妹のココロは
妹や志保、そして杉本と水族館に行った翌週の水曜日。今日も相変わらず爽やかというよりはしつこいくらいよく晴れていた。クーラーが効いて窓は締め切っているにも関わらず、アブラゼミのジージーという声、ミンミンゼミのミーンミンミンという声は教室の中にも聞こえてきていた。
退屈な授業中、ふと窓の外を見ると、遠く青い空に一本白い線が引かれていた。あの飛行機は雲を残してどこに飛んでいくのだろう、残された雲は何を思うのだろうと考えていたり、飛行機の向かう遠い地に住んでいる誰かが今何をしているのかを想像していると、今あたしが受けている授業はひどく退屈なものに思えてくる。
「ねえねえ、美智佳。あんた秋穂と杉本のデートに付いて行ったんだって?」
午前の授業が終わった昼休みにクラスメイトの斯波奏が話しかけてきた。いつものにやにやとした顔は噂好きの彼女が面白いネタを仕入れたという様子を良く表していた。
「別に、デートじゃないよ。あたしと志保ちゃんも行ったんだから」
勘違いしている奏にあたしは何のために行ったか、つまり元々綾辻志保の希望で行くことになったということを説明した。
「マジか。じゃあ杉本のやつ女子3人もはべらせて水族館で遊んだのか。なんという勝ち組…!」
「なんか納得できない言い方だなー」
「あー、恋に興味もなさそうな美智佳も遂に毒牙にかかってしまったかー。親友が汚れて私は悲しいなぁ」
「明らかに面白がってるよね?変な脚色しないでよね」
「…もちろん分かっていますよ、美智佳さん」
「何その間!何その敬語!ホント変な事したら怒るからね?」
「分かってるよ。それよりどうだったの?」
「え?」
「え、じゃない。折角水族館に出かけたんでしょう?仲直りできたのって聞きたいの」
奏はなんだかんだであたしと秋穂の仲が悪くなっていることを気にしてくれていたらしい。しかし申し訳ないが、日曜日のお出かけで秋穂とはあまり一緒にいる時間は長くなかった。むしろ彼女は杉本と一緒にいる機会が多くて、
「はぁ……」
水族館から帰ってきた後も、相変わらず距離を感じるし、登下校を二人きりということもなくなってしまった。
「その反応は、駄目だったみたいね」
「うう、アキちゃんはずっと杉本のやつと一緒にいた気がする。もうだめだー」
「そんなに愛するアキちゃんが杉本と付き合うのが嫌なら言えばいいのに」
「あたしがアキちゃんにそんなこと言えるわけないでしょう!」
「うわ、情けないヘタレ宣言だ。でもさあ、自分がどうしてほしいかも言わずに相手のためにあーだこーだしてるのは、その相手にとっても気持ちいいものでもないと思うけどな」
「そういうものかな」
「そういうものだよ」
はあ、とため息をついていると教室の後ろのドアがガラガラと開いてもう聞きなれた声が聞こえてきた。
「先輩。こんにちは!」
「やあ志保ちゃん。今日も来てくれたんだね。お疲れ様」
あたしたち2年の教室の扉の前で待っていたのは、1年生の後輩で共に水族館に行った志保だった。彼女は水族館であたしに告白して以降、以前の彼女からは考えられないほどに積極的にアプローチしてくる。ここ数日は毎日昼休みの時間にあたしたちの教室に来てくれるのだ。
「当たり前です。大好きな先輩の所へは、いつでも行きたいと思っていますから」
「そ、それは嬉しいな」
「綾辻はほんと美智佳にぞっこんだなー」
「斯波先輩もこんにちはです」
教室の前で長い時間話しているわけにもいかないので教室を出て、校舎の一階にある玄関前のホールへ移動した。天井が空いて吹き抜けになっているホールにはいくつかベンチが置かれていて、あたしたちの他にも何人かの生徒がお昼を食べていた。あたしたち3人も空いているベンチを見つけて腰を下ろした。そしていつも通りコンビニで買ったサンドイッチの袋を開いた。
「先輩、今日は卵焼きを焼いてきました。どうぞ食べてみてください。あ、斯波先輩もどうぞ」
志保は可愛らしいお弁当箱を開くと、明らかに一人で食べられる量を超えた卵焼きが並んでいた。
「おお、すごい。ありがとね」
「私にもくれんの?ありがとねー」
あたしたちは志保の卵焼きをもらいながら、昼食を取った。
「ごめんなさい。まだあんまり上手く作れなくて、本当だったら先輩のお弁当を丸ごと作りたいのですが」
「いやいや、そこまでしなくてもいいんだよ」
「そんなわけにはいきません。私は先輩に…」
キーンコーンカーンコーン
「あ、もうこんな時間。先輩ごめんなさい。私、次の時間移動教室なので」
「そっか、ごめんね志保ちゃん。引き留めていて」
「いえそれは全然構いませんので。それではお先に失礼します」
ぱたぱたと自分の教室へ駆けていく彼女の後姿を目で追いながら、奏はぼそっと呟いた。
「綾辻、変わったよね」
「うん。あんな積極的な子だったんだって、あたしもびっくりしてる」
水族館で言った約束のためか、翌日から志保は昼休みになるとあたしたちの教室にやって来て、一緒にお昼を食べようと誘ってくるのだ。あまり料理をしていなかったといっていたが、毎日自分のできる料理を作って持ってくる少女はとても可愛いと思う。
「美智佳さん、あなた後輩の子たちに人気があるとは思っていたけど、まさかお弁当作ってくれる彼女ができるなんてねぇ」
「彼女じゃないよ」
「でもあんなに慕ってくれてるんだから、美智佳も一時の気の迷いで…きゃあ!」
「アホなこと言わないでよね、まったく」
志保が教室に帰ってからようやく重たい腰を上げて教室へと戻る。志保の後ろ姿を思い出しながら、変わらない人はいない、人は毎日少しづつ変わっていっているのだという、どこかで聞いた言葉が胸の中で反芻していた。
「美智佳!一大事だ!」
6時間目の授業が終わって、教室に一人残って帰り支度をしていたあたしのところに、隣のクラスの友人たちと駄弁っていた奏が飛び込んできた。今日は女子バスケ部の練習は休み。早く帰ってしばらく読みかけで止まっていた本でも読もうと考えたいた。
「いつも賑やかだけど。今日は放課後まで飛ばしてるね」
「おかしなお世辞はいいからよく聞いて!さっきあいつらから聞いたんだけど、秋穂と杉本が校舎裏に歩いて行くのを見たんだってさ!」
「え、」
「あの二人だよ。絶対告白の返事をしに行ってんだ!どうすんの美智佳、アキちゃん付き合うのかもよ。一緒に水族館まで言った仲だし」
「…そっか。」
「美智佳?」
「よかったね。ついにアキちゃんと杉本がくっついたんだ」
ようやくかと思った。いつかは訪れるとき、秋穂が誰かと付き合えば、今までのような関係には戻れないが、今みたいにぎすぎすした関係もきっと治まってくれるだろうと思えば、これはきっと良いことなのだ。
「ちょっと、あの杉本に秋穂取られていいわけ?」
「しょうがないよ。アキちゃんが好きになったのならあたしたち部外者がどうこうするものでもないでしょ」
「美智佳…あんたは本当にそれでいいの?」
「なんであたしにそんなこと聞くの?アキちゃんが決めたことだよ。あたしは関係ないじゃん」
「…はぁ」
仕方ないことだよと言うあたしにため息をついて、奏は後ろを向く。そのまま頭の後ろを掻きながらぶつぶつとつぶやき始めた。
「奏ちゃん?」
「あんたの阿保っぷりはよく知ってたけど……」
「え?」
「ちょっと歯、食いしばれ」
バチッ
振り返った奏はあたしに強烈な平手を食らわせた。まったくの不意打ちに、無様にも机をいくつか音を立てて倒しながら、派手に転がってしまった。
「な、何するの!?」
奏はなおも乱暴に、転がったあたしの制服の胸元を掴んで立ち上がらせる壁際へ叩きつけた。
「い、痛。なんで…?」
痛みで思わず涙声になる。奏の方を見ると、怒ったような、そしてなぜか泣きそうな顔をしながらあたしを睨みつけていた。
「いつまでそんなこと言ってんのよ…!」
「そんなことって?」
「好きな人が誰かに取られて何で笑ってられるわけ!あんたホントおかしいんじゃないの?それともバカなの?大馬鹿野郎だよ!!」
「だって、しょうがない……じゃない。アキちゃんのために」
「だからそれがバカだって言ってんじゃない!口を開けばアキちゃんアキちゃんアキちゃん、なんであんた自身がどう思っているかを出さないわけ!その態度が秋穂を怒らせたってなんで分からないわけ!」
「奏…」
いつも余裕を崩さない親友にすごい剣幕で叱り飛ばされた。人に言われてようやく自覚した。秋穂のために生きようとして、あたしは自分の本心を隠してしまっていたのだ。
「ごめん、今酷いことしてるのは分かってる。でも今日は最後まで言わせてもらうから。秋穂はずっと悩んでいたんだよ。美智佳が自分のことを第一にしていて、美智佳自身のことを大事にしてないんだって」
「……」
「バカだよバカ、この大バカ美智佳。大好きなら何で言わないの。綾辻があんたのことを好きなように、杉本のやつが秋穂のこと好きなように、……私があんたのこと好きなように、あんたは秋穂のことが好きなんでしょ?ずっと愛してるんでしょ?だったら逃げんなよ」
怒りながら奏は泣いていた。
「でもあたしはあの子のいいお姉ちゃんになるって」
「お姉ちゃんだとか双子だとか、そんなものに逃げんなよ。ちゃんとあの子に好きだって言えッ!!」
最後は悲鳴のような声だった。呆然として奏の方を見ると、彼女はあたしから手を放してずるずるとその場に崩れ落ちてしまった。助け起こそうとあたしが彼女の肩に触れると
「やめて!」
その手を払いのけられてしまった。
「あたしのことは放っておいてよ。ひく…今酷い顔してるからぁ。それより、あんたには行くところがあるでしょうが」
「奏ちゃん、ごめんね。ありがとう…」
彼女から叱責されてようやく目が覚めた。そして決意した。崩れている彼女の背中を撫でるとあたしは立ち上がって扉へと向かう。
「なんであたしが、背中を押させないといけないんだよ……。うう、この…ばかぁ」
教室を出るとき、彼女の絞り出すような声が聞こえてきた。その声を確かに耳で受け止めて、あたしは向かう。彼女たちがいるであろう場所へと。
「それでさ、俺の告白の返事は考えてくれたの?」
「うん。長く待たせちゃってごめんね」
「大丈夫大丈夫、俺待つことって苦じゃないから」
「ありがとう杉本君。私は……」
あたしは走っていた。足が速いと褒められて、運動会では毎回リレーの選手に選出されたこの健脚を駆って、一秒でも早く、少しでも早く、あたしは目的の校舎裏へと向かう。たぶんもう、秋穂は返事をしているだろう。もしかしたら付き合うことが決まって、キスとかしていたりするのかもしれない。でも、あたしは迷わず進んでいった。ずっとあたしのことで心を痛めていた彼女には直接言わなければならないのだ、あたしのずっと持っていたこの気持ちを…。
「アキちゃん!!」
「み、みっちゃん?!」
「美智佳?お前どうしてここに」
秋穂と杉本はいまだ向かい合って何かを話していた。あたしはしばらく息を整えてから、一息に言い放った。
「あたしはアキちゃんのことが好きです。双子の妹としてじゃなくて、一人の女の子として。気持ち悪いかもしれないけど、子供のころからずっとあなたのことだけを愛していました。姉であることに隠してきたけど、これがあたしの本当の気持ち。正直な気持ちです」
「みっちゃん……」
「アキちゃんが決めたことだけど、あたしは嫌です。杉本とは付き合ってほしくない!あたしをアキちゃんの一番にしてほしい。あたしが一番アキちゃんを想っているんだから!」
自分の気持ちを全て言い放ってからあたしは膝の力が抜けてその場にへたり込んだ。目からはなぜか止めどなく涙が溢れてくる。自分の本当の気持ちを出すってこんなに怖くて勇気のいることなのか……。涙は止まらず、アキちゃんと杉本の姿がぼやけた。涙を拭おうと目をこすっていると、誰かがあたしの横を通り抜けたのを感じた。
「あぁ、これじゃダメだな。やっぱり秋穂ちゃんの言う通りか。負けたよ美智佳。俺の負けだ」
「杉本…?」
「あー、チアキだよ。杉本千秋。女っぽい名前だろ?」
「え?ううん、いい名前だと思うけど」
「…ったく、さすがは双子だよ。そうだな、今度っからは杉本じゃなくて千秋って呼べよ。いつまでも俺ばっか苗字じゃ気持ち悪いからな」
「う、うん?」
「それと、俺はあきらめてないから。明日っからはライバルだからな」
それだけ言って彼は去っていった。
「ライバル…?」
「みっちゃん!」
あたしの体に暖かいものが満ちてきた。うるさく鳴いていた蝉もこの瞬間鳴き止んでしまったようだ。屈みこんで、あたしの背中に腕を回してきつく抱きしめた秋穂は、そのままポツリポツリと話し出した。
「ごめんね。ずっと冷たくしていて。でも私が告白されたって言ってから、みっちゃんは私のことを避けるようになったよね。それが全部あたしのためなのは分かっていたけど、それじゃあみっちゃんが私のこと大好き、愛しているって言ってくれるのは子供の頃に私が倒れたせいなのかなって思って。そうしたらみっちゃんが信用できなくなって」
「アキちゃん」
「嫌いって言ってごめんね。無視したり、ひどいことを言ってごめんね。私一人でみっちゃんのこと疑ってて。早く仲直りした方がいいて分かっていてもみっちゃんの周りにはいつも人がいて、私なんかいらないのかなって思うと全然謝れなくて」
秋穂はあたしを抱きしめながら、しくしく泣きだした。今度はあたしが彼女を強く抱きしめる番だった。
「あはは、あたしたちお互いにお互いのためを思ったのにすれ違っちゃってたんだね」
「うん」
あたしは涙をボロボロ流しながら、それでも笑った。あたしを見上げた秋穂も泣きながら微笑んでいる。あたしは彼女の額に自分の額をこつんと触れ合わせると囁くように言った。
「初めてだよね。こんな喧嘩をしたこと」
「そうだね」
「初めてだよね、喧嘩の後の仲直りも」
「そうだね」
「これからはアキちゃんと、もっといろんな初めてをしていきたい」
「私もみっちゃんと一緒にいろんなことをしたい」
「大好きだよ、アキちゃん」
「私も。私もみっちゃんが一番好き」
ぎゅっと強く抱きしめていると柔らかい胸の奥からとくんとくんと彼女の鼓動が鳴っていた。機械なんかじゃない、彼女のココロは生きている。妹も生きていて、守られるだけじゃなくあたしの隣に寄り添ってくれているんだ。あたしたちは誰もいない夕暮れの校舎裏で暫くそのまま、二人だけの時間を過ごした。
久しぶりの帰り道、あたしと秋穂はぎゅっと手をつないで駅から自宅への道を歩いていた。夕日は今まさに遠い山の向こうに隠れようとして、次第に夜の闇が忍び寄ってきている。
「アキちゃん、ちょっと寄っていきたい場所があるんだけど。いいかな?」
「え、いいけど」
そうして彼女を連れてやって来たのは、子供の頃の記憶にあるいつかの公園だった。あの日から十数年たち、残っている遊具は数えるほどしかなかったが、あの日あたしが秋穂を連れて行った場所は残っていた。
「わぁ。まだ残ってたんだね、みっちゃんの秘密の場所。さすがにもう狭くて二人とも入れないけど…」
「その秘密の場所って言い方、子供の頃のことで恥ずかしいんだけど」
「えー、私は二人の思い出みたいでいいと思うよ」
「恥ずかしいこと言うなぁアキちゃんは。それより良かったの?千秋のことは」
「うん。杉本君はいい友達だけど…。一番大切な人って言われたときに頭に浮かんだのはこの顔だったから」
そう言って彼女はあたしの唇を人差し指で触れた。秋穂の指はそのままあたしの下唇を撫でる。あたしも彼女に倣ってその柔らかい唇に触れた。あたしたちはお互いのぬくもりを感じてにっこりと微笑みあった。
思い出の公園を出て、あたしたちは二人並んで家までの道を歩いている。あたしたちの前にできた二人の陰は一点でつながっていた。その陰を見ながらあたしは思う。これからもいろんなことがあるだろう。それでもこの手は離さない。一人でできなかったこともこれからは二人で頑張るのだ。もう一度アキちゃんと名前を呼んで左手をぎゅっと握った。彼女のぬくもりが、汗ばんだ手がとてもとても、心地よかった。