とある集落の話2(sideシビィ)
アベルが村を出た翌日、シビィはジゼルに付き添いを頼まれ、森へと足を踏み入れた。
「ね、ねぇジゼルちゃん。やっぱりこんな森の奥まで来ちゃったら、まずいって。一旦帰って、他の人にも相談した方が……」
「でも、でも、絶対に帰ってくるはずだったんです! あのとき私が、感情のままにあんなことをしてしまったから……何か、何か事故が起こったら、取り返しのつかないことになるってわかってたのに! 兄様の身になにかあれば、いったいどうしたら……!」
ジゼルは顔を青くし、狼狽えていた。
ジゼルの父によれば、彼女は朝からずっとこんな調子だったという。
シビィが聞いたところによれば、ジゼルは兄の家出を前もって予期しており、それを阻止するために彼が乗り物として選ぶであろうオーテムトロッコに細工を仕掛けておいたらしい。
移動手段が大破した兄が諦めて帰ってくるという算段だったそうではあるが、その兄が一日経っても帰って来ない。
ジゼルは何か不測の事態が起きたのだと、そう考えているようだった。
シビィからしてみれば、アベルが帰って来れなくなるような事態など、ちょっと想像がつかなかった。
盗賊団に絡まれても簡単に返り討ちにできそうだ。
この辺りの森最強の魔物であるグレーターベアが万が一群れを組んだとして、アベルに何かができるとは思えない。
なんなら天変地異が起こって世界が沈んでもあの人だけはピンピンしているという確信があった。
「別にアベルさんは殺しても死なないよ。いったい、ジゼルちゃんは何を心配しているんだ?」
「私が仕掛けを間違っていて、予定よりも遠くでオーテムトロッコが止まってしまったら、兄様は帰って来れなくなってしまいます! 私が半端な知識で手出ししたから……」
「……まぁ、それはあり得るかもしれないけど」
確かに、アベルは致命的に体力がなかった。
それはシビィも理解しているところだった。
アベルに不測の事態が起こったとすれば、そこの可能性が高い。
シビィとジゼルは二人して森を歩き続けた。
「……どうして、アベルさんは集落を出たんだろ」
会話が途切れた頃、シビィはつい、そう呟いた。
すぐに失言だったと気付き、シビィは手で口を塞いだ。
よりによってジゼルの横で、そんなことを言うべきではなかっただろう。
傷口を抉るようなものだ。
タイミングから見て、アベルが集落を出たことに、ジゼルとの婚姻が関係していることは明らかだ。
それにシビィは昔、アベルから妹と結婚する気がないことをはっきりと聞かされていた。
それなのに式だのなんだのと話が出てきて『言ってたことと違うじゃないですかぁアベルさぁん』とガリアに泣きついて不貞腐れていたところに、このアベルの失踪である。
なんとなく間が空いたので深い考えなしに疑問を口にして見たが、『あの人やりやがった』というのが本音だった。
「……兄様は、繊細な人ですから。結婚後の生活の変化や家庭を持つ責任への不安を感じて、憂鬱になったのかもしれません」
俗にマリッジブルーといわれる現象である。
本人同士望んだ結婚であったにも関わらず、式の目前になると急に逃げ出したくなる衝動に駆られるというケースは多い。
ジゼルは言ってから「そうです、そうに違いありません。そうでなければ、説明がつきません」とブツブツと小声で繰り返し漏らしていた。
シビィはなんとなく『自分に言い聞かせてるみたいだな』と思ったが、それを口にするほど野暮ではなかった。
「確かにアベルさん、メンタルと身体が弱いからね」
口にしてみると、本当にダメ人間にしか思えない。
精神と肉体を引いてしまえば、人間には何も残らないのだ。
あの人、魔術の才がなかったらいったいどうなっていたのだろうかと、シビィはふと考える。
ある程度歩いたところで、ジゼルは地図を取り出す。
地図の端には、微かに爪の痕が残っている。
ジゼルの見立てでは、兄の爪痕に間違いないとのことだった。
シビィは爪痕に違いも何もあるものかと思っていたが、きっとジゼルからしてみればあるのだろう。
恐らくアベルは手で押さえながら書物のページを開いて描き写し、そのときに爪を立てたのだろう、とのことだった。
「兄様は右左で迷ったとき、左を選ぶはずです。こっちに行きましょう。しかし、保証が欲しいですね。どこかに、踏まれて間もない植物や車輪跡が見つかればいいのですが」
そう言いながらジゼルは地に屈み、何か目印がないか探し始める。
すでに服は土に汚れ、枝や草で身体にひっかき傷を作っていた。
兄のことになると本当に節操がない。
最初はアベルのことを心配しつつも『これデートなんじゃなかろうか』と浮かれていたシビィではあったが、そんな幻想は早々に打ち砕かれた。
「あれ……」
シビィは少し離れたところに、草が一部分焼けているのを見つけた。
「ジゼルちゃん、こっちに……」
ひょっとしたらアベルが焚火でもしたのかもしれない。
シビィはそう思い、寄ってみることにした。
草が焼けているところに近づく途中、草むらでシビィは何か、硬いものを踏みつけた。
拾い上げてみると、炭のような残骸だった。
焚火跡から連想するに、これを焼いて草むらに隠していたように思えた。
残骸は、よくよく見ればオーテムのようだった。
黒炭を払う。これは、腕の先端部分の欠片だろうか。わずかに塗料のようなものが付着していた。
アベルが彫ったものにしては、少し拙いように思える。
『兄様が持ち出したものを調べてみましたが、幼い頃に私が彫ったオーテムがなくなっていたのです! きっと私の形見として持っていかれたのに間違いありません! 兄様は、決して私のことが嫌いになったのではないはずです!』
ふと、集落を出る前に言っていたジゼルの言葉を思い出した。
なんとなく、シビィは嫌な予感がした。
これをジゼルに見つけられるわけにはいかない。そう察した。
「どうしましたか、シビィさん……あれ、向こうにオーテムトロッコが! 確かに、兄様はここで止まったんです! ひょっとしたら近くにいるかもしれません!」
「え? あ、ああ、うん」
ジゼルの目線の先を見ると、確かにオーテムトロッコがあった。
焚火跡なんかよりもよっぽど参考になる。
助かった。シビィは小さく溜め息を吐いた。
「シビィさん、そちらには何が?」
「ふぇっ?」
不意を突かれ、つい間抜けな声が出る。
シビィは咄嗟に手を広げ、道を隠した。
「気のせいです。何もありませんでした」
十秒ほど、沈黙が続く。
ジゼルが右から覗き込もうとすると、シビィは上体を右に逸らす。
左から覗き込もうとすると、シビィは上体を左に逸らす。
ジゼルはシビィの奇行に首を傾げるが、すぐにオーテムトロッコへと駆け寄って行った。
嘘が通ったとは思えないが、それよりもオーテムトロッコを調べることを優先したかったのだろう。
シビィは額の汗を拭う。
とりあえず、危機は逃れた。
だが、これを見つかるわけにはいかない。
シビィは、オーテムの残骸の大きなパーツを掻き集め、懐に仕舞う。
それからそうっと慎重にジゼルの後を追った。




