三十話 大神クゥドル④
クゥドルの触手から生えたディンイーターの群れが、奇怪な鳴き声を上げながらペテロへと接近を始める。
わざと勿体ぶる様な、ゆっくりとした動きだった。
ディンイーターは、神話においても主であるクゥドルの命令を無視した惨殺を行い、クゥドルに喰い殺されたりしている。
性質そのものが残酷なのだ。
恐らく、ただ喰い殺す様な生易しいことはしない。
クゥドルの『好きに喰らう』という言葉も、そういう意味だろう。
クゥドルの巨大な単眼は、ペテロだけを捕らえている。
眷属であるディンイーター達も、俺やメア、ミュンヒは無視している。
クゥドルの口振りから察するに、法神縛りを放ったペテロのみが神罰の対象のようであった。
ディンイーターがペテロを囲む。
だらりだらりと、顔面に縦に開かれた醜悪な口が、涎を垂らす。
「ひっ、ひい、ひぃっ!」
ペテロが身体を震えさせながら、手の動きで後退る。
ミュンヒはディンイータを前に一瞬足を止めたが、しかし覚悟を決めた様に歯を喰いしばり、ペテロの前へと飛び込んだ。
「ワワ、ワタシは、ワタシはまだ、死ねないのよぉっ!」
立ち上がろうとしたペテロがその場でひっくり返る。
怪我のせいもあるが、震える膝のため、立ち上がることもできなかったようだ。
『人間にしては長生きしたろう? もう、百ニ十を超えている。それはノークスに許される年月ではない。造り物の身体をぶら下げ、古びた妄執に固執する憐れな老人よ。魂と精霊の、循環の輪へと還るがいい』
クゥドルの声が響く。
「あ、当たるとは思えませんが……」
ミュンヒが杖を振るう。
「শিখা বর্শা হাত!」
二つの魔法陣が展開される。
浮かび上がる炎が二つの槍を象り、ディンイーターの群れへと直進する。
ディンイーターはミュンヒを見向きもしない。
ディンイーターの身体へと炎の槍が当たる。
槍の形状が崩れてディンイータの身体を火が包むが、すぐに火が消える。
微塵も足の歩を崩さずにペテロへと向かう。
「そ、そんな……」
ミュンヒは驚愕しているが、当然だ。
ディンイーターは、あの小さな身体でドラゴンと同等以上の耐久力と膂力を誇る。
ドラゴンに火の槍を数本放とうが、効果があるはずがない。
呆然とするミュンヒを、ディンイーターがおまけの様に払い除けた。
それだけでミュンヒの手にしていた大杖がへし折れ、彼女の身体が床へと大きな音を立てて叩きつけられる。
骨の砕ける音がした。床に叩きつけられたミュンヒは、起き上がらなかった。
「ミュ、ミュンヒ、さん……?」
し、死んだのか……?
いや、弱々しいが、一応魔力の循環がある。
今の段階ならば、命に別状はなさそうだ。
「やめ、やめてちょうだい! 放して、放して!」
ペテロに組み付いたディンイーターが、ペテロの肩の関節部を握り潰した。
「ああ、ああああああっ! 痛い、痛い!」
身体を捩って暴れるペテロをディンイーターが押し倒し、完全に身体の自由を奪う。
「いやぁっ! イヤァァッ! ほ、法神様ァァァッ!」
『どうした? 貴様が法神になるのではなかったのか?』
他のディンイーターも集り、ペテロの身体の節々を、奇怪な腕で握る。
まずは両手、両足の関節を破壊するつもりらしい。
考えるより先に、杖が動いた。
「বায়ু ফলক」
魔術で風を操り、ディンイーターと同数の、八つの風の刃を放った。
ディンイーターはこちらへ無警戒であったらしく、当たるまでリアクションを起こさなかった。
だが体表を貫通すると、慌てて身体を逸らして風の刃から逃れようとする。
ディンイーターがペテロから跳ね退き、距離を置いたところに着地する。
ディンイーターの腕や顔の一部が、遅れて辺りに舞い、微小な精霊へと分散して大気に還っていく。
顔の四隅に存在する不気味な眼球が俺を睨む。
『……ふむ、神罰の邪魔をするか、マーレンよ』
ディンイーター八体の計三十二の眼球に遅れ、クゥドルの巨大な単眼が俺を睨んだ。
「え、えっと……ちょ、ちょっと、やり過ぎなんじゃ……」
ペテロは、俺を殺そうとした。
しかし、メアだけは見逃してくれるとも、約束をしてくれていた。
部下ミュンヒの忠告を無視して、理がなく不利にしか働かないことを呑み込んでくれたのだ。
どうにも俺には、ペテロが根っからの悪人であるとは思えなかった。
それに……本当にペテロがクゥドル教の前教皇ペルテールならば、アルタミアの知人でもある。
前教皇ペルテールは、少々堅いが、真面目な善人であったという。
四十年前に辺境地での魔獣災害に巻き込まれて死んだが、直前に自らの死期を悟っていた様に引継ぎの準備や厄介な問題の解決を終えていた、という話もある。
恐らくペルテールの死はペテロへ転身するための偽装であったのだろうが、そうだとすれば、やや突発的にも思う。
今の禁忌魔術の行使や裏切りに慣れているペテロと、アルタミアから聞いていた真面目で温厚なペルテールの人物像も、あまりにも重ならない。
ペテロには、教皇の地位を棄てて非道に走らねばならない、何らかの契機があったのではなかろうか。
俺はペテロへ目を向ける。
「ひいっ! ひぃっ!」
ペテロは息を荒げながら、血を流す肩をだらんと垂らし、片腕だけで地面を這う。
転がる様に俺の背後へと隠れた。
俺はゆっくりと背後を振り返る。
ペテロはガタガタと震えながら、仮面の隙間から涙を流して身を縮め、三角座りしていた。
外敵の目から逃れるために命を削ってまで身体を折り畳む怪鳥がいる、という話を俺はふと思い出した。
俺は大股で左へと移動する。
ペテロの姿がクゥドルから露わになる。
ペテロが慌てて転がって俺の背後へと移動した。
俺は大股で元の位置へと戻る。
ペテロが這って俺の背後に移動した後、俺のズボンを掴んで顔を上げる。
「ご、ごめんなさい! ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい! 見捨てないで!」
も、元、教皇……?
これが? こんなのが?
や、やっぱり、ただの人違いなんじゃ……。
『面白い奴がおるではないか。下がれ、我が眷属よ』
……どうやら、クゥドルもさしてペテロに執着はないようだ。
俺へと関心が移ったようだが、幸いにも敵対の意思は感じない。
俺に身体の一部を切断されて殺気立っていたディンイーター達が、主の言葉にぴくりと身を震わせる。
納得していないようだったが、八体の内の六体が下がった。
残る二体が、そのまま不服げにクゥドルへと目を向ける。
瞬間、クゥドルから二本の触手が伸び、下がらなかった二体のディンイーターを押し潰した。
頑丈なディンイーターが、車に轢かれた蛙の死骸の様な姿へと変わり果てる。
精霊の光を散らし、質量が小さくなっていく。
俺の背筋が自然と伸びた。
『八つの魔法陣を並行展開するか。少なくとも、魔術の制御面においては、ヨハナンに近い腕を持っているようだな。もっとも、ヨハナンは十まで同時に魔法陣を操る上に、『黄金頭蓋』を介することで、条件が整えば二十にまで引き上げることもできたがな』
『黄金頭蓋』……?
魔法具か、何かだろうか。
聞いたことはないが、『大神宝典』を調べ直せば、それらしいものが見つかるかもしれない。
「ん、十……?」
俺は高精度を保つという条件の元でも、単純な魔法陣ならば十三までなら安定して並行展開できる自信がある。
マーレン族の奥義、多重詠唱・オーテムコールを用いれば、三倍までかさ増しすることも可能だ。
『驚いたか? まぁ、無理もなかろう。四大創造神を自称する愚か者共が存命であったあの頃とそれ以降では、魔術の意味や必要性も、大きく違ってきていることであろう。その当時においても、ヨハナンは、はっきりと規格外の魔術師であったからな』
クゥドルが、過去を懐かしむ様に言う。
何言ってるんだこの単眼肉塊。
イマイチ言わんとすることがよくわからなかったが、どう考えてもクゥドルの機嫌を損ねて得があるわけがなかったので、適当に頷いて相槌を打っておいた。
ペテロとクゥドルとの対立に巻き込まれるのではないかと思っていたが、それからどうにか逃れることができそうなのだ。
わざわざ不興を買って争いを招きたくはない。
クゥドルは、さすがにまずい。




