ob.1 awakening
〈1〉
夢を見た。
それも、途切れ途切れの声しか聞こえない、真っ黒な夢。
『……して………てく………だ…!』
『……ちこ………し………かっ………!?』
2つの音声のうち、片方は低く、もう片方は少し高め。
どうやら男女の声のようだ。
大部分が聞こえないため何を言っているのかはわからないが、わずかに聞き取れる声音からして二人とも相当怒っているらしい。
『……い!で………とが………だっ……!』
『……って………そん………か…!ま』
ブツッ!
不意に途切れる音声。
これで終わりかと思った瞬間、また別の音声が聞こえてくる。
『……て……………ご………………』
『……………………て……………』
先ほどの男女の声よりも、かなり音量が小さくなっている。そのため、誰の声なのか、何を言っているのかもほとんどわからない。
ほどなくして、ドシャッ、という衝突音が聞こえた。どうしたのだろう、事故でもあったのだろうか、そうでもなければこんなに大きい音が生ずるはずがないが、真偽のほどは定かではない。
『………ご………』
声の主はまだ何かを言わんとしていたが、その先は聞こえなかった。
ガバッ!
「はっ………はっ……」
激しい息切れ。何か悪夢でも視ていたのだろうか。
「俺は何を……」
一人の少年が勢いよく身体を起こした。それほど美少年というわけではないが、端正の部類に入るであろうその顔からは疲労が窺える。
彼は辺りを見回す。
部屋の広さは、おおよそ10坪ほどだろうか。
窓辺から差し込む柔らかな朝の光は、部屋全体を 透明水彩のように照らし、外からは小鳥たちの楽しげな囀りが聞こえてくる。
「……ここは、どこだ……?」
誰に聞くというわけではなく、彼はポツリと呟いた。無理もない。なぜなら、
「…そういえば、昨日は倒れたんだっけ」
気が付けば、いつの間にかうっそうとした森にいた。辺りは、ところどころ月光に照らされていた他は闇一色で何も見えていなかった。何をしに来たのか、どこから来たのか自分でも分からず、ただただ目の前に広がっているであろう原生林の前にうちひしがれるばかりだった。
加えて、何故だか身体に力が全く入らなかったのだ。動こうにも動けず、それどころか動かそうとするほど身体が痺れていく。そして結局、いつの間にかここに運ばれたらしい。不意に地面が横倒しになったのは意識がなくなりかけていたからなんだと、妙に腑に落ちた。
決して広くはないが空間そのものが洗練された部屋を改めて見回し、どういうところなのだろうか、と彼は疑問に思った。
枕元に目をやると、机に一つの花瓶が置かれている。その花瓶は不思議なデザインが施されていて、挿されている青色の花とはなぜだか奇妙にマッチしている。
(ここはたぶん、客人用の寝室か何かなんだろうな)
ベッドや他の家具がある割には妙に小綺麗だし、と彼が一人納得していると、コンコン、とドアが数回ノックされた。
『起きていますか?』
「……はい、今起きました」
女の人らしい。玉のように澄んだ声が彼の覚醒を尋ねる。彼はおもわず胸を少しときめかせた。
いったい誰なのだろう。いや、十中八九この自分を部屋に寝かせてくれた人だ。そうでなくてもこの家の住人なのはほぼ確実。
『あっ…起きられたのですね!部屋にお邪魔しますよ?』
彼は一通り、今の自分の身なりを確認する。どうやら自分が今バスローブのようなものを着せられていることを今初めて知った。
「構いません」
言うや否や、ガチャリと音がして、一人の女性が入ってきた。
「っ……!」
瞬間、彼は図らずして彼女に視線を固定されてしまう。
美しいのだ。腰まで伸びている銀色の髪はまるで丹精して紡がれた銀糸のようで、明るく部屋を包み込む旭光でさえ、彼女のそれを引き立てる脇役にしかならないほど。
彼女の顔は素晴らしく整っていて、白皙は処女雪のごとく無垢。達人の彫刻作品に、そのままの姿で命を与えたかのよう。身に纏う紺碧のボタン付ワンピースと青白磁のカーディガンは、逆にそんな彼女を人間たらしめているみたいだ。どれもこれもに上品な高級さが感じられる。
まさに文字通り、絶世の美女だった。彼が暫しの間見惚れても仕方ない。
「ああ、良かった!お身体の方は大丈夫でしょうか?」
そんな彼女が声を弾ませて安否を問うてくる。どうやら本気でこの身を心配してくれていたようで、肩の力が少し抜けた。とはいっても、まだ彼女の美貌に当てられて惚けたままだが。
「あ、はい、なんともない……です」
特に痛いところなどもないので、と彼は言う。
「そうですか、それなら何よりです。一応、昨日に確認したんですけどね」
「…ん?確認した?」
彼女の言葉に首を傾げる。はて、いつ確認されたのだろうか。
「あ、レヴィア…使用人が貴方の服を脱がせたとき、私も一緒に見せてもらいました。もし傷なんかがあれば早く治すにこしたことはないので」
「……」
つまり、この美女は自分の裸を見たということだ。そう暗に伝えてきたのを彼は理解した。
こんなシチュエーションなら、程度の差はあれど普通なら驚いたり恥ずかしがったりするんだろうけど……まあ、別に気にしないし構わんだろ。
「あの、貴女が俺をここまで運んでくれたんですか?」
特別思うところもなかったので、邂逅してからずっと気になっていたことを聞くことにした。
「そうですよ。何せ、王国内でも比較的危険度の高いフェイメットの森の中で倒れてたんですから。私が見つけなければ貴方は…」
彼女の言葉の中に気になる単語があった。
「王国?フェイメットの森?……ちょっと待ってください、ここは一体何処なんですか……?」
「あら、エデヴニア王国を知らないんですか?」
「……ええ、全く」
そう言うと彼女は少しばかり目を丸くした。
「では、三大貴族のことは……?」
「……存じ上げませんね」
「……」
「……」
しばしの沈黙。
「あの、ところで貴女は……」
沈黙に耐え兼ねたのか、彼は名前を尋ねる。
「……何らかの封印魔法は受けていませんね。となると遠い所から来たのか、あるいは通常の記憶喪失か……」
彼の質問を余所に、彼女は扉から離れ、何かを呟きながらこちらに向かってきた。そしてベッドの傍らまで来て、花瓶のある机の下からなんと丸椅子を引っ張り出した。そこに椅子なんてあったのか……。
「ではまず、自己紹介から行きましょうか」
レトロさを感じさせる丸椅子に座った彼女は、こちらを向いてそう切り出す。そして、彼女は、
「私はシルクリア=ファトラスと言います」
華のような笑顔を浮かべて、名前を告げた。
「シルクリアさん……ですか」
「はい。あっ、宜しければ貴方のお名前を教えてくれませんか?」
「構いませんよ」
名前を教える分には何にも問題ない上に、シルクリアは自分を助けてくれたのだ。教えないわけにはいかない。
「えっと、俺の名前は……名前は…………あ、れ?」
「どうされました?」
シルクリアは様子のおかしい彼に怪訝な目を送る。しかし彼はその視線にも気付かず黙ったままだ。
あれ?なんだっけ?なんだっけ?なんだっけ?
自分の名前は……自分の、名前、は………
彼が、口を開く。
「俺の、名前は……氷室秀。そう、氷室秀だ……」
「え、あの……?」
何やら自分に言い聞かせているような発言。シルクリアは先程から奇妙な反応をする彼__秀に困惑しっぱなしだ。
やがて秀が、恐る恐ると口を開いた。
「……どうやら大変なことになったみたいです」
「大変なこと、ですか?」
未だ困惑しつつも問い返してくるシルクリアに、秀はひとつ、頷きをする。
そうして言葉を続ける。
「先程、貴女が何かを呟いていませんでしたか?」
そうだ。俺の名前は氷室秀。間違いない。間違いないが……厄介なことが、二つ。とりあえずこれだけは言っておかなければ。
秀の投げ掛けを聞いて、シルクリアは何か思い当たったのか、はっと息を呑んだ。
「……まさか」
「まず、俺は氷室秀と言います。今の時点では、自分の名前以外思い出せません」
「……そう、みたいですね」
「え、信じてくれるんですか?」
シルクリアが意外にもすんなり受け入れたので、秀は思わず聞き返してしまう。
「ええ。と言ってもまだ完全には信じられませんが」
「では、なぜ」
「……王国に来ようものなら、大抵の人は危険度の高いフェイメットではなく、ある程度道が整備されていて安全なサフェロアの森を通ります。でも貴方はフェイメットにいた。わざわざハイリスクな方の道を選ぶなんて、大概はあり得ません」
「あ、そうですか……」
気がついたらあの森にいただけだが、どうやらさっきまで愚かな人だと思われていたらしい。ショックだが、仕方なのないことだろう。
それに、とシルクリアは続ける。
「エデヴニア王国は言わずと知れた超大国です、おそらく名前だけであれば全世界に知れ渡っているでしょう。どんな辺鄙に住んでいても一度は聞いたことがあると思います」
「でも俺は全く知らなかったから、一応納得してくれたって訳ですか」
「そうなります」
成る程。流石にまるっと頭からは信じてくれないらしい。
「いやしかし、こんな見ず知らずの男を助けるなんて。貴方は心優しい人なんですね」
あのまま森に放置されていれば、秀は確実に魔物達のいい獲物になっていただろう。その点ではシルクリアたちが偶然彼を見つけたのは本当に運が良かったと言える。
「いえいえ、そんなことないですよ。私たちが見つけたとき、貴女は既に意識を失っていましたし、フェイメットでそんなことになればほぼ確実に死んでいたでしょうから」
「……恐ろしいですね」
「私もあのときは一瞬肝が冷えましたよ……」
本当に良かった、とシルクリアが小さく呟く。秀には聞こえていたみたいで、
(シルクリアさんって、本人は謙遜していたけどすごく優しい人だ)
と感じていた。
「それにですね?私の使用人のレヴィアが、貴方を__」
「失礼します、シルク様」
「へ?」
人が入ってくるなど思ってもいなかった秀は、後ろからかかる涼やかな声に間抜けな反応を示した。
そうして後ろ見ると、メイド服を着た長身の女性が右手にカップを乗せたトレイを持って凛と立っていた。
「おはようございます、レヴィア」
「おはようございます、シルク様」
「えと、貴女は……」
突然の来室者に自然な挨拶を返したのはシルクリア。片や疑問の言葉を返したのは秀。
そんな二人の前で恭しく一礼したのは。
「初めまして。わたくし、シルク様のメイド兼従者をさせて戴いている、レヴィアと申します。して、貴方のお名前は?」
「初めまして。俺は氷室秀です」
そう彼が自己紹介をすると、
「…………氷室……秀?」
レヴィアが目を見開きながら、彼の名前をポツリと呟いた。
拙作ですが、ちょっとでも面白そうだなと思ったら感想等、是非是非お願いします