ヒールでヒール 踵で癒す聖女伝説
往来に一匹の猫が横たわっていた。
老いたその猫は縄張り争いに傷つき、ろくに食べる物もなく衰えて今にも死にかけている。
そこに一人の少女が通りすがった。
少女はその猫を、わざわざ踏みつけて去っていった。その赤いハイヒールで。
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個性というものは自ずとして偏るものである。
それは種としての生存戦略でもあり、ときに生存競争の上で不利としか言いようのない性質を個体に持たせる。
「…………」
ある少女が小さな町を出た。
世界中を巻き込んだ戦争が勃発し、男たちの大半が町を出払っていた頃、フラリといなくなってしまった。
彼女には産まれ持った障害があった。
どうしてか口が利けなかったのだ。
ただ飛び抜けて健康で働き者だったため、彼女も家族や周囲と良好な関係を築き続けてきた。
その彼女の姿が今戦場にある。
正しくは戦場だった場所、血だまりとうめき声とあらゆる体液の悪臭が立ちこめる、敗北者というがれきが積み重なって出来た地獄絵図の中だった。
傷つき倒れた兵士たちは彼女を伝説の戦乙女として見上げ、同時に己の死を悟った。
だがそれは幸福なことだ。戦乙女は勇者の元にしか現れない、彼らは勇者として死ぬことが出来る。
「…………」
少女は赤いハイヒールを履いていた。
戦乙女として場違いなそれが血塗れの大地を歩む。
「お、おい……手を貸してくれ……俺はまだ動ける、本陣に戻りたい……」
「…………」
どう見ても助かりそうにない血塗れなのに、まだあらがおうとする騎士がいた。
少女の肩を借りればどうにかなると彼は考えた。
「おい……聞いているのか……。俺は……騎士だ……助けてくれたらそれ相応の……ウッウゲッッ?!!」
少女はやさしくその騎士に微笑み、赤いハイヒールで顔を踏みつける。
悲鳴と抗議が上がったが彼女に迷いはない。
清らかで清楚に見えるただの町娘は、騎士様を血塗れのハイヒールで踏みたくった。
それから騎士を踏むことに満足すると、その隣の従者らしき男も踏みつけだした。
さらにはその隣、そのまた隣、さらにその隣の死体に等しい者に赤いヒールの追い打ちが突き刺さる。
「フフ……」
鈴が鳴るような微かな笑い声が喉より漏れて、彼女は己の業績に満足した。
周囲にある負傷者という負傷者、死体という死体を一つ残らず踏みつぶし、安らぎを与えたのだから。
「おいアレ見ろよ! 死体の山の中に女がいるぜ!」
「ギャハハハッ、お前の好みじゃねぇかああいうガキ! わけわかんねぇけど女がここに居るのが悪ぃよなぁ?! 怪しいしよぉ、尋問してやんねぇとなぁ~?!」
そこに戦場漁りか傭兵か、とてもではないが正規軍には見えない野蛮な男たちが現れた。
彼らは少女を取り囲み、口の利けない彼女に野卑な言葉を投げかける。
「なんでぇ、こんな場所でハイヒールぅ~? おい、コイツ頭がイカレてんじゃねぇか?」
一方の少女は彼らの上から下までをそれぞれ眺め、何かを理解するとその場を去ろうとした。
……だがもちろんそうさせてくれるはずがない。
「いや待てよ、俺たちと一緒に来いよ。ここは血でクソ汚ぇからな、もっと綺麗なところで、綺麗なおべべを着せてやるからよぉ……」
「ま、結局脱がすけどなぁーっ」
大柄な男が彼女を背負い上げる。
ジタバタと拒むが少女の力ではどうにもならない。
運ばれるがままに血の池を離れてゆく。
「待て」
ところがその悪漢どもを呼び止める者がいた。
「んんっ、何だまだ敵が残ってたのかぁ? お前らやっちま……げぇぇっ?!」
血の池より一人、一人、また一人と戦士たちが立ち上がる。
折れた剣を構え、血をその身より滴らせながらも不死身の軍勢がそこに蘇ってゆく。
「待て。我らの戦乙女……いやいと高き赤いヒールの聖女様をどこに連れてゆくつもりだ」
「おお……傷が……傷が塞がっている……ああああああ女神様だぁぁぁぁ……」
少女の口元が安らかに笑う。
「フフ……」
何がおかしいのか。何が嬉しいのか。
言葉も文字も使えない彼女、その本心は誰にもわからない。
ただそこに、ヒールによるヒールで傷を癒された者たちがいた。
「ま、待て……ていうかよぉぉ……アンタ、東軍の騎士だろ……? なら味方同士だ、止めてくれよ、このお嬢ちゃんは返すからよ、なっ?!」
傭兵の男が騎士に願う。
自軍同士なら味方だ、その単純な理屈に従って少女を解放し、彼らの元に手を引いて歩み寄った。
「東軍、西軍? もはやそんなことはどうでもいい。このお方こそ救世の聖女、我らを救ってくれたお方。もはや所属などどうでもいい!」
東西の兵士たちが入り交じり、それら全てが仲違いすることなく少女をあがめた。
「ま、待てっ、そんなのおかしっギャァッ?!」
不埒な敵を斬り倒し、少女のための安全を確保する。
それが当たり前なのだと言うように、少女は今し方斬られた男たちにもその赤いヒールの慈悲を与えた。
「いっいだっ、いだいっ死ぬっ、止めてっあああああーっ?!!」
それに満足すると少女はまたフラフラと歩き出す。
その後ろをぞろぞろと彼女の崇拝者が追った。
「し、死んだのに……死んだのに死んでねぇ……斬られたはずの傷が……す、すげぇぇぇぇぇ……」
言葉を喋れない、赤いヒールを履いた少女。
言わばヒールで奇跡のハイヒールを起こす不思議な聖女伝説が、その後あちこちでまことしやかに飛び交った。
人知れず戦場の激戦地に、ハイヒールを履いた少女と、それを守る軍勢が現れて……、全てを癒し踏みつぶしてゆくと。
「…………フフ」
彼女は今日も戦士たちを踏みつける。
容赦なくその赤いハイヒールで、微かな笑い声と微笑みを浮かべて……。