三話 とあるフィクサーの因縁②(side:ペテロ)
緑白髪の壮年の男は、ペテロとミュンヒを前に、悠然と座っていた。
湯気の立つティーカップを手に寛いでいる。
香りを楽しんでから僅かに口を着け、机上の、ペテロの書類を勝手に掻き分けて作ったらしいスペースへとカップを置く。
「ま、まさか、本物の、ジュレム……伯爵……」
ミュンヒの顔に絶望が浮かぶ。
目前に悠然と座る男は、伝承話に語られるジュレム伯爵の姿、そのものであった。
ペテロへ襲撃を仕掛けてきたことからも、ただの悪戯であるはずがない。
また、ペテロが拠点に残した部下と使用人は、最低でもB級冒険者以上の実力を持っている。
決して狂人の妄執で一蹴できる相手ではないのだ。
だというのに、ジュレム伯爵の足元では、ペテロの部下が息絶え、横たわっていた。
ジュレム伯爵には、傷どころか疲労の跡も見られない。
「……四十年振りかしら。今更、何をしに来たの?」
「わかっておるであろう。この時期に、私が来たのだ。単なる偶然だと思っているのか?」
無論、ジュレム伯爵に問われずとも、ペテロにもわかっていた。
このタイミングでジュレム伯爵がペテロへの許へと姿を現すきっかけとなり得ることは、ペテロが彼を警戒して行った、クゥドル神の復活以外にない。
「そう、やっぱり八つ当たりに来たのね。残念だったわね、アナタのくれた、馬鹿な忠告のお陰で、ワタシは、ワタシはついに、クゥドル神の復活を成し遂げたわ! アナタが今更何をしようが、もう遅いのよ。殺すなら、殺しなさい。アナタも直に、ワタシを追うことになる。そのことに変わりはないわ」
少しの間、沈黙が続く。
ジュレム伯爵はティーカップに注いでいる紅茶をゆっくりと飲み、満足げに頷いた後、ペテロへと視線を戻す。
「何もわかっておらぬ、哀れな元教皇よ。なぜ私は、お前にわざわざ警告をくれてやった? なぜ私は、今の今までクゥドル神を捜すお前を放置していた? 確かにお前は、顔も、身分も変えていた。だが、あれだけ散々、あちこちに干渉して動き回っていたお前のことを、私が補足できていなかったとでも?」
「何を、言って……」
「無知なるペルテール卿へと教えてやろう。クゥドルの封印は、お前が動かずともいずれ解けていたものだ。クゥドルは、試練を誰かが解くのを待っていただけではない。あれは封印が解ける条件の一つに過ぎぬ。当然のことだが、ディンラート王国の危機に、偶然あんな頭のおかしい試練を三つも突破できるものが現れるとも限らぬからな。クゥドルの封印は、クゥドルが巨大な魔力を感知したときにも、解けるようになっていたのだ」
ジュレム伯爵は、当たり前のことを喋る様に、あっさりとそう言い放つ。
ペテロが口を呆然と開く。
それが本当なら、無理に延命してクゥドル神の封印を解くことに何十年と奔走していたのが、すべて無意味だったことになりかねない。
だが、遠い古代の、神話の存在であるクゥドルの封印が解ける条件など、そう詳しく知っている者がいるはずがない。
ペテロはハッタリに違いないと思い直した。
「そんなこと、アナタにわかるわけがないわ!」
「クゥドルの手札の中では定石だ。そうしない理由がない。事実として、そのために、今なお頭の回る高位精霊達は、決してクゥドルを刺激しないようにと、息を殺し、身を縮めて、静かに生きている。クゥドルがどの程度の魔力から反応するのか、まるでわからぬからな。種として高位精霊に叶わぬ人間が世の支配者となり得ているのは、それ故のこと。神話時代の様に、人類は高位精霊を神と讃える奴隷であることこそが、むしろ世の理なのだ。奴が眠りについて夥しい年月が流れようとも、その間、人類はずっと守られてきていたのだ」
「な……な……」
ディンラート王国の裏の支配者であるペテロでも全く知らなかったことを、ジュレム伯爵はさも常識の様に述べていく。
ペテロからしてみれば、ジュレム伯爵の話など狂人の戯言と一蹴してしまいたいたかった。
だが、彼の異様な雰囲気と伝承、そして自身の集めた一流の魔術師を容易く壊滅させた実績が、それを許さなかった。
「全部、知っていたとして……だ、だとしたら、なんでワタシの前にでてきたの!? アナタ、何がしたかったって言うのよ!」
「最初から、私の目にはクゥドルしか映っておらぬ。私の目的は、人間の守護神であるクゥドルの破壊である。どうやったらあれを殺せるか、ずっと考えておった。幸い奴は人工精霊、強引に継ぎ接ぎされて造られた、不安定な存在であるという大きな欠点を抱える。膨大な不安定な力を、世界の抑止力として保ち続けるためには、眠り続けねばならぬかった。だからその間に、私は好きに準備を進めることができたのだ」
ジュレム伯爵は大仰に両手を動かしながら語る。
操り人形の様な、わざとらしい、造り物めいた動きだった。
「わざわざお前に忠告したのは、クゥドルを殺すための布石の一つに過ぎぬ。クゥドルが自発的に目覚めたのならば、動きが追えなくなる可能性が高い。私とて、クゥドルの眠る場所がわからなかったし、その捜索に時間を割くわけにもいかぬかった。加えて言うのなら、クゥドルの聖典なぞ読み解きたくもない。そのため、クゥドルに近しい存在である、クゥドル教の教皇であったお前へと脅しを掛けて、聖堂を暴かせたのだ。この私のために、実によく働いてくれた、ペルテール卿」
「そ、そんな……あ、あり得ない、あり得ないわ! クゥドル神は、計略でどうにかなるような存在ではない! アナタは、クゥドル神を見たこともない癖に、随分と知った様なことを言のね!」
ジュレム伯爵はペテロの挑発には取り合わない。
小ばかにした様に笑い飛ばしただけであった。
「とてもとても忙しい私が、わざわざお前に会いに来たのはな、礼を言っておきたかったからだ」
ジュレム伯爵は、そう言って席を立つ……と、同時に、姿が眩んで消えた。
ペテロは大慌てで周囲を見回すが、姿が見えない。
もう去ったのかと、そんな考えが脳裏に浮かんだのと同時に、静かにペテロの肩が叩かれた。
飛び退こうとするが、そのまま肩を掴まれていて動けない。
ジュレム伯爵の顔が、ペテロの鼻先にまで近く迫る。
その途端、ジュレム伯爵の、精悍で思慮深い顔立ちが崩れる。
口の端が大きく裂けて歪に歪む。両の目は焦点が合っておらず、飾りもののようだった。
化け物の顔つきだ。
だが、こちらの方が自然であった。
顔つきには、その人の人なり、生きて来た道が反映されるものである。
普通に歳を取ることをせず、世界を引っ掻き回し、他人の人生を遊びや計略で使い潰し続けて来た化け物の顔つきが、壮年の紳士のものであるわけがない。
「ありがとう、ペルテール卿、ありがとう……お前が身分を捨てて、信念を曲げて、生き方を歪め、外法に手を染めて人間であることまでやめてまでクゥドルを求めてくれたからこそ、だからこそ、クゥドルを殺す布石が一つ増えたのだ。私は心の底から、とても感謝している」
ペテロは必死に抵抗するが、まるで石像の様にジュレム伯爵はびくともしない。
「ペテロ様から離れろッ!」
ミュンヒは杖を振るって先端を外し、仕込み刃を露出させてジュレム伯爵へと斬りかかる。
背に当たった衣服から響く、明らかな金属音。
あまりに不可解な現象であった。衣服が、刃を叩きつけられても、微かな変形さえ許さなかったのだ。
ジュレム伯爵がミュンヒへと振り返ったとき、既にその顔つきは化け物から紳士のものへと戻っていたが、ミュンヒは死を悟った。
「あ、あ……」
「少し煩いな。フォーグになれ」
ジュレム伯爵がミュンヒの額へと指を向ける。
指先に青白い光が灯った。
「い、いや……いやぁっ! イヤァァァァァッ!」
ミュンヒが頭を押さえ、気が触れた様に泣き叫ぶ。
足が震えて立っていることができなくなり、その場に崩れ落ちる。
込み上げてくる恐怖に、ミュンヒの視界が歪み、腹の底から胃液がせり上がってくる。
彼女は呼吸を荒げながら、必死に自分の腕を見る。
「や、やだ、嫌! そんなのイヤァ! せめて、せめて、人間として死にたい!」
「ハハ、冗談だよ。どうだ、私はユーモアがあるだろう? いくら私でも、生物の構造を丸ごと書き換えるような複雑な現象は、魔術式なしでは扱えない」
ミュンヒは恐怖とストレスで消耗しており、そのままぐったりと床の上に倒れた。
「か、勝ち誇って嫌がらせに来たのかしら? 随分と小者なのね」
「いや、実はお願いがあってね。恩のあるペルテール卿へと重ねて頼みごとをするのは気が引けるのだが、お前に頼むのが一番ちょうどよかった」
「アナタの言うことなんて、何一つ……!」
「私は、四大国をディンラート王国へ嗾けると言ったな? あれは嘘ではない。既に先走ったリーヴァラス国が動きを見せ始めておるだろう? 天空の国から、魔女アルタミアを引き抜きに神官がやってきたという報告を既に耳にしているはずだ。ガルシャード王国に不審な動きがあることも気が付いておるであろう? マハラウン神国はどうだ? あそこの五大老はなかなかに老獪であるから、まだ隠し通せておるのかな?」
ジュレム伯爵が、指を折りながら数え、笑みを浮かべる。
「なに、無力で何もできないお前達は、クゥドルに泣きつくといい。お前に私が求めることは、それだけだ。元より、クゥドルを殺すためだけに、ディンラート王国をいつでも炎の海にできる準備をしておったのだ。これでクゥドルは、この私だけを追うことはできなくなり……大きな隙を晒し続け、消耗することとなる。お前の行動がまた、クゥドルを一歩、破滅へと近づけるのだ」
「うっ……」
何を言われても従うつもりなどなかったが、ペテロには、それがクゥドルを破滅に追い込むことであると知りながらも、ジュレム伯爵の言葉に従わずにはいられなかった。
クゥドルに泣きつかなければ、ディンラート王国の方が先に滅ぼされる。
「わざわざワタシの前に出てきてぺらぺらと喋ったのは、それが目的で……!」
「私は忙しいのでな、この辺りで失礼させてもらおう。どこまで話すか、何をするかはお前の自由だ。私の裏を掻きたいのならば、クゥドルに全てを黙ってみるのも手であろう。もっとも、お前がどう考え抜こうが、お前が私にとって、便利な駒の範疇を超えることができるとは思えないがな」
ジュレム伯爵が笑い声を上げながら消えた。
血濡れの一室に怪人の笑い声だけが残り、反響する。
その中で、自分の人生の大部分が、心と身を砕いて紡いできたことがすべて怪人の計略の一つでしかなかったと知らされた元教皇が、力なくその場に蹲り、声を抑えることもなく泣いた。




