三十四話 連弾のイカロス②
イカロスとの決闘の日、俺はベッドで頭を抱えて寝込んでいた。
正直のところ、風邪の予兆はあった。
雲寄せの魔術を行使して大雨を被ったときから、ちょっと体調がおかしかったような気がする。
あの後、連日オーテム瓜の開発である。
アベルポーションで身体を騙して酷使していたが、抑えきれなくなった瞬間、そのツケが一気に身体を押し潰したようである。
眼の奥が、ずきずきと痛む。
神経をすり削っていくような、陰湿な痛みである。
その痛みは熱を持っており、俺の脳を溶かさんがばかりであった。
おまけに胃の底から何かがせりあがってくるかのようである。
様々な苦痛が、あらゆる角度から俺の身体を侵していた。
「…………」
目を開き、ふと横を見る。
一瞬、ぼやぁっと視界が霞み、それからゆっくりと焦点が合っていく。
メアが心配そうに俺を見つめているのが目に入った。
「……アベル、目を覚ましたんですね」
俺は朝に一度起きてから、あまりの気分の悪さに、朝食を食べずにそのまま自室へと戻って眠っていたのだ。
「だ、大丈夫ですか? 頭……凄い熱で」
「……苦しい、今死にたい」
「し、しっかり気を持ってください! アベルが死んだら……メアはっ、メアは……」
メアは丸椅子を倒して立ち上がり、俺の手を握った。
「その、決闘は?」
「それどころじゃありませんよ! 朝のスープが残っているそうなんですが……入り、ませんよね」
俺は小さく頷いた。
今何かを食べても、胃液ごとリバースしてしまうだろう。
ラルクには悪いが、確かに決闘どころではない。
ふと、メアの座っている丸椅子に弓が立て掛けられているのが目に入った。
「…………」
「あ、こ、これは気にしないでください!」
「あ、ああ、そう……」
イカロスがなぜヴェルナッセ式の決闘を持ち出してきたのか、よくわかった。
後で調べてみると決闘のルール自体にはおかしな点はなく、なぜイカロスが執着しているのか、その理由は一切わからなかった。
だが準備段階に、一日の精神統一を義務付けていることは少々疑問だった。
イカロスが狙っていたのは、この一日の猶予だったのだ。
恐らくこの間に、病魔を活性化させる呪いを俺に掛けたのだろう。
いや、俺がまったく感知できなかったのはおかしい。
恐らく、最初から活性化させていた病魔を、俺の弱っていた身体にぶつけてきたのだ。
そうでなければ、風邪がここまで苦しいはずがない。
前に風邪を拗らせたときより、ずっとしんどいような気がする。間違いない。
これはイカロスの罠だったのだ。
安易に敵の持ち出してきたルールに乗っかるべきではなかった。
あのときの自分が憎い。
割となんでも杖一本でどうにかなってきたので、少し自分の魔術を過信していたのかもしれない。
本当の悪意とは、そんな生易しいものではなかったのだ。
「ラルクさんは……なんて……」
ラルクの忠告を無視し、実力勝負になれば儲けものだと高を括っていたのは俺だ。
ここまで引っ張っておいて、その結果がこの幕切れというのはどうにも申し訳ない。
「大丈夫です、心配ありません! 領主さんも、アベルの身体が一番だと言っていましたから……無理をする必要はない、と。ゆっくりと身体を休めてください」
「……ラルクさん」
そのとき、ドンドンと扉を叩く音が聞こえてきた。
「すいません、あの……アベル殿は、目を覚ましたんですね。入っても……」
ユーリスの声である。
メアは立ち上がり、背を屈めて弓を手にして扉の方へと向けた。
「ちょっとメア……」
「駄目です! アベルはそれどころじゃないんです! 朝にあれほど言ったのに、どうしてまだわからないんですか!」
「しかし! しかし! ここまで来たのに……今日行かなければ、イカロスがまた勢いを盛り返してしまいます! アベル殿の力ならば、今でも少しくらいは勝機があるのではと……」
そうっと、控えめに扉が開かれる。
その隙間のすぐ横の壁に、矢が鋭く突き刺さった。
驚いたユーリスが、慌てて身を退いた。
「アベルが、アベルがこんなに大変なのに、イカロスイカロスって……どうでもいいじゃないですかそんなこと! 領地とアベル、どっちが大事なんですか! 領主さんからしたら、第三者の命なんてどうでもいいって言うんですか! 次は、当てます! 下がってください!」
「しし、しかし、しかし……!」
「早く閉めてください! メアは次は当てるって言ってるんですよ! 脅しじゃありませんからね!」
メアは完全に頭に血が上っているらしく、顔が赤くなっていた。
矢を押さえる手も、プルプルと震えている。
「お、落ち着いてくださいメア殿!」
「ストップ! ストーップ! 弓を下げてくれ、とりあえず! ゲホッ!」
声を張り上げると、喉に引っ掛かって咳が出た。
ずきりと、一層頭痛の強さが増す。
「あ……あぐ……ゲホッ! ケホッ!」
「アベル、あんまり声を出さない方が……」
メアは俺を振り返ると、目を見開いて一瞬動きを止めた。
それから手の震えを止め、すぐさま矢を放った。
矢は俺のやや上を通り、窓を突き破って何かに当たった。
「ッ!」
甲高い、短い悲鳴のようなものが漏れる。
窓の外に、何かが潜んでいたのだ。
ここは二階である。普通の人間が通りがかったとは思えない。
状況から考えるに、誰かが俺の命を狙っていたに違いない。
俺はすぐさまベッドの脇にある杖を拾い上げ、窓の外へと向けた。
「বাতাস এই হাত」
暴風が吹き荒れながら球となり、矢に続いて何者かへと追撃を掛けた。
窓ガラスが割れ、次の瞬間には壁が瓦解し、その反動で俺はベッドから落ち、部屋内にあったものが一瞬にして滅茶苦茶になった。
「や、やっぱり制御できなかったか……で、でも、確かに当てたはずだ」
「アベル! し、しっかりしてください! ユーリスさん、別の部屋を借りますからね!」
メアは俺を抱き起しながら、目を細めてユーリスを睨む。
「や、やっぱり、行けるんじゃ……」
ユーリスは小声でブツブツと言いながら部屋に入り、壁に空いた大穴から外を見る。
「……誰もいない。確かに、私にも窓の外に何かがいたように感じたんですが」
「え?」
俺は首を持ち上げて、部屋に空いた大穴を見る。
確かに、窓の外にいた者へと風の魔術をぶつけた手ごたえがあったのだ。
威力は不安定ではあったが、直撃すればまず無事ではいられないはずだ。
「そ、そんな、今確かに……」
どたばたと小さな足音が、廊下の方から近づいてくる。
そちらに目をやれば、開きっぱなしにされた扉から、一人の少女がこちらへと首を覗かせた。
使用人のマリアスである。
「だ、大丈夫ですか!? あの、今、何が……」
「……あ、いや、少し錯乱していたかもしれません」
「さ、錯乱……?」
マリアスは腑に落ちない顔で、俺と部屋の跡を見比べた。
「……マリアス、あなたが来たということは、ラルク様の方は……」
ユーリスが尋ねると、マリアスは悲しげに首を振った。
「延期を提案なされました。しかし、どうにも領民達からの反発が大きく……。ようやくあの魔術師の方を追放できたと領主様も喜ばれていたのですが……ここまでかもしれませんね」
ユーリスががっくりと肩を落とす。
それからややあって、俺へそうっと顔を向ける。
「あ、あの……どうにか、なりませんか……?」
残念ながら、身体がまともに動かない。
意識の方も危うい。
魔術もほとんど制御ができないし、大した威力も出せそうにない。
壁を崩す程度、魔術師同士の戦いでは意味がない。
他の魔弾で押し返されてお終いだろう。
集中力が持たない今の脳では、連射や魔法陣の複数同時展開数もかなり制限される。
はっきりと勝負にならない。
「何度も、同じこと言わないでください! アベルに恩恵受けている間は敬ってる素振りを見せていた癖にに……ちょっと状況が悪くなったら、死んででも身体を張れって言うんですか!」
「う、うぐ……」
「仕方ありませんよユーリス様。無理に、とは言える立場ではありません。まだこの機会を逃したからといって、次がないわけでもありませんから……」
マリアスも俺が動けないのはわかっているらしく、メアに賛同してユーリスを止めに掛かった。
ユーリスは唇を噛み締めながら目を瞑って何かを迷っているようだったが、すぐに目を開き、迷いを振り払うように首を振るった。
「わかりました……」
ようやくユーリスも諦めてくれたらしい。
「……もし決闘に出てくれるのならば勝敗に関係なく、以前アベル殿が却下されたという生体魔術の行使の申請の許可を、私の方から領主様に進言します」
……え?
「……で、でもそんなの、通るわけ」
「領主様も今回アベル殿が身体を張ってくだされば、大きな負い目だと感じるはずです。そこにつけ込めば、通せるかもしれません。私も支援します。ですので……」
……チャンスは、あるか?
少なくとも、ラルクへの説得の場を設けてはくれるかもしれない。
安全性への配慮は勿論、きっちりと行うつもりだ。
その上で妥協点をじっくり探りながら、国法の解釈を捻じ曲げ、違法すれすれの脱法魔術の行使を……。
「しつこいですよユーリスさん! メア、とっくに怒ってるんですからね!」
「だ、駄目です! あの魔術の申請許可だけは、絶対に駄目です! 領主様も絶対許可なさいませんし、なされたら困ります!」
俺は魔術の反動で転がっていたアベルポーションを飲み干し、自分の頭を力いっぱい数回叩いた。
ぐわんぐわんと視界が回り、頭痛が一層と酷くなる。
吐き気が一気に込み上げてきたが、どうにか気力でねじ伏せた。
三半規管が常に揺さぶられている。
気持ち悪い。もう、気持ち悪いなんてものじゃあない。
足元がよろめいて転びそうになったが、メアが悲鳴を上げながらも支えてくれた。
「だ、駄目です! ね? 今日はしっかりと休みましょう? 足許、こんなにフラフラなのに……」
「行きます……やれます……」
俺がぼやけて人影しか見えなかったが、ユーリスらしき影へと声を振り絞って宣言した。
「……ありがとうございます。では、行きましょう」
まったく違う方から答えが返ってきた。
目を細めると、今まで見ていた人影がオーテムであったらしいことに気が付いた。




