十三歳④
狩り開始から、三時間が経った。
俺はもう、足ががくがくだった。
膝が笑っている。もう、無理。帰りたい。
汗とか凄い。
絶対俺もう、帰りの体力とかない。
きっと帰路で死ぬんだ俺は。
ジゼル、俺が間違っていた。
俺に筋力なんていらなかった。弓術なんて絶対いらなかった。
魔術だけでよかった。
「と、父様……そろそろ、引き返しませんか?」
俺は額の汗を拭いながら、父に相談を持ち掛ける。
「手頃な魔獣をお前達に任せ過ぎて、成果が少ない。次に獲物が狩れたら帰ることにしよう」
「ええ……」
そんなに成果が少ないというのなら、魔術を解禁してほしい。
魔術で魔獣を誘き寄せてからトラップ型の魔術で一網打尽にできる。
ここ三時間分の作業が一瞬で終わる。
もう無理だ。
どの道、俺に帰るだけの体力はない。
きっと死ぬのだ。
もしも無事に帰ることができたのなら、ステータスの魔法陣を弄って筋力値の項目を消しさろう。
「そのシムパロットを焼いていいのならば今すぐ帰ってもいいのだぞ」
「嫌です、もう名前もつけたんです」
危うくなってきた意識の中、俺は答える。
「ほう、なんと」
「このシムパロット、ぽっちゃりした感じがシビィに似ていると思いませんか? そこで……」
「ア、アンタ! 今、なんて言いやがった! ぶっ殺すぞ!」
シビィが俺の襟を掴んでくる。
駄目だ、意識が薄れてきていて、思っていたことをそのまま喋ってしまった。
「こらこら、シビィ。その辺にしておけ。本当のことだろうが」
「本当のことだから嫌なんですが!」
ガリアがけらけらと笑いながら横槍を入れてくるが、シビィは怒鳴り返すだけで止まらない。
やっぱり自覚があったらしい。
と、そのとき、ドォンと大きな音が聞こえてきた。
音は一度で収まらず、ドォンドォンと連続しており、段々とその間隔は早まっていた。
ガリアが笑顔を崩し、弓を構える。
「おい、これ、グレーターベアじゃねぇか?」
「うむ……少し、マズイな。かなり足音が大きい。俺は、こんな大きな足音は聞いたことがない。アベルはシビィを連れ、先に逃げろ。俺とガリアは足止めしてから向かう。全速力で走るのだぞ」
「え?」「は?」
シビィと声が被った。
「じょ、冗談きついですよ父様。自分、もう走れませんよ? 俺が連れて逃げるというよりもむしろ、俺がシビィに背負ってもらいた……」
「父上! お、俺は戦えます! こんな奴と一緒にしないでください!」
こいつ、この期に及んで減らず口を……!
なんか俺に恨みでもあるのか?
ああ、さっき間接的にシビィをシムパロット扱いして恨みを作ったところだった。
「んなこと言っている暇があんなら、とっとと逃げろ!」
ガリアが叫んだのと同時に、前の木が倒れた。
その後ろから四メートル近い体格を持つ、巨大な青い熊が現れる。
あの熊が、木を薙ぎ倒したのだ。
黒目のない、真っ白な目。口は裂けているかのように大きく、だらだらと涎を垂らしていた。
垂れ目で笑っているような顔ではあったが、そこに可愛らしさは一切ない。
獣というより、妖怪の部類に思えた。
「グァァァッハッハッハァッ!」
鳴き声も、なんだか笑い声のようだった。
ああ、これ、ヤバイ系の奴だ。
笑いながら戦うキャラは強キャラだ。間違いない。少年ジャンプで知った。
「ひぃ、ひぃやぁぁっ!」
シビィが腰を抜かし、その場に蹲った。
これは仕方ない。責める気にも、からかう気にもなれない。
そんな状況でもないし、俺も多分精神年齢が十二歳前後ならそうしていた。
「ちぃっ! 頼む、アベル! シビィを背負って逃げてくれ!」
ガリアが矢を放つ。
それは綺麗にグレーターベアの目を捉えたはずだったのだが、瞬きに弾かれた。
矢先が、瞼に刺さらなかったのだ。
「グァッハァッハァッ!」
さすがに俺は目を疑った。
あんな薄皮を、尖った金属が貫けなかったのだ。
「……いいか、万が一俺達が戻らなかったら、お前達から族長に報告してくれ。馬鹿みたいなデカさのグレーターベアが出たってな」
「ち、父上……そんな、そんなぁ……」
シビィが地に這ったまま、目に涙を溜める。
「প্রেত আঁকা」
俺は宙に魔法陣を浮かべ、グレーターベアへと指を向ける。
魔術は使うなと言われたが、さすがに今は別だろう。
「ঘুম」
指先から出た光が、グレーターベアの頭部を捉える。
「グァハッ!?」
グレーターベアが、その場に膝をついた。
俺はほっとして溜め息を吐く。
「いや、よかっ……」
「アベル!」
父の声がして、俺は顔を上げる。
グレーターベアは起き上がり、俺へと飛び掛かってきていた。
魔術が、完全には効いていなかったのだ。
精神干渉系の魔術は、魔力を持つ相手には効き辛い。
膝をついただけで、つい安心しきってしまっていた。
修行ばかりの頭でっかちで実戦経験がなかったがための、くだらない判断ミスだった。
「あ……」
俺は後ずさるが、間に合わない。
グレーターベアが俺の目前にまで移動し、大振りに爪を振るった。
殺される。
そう思った瞬間、父に突き飛ばされた。
俺は弓とシムパロットを投げ出して転がり、木に背を打ち付けて止まった。
なんとか上体を起こし、前を見る。
父は腹から血を流して、倒れていた。
父は俺の身代わりになって、グレーターベアの一撃を受けてしまったのだ。
一見してわかるが、父の怪我はかなり深い。
いつまで持つかわからない。
今すぐにでも治療が必要だ。
ぼんやりと、手品師だった殺された前世の父のことが脳裏を過った。
「と、父様っ!」
グレーターベアが、倒れている父の前に立つ。
「グァッハッハァッ!」
「こっちに来やがれデカブツ!」
ガリアが布に包まれた球を懐から取り出し、地に投げつける。
球は破裂し、妙な匂いのする煙を出した。
グレーターベアはガリアへと興味を移し、彼へと突進していく。
どうやらあのボールは匂いで魔獣を引き寄せる道具らしい。
俺は父に駆け寄り、肩を起こす。
「と、父様! しっかり!」
父は弱々しく手を持ち上げ、自らの腹の傷へと触れる。
血のついた手を顔の前へと持っていってから薄く目を開け、それから力なく笑った。
傷が深いことに気が付いたのだろう。
それから父はすっと顔を引き締め、俺を見る。
「……今まで俺は、父親らしい姿をお前に見せることができなかったな」
「そんなことはありません! そんな、これが最期みたいな言い方はやめてください!」
「アベル、お前は言うことを聞いてくれないときも多々あったが……賢い子だった。俺に何か訊いてくれるときもあったが、ほとんどそれは確認のようなものだった。お前のやっぱりそうかというような表情を見る度、不安になったものだ。
それゆえ俺も、見栄を張ってしまったことがあった。空回りしたこともあった。叱りつけた後、お前が呆れたような表情を隠していたことがあったことも、知っておった。どうしたらいいのか、俺にはわからなかった」
父は弱々しく首を振る。
父は父で、悩んでいたのだろう。
前世の記憶がある俺は、ゼレルートを父として認め切れていない部分があった。
どこか作り物のように、そう思っていたのかもしれない。
だが、作り物でなどあるはずがない。
父は俺が生まれたときには喜び、俺の一挙一動でずっと真剣に悩んできていたのだ。
俺が隠しきれたと思っていたことも、すべて筒抜けだった。
ゼレルートは確かに、俺の父なのだ。
度々ぼんやりと考えたことはあるが、そのことが理屈ではなく、ようやく気持ちでわかったような気がした。
「悔いがないわけではない。せめてお前の婿姿や、ジゼルの花嫁姿くらいは見たかったものだ。だが……せめて最後に、せめて父親らしいことができて良かったと、そうも思っておる」
父の緩められた唇の端から、血が垂れた。
どろりとした、赤黒い血。内臓器官が傷ついている証拠だ。
「シビィを連れて逃げろ、アベル。俺はもう、駄目だ。ジゼルと母のことを、頼んだぞ」
ああ、そうか。
俺は、魔術が実在することが分かれば父が帰ってくるような気がして、それでずっと前世で魔術にしがみついていたのか。
魔術のある今世でも父親を失うような、そんな馬鹿なことがあってたまるものか。
そんなの、なんのために魔術の鍛錬に励んできたのか、わからなくなってしまう。
俺は立ち上がり、グレーターベアを睨む。
ガリアがグレーターベアの爪をナイフで受ける。
ナイフの刃が折れ、ナイフを掴んでいたガリアの指が歪に曲がる。
それでもなお、ガリアはグレーターベアに立ち向かっていた。
ガリアは呪文を詠唱して魔法陣を浮かべ、グレーターベアの顔面に向けて炎の球体を射出する。
グレーターベアは、あっさりとそれを爪で弾いて掻き消す。
あの様子だと、体表で受けてもさしたダメージには繋がらなかっただろう。
どころか、ガリアが呪文を唱えている間、攻撃の手を止めていた。
グレーターベアは、こっちを格下と見て遊んでいるようだった。
「……父様を置いて、逃げられませんよ」
「お、おい、アベル!」
グレーターベアは、瞼ですら矢を通さないほど頑丈だ。
それでも俺には、魔術しかない。
「প্রেত আঁকা」
俺の全部の魔力を使う。
今まで全力で魔術を行使したことはなかった。
暴発すれば危ないし、制御できる自信もない。おまけに、魔力を浪費すれば修行できる時間も減る。
だが今はありったけ、込められるだけの魔力を使ってやる。
それでも、あんな頑丈な魔獣を倒せるとは思わない。
ただ、グレーターベアが驚いて逃げる程度の威力がほしい。
俺は時間を掛けて魔法陣を宙に描いていく。
あのグレーターベアの頑丈な皮膚へは、普通に攻撃しても無駄だ。
俺の持てる知識を尽くし、既存の魔法陣を改造して最大の威力で放つ。
もっとも戦闘中に魔法陣の開発など聞いたこともない。
本来魔法陣は、魔術師が月日を掛けて性能の向上に努めるものなのだ。
今回は状況に合わせた部分的な調整とはいえ、急ごしらえで行えば失敗するリスクは高い。
だが、既存の魔術をぶつけても、グレーターベアに通るとは思えない。
使うのは、風の刃で切り裂く魔術だ。
俺の手持ちの中では、これが一番瞬間威力があるはずだ。
魔法陣を既存のものから大きく変え、制御に使われる魔力を威力の強化にすべて割いて、風の刃を極限まで薄くすることにした。
これだけやってもどの程度足しになるかなんてわからないが。
あれだけ強固な皮膚を持っているのだ。
今までグレーターベアは、まともなダメージを受けたことがないのかもしれない。
もしそうだとすれば、どれだけ小さかろうと傷を負えば、恐怖を感じて逃げてくれるかもしれない。
希望的観測だが、それに賭けるしかない。
「父上ぇっ!」
シビィが悲痛に叫ぶ。
グレーターベアが、気を失っているガリアの首へと手を伸ばすところだった。
まずい、間に合わない。ガリアが殺される。
「グァッハッハッハッ…………ハァ?」
そのとき、グレーターベアが、何かを感じ取ったようにぴくりと身体を震わせ、動きを止めた。
グレーターベアの表情が、変わった。
細い垂れ目が見開かれる。笑いの表情が、怒りの顔へと変わる。
そして巨体を屈めて姿勢を低くし、俺へと目線を合わせた。
「グゥガァァァアッ!」
なぜだかグレーターベアは、急激に興奮しているようだった。
首を振るいながら雄叫びを上げ、俺へと飛び掛かってきた。
とんでもない速さだ。
さっきまでと、まるで気迫が違う。
途中、腕に触れた木をそのままへし折った。減速さえしなかった。
「বায়ু ফলক」
俺は手をグレーターベアに向ける。
頼む、これで引き下がってくれ!
「ガハァッ?」
一瞬、グレーターベアの鳴き声が聞こえたような気がした。
土煙が巻き起こり、辺り一帯を覆い隠す。
俺は腕で目を覆う。
グレーターベアは、飛び込んでこない。
なんとか追い払えたのだと、そう思って俺は安堵した。
「……うん?」
土煙が晴れたとき、目前には一定の高さより上がなくなった木が並んでいた。
一本や二本ではない。
少なくとも、五十本くらいはばっさりやってしまったようだった。
今まで全力で魔術を使ったことはなかった。
まさか、ここまでとは思わなかった。
「……あ」
切断された木々に紛れて、グレーターベアの下半身がただただ立ち尽くしていた。
明らかにオーバーキルだった。
ぽてんと、役目を果たしたかのようにグレーターベアの下半身が倒れる。
やりすぎた感しかない。
えっと……今、いい感じだったよな。
俺が全力尽くしてグレーターベアと死闘を繰り広げるところじゃなかったのか。
正直この調子だと、魔力を強めに込めていたら普通に眠らせることもできたかもしれない。
いや、これでいいんだけど……うん。
なんだ、このどうにも腑に落ちない感じ。




