近くて遠い距離
病院から彼女を連れて帰ってきた両親があたしに向けてこう言った。
「美智佳、秋穂の心臓にはペースメーカーっていう機械が入っているから。これからはその機械が壊れないように気を付けなきゃだめよ。美智佳はお姉ちゃんなんだからね」
「うん、分かった!」
あたしは幼く、その言葉の全てを理解したわけではなかった。だからお母さんの胸に抱かれてすーすーと眠っている可愛い妹の胸に、かちかちと音を立てて動く歯車が入っているのかと思った。それからしばらくして、二人の誕生日プレゼントでもらった、鐘を叩くタイプの目覚まし時計の歯車が壊れて動かなくなってしまった。泣きながらそれを捨てているときにあたしは思った。機械はいつか壊れる……。妹に触れるあたしの手は壊れ物を触るかのように緊張したものへと変わっていった。
突然回りの風景が切り替わる。いつもの通学路をあたしと秋穂が二人で歩いている。周りは少し白く、うすぼんやりとしていた。あたしが妹の手を引いていると、突然手から引っぱっている感覚が消えた。振り返ると、二三歩ほど離れた場所で秋穂は胸を押さえてうずくまっていた。ううっとくぐもった声でうめく、苦しそうな顔があの日の姿とダブって見える。
「アキちゃん!アキちゃん!」
妹を助けようと伸ばした手は何故か届かなくて、どれだけ力いっぱい彼女に手を伸ばしても、妹に触れることができなかった。次第にうずくまったままの彼女が遠く離れていく。
「…………!………!!」
手も届かず、徐々にあたしの声は小さくなっていき、遂に自分の声さえも聞こえなくなった。このままだとアキちゃんが消えていなくなってしまう。何も分からない中でそれだけは分かって、あたしは泣きながら必死に手を伸ばした。でも、遠ざかっていく彼女には届かなかった。
「アキちゃん!!」
あたしの伸ばした手は虚空を掴んでいた。窓の向こう側からはうるさいアブラゼミの鳴き声が聞こえてくる。意識のはっきりとしない中で周りを見ると、ピンク色の可愛い目覚まし時計に、小さなクマのぬいぐるみが置いてあった。ひどく汗ばんでいて、肌にくっついたパジャマが気持ち悪い。なんの夢を見ていたんだっけ、あまり楽しいものではなかった気がする。そんなことを考えながらベッドの柔らかさに身を委ねていると、
「美智佳!あんた今日、学校休む気なの?」
少し怒ったような声を上げて部屋に入ってきた母が呆れたような目であたしを見ていた。部屋の外からは朝のテレビ番組の爽やかな音楽が聞こえてくる。その音楽に紛れ、番組司会者の賑やかな声が政治のニュースだろうか事件だろうか、いずれにしてもあたしとは縁のない話題を何やら楽しそうに喋っていた。
「ふわぁ。なにお母さん、もう朝?」
「朝って、いつまで寝ぼけてるの。もう7時半よ」
電車通学のあたしたち姉妹にとってこの時間はいつも支度を終え、そろそろ出発しようかという時間だ。
「えっ!ヤバ、遅刻する!!」
あたしはガバッと起きてほとんど飛び降りるように二段ベッドを下りると、下でまだ寝ているだろう妹を起こすため、下の段の枕に顔を近づける。しかしすでにもぬけの殻、そこに妹はいなかった。
「あれれ、お母さん。アキちゃんは?」
寝ぼけ眼をこすりながら母に聞くと、彼女はなぜか困ったような顔をした。
「あら、聞いてないの?秋穂は今日は用事があるから早く行くって言ってたけど」
「え?」
「もう先に家を出たわよ」
壁と妹の机の方を見れば、もうすでに妹の制服もかばんもなくなっていた。呆然としているあたしに母はもう一度声をかけてあせらせようとした。
「美智佳、あんたぼーっとしてるとホントに遅刻するわよ」
「う、うん」
あたしは母に急かされるまま洗面所に行き顔を洗う。水を浴びてようやくぼんやりとした意識が覚醒してきた。そのまま肩にぎりぎりかからない短い髪をさっと整える。洗面所の時計を見れば7時40分。これ以上家でのんびりしていることもできない時間だ。
あたしはまた自分の部屋に戻ると秒で制服に着替えた。世の中の高校生は今日も身だしなみに気を使っているのかも知れないが、あたしにはそんな余裕はなかった。雑に制服を着てテーブルに置いてあった食パンをくわえて家の扉を開ける。いつの間にか鳴き始めていた蝉たちが、今はこそと自分の存在を鬱陶しいほどに主張していた。夏の盛りだ。
「行ってきます」
「はい、いってらっしゃい」
大慌てて飛び出すあたしには果たして女子力なんてものはあるのだろうか、そんなことを考えながら駅につく前にパンを食べ終え、学校方面への人の少ない電車に乗った。吊革に揺られながら一人で立っていると、そういえば久しぶりに一人で電車に乗っているということに気付いた。これからは一人で乗る機会も増えていくはずだ。この違和感が無くなったとき、あたしはどうなっているのだろうと思った。
駅から学校までの道をいつもの二分の一の時間で駆け抜けて、朝のチャイムが鳴り終わる前にあたしは教室に滑り込んだ。担任の先生に軽く怒られ、クラスメイトの面白がった視線を浴びながら、あたしは自分の席へと向かう。夏の暑い道中を走ったあたしは見事に全身汗でびしょびしょで、肩でぜーはーと息をしていた。朝礼が終わると斯波奏が声をかけてきた。
「美智佳が遅刻って珍しいね」
「寝坊したんだよー」
「じゃあまた秋穂に迷惑かけたんだ。駄目なねーちゃんだな」
「ううん。アキちゃんは先に行ってたから大丈夫」
あたしの言葉に思いのほか驚いたようで、目を丸くしながら聞いて来た。
「え、別々に登校?あんたたちが?」
「そ。あたしは妹離れするって決めたし、アキちゃんは好きな人と行きたいと思うからね」
「ふーん。杉本だっけ?秋穂、付き合うの?」
「まだ迷ってるって言ってた。アキちゃん可愛いから杉本なんかじゃなくてもいいのに……」
「はいはい。それより走ってきたからあんた今、髪とか顔とかいろいろ酷いよ」
「ほんとに!?……ってかあのさあ、急に真面目な顔して顔酷いってひどくない?あたし傷つくんですけど」
「あ、元からか」
「はあ、もうそれでいいよ」
「え?」
「トイレ、行ってくる」
あたしは、不思議そうな顔をした奏を置いて教室を出た。そのまま階段横にある女子トイレに向かった。
トイレの前の廊下で向こうから歩いてくる秋穂とすれ違った。妹は水泳の時間に一緒に練習していた友達と話していて、こちらには気付いていない。なんとなく声をかけるのも気まずくて、そのまま通り過ぎた。すれ違う瞬間に妹がこちらに気付き、あっという口をしたが、あたしは軽く「アキちゃんおはよ」と聞こえるかどうかの声でつぶやいて、そのまま振り返らず女子トイレに入った。
「あれ、秋穂さんのお姉さんでは。良かったんですか」
「う、うん。大丈夫。そんなことよりさ……」
後ろから二人の声が聞こえてきた。二人は次の授業のことについて何か話しているようだ。違うクラスの妹が普段どんなことを考え、友達とどんなおしゃべりしているか、自分はそんなことも分からなかったのだということに今更気づいた。
「……」
お手洗いの鏡の前であたしはしばらく自分の顔とにらめっこした。双子だがあまり妹とは似ていない顔が少し困ったような顔をしてこちらを見ている。そんな表情を見ているうちにため息が出た。
「はあ。あたしたち、もう駄目なのかな」
ぼさぼさになっていた髪を整えてお手洗いを出た時には、もう妹たちの姿はどこにもなかった。
あたしにとって、妹に嫌いと言われることは自分の思った以上にメンタルを揺さぶる事件だったようで、そんなことがあった次の日はやることなすこと、全てが悪い方に進んでいった。数学の時間では、伊藤先生に指名されてクラスの前で解いた問題の、最初の所でうっかりミスをしてしまい、数学の授業中で珍しく不正解をもらってしまった。伊藤先生は、ついに仲川美智佳が間違えた、と鬼の首を取ったかのように喜びながらも本気で心配してくれた。しかし今日のあたしには軽口を叩く元気も言い返す余裕さえもなかった。午後の理科の実験ではボーっとしていて、何度か危険物と書かれ、取り扱いに注意するよう言われた薬品を倒しかけた。それを見かねたのか心配したのか、友達には実験結果のメモ係を頼まれた。しかし記録中もメモ用紙に無意識に秋穂の名前を書いたりしていてあまりまともに結果の記録もできず、班員に迷惑をかけてしまった。
放課後、あたしが荷物を片付けて久々の部活に向かおうとしていると、先に支度を終えていた奏が近づいて来た。
「美智佳、あんたホントに何があったのよ。今日のあんたは絶対おかしい」
「別にそんなことないと思うけど、奏ちゃん」
あたしたちは二人で荷物を持って教室を出た。そのまま人の少ない廊下を通って昇降口へと向かう。バスケ部の活動している体育館は校舎から少し離れたところにある。
「何もないってことは無いでしょ。一日中ボーっとして、やけに静かだしさ」
「うん……」
前かがみになってあたしの顔を覗き込む、この中学校からの友達は、あたしの気持ちを察してくれる気の置けない存在だ。普段はあたしのことをからかっているが、あたしの相談にはいつも根気よく付き合ってくれるのだ。
「話、聞いてあげようか?」
「……」
「ん?」
あたしが話そうかと迷っていると、奏は首をかしげてあたしの反応を促した。
「……アキちゃんが、いや何でもない」
「秋穂が誰かと付き合うのがそんなに嫌なの?」
「え?」
「誰かに取られちゃうかも、ってとこ?」
あたしの心の中を覗かれたようで、思わずうろたえてしまった。相談に持ってくれている時の奏の真っすぐな目は、あたしのこと全て見通しているんじゃないかと思うほどだ。
「そ、そういうのは関係ないよ」
「そうなの?」
「あたしはアキちゃんが幸せなことが一番なんだから。あたしの気持ちが入ったらだめでしょう?」
「……」
「でもあたしがいつまでもアキちゃんのこと独り占めしようとしてたから、アキちゃんが怒っちゃって…」
「怒られたの?」
あたしは震えそうになる声を必死に押さえつけて言葉を続けた。
「うん。お姉ちゃんのことなんか、大っ嫌いって言われた…。奏ちゃん、あたしどうすればいいのかな?」
「そっか……」
奏はしばらく黙ってしまい、二人ともしばらく無言で歩く。話しているうちに廊下を通り、階段を下りていて、昇降口に到着していた。げた箱から自分の靴を取り出している時、あたしの物より低いげた箱から屈んで自分の靴を取り出しながら、奏は聞いて来た。
「前から聞きたかったんだけど美智佳ってさ、なんで秋穂のことにはそんなに必死になるの?あんたのはシスコンとか過保護とかっていうのとは何か違う気がする。確かに心臓が弱くてペースメーカーも付けているけど仮にも秋穂は高校生だよ?」
「だってまた、いつアキちゃんが倒れちゃうか分かんないでしょ?機械なんだから壊れちゃうこともあるし」
「……」
「アキちゃんの傍にあたしがいて、大事にしてあげないといけないって思うんだよ。あたしはお姉ちゃんだから、妹のために生きることが一番大事でしょ?」
「でもあんたは秋穂のこと……」
奏は途中で言葉を切った。あたしは何ごとかと奏の方を見て、それからびっくりしたように外に目を向けている奏の視線を追った。
「あ……」
「みっちゃん、斯波さん……」
昇降口より一歩出たところに話題の人物、秋穂が立っていた。
「顧問の先生に呼ばれたから職員室に行くところなの。二人とも、もうすぐ練習始まりそうだよ」
あたしとは目も合わせず、それだけ言うと靴を脱いであたしたちが下りてきた階段に向けて歩き出す。奏はありがとねとお礼を言っていたが、あたしは声をかけることもできなかった。
久々のバスケ部の活動。女子バスケットボール部も三年生の先輩たちが引退して、あたしたち二年生が中心となった。休みの間に同じ二年生から既に部長と副部長が決まっていた。部長は秋穂と同じクラスの子で、彼女も去年からあたしと同じでベンチ入りしていた。副部長は別のクラスの子で、真面目であたしが苦手な人だ。まずは新しい部長が抱負とこのチームの目標をみんなの前で話してから練習が始まった。最初の練習だからか、みんな気合が入っている。そんな流れに逆らうかのように、あたしはミスを連発し、みんなの足を引っ張っていた。精彩を欠くとはこういうことかと自分で感じてしまうほど、面白いくらいにミスが続く。思ったところにパスを打てない、今までは余裕で抜いていた後輩のガードに攻め切ることができない、逆に今まで止めることができていた選手の動きについて行けず翻弄される。あたしは、一つミスをしては落ち込んで、そのまま次のミスにつながる、というような負のスパイラルに完全に嵌ってしまっていた。
ひたすら苦しい部活の後、あたしはいつも通り後輩たちに混ざって体育館の掃除、後片付けを終えて体育館前で油を売っていた。いくら話すことが気まずいといっても、秋穂一人で下校させるわけにはいかなかった。
「先輩、今日もありがとうございました。」
そんなあたしに、一緒に後片付けした後輩たちがお礼を言って仲良く帰って行く。
「うん。お疲れ様。気を付けて帰りなよ」
あたしは片手をひらひらと振って、後輩たちを見送った。彼女たちの姿が見えなくなったころ、その時を待っていたのかあたしに声をかけてくる人がいた。
「あの先輩!今日はその、調子が悪かったんですか?」
心配そうな顔をしているのはいつかの後輩、綾辻志保だ。今まで練習中にあたしが彼女を抜けなかったことは無かった。しかし今日は見事にボールを奪われてしまった。彼女はそのことについて心配しているのだ。
「いやー、そんなことないと思うんだけど。志保ちゃんがうまくなったんじゃないかな?」
「そんなはずはありません!今日の先輩の動きは……、あ、いえ何でもありません。失礼しました」
「とりあえず、そろそろ志保ちゃんは帰った方がいいよ?」
「あの、今日は私と一緒に」
帰りましょうという言葉が続くのが分かっていたので、ごめんね、あたしはアキちゃんを待っているからと、いつもの言い訳で煙に巻こうとした。実際には秋穂があたしと一緒に帰ってくれるかなんて分からないのだけれど。その時、ちょうどその秋穂がやってきた。志保は妹が来たことに気付いて、彼女の方を向いた。
「あ、秋穂先輩、お疲れ様です。その……今日は三人で帰りませんか?」
秋穂はあたしのことをちらりと見た後、にこっと志保に微笑んで頷いた。
「そうだね。女の子一人は危ないし、三人で帰ろっか」
「はい!」
「ほら、みっちゃんも行くよ?」
「あ、うん」
志保と秋穂、一歩ほど後ろからあたしが付いて駅までの道を歩いた。志保と秋穂は部活のことや勉強のこと、休日の過ごし方など様々な話をしていた。こうしてみると仲が良く、本当の姉妹のようだと思った。あたしはと言えば一歩引いたところから二人を眺め、話も聞いていなかったが、偶に志保に同意を求められたときに適当に相槌を打っていた。あたしも話に入って行けばよかったが、勇気が足りなかった。手を伸ばせば届きそうな距離が遠かった。
あたしには二人の後ろを付いて行くことしかできなかった。