巻き戻しのように帰っていく。行きの時とは違う腕の中に抱えた些細でも確かな重みが心地いい。うすらぼんやりと無意識に思考にかかった靄が少しだけ書き消えた気がした。