久々のファージ領①
俺は息子のメディオを膝に乗せ、本を読んでやっていた。
「いいか、メディオ、魔術の細かい調整を行う際、最終的には精霊よりも小さなスケールで考えなくてはならない。それが精霊体の最小単位、精霊体子だ。多くの魔術師は精霊体子を理解できず、定型化された魔法陣を配置することでしか魔術を扱えない。だが、お前は必ず習得するんだぞ。いいか、精霊体子、こいつは通常の手段では、決して人間が知覚することはできはしない。ただ、存在するということは様々な理論が裏付けている。過去の魔術師達は、こいつの影響による魔法現象の変化が理解できず、総当たりで魔法陣を開発してきた。魔法陣が神の言語だとか、意志だとか神聖視されてきたのは、主にそれが原因なんだ」
「あー」
メディオが声を上げる。
俺はそっとメディオの青髪を撫で、次のページを捲った。
「ジレメイムの提唱した、人間の知覚次元で精霊体子の世界を見るためのジレメイム式世界十一次元変換式が最も世界の真理に近いとされているが、もっともシンプルに、精霊体子の世界を記述した理論は、ヨハナン神官の万物点理論だ。これは厳密には間違っているんだが、疑似的に簡易の理解を得ることができる。要するに、こう見做せば都合がいい、というものを突き詰めた理論なわけだ。見えないものは見えないと割り切り、大まかに、かつ真理を突き、ときに敢えて惚けて作り上げられたものだ。小さな世界で見れば誤りだが、魔法現象の引き起こす巨視的世界への影響をほぼ正確に表すことができる。しかし、こと時間と空間、重力を司る魔術式において、この差は明確な矛盾として出てくるわけだ。要するに、無限大や虚数が頻繁に出てきてぐちゃぐちゃになってしまうんだ。この三つがマハルボ教で神にのみ許された禁忌とされているのは、ヨハナン神官の理論に基づいて探求した結果、このズレのために致命的な矛盾が生じ、魔術で人間が再現してはいけない現象だと考えたんじゃないかと俺は思っている。マハルボ教でこの考え方が広まったのと、ヨハナン神官の理論があの国に渡った時期が一致するのも根拠の一つだな。もっとも、提唱者ヨハナン神官はこの誤りを知っていたんだ。ヨハナン神官の万物点理論は、部下に魔術を教示する際に、わかりやすい法則としてこれを用いたのだとされている。事実、ヨハナン神官はこの理論の欠点を埋める、局所場の理論に代わる、非存在七次元S字型精霊体子という理論を編み出していた。これは小さな世界と巨視的世界の齟齬を埋めるために持ち出された、架空の精霊体子のことだ。だからなんだろう、厳密には変換式と呼んだ方が適している。この精霊体子は、恐ろしく都合のいい性質を持つとして……」
「アベル、やめてあげてくださいっ!」
「うぉっと!」
メアの声に驚き、俺は肩を震わせた。
「ち、違う、メア、俺はメディオに絵本を読んであげたかっただけだ!」
「たまに図解が載っているだけの魔術書は絵本とは言いませんっ!」
メアは俺からメディオを取り上げ、抱っこした。
「大丈夫ですよメディオ、あんなの読んでると、アベルになりますからね~」
「……なぁ、メア、最近俺に冷たくないか?」
俺が言うと、メアがぷくっと頬を膨らませる。
「アベル、言っても聞かないんですもん。メア、ちょっとは厳しく言わないと駄目だと学びました」
「うぐっ……」
「メディオもアルマも、また一歳にもなってないんです。物心つく前に、頭の中を魔術で埋めないで上げてください」
メアの意思は強固だ、仕方ない、諦めるとしよう。
両親からも散々止めろと言われていたところだったのだ。
このままでは子供から引き離されかねない。
「あ~!」
メディオが俺へと、いや、本へと手を伸ばしていた。
「メッ、メア、メディオが学びたがっている!」
「偶然ですっ!」
メアからばっさりとそう返された。
うぐぐ……。
「アベル様、アベル様ァ!」
外から奇声が聞こえてきた。
おや、この声はペンラートか。
「入ってくれ、ペン爺」
がらっと扉が開く。
「この愚拙、畏れながら申し上げたいことがございますっ……アベル様、何故アルタ女史に、かような仕打ちをなさったのですか!」
「かような仕打ち……?」
はて、心当たりがない。
最近アルタミアと特に話をしたこともなかったのだが……。
「惚けないでくだされアベル様! 何故、アルタ女史からの魔導携帯電話の連絡を、遮断するようにしたのでございますかっ!」
……そういえばそうだった。
メアの出産から毎日、日に五十回ほど魔導携帯電話が掛かって来るので、先週機能を弄ってアルタミアからの連絡を表示しないようにしたのだ。
「正確には着信拒否だな。いや、嫌がらせのように来てたからさ……」
ファージ領は大変なようだし、そろそろ向かってやるか。
……いや、だが、もう少しメディオとアルマと戯れてからでも文句は言われまい。
「……アベル様、今のアルタ女史、かなりコレを持っておりますぞ。魔導携帯電話の件で、複数の都市の領主、大商人と契約を交わしていらっしゃいますので」
ペンラートが口の前に手を添えて声を潜め、もう片方の手で親指と人差し指で円を作る。
「なっ、なに! あいつ、俺に黙ってそんなことを!」
「完全に拒否されておりましたので。それに、アベル様はここ半年、お子様のことで手一杯で、その手の権利の扱いをラルク男爵に丸投げされておりました」
「そうだったか……」
「今のアルタ女史は、出資金だけでディンラート王国有数の資産家になっているほどでございます。アルタ女史も、アベル様に相応の対価を払う準備はできていると仰られております。本人が直々にファージ領に来るならば、という条件付きでございますが」
おのれアルタミア、意地でも俺を呼びつけるつもりか。
……こちらが落ち着けば向かうとは伝えていたし、そろそろ一度ファージ領に向かうか。
ただ、そう気軽に迎える距離ではないのが難点だ。
しばらくメアやメディオ、アルマを置き去りにすることになる。
楽な移動手段があればいいが、木偶竜ケツァルコアトルは飛ばすなと、散々ペテロから警告を受けている。
個人が飛行できる乗り物を有しているというのは、大っぴらになるとかなり危険なことのようだ。
怖がる国民が増えるだろうし、他国も刺激することになる、とのことだ。
内々でやる分には目を瞑るから、頼むから影響力の強すぎる余計なものを外に持ち出すなと、ペテロからはそう言われている。
俺は全面的にペテロに従う姿勢を見せながら、心中で『馬鹿め、魔導携帯電話が外に出た時点でもう世界の変化は止められないぞ』と嘲笑っていたが、ともかくそのせいで馬車でファージ領に向かうしかないのだ。
「どうなさいますか、アベル様?」
「……アルタミア、今掃いて捨てるほど金持ってるんだよな?」
「はい、その通りで」
……塔に封印されていることになっている橙の魔女様が、なに目立つことやってんだか、と改めて思ってしまった。
「わかった、メアに相談はするが、多分近い内に向かう。その前に、色々と準備もしないとな。ペン爺、ついてきてくれるか!」
「勿論でございますアベル様! この愚拙、光栄の至りにございます!」
ペンラートは深々と頭を下げてから、ちらりと俺を見上げた。
「……アベル様、ひとまずアルタ女史の着信拒否を解除しては?」
「それは鬱陶しいから駄目だ。ペン爺、アルタミ……アルタさんからの言伝は、短く纏めて伝えてくれ」
「仕方ありませんな、ではそのように」
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こちらも是非ご一読ください!(https://ncode.syosetu.com/n9940gd)(2020/4/18)




