九十二話 赤き夢⑩
……魔術は封じられ、木偶竜ケツァルコアトルはついに海上へ落とされた。
『こうなってしまえば……魔術師とて、ただのニンゲンだ。どうだ? 今の気持ちは? アベル・ベレークよ。今までその魔術で好き勝手にやってきた身として、堪えるものがあるだろう?』
海上に浮かぶ木偶竜ケツァルコアトルを、シルフェイムが見下して笑う。
「ア、アベル……」
背後からメアが声を掛けて来る。
振り返ると、木偶竜ケツァルコアトルの隅っこでオルヴィガが泡を吹いて失神しているのが見えた。
……メンタルが弱い……いや、こと今の状況に置いては仕方のないことか。
『赤き夢』の影響でさっきから空間が揺らぎっぱなしだ。
これだけで気が触れる人がいてもおかしくはない。
「あ、あの精霊が狙っているのって、メアなんですよね? 今からメアが行けば、アベルだけでももしかしたら見逃してくれたり……」
「……は、しないだろうな。ちょっとアイツを怒らせ過ぎたみたいだ」
今からでもシルフェイムは、メアとメビウスの霊魂を回収しようとするだろう。
シルフェイムは積極的に『赤き夢』を使うつもりはないのだ。
『赤き夢』は世界の消滅と隣り合わせの禁術であり、奴にとっても最後の手段だ。
シルフェイム自身がそういっている。
『赤き夢』に頼らずクゥドルの魔力を削ることのできる見込みのあるメビウスは、シルフェイムにとっても重要な駒のはずだ。
しかし、残念なことに、そのためにシルフェイムが俺と交渉する必要はない。
既に決着はついたのだから。
そもそもシルフェイムからしてみれば、メビウス回収よりも俺が生存することの方が大きくマイナスだろう。
「それに、俺はメアをあいつに売る様な真似はしない」
俺はメアを抱き寄せた。
「きゃっ! アベル……?」
「悪い、メア。ちょっとだけ置いていく。すぐに迎えに戻ってくる」
「そ、それって、どういう……」
頭上からシルフェイムがゆっくり向かって来る。
既に俺に対抗策がないと、そう思い込んでいるのだろう。
俺が逆の立場でもそう思うだろう。
俺はもう魔力がほとんど尽きている上に、そもそも魔術師としての力を奪われてしまった。
頼りの木偶竜ケツァルコアトルもリーヴァイの槍ももう使えない。
対するシルフェイムは、魔力も精霊体もほとんど減ってなどいないはずだ。
リーヴァイの槍を何度かぶつけることに成功しているが、あれで削れたのは全魔力の百分の一がいいところだろう。
おまけに『赤き夢』による現実改変能力を止められる術もない。
しかし、そのためだろう。
今のシルフェイムには明確な油断があった。
『この私に、これだけ楯突いてくれたのだ。アベル・ベレークよ……貴様にはこの世界が終わるまで続く、永劫の苦しみと後悔を与えてやる』
ゆっくりとシルフェイムが降りて来る。
俺はメアの身体に回していた腕を解いて、空を覆うシルフェイムを睨んだ。
俺は身体中に魔力を巡らせ……床を勢いよく蹴った。
俺の身体は一直線に空を飛んでいき、シルフェイムの胸元の『赤き夢』へと飛び込んだ。
『なに……? 貴様は、魔力による身体能力の強化は使えなかったはず……』
「使えないんじゃない、使わなかっただけだ! 一度マーレン族の集落で使ったことはあるし、これまでに改善と研究も興味本位で行ったことはある!」
マーレン族の集落で用いられている『木偶棒』は、オーテムを介して精霊の力を借りて身体能力を強化するものだった。
あれは精霊が沈黙していて使えないが、精霊に頼らずに自前で済ませればいいだけだ。
ダーラスの『剛魔』に近い武術になるだろう。
「さすがに筋肉痛よりはお前が怖いからな!」
俺は足で『赤き夢』の額を蹴り飛ばした。
『うぐぉっ!?』
シルフェイムの巨体が大きく仰け反った。
俺は続けて両腕を前に出し、『赤き夢』を殴打する。
殴ってからワンテンポ置いて、世界の色が激しく変化していく。
『赤き夢』の瞳がまた開いた。
九割開眼といったところか。
シルフェイムの姿が消え、俺の背後に現れた。
大きく腕を掲げている。
『そんな悪足掻きが本気で通用すると思っているのか!』
俺はシルフェイムの振り下ろした腕を蹴り飛ばして、海へと落下した。
かなり深いところまで落ちたが、少し腕で水を掻けば簡単に海面へと浮上することができた。
これだけ強化したら……反動が返ってくる頃が心配だな。
そのときが来てくれればいいんだが。
『死に損ないが!』
シルフェイムが腕を掲げる。
空が光った。
俺は海面を蹴って、大きく前へと跳んだ。
背後で海に雷が落ち、海面に大穴が開くのが見えた。
俺はそのまま海面を蹴って走り、シルフェイムから逃げ出した。
「どうしたっ! 生かしたまま俺を捕まえて、永遠に苦しめるんじゃなかったのか! そんなものがぶち当たったら、ただの人間の俺は死んでしまうぞ!」
俺は声を張り上げて叫び、精一杯にシルフェイムを挑発する。
『それで精霊が沈黙している範囲から逃れるつもりか? 無駄なことだ!』
確かに、それは無駄なことだろう。
仮に俺がその範囲から脱せても、この状況で使って今更有効な魔術など存在しない。
それに、シルフェイムが魔術を再発動すれば終わりなのだ。
空が三度光った。
俺は海面を足で蹴って弾き、雷を尽く回避していく。
『どう足掻こうとも、貴様に勝ち目などない! ここまで来て、なぜそれがわからない! 貴様と私の間には、無限に近い格の差があるというのに!』
シルフェイムの叫ぶ思念波が響いて来る。
「強いて言えば……その格下相手に、お前がここまで持ち込まれてるからだよ!」
俺はそう返しながらも、ひたすらに海面を蹴って前へ前へと跳び続けた。




