十七話 進撃のペンラート⑧
「この本は、最高位の精霊封印の魔法具だ。何せ、今なお残る結界理論の礎となった、土神ガルージャが直接手掛けて残した、伝説の魔本……ガルージャの書。ここに、愚拙が造り、暴走し、手が付けられなくなった人工精霊を閉じ込めておったが、開放する!」
魔導書から漏れ出した光が宙に集まり、巨大な黒い球体となった。
球体からは真っ黒い靄が伸びて、それが蛇の輪郭を象っていた。
靄の蛇は、赤々と輝く目玉を、片側に十六個、恐らく三十二個つけていた。
口が大きく開くと、口の奥にも巨大な真っ赤な単眼があり、周囲を見回している。
あっという間に同じ様な頭部が三つ現れ、首の本数が三本に増える。
ナルガルンと同じく三つ首だが、あれとは似ても似つかない。
そもそもあれは魔獣で、こいつは人工精霊だ。
『ওভনননননননঅন!』
ペンラート曰く、邪精霊竜アジダハーカ、だったか。
アジダハーカは三つの口を開け、耳障りな声で鳴いた。
それに続く様に中央の球体にも無数の口が生じ、各々に鳴き声を発する。
「リーヴァイ様ァア! 愚拙の、愚拙の不甲斐なさを、どうか、どうかお許しください! 愚拙は、アベルに勝てませんでした……所詮、器ではなかったのでございましょう! ですが、だからこそ、奴だけはこの愚拙が、地獄へ道連れにして見せましょうぞっ! すべては、リーヴァイ様のために!」
ペンラートが固く手を組み、天へと叫ぶ。
ペンラートの願いに答えるように、アジダハーカが再び雄叫びを上げる。
アジダハーカの黒い霞掛かった球体から、無数の黒い靄の掛かった、羽虫のようなものが現れる。
自身の精霊体を切り離し、使役しているらしい。
アジダハーカの羽虫が辺りに舞い降りる。
羽虫が足をついた場から半径一メートル程度の範囲の草花が萎れ、腐り落ちた。
「ア、アベル殿! さ、さすがにあれは、まずいのでは!?」
ユーリスが、アジダハーカを目にして慌てふためく。
「こ、これは……」
俺も、咄嗟には言葉を紡げなかった。
アジダハーカを見た衝撃が強すぎた。
開いた口が塞がらない。
「アベルゥウウウ! 貴殿は、愚拙と共に死ぬのだぁっ! あっはっはっはぁ! アジダハーカは、人の手でどうにかなるような精霊ではない! こやつを封じるには、このガルージャの書か、それと同等以上の封印術結界を用いるしかない! そんなこと、できるはずもないがな! どうだ? 我が手から奪って見せるか? はっはっはぁ!」
ペンラートは、狂った様に泣き笑いを始める。
キメラドラゴンがあっさり沈められたのが、よほどショックだったらしい。
「アベルゥウ! 愚拙は、愚拙は、絶対に貴殿を認めぬ! あり得ぬのだ、この愚拙の生涯を、貴殿の様な魔術師が、あっさりとそのすべてを否定してしまえるなど! この精霊竜の姿は我が怒りと捉えよ! この精霊竜の轟は我が悲しみと捉えよ!」
ペンラートが叫ぶ。
アジダハーカが飛翔し、俺へと向かって来る。
同時に大量の羽虫の精霊も俺へと向かって来る。
「ア、アベル殿! 逃げますか? いえ、逃げましょう! あれは、絶対にまずいです!」
俺は目を細めながらアジダハーカを眺めていたが、ユーリスを振り返って首を振った。
「あ……いえ、あれ、ただの見掛け倒しですよ」
「えっ……?」
「精霊として全く安定していません。あれは酷いですね……完全に、精霊を強引に切って繋いで、力押しで形にしただけです」
ペンラートの顔が、見る見る内に真っ赤に染まっていく。
「こ、殺せ、アジダハーカ! 奴を殺せっ、殺せえええええっ!」
実験段階だが、これならアレで済むな。
俺は杖を振る。
「বায়ু বহন」
様々な鉱石が継ぎ接ぎされたオーテムが、俺の手許へと現れた。
アジダハーカから漏れ出した大量の羽虫が、俺の視界を覆い尽す様に迫ってくる。
「そ、そのオーテムを介した魔術ならば、あの精霊に対抗できるんですか?」
ユーリスが俺へと尋ねる。
「……うーん、起動魔力もいらないし、魔法陣も介さないし、厳密には魔術ではないですね」
「魔術ではないんですか?」
「ええ、このオーテムは、元々魔力波塔の理論形成のために作ったものですね。受け取った魔力の波長を変換し、飛ばすことができます。魔力を与えれば、埋め込まれた魔鉱石を使って勝手に行うので、魔法陣は不要です。ただ、魔力を込めればいいだけですから。このオーテムに用いられている魔鉱石は、ミスリル、ニャクア石、それから……」
「蘊蓄は今度聞きますから、それより今は目前の危機をお願いしますアベル殿!」
ユーリスに言われ、俺は小さく頷く。
また今度聞いてくれるのか。内容をもう少し掘り下げて語れるようになっておこう。
「とりあえず、見ておいてくださいね」
俺はオーテムをしっかりと抱えながら、魔力を流し込む。
俺達に向かって飛んできていた羽虫の精霊が、俺に近い側から、粉々になって大気中へと掻き消えていく。
「……な、なんだ、何をした?」
ペンラートが、きょとんとした顔で声を掛けて来る。
「見ても分からないんですか?」
俺が本音で返すと、ペンラートの顔が強張り、再び赤くなる。
「だがっ、アジダハーカは防げまい! 小細工など、絶対的な力の前では無意味!」
アジダハーカの蛇の頭が絡み合いながら、俺へと迫ってくる。
俺はもう一度手に魔力を込める。
アジダハーカの三本の首が、俺に近づいたところから削れて消えていく。
何かを察したようにアジダハーカが首を引くが、遅い。
既に始まった崩壊は止まらない。
三本首が暴れ狂うが、どんどんと精霊体が崩れて散っていく。
アジダハーカがぐるりと回り、俺に背を向けて逃げようとするも、球体に大穴が空き、急速に削れてその質量をすり減らしていき、あっという間に消え失せた。
ペンラートが呆然と立っている。
「は……? は、え? は……?」
「ア、アベル殿、これは……」
「強引に繋いだせいで、アジダハーカは精霊として恐ろしく不安定な存在になっていましたからね。魔力波長で共振を引き起こし、精霊体単位での結合をすべて切断しました」
理屈は簡単だ。
俺がアジダハーカの精霊体に合わせて、オーテムを介して指定した波長の魔力波を飛ばし、アジダハーカを解体したのだ。
通常は使える手段ではないが、ペンラートの人工精霊が、安定の切り貼り製作だったため、精霊体の結合が極端に弱かった。
もっともアジダハーカの精霊体の波長が一種というわけではない。
部位ごとによる差異を判別した上で、的確に魔力波長を合わせ、放つ必要がある。
「魔力波長を合わせ、放射して破壊しただと……? そ、そんなこと、できるわけがない! 愚拙も理論としては知っている! だがそんなもの、理想状態での、理論上は可能という段階のものでしかない! 現実にはあらゆる不確定要素が介在する! それを……研究したわけでもなく、その場の一発で、見ただけでなど、そんなことが、できるわけが……できるわけが……こんな、こんな……」
わなわなとペンラートは口を震わせ、目には涙が溜まる。
ペンラートの手から魔導書が落ちて転がった。
万策尽きたらしい。
「既に、存在したというのか! この愚拙が求めてやまなかった、この世の真理に最も近き概念、黄金の錬金術師という神域に達しておったお方が……!」
……おん?
「か、神……! 既に真理の神が、この世に降臨なされていたとは‥…!」
ペンラートの目に溜まっていた涙が、大粒となって零れ落ち、膝を突いて頭を垂れた。