4000年にひとりの美少女 ジュー・ジンイーの動画を視聴しての考察
以前投稿した作品の一部改訂版です。
4000年にひとりの美少女と称され、SNH48 の総選挙で、2016、2017年と二年連続1位になり、2017年12月に、SNH48 を卒業。
現在は、SNH48を運営している会社と契約したままソロ歌手として、あるいはドラマの主演と幅広く活躍しているジュー・ジンイー。
彼女のある動画を見た時の感動を文章にしたものです。
元々は、投稿、完結済の作者の小説の最終回の後書きで書いたものです。
その最終回の本文より長い文章になったので、独立したエッセイとして投稿することにしました。
元々は、前記の相撲小説「金の玉」シリーズ9 「四神会する場所」第五部 の最終回の後書きで書いた文章です。
そこから、前半の小説に関する記述を除いて、今回独立したエッセイとして投稿しました。
動画を見る切っ掛けとなったのは、前記の小説に登場する丸山利菜というキャラクター。
絶世の美少女という設定なのですが、実在の女の子で、イメージに合う女の子いないかな、と思ってネットを色々検索しました。
で、「この女の子だ」と思ったのが、ジュー・ジンイーだったのです。
ジュー・ジンイー(愛称は、姓を日本語で音読みした「キクちゃん」)は、数年前に、週刊プレイボーイのグラビア記事にもなっていますし、4000年にひとりの美少女、と言われて日本でも騒がれていたようですが、今回のことがあるまで、私は、その存在を知りませんでした。
ジュー・ジンイーは、見る動画によって、色々と印象が異なりますが、清楚な衣装で、ソロで、振り付けもなく、静かな基調で歌われる5曲、15分58秒の動画のジュー・ジンイーは、まさに「神に愛された人」だと思います。
私の本来の趣味から言えば、この種の、正統的、典型的と形容されるであろう美少女。
そして少なくとも私にとっては官能的な要素のない美少女というのは、ビジュアル的には苦手なタイプであり、困惑の対象なのです。
このタイプの美少女については、ある種の形而上学的な思いに誘われてしまいます(だから苦手なのです。女性というより芸術的、あるいは哲学的考察の対象になってしまうので面倒なのです)。
2016年1月1日のアップのようですので、二十一歳のときのジュー・ジンイーなのだろうと思います。
少女と言える年齢では無いでしょうが、そのように形容したい、と思いました。
この動画、「ジュー・ジンイー」で検索しても、直ぐには出てこないと思います。
「ジュー・ジンイー 五千年美女」 で検索したら、おそらく出てくると思います。
それ以外の動画のジュー・ジンイーも、それぞれ、凄く可愛いと思います。
でも、私が
「神に愛された人」
と表現したくなるような美を感じるのは、前記の動画が唯一です。
「神に愛された人」は、私にとっては、精神的負担の大きい、過剰な美のようです。
鑑賞を続けていると、畏れ、あるいは、かなしさにも似たような感情におそわれます。
さらには、少年時代の、はるかなものへの憧憬。今の私が、もう忘れてしまっている感情さえも呼び起こされます。
自分がもう二度と戻ることのできない時代、その時代に対する切なさ、愛惜、寂寥。
4000年にひとりの美少女、ジュー・ジンイー
そのジュー・ジンイーであっても、あの動画は、その時、その瞬間でしかあり得なかった、無窮の中の一瞬の出来事であったのではないかと思います。
ひとは、無窮に通じると感じる美と対峙することはできません。
ただ仰ぎ見るだけです。
これからは、SNH48 も、ジュー・ジンイー以外のメンバー中心に見ていこうかな、と思っております。
以下は、2018年11月14日早朝の記(それ以降の加筆もあり)
タイトル「芸術における美(女性の美を含む)に関する哲学的考察」
作者が、これまで、大きな感動をおぼえた対象を思い付くままに列挙してみる。
音楽
・ジョージ・ウィンストンのパッヘルベルのカノン。ジョイ
・ベートーベンの悲愴第二楽章
・クリストファー・クロスのニューヨークシティセレナーデ
・ヴァンゲリスの炎のランナー
・ワムのラストクリスマス
絵画
・金山平三の、大石田の最上川
・コローの、スーベニール諸作
・坂本繁二郎の、一部の作
・ルーベンスの、ペルスケン
・ロセッティの、プロセルピナ
・フェルメールの、数作
寺院
・銀閣
・薬師寺東塔
・桂離宮
・平等院鳳凰堂
・東福寺通天橋
仏像
・中宮寺 半跏思惟像
・永観堂 見返り阿弥陀
・興福寺 阿修羅
茶碗
・無一物
・卯花墻
・大黒
庭園
・無鄰庵
・有芳園
私が先に記した動画におけるジュー・ジンイーの美に受けた感動は、上記の芸術作品の美に対して受けた感動と並ぶ、いや超えていたといっていいかもしれない(いえ、超えていた、と断定しなければいけないでしょう。感動の種類が異なるので比較するものでもないのですが)。
少年時代に、イメージとして持っていた、はるかな憧憬。
長じて、現実に存在するはずがない、と思い定めていたもの。
それが今、具体的な映像として顕現した姿に遭遇してしまった、その感動。
ジュー・ジンイーについては、もちろん他の動画も色々観てみたが、それらの動画については、そのお化粧の仕方であろうが、
「とても綺麗で、可愛いアイドル」
以上の感想を持つことはなかった。
美少女的ではない愛敬、普通の女の子っぽい部分を多分に持った性格なのであろうと推定もできる。
が、頭記の動画のジュー・ジンイーは、そのようなものをうかがわせない。
「超常的な美。凍結された美」
プロトタイプな表現だが、
その表現でイメージされる典型となる映像であると思う。
表情は抑制され、観客に対して媚びに通じるような作為はなく、それでいて、静かで 穏やかな微笑み。
美少女的な性格というものがあるとしたら、性格もそのとおりなのであろう、そう思わせらせる、抑制された仕草。
付言すると、このときの観客全員が醸し出すその場の雰囲気がまた実にいい。
この時のジュー・ジンイーに対する、最も相応しい場を作り出していると思う。
それは、最高の美にふれた時の感動というべきなのかもしれない。
が、これらの芸術作品の鑑賞、そして詳述している動画の鑑賞は、精神的負担が大きく、鑑賞を続けていると、そこから逃避したいというような気持ちにおそわれる。
私にとっては、最高を突き抜けた、過剰な美なのであろう。
であってみれば、それは、私にとっては、最も価値の高い芸術、美ではないのであろうと思う。
また、さきほど書き連ねた様々な芸術作品。それらに受けた大きな感動というのは、おのれの感性というよりは、少年時代から形成してきた価値階梯、言わば知識の影響を受けていた部分が大きかったと思う。そして、その価値階梯を、後年、私は否定した。
私を超常的な形而上の世界に導こうとする美を、私は、受け容れたくない。
その種の美とは無縁でいたいと思う。
(以下、2019年2月13日加筆)
前記の、かつて大きな感動を受けた様々な芸術作品についてここで書いたことは、
言葉を換えて説明するとしたら、
「最高を感じた美について、畏れの気持ちが働き敬遠するようになった」
ということになるかと思う。
が、単に
「決まり過ぎている、整い過ぎていると感じてしまうものは趣味ではない」
これでよいのではないかな、とも思う。
(以上、加筆終わり)
そこで思索をとどめておけば、この種の文章を書く必要もなかったでしょうし、それ以前に頭の中で無駄な考察を重ねる必要もなかったでしょう。
(以上、追加の加筆終わり 2021年5月26日記)
今の私は、
心がなごむ。落ち着く。いつでもその対象に接していたいと思う。そのように感じる芸術、あるいは女性の美が、私にとっては、最も価値のあるもの。そう感じている。
そして、大地にしっかりと足を着け、生活に密着した美。日常的な美を求めていきたい。
そう、思っている。
この世界は、それだけで十全の、広さ、豊かさがあるのだから。
以下は、2018年12月12日記
ジュー・ジンイーの15分58秒の動画を、3日前に長女にも見てもらった。長女が見たのは冒頭部のみだが、その感想としては
「とても整った顔立ち」
「今はアイドルも、20歳を過ぎた年代の人まで、その範囲に入ってくるのね」
「ナチュラルメイクに見えるけど、かなりきっちりお化粧している」
「瞳が3mmか4mm大きく見える黒いカラーコンタクトをしているね」
とのことでした。
長女は、メイクのやり方に関する動画をアップしたりもしているので、色々と分かるようです(「初村ちひろ」という名前でアップしています。私が以前書いた童話「ノロさんのおくりもの」の読み語りなどもアップしてくれています)。
私が、困惑しつつも、理想の美少女像と称する思いを持ってしまった動画でしたが、かなりの人工と計算に基づいていたのですね。
まあ、そうなのだろうなあ、と思います。
教えてもらって、かえってほっとしたというか、安心した気持ちになりました。
やはりナチュラルな存在では無かったのだな、現実に顕現したとはいえ、現実そのものではない加工が施された姿だったのだ、と思うことができましたので。
今は、落ち着いております。
SNH48 の動画は、今もほぼ毎日幅広く見ています。
リー・イートン(カチューシャ)、ファン・ティンティン(テテちゃん)の2トップをはじめ、チャオ・ユエ(ユーミ、AKIRA )、ツァン・ユーゲー(タコちゃん)、ファン・シントゥオ(ななし)は、見て分かるようになりました。
ルー・ティン(リサ)もだいたい分かるかな。
あとは、モー・ハン(MOMO)、シュー・シャーチー(キキ)、ダイモンも、はっきりと分かるようになりたい、と思っています。