三十五話 ジゼル襲撃⑥
「ですから、アベルは自分の意思で集落を出て、自分の意思でメアと一緒にいてくれるって言ったんです! 気づいてない振りして誤魔化して、外堀から埋める様な卑怯な物言いばかりしないでください!」
「…………」
メアの言葉にジゼルは沈黙を保つ。
そのまましばらく、メアとジゼルの睨み合いが続いた。
恐らくものの数十秒にも満たない時間だったはずだが、居づらさからか俺には長い時間に感じた。
「……これ以上、私の兄様を誑かさないでください」
ジゼルが小声で呟き、頭を押さえる。
そのとき、ジゼルの手に抱えている魔導書にまた光が灯った。
ジゼルは魔導書の側面を再びそっと撫でる。
「……大丈夫ですよ、シムさん。わかっています。あなたの未練も、絶対に私が晴らしますから」
……ジゼルの様子が妙なのは怒っているからかと思ったが、やはりそう考えても違和感がある。
あの魔導書の悪魔がジゼルに肩入れしている理由も謎だ。
まさか、あの魔導書の悪魔がジゼルを焚きつけていたのか?
だとしたら、あれがある限り真っ当に話もできそうにない。
悪魔の狙いも不穏だ。
……まさか、俺の行先を読んで追いかけてきたことといい、元々狙いはジゼルではなく俺なのか?
い、いや、あの悪魔がジゼルの横にずっとついていたのなら、俺の動向を追えたはずがないのだが……何にせよ、俺が最初に想定していたよりも危険な奴なのかもしれない。
「……ジゼル、話を切って悪いが、その魔導書を渡してくれ。そいつが何をどう言っていたのかは知らないが、それはあまりいい奴じゃあない。悪魔なんて、ただの腐った妄執の塊みたいな奴らなんだ。それは危険過ぎる。……シビィにも、しっかり教えたはずだったんだけどな」
「っ! シ、シムさんは、悪魔なんかではありません! シムさんは、大昔のマーレン族の女の人で……!」
「いいか? 精霊の寄せ集めである悪魔に、一人の生前の人格が宿ることはないんだ。悪魔は怪談話の亡霊や、魔術師の作ったアンデッドとは異なる。そういう目的で造られた人造精霊ならまだしも……自然発生した悪魔には、そもそも生前の人格なんて定義は当てはまらない」
「そんなことありません! シムさんは、旅の間、ずっと私を支えてくれていたのです! だからわかります!」
ジゼルが魔導書を庇う様に抱く。
「……あり得ないんだ。そもそも精霊っていうのは人間や動物の魂の断片に限らず道具や土地に込められた思念が魔力を得て具現化したものであり、悪魔はそういったものがごちゃ混ぜになって力を付けた集合体だ。自我や欲があるのは珍しくない。ただ、生前の記憶や人格なんて言い出したのなら、そいつはただの大法螺吹きだ。一人の個人の思念なんて、全体の1%にも満たないんだからな」
「…………」
「とにかく、そいつを渡してくれ。それからゆっくり話をしよう」
「……わかりました。そうやって誤魔化して、私からシムさんを奪って追跡手段を断ってから、また逃げるおつもりなのですね。婚姻の儀の間際に、集落から逃げ出したときのように!」
「い、いや、そいつは本当にダメなんだ!」
ジゼルの手元の魔導書が浮かび上がり、ひとりでにページがぱらぱらと捲れる。
「……シムさん?」
ジゼルが中の文面へと目を向ける。
どうやら中の文章が足されることで、ジゼルと対話を行っているらしい。
だが、そんな器用な真似ができる奴が、思念を送っての意思疎通さえできないはずがない。
悪魔によっては病的な拘りによって手段を縛っているものも少なくないが、こいつの場合は恐らくジゼルを騙すための演出だろう。
どの点を取っても胡散臭い。
ジゼルが目を細め、メアを睨む。
「……わかりました。そうですね、兄様に真っ当に話をしていただけるつもりがないのなら、私も手段を考えます。それに……煩い人もいますし、兄様にも静かに考えられる時間と場所が必要ですね」
ジゼルが手を前に向ける。
「যাও!」
ジゼルの足許のオーテムが地面を蹴り、メアへと真っ直ぐに向かう。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 俺が信じられないのか!」
「信じられるわけないじゃないですか! 黙って私から離れて行った兄様のことなんて! シムさんは、ずっと私の傍にいて、励ましてくれていました!」
ジゼルが顔を赤くして叫ぶ。
目には僅かながらに涙が滲んでいた。
「うぐっ……」
ド正論だった。
確かに俺がジゼルでもそうするだろう。
俺はこの場での説得を諦め、杖を構えた。
……こうなった以上、ジゼルを無力化し、その上で魔導書を取り上げるしかない。
アレを取り上げれば余計に拗れることは明らかだ。
この場での和解は不可能になるかもしれない。
しかし……あの悪魔は、放置しておいていい類のものではない。
「বহন」
ジゼルが詠唱する。
メアへと跳びかかってきたオーテムを中心に魔法陣が展開される。
ジゼルの姿が消え、オーテムを掴んだ姿勢でメアのすぐ目前へと転移した。
「あなたは、邪魔ですっ!」
ジゼルが足を振り上げ、靴先でメアを狙う。
間に護衛用オーテムが入らなければ、メアの胸部を蹴り抜いていただろう。
護衛用オーテムに弾かれたジゼルが、自身のオーテムを掴んだまま背後へと跳んだ。
「う、嘘だろ……?」
明らかに俺の知っているジゼルとは身体能力が桁外れだ。
今のは間違いなく、マーレン族流の身体強化術『木偶棒』だ。
「いつの間に、あんなものを……」
『木偶棒』はオーテムを介して、大地や木、大気中の精霊など自然の蓄えている魔力と自身の魔力を入れ替え、自然の保有していた魔力を用いて身体能力を強化する技術である。
だが、精密な魔力制御を要するため、マーレン族内にも扱える人間はほぼおらず、半ば伝説の武術扱いされていたものだ。
今となっては族長しか再現できる者がいない。
俺でさえ失敗して全身が引き裂かれるような苦痛を味わって三日ジゼルに介抱してもらうことになったくらいだ。