暗い夜を二人で
「お姉ちゃん大丈夫だった?」
「まだちょっとひりひりするけど全然大丈夫だよ!」
あたしと秋穂は部活帰りの道を二人並んで歩いていた。練習中ボールにぶつかって派手に倒れた私は一応様子見ということで、その後練習に参加せずただ眺めていた。練習に参加できなくても特に悔しいという思いは無かったが、いつもと違って外から見る練習は少し面白かった。練習後には、私はもうピンピンに元気だったので一年生に交じっていつも通り後片付けを手伝った。後片付けは一年生の仕事であるが、二年生になってからもあたしは後片付けに参加していた。別にいい先輩だと思われたいとか思っているわけではない。練習日誌をつけたり、備品チェックをしているためいつも帰りが最後になる秋穂をただ待っているのが落ち着かないからだ。
「美智佳先輩、いつも片付け手伝ってくれてありがとうございます!」
「どいたしましてー」
後片付けが終わって閉められた体育館の入り口であたしは何人かの後輩部員と一緒に談笑していた。
「今日のは大丈夫でしたか?私とっても心配で…」
「ああ大丈夫大丈夫。心配かけてごめんね」
関わる機会が他の上級生より多いためか、後輩にはあたしのことを慕ってくれている子も多い。でもあたしはそんな慕われるようないい先輩ではないのだ。
「先輩よろしければその、一緒に帰りませんか?」
後輩の一人、綾辻志保ちゃんがキラキラと潤んだ目であたしを見上げている。この子も四月に入ってきてうちの学校の練習の仕方を教えていたら懐いてくれた子だ。そんな志保ちゃんにあたしは申し訳なく手を振った
「ごめんね志保ちゃん。あたしアキちゃん待ってるから、もう少し時間かかりそうなんだ。これ以上暗くなると危ないし先に帰りな?」
「そうですか…」
「ほら志保ちゃん。また明日!」
「…はい!先輩さようなら!」
しゅんとした顔が一瞬で笑顔に変わった。他人に憧れると女の子はきれいになるっていうけど本当だ。こっちを振り返り振り返り、手を振りながら笑顔で帰っていく一つ年下の少女はとても可愛らしいと思った。
でも、そんな彼女たちを鬱陶しいと思っている自分もいた。目障りだ。あたしの目をアキちゃんから逸らそうとするな。…あたし自身のそんな暗い感情に自分で怖くなる時もある。この気持ちはきっと打ち明けてはいけないもので、
「あ、お姉ちゃん。待っててくれたの?」
黒い霧の中にあるあたしの心に一条の光が差した、そんな気がした。荷物をまとめて秋穂がやって来たのだ。
「もちろん。一人にして帰るわけないでしょ」
「そっか、…ありがとね」
「それじゃ、帰ろ帰ろっ」
妹の荷物をいつものように自然に受け取ると、私たちは二人きりですっかり暗くなった駅までの道を歩く。下校時間はとっくに過ぎていて、見回しても生徒は一人もいない。心細くもあるが隣に双子の妹がいるというだけで満たされる気持ちもある。
「お姉ちゃん右のほっぺ、大丈夫だった?すごい音だったけど」
「うん、少しヒリヒリするだけで、もう全然平気だよ!」
「よかったぁ、私すっごいビックリしたんだから。なんでぶつかっちゃったの?お姉ちゃんらしくない」
「え、えへへー」
まさか妹が男に囲まれているのが許せなくて練習そっちのけだったから、だなんて言えない私は笑ってごまかした。
「練習中は余計なこと考えてたら駄目だよ?大事な時期なんだから」
しっかりバレていた。さすがは双子と言うか、あたしは口をへの字にしてごめんなさい、気をつけますと謝る。なんだか謝ってばかりの日だと思う。
「あ、流れ星!」
前ばかり見ていた私は秋穂の声に顔を上げた。気が付けば夜空に輝く無数の星。織姫と彦星を分かつ天の川も夜の空を切り裂いていた。
「嘘っ、どこどこ?」
「…もう消えちゃったよ」
「うっわー、残念。アキちゃんがもっと可愛くなりますようにってお願いしたかったのにー」
「ふふ、何それ」
あたしのバカみたいなお願いに、苦笑した妹。あたしはのんびりと隣を歩く秋穂に聞いてみた。
「ねえねえ、アキちゃんはどんなお願いしたのさ」
「え、内緒だよー。誰かに教えたら叶わなくなるって言うでしょ」
「げ、そうなの?じゃあアキちゃんは…。まあでも、もう十分可愛いからいいやー」
二人でそのまま他愛のない話をしながら駅へと向かう。やはり他のクラスで交友関係や時間割も違うため、毎日話していてもなかなか楽しい話題だ。話しているうちに駅に着いた。妹に荷物を返して改札を入ると丁度あたしたちを待ち構えていたかのように電車がホームに滑り込んできた。
「あ、丁度来たみたい。アキちゃん、ちょっと急ご!」
「うん」
あたしは妹の負担にならないように気持ち早歩きをしながら、二人でホームへの階段を下って入ってきた電車に乗り込んだ。
「アキちゃん、あそこ空いてる」
「そだね。座っちゃおっか」
あたしは秋穂を優先席の車両連結部側へと座らせるとその隣に腰を下ろした。妹を優先席に座らせるのはなんとなく戸惑われたが、他の席で端が空いている場所が無かったので致し方ないと自分を納得させる。
『この電車は〇〇行き、各駅停車です』
電車が走り出してしばらくして、よく通る女性の声が電車の行き先をアナウンスした。あたしたちの家は4駅先、学校の最寄りの駅からは20分程度かかる。真っ暗な車窓を眺めて、映る自分の顔とにらめっこするのも退屈なので、あたしは鞄から本を取り出して読書を始めた。横を流し見れば秋穂も持ってきた本を読んでいた。その本は彼女の小さな手には大きすぎるような気がして、支えてやりたくなる。
「アキちゃんアキちゃん、何の本を読んでるの?」
何となく気になって、私は聞きながら表紙を見ようと上体を前に折った。
「『ありふれた風景画』…?何それ、どんな本なの?」
「少し切ない、恋愛小説だよ」
「ああ、アキちゃんは好きだよね、そういうの」
「もう、そう興味を無くすことないでしょ。今の私にすごく響く本なんだから」
「えっ!?アキちゃん好きな人いるの?」
あたしは純粋に驚いて声を上げた。恋に憧れていても、今まで妹と恋愛が結びつくことは無かったからだ。チクッとした痛みが私の中に小さく響いた気がした。
「そ、そういうわけじゃないんだけどさ。それよりお姉ちゃんは何読んでるの」
すごく何かを伝えたいようなそうでないような、不思議な顔を一瞬見せながら、話題を変えるように妹はあたしに尋ねた。
「ん、『エラリー・クイーン』」
「国名シリーズ?」
「そそ、制覇しようと思い立ってね」
「お姉ちゃんは本当に推理小説が好きだよね」
「だって理路整然としていて気持ちいいし、シリーズもの多いから一つ読むと制覇したくなるのよ」
楽しそうに愛読書を語る私が面白かったのか、秋穂は口を押えて面白そうに笑う。
「ど、どしたのアキちゃん」
「ふふ、いや、お姉ちゃんは変わんないなって思って」
なんのこっちゃと思いながらも、妹の笑ってる顔につられ、楽しくなった私もあははと笑った。
「それでね、主人公の探偵は終盤に犯人を追い詰めるまで何度も何度も偽の情報に踊らされて間違え続けるんだよ」
「ふんふん、なんだかお姉ちゃんみたいだね」
「何が!?」
『次は~』
話をしていると女性のアナウンスの声が私たちの降りるべき駅の名前を告げる。二人で話していると20分なんてあっという間だ。駅を出てあたしたちの家へと向かう。既に8時を過ぎ、住宅街であるこの街はどこもかしこも暖かい明かりが灯っている。そのためか学校の道ほどはっきりと星は見えない。ここは明るすぎるのだ。家までは歩いて10分程度、駅前の通りの三本目の角を曲がればもう家が見える。
「ただいま!」
二人で声を揃えて帰宅を知らせればリビングの方からお母さんの「おかえりー」と間延びした声が聞こえる。お父さんは出張で来月まで日本を出ている。あたし、秋穂、お母さんの三人は欠席一人の食卓で今日あったことを話しながら夕食を食べる。質素だが明るいこの食卓があたしは大好きだ。
「それでお姉ちゃん居眠りしててね、先生に頭をスパーンと…だったよね?」
大好きだ…
「もう美智佳ったらまた居眠りしてたの?あなたたち来年から受験生なんだから、秋穂はいいとして美智佳はもっとしっかりしないと」
「うぅ、申し訳ございません。」
「でもお姉ちゃん定期テストでは数学はいつも満点だし、すごいんだよ」
「アキちゃん…」
「数学だけ、でしょ。もうそうやっていつも秋穂が褒めるちぎるから…」
「そうだお姉ちゃん、あとで数学の宿題教えて?」
「うん?いいよー。その代わり英語の教科書の問題写させてー?」
「いい「みーちーかー?」
「分からないとこだけ教えて下さい、お願いします」
「あ、あはは…」
「で、この最後の問題は前二つの解とこの公式を使えば…」
「わ!できたー!ありがとお姉ちゃん」
「ふふん。あたしに任せなさーい」
あたしたち姉妹の部屋は少し大きく、入って手前に私の机、向こう側に秋穂の机が並んでいる。そんな二人部屋でお風呂から上がったあたしたちは宿題に取り組んでいた。幸い英語の宿題は構文を覚えればそれに当てはめるだけの単純作業だったので大きな苦労は無かった。妹の方もある程度教えた後は自分でサクサクと進めている。あたしが一点突破型ならば秋穂は全教科平均で90点台を取るような秀才型なのだ。だから数学は苦手と入っているが覚えが速い。教えることもなくなったあたしは教科書を片付けるとパソコンへと向かう。勿論数学の時間に出された反省文を書くためだ。
「えーと、『本日は伊藤先生の数学の授業中に居眠りをしてしまい、』…『誠に申し訳ございませんでした』。うーん、『受験が控える二年生のこの大事な時期に』…ううう『他の生徒の貴重な時間を私への説教にさせてしまったこと』…ああ、もうムリ!コピペする!」
「お、お姉ちゃん」
「天声人語から古いの引っ張ってくればいいかな」
「だ、駄目だよ」
「大丈夫大丈夫、ちょっと書き直して超感動する文章作ってやるんだから…ええと、よし」
「もうお姉ちゃんたら…」
それからしばらくあたしたちは無言でそれぞれの作業に没頭していた。それからどれくらいたっただろう。
「ねえお姉ちゃん…」
妹がこちらを見ずに話しかけてきた。私は作業の手を止めて彼女の方を向く。
「ん?」
「あのね、今日私告白されたの。杉本君に」
「え?」
突然の言葉に目を丸くする。杉本というのは男子バスケ部部長の例の爽やか君だ。あいつ一緒にいると思ったらそんなことしてたのか。いやそんなことよりも…
「好きだから付き合ってくださいって」
「で、アキちゃん付き合うの?」
付き合うという言葉を発する時、少し声が震えた。
「ううん。今すぐには返事しなくていいから、待ってるって言われて。私誰かと付き合ったことなんて無いしどうしたらいいのかなぁ」
秋穂はそう言ってようやくこちらを見た。困ったように笑っていた。庇護欲を掻き立てられる美少女にはこういう顔もとても魅力的だ。あたしは…、ふっと息を吐いてから精一杯明るい声で聞いてみた。
「私ならそうだなぁ…、アキちゃんは杉本のこと好き?」
「うーん、分かんない。嫌いではないんだけど」
「悩んでるなら付き合う前にどこか遊びに行ったりするのもいいんじゃないの?」
あたしはアキちゃんのお姉さんだ。彼女が一番嬉しくて、楽しくて、幸せになることがあたしの幸せ。だから、
「それにしてもアキちゃんが付き合っちゃうのかー」
「ま、まだ私付き合うって決めたわけじゃ…」
「あたしはどっちにしてもアキちゃんを応援してるからね!」
「うん…。あ、じゃあ先に宿題終わったから、おやすみなさい。部屋の電気お願いね」
そう言って妹は二段ベッドの下の段に入る。そしてすぐに等間隔の落ち着いた寝息が聞こえてきた。そのうち私もようやく納得できる文章ができたのでパソコンをシャットダウンしてベッドの階段を上る。目覚まし時計をセットした後部屋の電気を常夜灯にする。真っ暗な天井を眺めているうちに、
私の目からは涙がこぼれてきた。
「ウソ、やだなんで」
止めようと何度も目をこするが止まらない。口から出た小声には嗚咽が混じっていた。
「あんなに、あんなに、アキちゃんが赤くなっていて…」
ああ、こんなに妹が誰かのものになるのが嫌なのかと自分で驚いた。でもその気持ちを乳房を強く押さえて無理やり塞き止める。いいお姉さんになるって決めたんだ。私の全てをアキちゃんのために、そのためにはあたし自身の想いなんて握りつぶせ。表には出さず、悟られず、ただの妹バカでいるんだ。
そのうち涙も枯れてきた。少しうるさくしたかもしれないけれど、相変わらず下のベッドからは最愛の妹のゆっくりと呼吸音が聞こえている。誰に言うでもなく小さく「おやすみ」とつぶやいて、あたしは目を瞑る。眠りに落ちる前にあたしの脆い仮面の上に最後の涙一滴が流れたのを感じた。