十八話 進撃のペンラート⑨(side:ペンラート)
ペンラート・ボンジュは、リーヴァラス国において、最も優れた賢者であった。
精霊を深く理解し、古代の魔術式の一端を操り、遠い時代に失われた魔術の再現まで可能とする。
魔術の熟知と魔力量ならば、リーヴァラス国の魔術師の中では頂点に立つ。
その功績を支えるのは、彼の圧倒的な知識欲であった。
ペンラートは宗教戦争の絶えないリーヴァラス国の中で育ちながらも、リーヴァイという自国の神の神格を認めてはいなかったし、精霊に対しても魔法現象を引き起こす法則としてのみ認識し、それ以上の意味を見出さない。
他国ならいざ知らず、リーヴァイという言葉の持つ意味の大きいリーヴァラス国においては、珍しい型の魔術師であった。
内乱が苛烈になっていくリーヴァラス国において、ペンラートだけは弟子を引き連れて研究施設に引きこもり、我関せずと研究を続けていた。
その行き過ぎた研究内容から悪魔と称されて別派閥の襲撃を受けたときも、自身の魔術と生み出した合成魔獣で、十倍にして返していた。
事実として、単にペンラートの仕返しで衰退に追い込まれた宗派も多い。
しかし優れた魔術師であるペンラートも、研究の中で行き詰まった。
魔法現象の解析の先には、その解析結果の解析が待っている。
理解が深まり視野が広がれば、未知の部分はむしろ、どんどんと増えていくばかりであった。
ペンラートが若くに求めた理想の魔術師像、対価次第で全てを叶える黄金の錬金術師は、知識の深みに嵌れば嵌るほど、膨大な魔術式の中に埋もれ、掻き消されていく。
やがてその内に、少年の頃に望んだ理想像は、決して自分の手に届くものでなかったと悟る。
例えハイエルフほど長く生きようとも届き得ない。
ペンラートが生涯を掛けて極めにかかれども、完全に構造の理解できた魔術式は、あまりに奥深い魔術の、ほんの浅瀬の部分に過ぎなかったのだ。
自分の歩んできた道は徒労であった。
そう気が付いたとき、既にペンラートは老いのために衰えており、顔は醜い皺が幾つも刻まれており、頭に昔の冴えもなくなっていた。
目も霞む。指の先も震える。
自分が生涯を費やして開拓した魔術理論も、この国の中ではやがて戦禍の火にかかって消える。
そうでなくとも、どうせ誰も理解し引き継げる者は現れず、数代跨げばこの世界には最初から存在しなかったことになる。
「無意味だったのか? 愚拙の研究は、生涯は?」
自身の研究施設の一室にて、ペンラートは自分に問い掛ける。
『無意味ではない。よくぞ人の短い生の中で、それほどまでに魔術を探究した。ペンラート、お前は、この国の、過去の高名なる魔術師達にも並ぶ。クゥドルを欺き、悠久の時を生きながらえて来た、この余が、水の神リーヴァイが保証しよう』
ペンラートの一人言に割り入る声があった。
「悪魔の干渉を許すなど、愚拙も老いたものだな。よりによって、リーヴァイを称するとは。この妄執の溢れる地リーヴァラスには、貴様の様な悪魔が生じやすい。貴様の様な奴の相手は慣れておる。安い手はやめることだな。今更、下位の悪魔に教えてもらうこともないし……そもそも愚拙は、リーヴァイの実在も信じてはおらん」
『余が下位の悪魔か、面白い』
自称リーヴァイの声に続いて、ペンラートの研究施設においてある魔力磁針が傾いた。
(魔力干渉……!)
ペンラートは警戒し、杖を握って席を立つ。
『そう怖がるでない』
ペンラートの目前に、魔術式が綴られていく。
何の魔術式かはわからず、意図も不明だが、綴られる速度は遅く、術式を守るための仕掛けもない。
掻き消して不発させることは容易かった。
だが、魔術の発動のための魔法陣展開にしては、あまりに遅すぎる。
別の意図を感じたペンラートは、宙に綴られる魔術式を静観する。
完成した魔法陣の上に、水の球が浮かび上がる。
「なにかと思えば、ただの婉曲なだけの水の魔術……?」
水の球を浮かび上がらせていた魔法陣が崩れる。
魔法陣が効果を失ったため、水の球が弾けて消える。
だが、崩れた魔法陣が各々に変形し、三つのまったく異なる魔法陣を形成する。
三つの魔法陣からは、法則性のある動きを見せる、三つの水の球が現れた。
三つの球は、楕円軌道を描きながら跳び回る。
「こ、これは!?」
ゼロからこれと同一の魔術を行使することは難しくない。
だが、魔法陣を変形させ、それを基に他の魔法陣を綴ることは、魔法陣への広い知識と深い理解が要される。
いうなれば、魔術の知識を武器に挑む、パズルの様なものであった。
更に三つの魔法陣が砕け、生じていた水の球が消える。
また不完全な魔法陣に魔術式が継ぎ足されていき、六つの魔法陣を形成した。
次に浮かび上がった水球は異なる色へと変異し、輝きを放ちながらペンラートの周囲を螺旋運動する。
「あ、あり得ぬ……! 一つ一つは単純な魔術だが……魔法陣を分割して、魔術式を使い回すなど……こ、こんなことは、魔術式を最小単位で理解しておらねば、できぬ芸当だ! 四大創造神は、自身の支配する四大元素の分野においては、魔術式の完全制御を行ってみせたというが……」
一転し、ペンラートの目に驚愕が宿る。
「まさか、まさか本当に、リーヴァラス国の神、リーヴァイ様が、愚拙の前に現れたというのか……?」
ペンラートの目に涙が溜まる。
ペンラートは生涯を掛けた研究が無意味と悟り、自害まで考えていた。
だが、今まで信じていなかった神が、こうして苦しむ自身に語り掛け、ペンラートの理想とする魔術の極みの一端を、あっさりと演じてみせたのだ。
『ペンラートよ。余という秩序をこの混沌のリーヴァラス国に齎す、四大神官の一人となれ』
「は、はいっ! この、このペンラート……今までの不信を改め、その大役をお受け致します!」
この日を境にペンラートは新リーヴァイ派の大神官となり、新リーヴァイ派の資金を使い今まで以上の規模で魔術研究を行い始めた。
新リーヴァイ派の重要戦力として大型魔獣の制御と強化を中心に進めながら、禁忌とされる精霊創造にまで手を染める。
リーヴァイの叡智による重なる助言を受け、この歳にして、今までにない効率での研究を進めていた。
停滞と混迷の日々からは抜け出した、はずだった。
だが結局は、今まで池で溺れていたと思っていたのが、実は海だったと知っただけだった。
全知にも思えたリーヴァイも、水の魔術のみに限っても最小単位の魔術式を自在に操れるわけではないと薄々勘付き始めていた。
ペンラートに披露した魔法陣の分離と変形の流れも、どうやらその場で紡いだわけではなく、時間を掛けて編み出したものだと考えた方が妥当だった。
このときのペンラートは、自身にこれ以上の転機が訪れようもないことを受け入れていた。
あと二十年を生きられる歳ではない。
神格リーヴァイも、改めて見てみれば、自身の魔術探究の延長上にあるものであり、絶対的な存在とは思えない。
リーヴァイが欲しがっていたのは都合のいい手下であり、ペンラートの研究も、いずれ復活するクゥドルを倒し、自身の天下を守るための道具としてしか見ていなかった。
結局のところ自分の立場は変わらない。
このままリーヴァイの手足として使われるだけで、自分は終わる。
ペンラートはそう悟ったが、それに気づかなかった振りをし、研究をひたすらに続けることにした。
己はいずれ、真理に到達する魔術師である。
水神リーヴァイも付いている。他の魔術師よりも、遥かに恵まれた位置にいる。
黄金の錬金術師への道に、最も近いのは自身である。あと一歩で、靄が晴れてその先が見えるはずであると。
リーヴァイにファージ領攻撃、及びアベルの討伐を命じられたのは、そんなときであった。
『強引に繋いだせいで、アジダハーカは精霊として恐ろしく不安定な存在になっていましたからね。魔力波長で共振を引き起こし、精霊体単位での結合をすべて切断しました』
ペンラートの最後の切り札、邪精霊竜アジ・ダハーカ。
人工精霊は錬金術師の禁忌の象徴でもある。
その男は、その人工精霊を目にして退屈そうな表情まで浮かべ、害虫を駆除するかのような気安さで、完全に封殺したのだ。
自身の最後の切り札が、何の意味もなく一蹴されても、ペンラートに怒りや悲しみはなかった。
ペンラートの目からは、アベルの背から後光が差しているかのようにさえ感じていた。
魔術に深い理解のあるペンラートには、アベルの桁外れさがよくわかっていた。
同時に、ペンラートはリーヴァイの魔術は、突き詰めれば自身にもできる範囲に過ぎないとも思い始めていた。
ペンラートの目には、アベルは神をも超える存在として映っていた。