婚約破棄
長く一緒にいたネコの[ロク]が儚くなって、思い出に浸りへこんでいるさなか、付き合って5年になる婚約者に呼び出された。
すっかり片付き殺風景になった部屋に着信音が響いて、写真立てを梱包していた手が止まる。
今日は朝から外は雨。
とは言え本来平日だ。私は上司でもある彼の頼みもあって、溜まっていた代休を消化しただけなので、彼は今、仕事中のはずだけど。
メッセでこれから雷雨になると告げたのに『どうしてもいま会って話したい』と懇願され、引越しの荷造りの真っ最中だった事もあり「まあ、身の回りの物を少し運んでおくか」と、地下駐車場と部屋を3往復して、車にダンボール数個を乗せ車を走らせた。
結納など形式ばったことはしていないが、貰った婚約指輪を付け直す。
結納返し代わりの腕時計もついでに助手席に乗せて来たのに、対話の場所は新居のマンションではないらしい。
運転中に追加されたメッセに仕方なく従い、ナビの目的地を変える。
話をする機会なんていつでもあったはずだ。それこそ毎日職場で会っているじゃないか。
それなのに、なぜか指定された喫茶店は、彼の家からも職場からも新居からも遠く、今まで来たことのない見知らぬ町の喫茶店で、到着すると駐車場からも少し離れている。
仕方ない。濡らしたくないので助手席のショッパーはそのままに、そのつもりもなかった傘をさしてまで店にたどり着く。
「いらっしゃいませ。何名様でしょうか?」
「待ち合わせの者が先に来ているはずなのですが」
「ご案内いたします。傘お預かりいたします」
店員に濡れた傘を預けて、「ホットコーヒーを願いします」と先に注文しつつ、案内された席に向かうと、その存在に違和感を持ちながらも、向かいに座って傘の預かり札をテーブルの端に置き、少し濡れてしまった自分のバッグを拭う間に婚約者の口から出た言葉は、浮気相手の妊娠を理由に「別れてほしい」と、わりとクソみたいな話だった。
結婚式を来月に控え全て滞りなく、あとは当日を待つばかりだったと言うのに?
・・・理解できない。
もっときちんとした説明が欲しい。と彼を見つめるが、すでにカラのカップから、預かり札を手に取りいじる彼の口から出る言葉は、いくら待っても「すまない」「君は悪くない」の一点張りで何の情報も増えないし、その隣に座る違和感の元凶は無言で、まだ出てもいない下腹を誇らしげにさすっている。
・・・気味が悪い。
「わかった・・・」
しばらくの沈黙の後、これ以上の意思の疎通は無理と判断してそう告げると、あからさまにホッとした顔をして男は席をたち、女を連れて店を出て行った。
そうか。後でごちゃごちゃ言われたくなくて、とりあえず事前に呼び出したのか。
私の性格をわかっていて、わざわざ妊婦を見せつけた。
どうあがいても現実は変わらない。話にならない。と呆れさせ結局我を通すのは、あの男のいつもの手だ。
後から何か言おうものなら、いつものように『君だってあの時“了承”したじゃないか』とでも言うつもりなのだろう。
あぁ、あの女・・・結局一度も目が合うことがなかった。
「・・・キモっ」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「大変申し訳ありませんっ盗難届を、警察に通報しますか?」
「いえ、大丈夫です。場所はわかりますから、どうか気にしないでください」
平謝りする喫茶店の店員に、なんとか笑顔を作り店を出る。
閉まる扉を背に、気象予報士の 桑原葵 28才は、予想通りに土砂降りになった雨に打たれながらなんとか自分の車に乗り込んだが、初ボーナスで買ったフォックス・アンブレラの傘まで持って行かれた事に愕然とした。
車に乗って、震える手ですぐさま母親に電話をした。
動揺しながらそれでも申し訳ない気持ちで、結婚式の中止を言い訳と共に伝えたのだが、早々に「傘なんて今どうでもいいでしょっ!? アンタっていっつもそう!」と叱責された。
婚約者に裏切られ捨てられた人間に対して、労いの言葉も心配する言葉も一切無く、過去の事を掘り返してまで責める言葉を捲し立てられ、途端に二の句が継げなくなった。
いつものようにただ黙って話を聞いていたが、だんだん腕を上げているのがだるくなった。
電話の向こうではまだ何かキーキーと音がしていたが、無言で電話を切って下がった両手ごと項垂れる。
だが、だらりと下げた腕を気合いで持ちあげ、手にしているスマホに大急ぎで辞表を書いて会社の人事にメールで送った。ついでに残った有休消化申請の文言をつけて。
送信ボタンを押した後、スマホを凝視する自分の行動に少し驚き、再びだらりと腕だけ落として呆然とした。
目の前では、雨粒がバタバタと音を立ててフロントガラスを叩き続けている。
浮気相手とはいえ妊婦のために、元婚約者の私の傘を盗って行ったあの男は、会社の直属の上司でもある。
そんな男が、今後の私の生活を慮って、会社を辞めてくれるわけがない。
とはいえ私だって、さすがにそのまま勤めていられるほど図太くはなれなかったようだ。
勢いとは言え、明日からどうしよう。
雨粒は、尚もバタバタと音を立ててフロントガラスを叩き続け、一向に弱まる様子もない。
朝の予想通り、雨風はますます強くなり、このまま雷雨になるだろう。
常識のある大人は、不要不急の外出を避け、家にもどるべきだ。
べき。だが、いまの自分は、おそらく正常では無い。
「歯ぁ食いしばって常識ある大人でいた結果がこれ・・・」
しばらくの沈黙の後、葵は車の鍵を回して、アクセルを踏んだ。
ウインカーは家とは逆方向を示し、その足で銀行に向かう。
新居に行くはずだったので、皮肉にも身の回りの物を持ってきたのが功を奏した。
結婚資金とマイホーム資金、その他もろもろ安定した老後の為にと、自分で金を稼げるようになってから、ケチケチコツコツ蓄えていた貯金を全て解約して、受け取った紙袋を助手席に投げ置く。
平日の閉店間際、メイクのはげ落ちたずぶ濡れの女が窓口に来たのに、担当した銀行員はコチラに合わせて、業務に関係のない事は一切何も言わなかった。優秀だ。
・・・本当に申し訳ないことをした。
さぞかし恐ろしい思いをさせてしまった。
でも、どんな言葉をかけられたとしても、きっと泣いてしまっただろう。
そしてその姿を想像するとゾッとする。目も当てられない。
だから、今はもう誰にも会いたくない。
だから、しばらく気が済むまで部屋に引き篭ろう。
それなら準備が必要だ。
桑原葵は、銀行の駐車場で大きく深呼吸して息を整えると、パン屋とスーパーマーケットが隣接したホームセンターに向かってハンドルを切った。
手始めに、好物の飴を大量に・・・いや、禁煙してる意味がわからん。
数年ぶりだが、煙草も買っちゃおう。
普段は飲まないけどお酒も各種買ってみる。
箱買いしても腐るもんじゃないし、合わなかったら売れば良い。
そうだ、ブラウニー作りを極めよう。
チョコレートとバターと小麦粉生クリームと卵に牛乳も大量に買う。
次の仕事はブラウニー専門店とかどうだろう?
ネットでの受注販売専門にして、原価率80%のブラウニーは絶対売れる。私なら買う。
ついでに、米とパスタもインスタントラーメンも、車に積めるだけ買う。
あっ!? 焼きそばバゴーンが売ってる! どうゆうこと? 東北フェアだと!? 絶対箱買いだ!
味道楽の里の白と黒も1.8Lボトルを箱で買う。バナナボードも、いぶりがっこも、梅の紫蘇砂糖漬けも箱買いだ。
柚餅子も10個入りの箱を3箱手に取る。
ごま摺り団子も16個入りを3箱。海宝漬けも3箱。
笹かまの菜コロが入った詰め合わせも3箱。これの蓮根がたまらなく好きだった。
あぁ、バゴーンなんて何年ぶりだろう!
家に帰ったら早速食べよう。自分の好きなものだけを買い物するのがこんなに楽しいなんて!
あとは定番の、ドン兵衛の蕎麦とうどん、カプヌードルも3種類を箱で買う。軽いがさすがに大きい。
あの男が元より乗せっぱなしに置いてったキャンプ道具を奥に追いやってスペースをあけ、トイレットペーパーに、生理用品、洗濯洗剤、と、引っ越しするからとストックを切らしていた、普段はかさばり重くて買わなかった日常品をドシドシ買い込んで車に乗せる。
プチトマトは贅沢にアイコを買っちゃおう。
トリュフ塩はエスゼットタルトゥフィ3個買っちゃおう。
珈琲豆は定番ので良いけど、紅茶はブランド品を買っちゃう。
節約? 節制? もう構うもんか。
スナック菓子も、炭酸ジュースも箱で買う。
乾物のドンコや高級調味料、普段は買わないチューブの生姜とドライニンニクに、刻み葱やカット野菜、バナナもイチゴもメロンもシャインマスカットも、クワガタの腹みたいな藤稔も買ってやる。
梨も柿も、一個500円ぐらいするやつ箱で買っちゃおう。あぁ、干し柿もあんぽ柿もあるじゃない。さすが天高く馬肥ゆる秋!
もはや目についた物を迷い無く、いつもは諦めてしまっている値段の高い方をカートに入れる。
こうなったらデコポンだって買っちゃうんだから。
3Lサイズのパック肉をわんさか買い込む。
1人でおうち焼肉するんだ。すき焼きも食べよう。ステーキ肉と豚バラをブロック買いだ。一度やってみたかったんだ。
シチューとカレーを鍋いっぱい作って食べよう。各種お気に入りだったルーを箱で買う。
なんでルーやレトルトの調味料を『手抜き料理』と言われて気に病んのだろう。
自分が謎すぎる。馬鹿みたい。家庭料理なんぞ手を抜いてなんぼだろうに。
こうなったら料理に使う牛乳も高梨低温殺菌牛乳にしてやろう。
どんとこい高脂質高カロリー。炭水化物もモリモリ食べてやる。
ブライダルダイエットの必要がなくなったのだ。糖と脂肪で白米をたらふく食べてやろう。
大量にひき肉と根菜とキノコのみじん切りを炒めて冷凍保存しておいて、お腹が空いたらそれをアレンジして、秒で作れるおかず作って食べる事にして、あぁそうだ。餃子の皮とトルティーヤ、タコスとライスペーパーも買っちゃおう。
『奥さんには家でもキレイな格好でいて欲しい』あの男のそんな一言で、同居に向けて大半の普段着を捨ててしまったんだった。
寝る時用にスエットと、パンツとスポブラ買いなおそう。カップ付きの綿タンクトップなんてあるじゃん。ホームセンター良いじゃん。良いじゃん。
ネルシャツに綿シャツ、3枚千円の白Tシャツも。後は作業ズボンを何点かと、このジャンバー可愛い。ホムセンの服って基本アメカジなんだな。イイね。気が済むまで寝着のままで1日ダラダラ過ごそう。
そして今まで時間が作れなくて見れなかったネトフリのドラマを全部観みてやろう。
『日本人なら朝は和食だろ?』と言われて、食べるのをやめた、1斤500円の雑穀パンも丸々一本買う。
2000円の加水角食も、バタージュブジュブのクロワッサンも、好物だった胡桃パンとブルーベリーベーグルも冷凍しておけるし、店にあるだけ買ったし。
なにせ、引っ越し準備のおかげで冷凍庫の中まで空っぽだ。
欲望のままに買いまくった戦利品を、5往復して車に積み乗せ、最後のカートを返した店の軒下で思いたつ。
式に招いた友人には、家についてから謝罪するとして、無駄にお金を使わせてしまっていたら、なんとか返金できるように、慰謝料は双方からがっぽりふんだくろう。送信。送信っと。
知り合いの弁護士にことの顛末をメールして、詳しい事はアポが取れたらと返事待ちだ。
親戚には親が、式場の事や会社の事は、あの男が自分で何とかするだろ。知らんけど。
住所は2人で選んだマンションに移してしまっているが、こっちの部屋の更新契約切れまでダブらせたおかげで余裕あるし、その間に安いアパートでも探してそれから変更しても別にそのぐらい構わないだろう。
いや、そっか。何も安いアパートなんて探さなくて良いのか。引越しにかかった分も慰謝料に上乗せしてやろう。
その旨弁護士に追加でメールを送ると、なんだか俄然元気が出てきた。
「日本人のくせに朝以外いつパン食うんだよ!? パンは朝だろうが!」
ホームセンターのだだっ広い駐車場に、ポツンと1人と黒いワンボックスカー。
どうせ雨音でかき消される。
葵は叫びながら車のバックドアを勢いよく閉めると、ずぶ濡れのままいざ運転席に乗り込もうとした瞬間、雷に撃たれその場に音もなく倒れた。