雨、桜の木の中で
ぽたっ。
ぼつ、ぽつ、と降り出した雨に、おれは空を見上げた。
雨はいつだって気まぐれだ。
春の青空がいつの間にか黒く濁っていた。まずいか、と舌打ちをして歩幅を広げて歩くのだが。だんだんと雨は強さを増し、視界が白くなっていく。頬を垂れる雫の冷たさを感じる。
根っからのズボラなおれは、天気予報なんて朝の二度寝を惜しんでまで見やしない。傘なんていうコンビニで買えるものを持つこともない。元々、雨に打たれることはそれほど嫌いじゃないんだ。たださすがにこれだけ強い雨だと、スーツと革靴がずぶ濡れになってしまいそうだ。
川原沿いのひらけた道を歩いていたものだから、屋根になりそうなものが見当たらない。まったく、今日はツイてないらしい。
耐えきれずに駆け出して、雨を防げる場所を探した。
駆け込んだ先は、一本の桜の木の下だった。
立派な幹と枝が一人には十分の雨よけを提供してくれた。「ふう」と溜め息をつき、服に付いた雨を払う。ああ、新しい季節のために新調したスーツが台無しだ。まったく、ツイてない。
いや、ツイてるほうか。
それは雨宿りが出来るほどの大きな桜の木だった。濡れた顔をぬぐって見上げてみれば視界一杯に桜の花と蕾が広がる。まだ蕾が多く、開花が始まって間もない頃合いの桜だ……、いや、
どうやら、本当にツイてるらしい。
カツカツカツとヒールの足音が聴こえる先に視線をやると、両手でバッグを傘替わりにした女の人が急ぎ足でこちらにやって来る。走りにくそうな靴とスカートスーツ。
「ごめんなさい。入れてください」
しっとり濡れてつやめく茶色の髪をかきあげながら近寄るその女性。桜色に染めた頬に、おれは目を奪われた。「どうぞ」と言って、おれは木の外に寄り、彼女にその位置を譲る。
なんとか二人で入っても雨を防げそうではあったのだが――、
目を合わすのが恥ずかしい近さだった。
隣に立った彼女は荒い息のままに、
「ごめんなさい、濡れませんか」
桜の木の下。二人並んで雨宿り。
上目にこちらを覗く顔を、視界の端に意識して、
「大丈夫ですよ。まったく、ひどい雨ですね」
視線を外に向けたまま、おれは口元を緩めてみせた。
彼女は安心したように息をついて、桜の幹に背中をもたれかけると、
「困りましたね。しばらく止みそうにないですね」
「そうですね。しばらく休んでいったほうが良さそうです」
雨の音。雨に霞む景色が頼もしく思えた。雨が、桜の木の中を、世界と切り離しているような気がした。その声がおれだけのモノのように感じる。
「桜、綺麗ですね」
「ほんとに、立派な桜の木ですね」
二人して、頭上に広がる桜を見上げた。
おれはこの花のゆく先を思った。
「まだ蕾が多いですけど。これからもっと綺麗になるでしょうね」
「私はこのくらいの桜が好きですよ、可愛らしくて。これから咲くぞ、ていう力強さを感じるんです」
「なるほど。そう言われると、愛らしく思えますね」
「満開だと。これから散っていくんだろうなあなんて、考えちゃうんです」
そうかもしれない。このくらいの咲き具合が一番素直に楽しめるのかもしれない。可愛らしくて、ずっと眺めていたい。
彼女は、愛おしむように桜を見ながら、
「この雨で散らないでほしいですね」
「ええ、頑張って耐えてほしい。しっかりと咲かせてほしいものです」
雨。
急にその音が静かになった。
雨というのはいつだって気まぐれなやつだ。
おれは手を伸ばして、雨の具合を確かめる。
「少し止んだみたいです」
「まだ、降ってるようなら、もう少し休んでいこうかな」
彼女はにこりと笑ってえくぼを見せた。
「おれもそうしようかな」
彼女は少しおれに目をやって、また桜を見上げた。
その横顔から、おれは目が離せなくなっていた。だからつい、
「あの……」
彼女は桜を見上げたままで、でも微笑むようなその口元で、
「なんですか」
「お名前、なんというんですか」
彼女は見上げたまま、考えるように間を置いて、
そしておれに向く。
「あめ――」
と言って。
そして目をそらした。
「雨、止んだみたいですよ」
おれは辺りを見回した。道路の水溜まりの平らな水面が、日差しを反射して光っていた。
「あ、ほんと、もう止んじゃった?のかな」
彼女は破顔し、えくぼを見せて、
「止んでませんか?」
「……止んで、ないかも……」
彼女はふふっと笑い、
「この春、最初のお花見でした。楽しかったですよ」
そう言って一歩、二歩と。桜の木から離れて歩いていく。小さく振り返って、えくぼを片方だけ見せると、そのまま歩いて行ってしまう。桜の木の外、その向こうへと。
おれは体中の力を抜いて桜の幹に持たれかかり、そこで彼女の背中を見送った。彼女は一度も振り返らなかった。
日差しが広がり辺り明るくなってゆく。それでも何故かこの場所からはしばらく離れたくなかった。
その背中が見えなくなると、おれはまだ蕾の多い桜を見上げた。
花は散ることなく綺麗なままに、残っている。その逞しさを見習おうじゃないか。
なに、春はまだ、始まったばかりさ。
( 了 )