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すれ違い

「お姉ちゃん、本当にごめんなさい。もう迷惑にはならないようにしないとって思っていたのに…」

「いいっていいって」

 先生に運び込まれたプールサイドのテントで、急いで来てもらった保健室の先生に様子を見てもらった。秋穂は先生が診ているうちに徐々に落ち着いたようで、やがてゆっくりと目を開いた。先生の話によれば、秋穂は心臓の方に異常が起こったのではなく軽く溺れてしまったようだ。

 しばらく苦しそうな顔をしていた秋穂は、今ではプールサイドの見学者スペースで横になって休んでいた。彼女によれば少し疲れが来たためふっと気を抜いた時、足がつかなくなって…ということなのだそうだ。妹が目を開けた時にあたしは張り詰めてピンと張った糸が緩まったような気持ちで彼女を見つめていた。しばらく経つと彼女の目の焦点はしっかりあたしに合うようになり、首を少し持ち上げてあたしを見つめて返してきた。妹の目を見つけたまま彼女の胸に手を当てると、とくんとくんと脈動しているのが伝わってくる。

「よかった、ちゃんと動いてる…」

「お姉ちゃん……。私はもう大丈夫だよ」

「え?」

「お姉ちゃんは泳いできて。私は今日はもうプールに入らないから…。ごめんなさい、いつもはお姉ちゃんの言う通りにちょっとだけ入ったら上がっていたのに。今日はお姉ちゃんの泳ぐ姿を見て、もっと頑張りたいって思っちゃって」

妹が心配なあたしもまた見学者スペースで見学している。あたしに気を使ってプールに戻るよう勧める妹には申し訳ないが、今日はもうプールに入らず秋穂の傍にいようと決めていたのだ。

「いや、あたしも今日はもう見学しているよ。泳ぎ疲れてたし丁度いいからね」

「私のために…?」

「うん、勿論それもあるよ。可愛い妹が大変な目に遭ったのに置いて行けないよ。あたしはお姉ちゃんだもん」

「…………」

「どしたの?」

「お姉ちゃんはいっつもさ…」

いつもの雰囲気とは違った妹の声色を不思議に思って彼女の方を向くと、彼女は目にいっぱいの涙を浮かべて、怒ったようなそうでないような不思議な顔をしていた。

「いっつも私を優先してくれるんだよね…。」

「だってあたしはアキちゃんのために……」

「うん。それが私は嬉しいんだ。でもそれじゃあお姉ちゃんが…」

妹はそれ以上何も言わずに空を見上げた。つられて空を見たあたしの目に映るカラっと晴れた夏の空には、いつの間にか暗い雲が近づいてきていた。きれいな夏の空に似合わない雲を見ながら、ああ午後からは雨が降りそうだなと思った。


 思った通り、今日最後、6時間目の授業が終わりに近づいて来たころに、しとしと雨が降り始めた。

「あら、久しぶりの雨ですね」

あたしたちのクラスの現国担任の清水先生は雨の音が聞こえたのか、生徒に問題集を解かせている間に窓に近づいて外を眺めていた。空はいつもより暗く少し前に終わったはずの梅雨の日々が帰ってきたのかと思えるほどだ。

「そういえば最近、先生が読んだ本で書いてあったのですが雨を表す日本語は400個近くあるそうなんですよ」

 先生は生徒が一生懸命に問題とにらめっこしているのにも気付かずいつもより1オクターブ高いソプラノの声で一人話を続ける。この先生はどこか抜けているというか、天然なのだ。それが美人で近寄りがたい第一印象とのギャップになって、男子生徒や先生方にも人気が高い。本人の性格的に気づく様子はないが。

「ええと、先生が気に入ったのは、『春雨』とか『五月雨』とか『時雨』などの季節のものや、『篠突く雨』とか『驟雨』とか『霧雨』とか強さに関するものですかね~」

生徒が一人も見ていないのに楽しそうに黒板に書いていく清水先生。彼女は振り替えって適当に呼名した。

「それじゃあ渡辺くん。今降っている雨は何て言うのでしょうか?」

名を呼ばれた生徒は顔を赤くしながら困った顔をして、

「あの、先生?僕ら今問題解いてるんですが…」

「わっ、そうでした。すっかり忘れてました。先生暇なので退屈していたのです。ごめんなさい、問題集をやっていてください」

いつものことながらふわふわした先生に教室がざわつく。それも暫くすれば止むのだが、今度は一人の生徒が静けさを破った。

「先生ー。あたし気になります!この雨何て言うんですか?」

声をあげたのは他でもない、クラスメイトが集中して取り組んでいる問題に早い段階で音をあげたこのあたし、仲川美智佳だ。話に食いついてきたあたしに彼女は嬉しそうに語った。

「あら、仲川さんはもう終わったのですね。それじゃ教えてあげますね。この雨は『青葉雨』とか『緑雨』って言うんですよ。夏の始め、木々の緑が濃くなってきた頃に降る雨のことで初夏の季語にもなっているんですって」

「他には?先生、他に何か雨に関して面白い話はないの?」

「そうですねぇ、雨は小説などではよく人の心理描写として悲しみを表しますが…」

「すみません先生、このバカに乗せられてるとこ悪いのですが、そろそろ授業終わりますよ?」

奏の呆れた声が聞こえた、ちょうどそのときにチャイムが鳴り始めた。先生は少し慌てて姿勢を正す。

「え、ええ?じゃあここは次回までの宿題にしますね」

あたしの悪友に遮られてしまったが、雨で悲しみを表現した本はよく見かけるので話途中ながら印象に残った。


「それでね、清水ちゃんが言うにはこの雨はきっと『青葉雨』『緑雨』っていう夏の始まりに降る雨なんだって」

 あたしは今日、先生に聞いたことを早速一緒の傘に入っている秋穂に教えていた。放課後、今日は部活動休みなので二人でいつもより早い時間に帰る。強豪校と言われ、練習も熱のこもっていたあたしたちの先輩たちは県大会の2回戦で優勝した学校と当たり、あっけなく敗北した。3年生は引退し、あたしたち2年生を中心とした新チームとなるが、発足までもう少し時間がかかるようで暫く部活が休みの日が続く。選手だけの自主練に参加するほどの熱意もないあたしは誘いを断って妹と一緒に早くに帰っていた。今日もまさにそんな日だったのだが、まさか雨が降るとは思わなかったあたしは、用意周到な妹の学校に置いてあった傘に入れてもらっているのだ。その代わりというか、傘を持っているのはあたしなのだ。

「へぇ、青葉雨かあ。お姉ちゃんは色々なことを勉強してるんだね」

「あと言ってたのは…」

そう言って思い出すのは先生が最後に言っていた言葉。

「雨はひとの心理描写にも使われたりするって言ってたの。これはあたしもよく見るなーって」

あたしは傘の中心に妹が来るよう場所を考えながら歩いている。

「すごいねぇ、雨にもいろいろあるんだ」

あたしの話を聞きながら傘から少し出て雨を見る妹。あたしはなるべく妹に雨が当たらないよう、少し秋穂の方へ移動した。

「でも私も分かるな、こんな雨には悲しい気持ちを込めたくなる」

「おおアキちゃん、今日は文学的だねー」

そんな話をしてからお互い少し無言で歩く。沈黙を破って次に口を開いたのは隣で歩く妹の方だった。

「プールの時間はごめんね。心配かけて」

「だからいいって!そんな申し訳なく思うならもっと傘の真ん中に寄りなよ。雨に濡れたら体冷えるよ」

「うん……」

「……」

「……お姉ちゃんってさぁ」

 ざわざわと降る雨は思いの外騒がしくて、秋穂の呟いた声は油断すると聴き逃してしまいそうなほど小さいものだった。

「ん?」

「昔言ってたよね。お姉ちゃんはアキちゃんのために全部あげる、アキちゃんために生きるって…今も、同じなの?」

「それは勿論」

即答した。この気持ちに偽りはない。それが叶っているかどうかは分からないけれど。あたしはさらに言葉を重ねた。この気持ちが妹にしっかり伝わるように。

「勿論今も同じこと思ってるよ。アキちゃんためにあたしの出来ること全てをやろうって。それがお姉ちゃんであるあたしのやるべきことなんだって」

あたしが力強くそう言うと、まるで捕まえた手の中から滑り出るように秋穂が傘から走り出て、あたしの方を向いた。そして息を吐き出すように言った。

「嫌い…だよ。お姉ちゃん」

「え?って、そんなことよりアキちゃん。冷えちゃうから早く傘に入りなよ…」

「来ないで!」

思わぬ拒絶の言葉にあたしは目を丸くする。こちらを見上げている彼女の顔は悲しそうに、笑っていた。

「私、みっちゃんのこと嫌い、大嫌いだよ」

「なん…で?」

秋穂の言葉にあたしは言葉を失った。凄く久しぶりに聞いた昔のあたしへの呼び方。いつからアキちゃんはあたしのことをお姉ちゃんと呼ぶようになったんだっけ。現実を直視することを拒んでいる脳は、妹の言葉と関係あるような無いようなことを考えていた。

「私のために自分のこと全部を差し出しちゃおうとするみっちゃんが嫌い。高校、本当は他に行きたいところもあったでしょ?でも私の志望がここって知ってすぐに変えちゃったんだよね。気づかないふりしてたけど、知ってたんだよ。部活動、バスケになんてホントは興味ないんだよね…?みっちゃんは運動神経が凄いからどんな部活にでも引っ張りだこで、私がたまたまバスケ部に入りたいって言ったから一緒に興味もない所に入ってくれたんだよね。」

「それは……そうかもしれないけど」

否定はできなかった。双子の姉妹の間で、隠し事なんて無意味に等しい。

「いつも寝ないで私が先に寝るのを待ってるよね。歩くスピードも私に合わせて凄くゆっくり、歩きづらいったらないよね。部活の後も手際の悪い私のことをいつもずっと待ってくれているよね。今日も溺れたあたしを他の誰でもなく一番に助けてくれた。今もそうだよね、私が濡れないためにみっちゃんは肩びしょ濡れだ。私のため、私のため、私のため…。みっちゃんはいっつも人のことばっかり、自分のこと大事にしていない……」


「そんなみっちゃんは…………大嫌いなのっ!!」


 そう言って秋穂は唖然とするあたしを置いて先に駅に向かって走り出していた。あたしは呆然と立ち尽くし、気づけば妹の傘を足下に落として全身がびしょびしょに濡れていた。

 雨は相変わらず強く降り続けていて、今夜は止む様子はない。あたしは降り続く雨に打たれながら、ああこんな気持ちなのかと納得した。雨は下手な芝居の舞台装置かよ、と思えるほどに悲しみで満たされたあたしに容赦なくぶつかってきて、流れた涙をすっかり隠してしまった。制服はびしょびしょで、でもそんなこと気にならなくて、ただ胸が苦しかった。

 遅くに帰ってきたあたしは、お母さんに心配そうな顔で出迎えられる。

「おかえりなさい。美智佳、今日は凄く遅かったけど何かあったの?あなたもびしょ濡れじゃない」

「いや、ちょっと友達と長話してたら遅くなっちゃって。アキちゃんはもう帰ってる?」

「ええ、大分前に帰ってきたわ。あの子はもっとびしょ濡れだったから慌ててお風呂を温めて。今はリビングでテレビを見ているわよ」

リビングの方からは確かに人が笑う声や、やたらテンション高めな声が聞こえてくる。

「とりあえず美智佳もお風呂入ってきなさい。それからご飯にしましょ」

「うん」


 お風呂から上がってリビングに入ると妹がこちらを見ようともせずにテレビを見ていた。

「あ、アキちゃん。さっきは濡れたまま一人で帰らしちゃってごめん」

「……」

妹からの反応はない、あたしは言ってからまたアキちゃんの嫌いな言い方をしてしまったと思ったがもう遅い。あたしたちの間に緊張する、息の詰まりそうな嫌な沈黙が流れる。

「ほら二人ともご飯にするわよ。早く来なさい」

「はーい」

「うん、分かった」

食卓を三人で囲むいつもの風景。でも秋穂はあたしに対しては無視を決め込んでいるため、必然的にお母さんと秋穂、お母さんとあたしという会話の三角キャッチボールができていた。

「そういえば今日学校から電話が来たのだけれど、秋穂、あなた水泳の時間に倒れたの?大丈夫?」

「そ、それはあたしが…!」

「ちょっとあたしがドジって溺れかけただけ。ペースメーカーの方は問題ないはずだよ」

あたしの言葉を遮り、妹は答える。お母さんもいつもとは違う二人の様子を感じとったようで怪訝な顔をする。

「それならいいのだけれど、一応もしもがあるかもだから、明日は学校休んで病院ね」

「うん。分かった。……ご馳走さま、それじゃおやすみなさい」

そう言ってささっと食器を流しに持っていくとそのままあたしたちの部屋に戻っていった。そんな彼女の姿を見ながらお母さんは不思議そうに聞いてくる。

「どうしたの美智佳?秋穂となにかあったの?二人とも様子がおかしかったけど」

「う、うん。まあ色々。でも大丈夫だよ、たぶん。」

「そ…。まあ深くは聞かないわ」


 夕食を食べ終えて部屋に戻ると、既に電気は消されていた。やるべき宿題もなかったあたしはそのまま自分のベッドに登った。妹は壁の方を向いていたので、寝ているのか起きているのか、今どんな顔をしているのかは分からなかった。

 薄暗闇に目が慣れてきた頃に下で寝ている妹におやすみと言ってみた。勿論返事など期待してはいなかったが、やはり下からは何の返事もなかった。




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