とある集落の話4(sideジゼル)
マーレン族の集落において、アベルが消えたことによる一番の損失は、彼の特製香煙葉の栽培ができなくなってしまったことであった。
混乱を恐れた族長はアベルの香煙葉に似せたものと、彼の残した香煙葉を配合し、ゆっくりと比率を変えていく策を取る予定であった。
……予定であったのだが、早くもそれは破綻しつつあった。
「族長様を出していただきたい! アベルの香煙葉がもう作れないという噂の真偽についてお聞きしたいのだ!」
「混ぜて水増しするつもりだと聞いたが、俺は絶対騙されんからな! 俺は違いがわかる男なんだ! 吸ったその場で暴れてやる!」
香煙葉好きの各家の家長共が噂を聞きつけ、族長の屋敷へと押しかけていた。
その数は今は五人であるが、何も手を打たなければ今後増えて行くことであろう。
「も、申し訳ございません。え、えっと……祖父様は今、忙しく……」
族長の孫娘であるフィロが必死に門の前で応対していたが、すでに目には涙が浮かんでいた。
突破されることは時間の問題であった。
「何で忙しいのかお聞きしたい! 今件より重要なこととは、なんなのか!」
「どう誤魔化すか考えている、だとは言わないだろうな!」
「い、いえ……その……」
フィロはしどろもどろに答えながら、ふらりと宙を見た。
「アベルぅ……」
フィロはぽつり、小声で恨みがましくアベルの名を呼んだ。
「話は聞かせてもらった、皆、落ち着いて聞いてくれ。実はカルコ家で作った新しい香煙葉は、アベル産をモチーフに改良したもので……」
荒ぶる者達へと意気揚々と自作香煙葉を売り込むオカッパの男は、カルコ家の家長、ノーマンであった。
「お前のところの高いだけの腐葉土なんて誰が買うか!」
「ふ、腐葉土だと!?」
投げ掛けられたあんまりな評価に、ノーマンは呆然とする。
「そうだそうだ! アベル産が手に入らないから家で余ってたのを吸ってみたが、酷いもんだった! 前まではあれしか知らないから買ってやってたけど、今更もうあんなもん吸えるものか!」
ノーマンは悔しさに歯を噛みしめながら、声を張り上げる。
「誰かっ! おい、誰か、いらないのか! 安くするぞ、安くするぞ!」
「しつこいんだよ! どっか行ってろ!」
一人の男がノーマンに掴み掛かる。
ノーマンの持っていた香煙葉が一枚地に落ちる。
別の男がそれを踏み潰した。
「ああっ! おいお前、今踏んだそれの代金を払ってもらうぞ! ベノル銅五つだからな!」
魔鉱石通貨に否定的だったノーマンも、最近ではすっかり馴染み始めていた。
今まで通貨代わりに用いていた自家の香煙葉の価値が大暴落したので、そうせざるを得なかったという面が大きいが。
その騒動を、少し離れたところから観察している二人組がいた。
アベルの妹ジゼルと、アベルの友人シビィである。
シビィは不安気そうに眉を顰めていたが、ジゼルは愛らしい笑みを湛えながらその様子を見守っていた。
「ジ、ジゼルちゃん、あれ、ちょっとまずいんじゃないかな……」
「すごい、すごい! 全部、思っていた通りになりました! この調子だと、兄様に会える日もそう遠くはないはずです!」
ジゼルは無邪気に、心の底から嬉しそうにそう言った。
アベル産の香煙葉に関する話を洩らしたのはジゼルである。
族長の開いた会議を、兄の残したオーテムの技術を用いて盗聴していたのだ。
ジゼルが会議の内容を洩らしたのは、集落の中からアベルの捜索隊を組ませるためである。
わざわざ子供一人の家出を集落の総力を上げて捜すような真似をしてくれるとは考え難かったが、常習性のある香煙葉をダシにすれば大人を動かすことができるのではないか、と考えたのだ。
実際、気持ちいいくらいジゼルの思い通りに事は運んでいた。
はしゃいでいるジゼルは確かに楽し気ではあったが、瞳がどこか狂気染みていた。
シビィは心中で『アベルさんが早く、できれば独身で帰ってきますように』と、先祖の霊へと祈った。
アベルは恋敵であったし、アベルが夜逃げしたときには自分にチャンスがあるかと意気込んだことも確かにあったが、最近のジゼルの様子を見ていると、それどころではないのではないかと思い始めていた。
「本当に、全部、シムさんの言う通りです! シムさんがいてくれて、本当によかったです! 私一人だったら……もう、もう、駄目だったかもしれません……!」
ジゼルは魔導書を抱き締めながら言う。今は遠い地にいる兄のことを想い、愛おしそうに魔導書へと頬ずりをした。
「ジ、ジゼルちゃん、やっぱりその本捨てた方がいいんじゃないかな」
「……何を言っているんですか、シビィさん? シムさんは私のためを思い、色々とよくしてくれているんですよ?」
シムというのは、本に憑いている中位精霊である。
本に精霊語で文章を浮かべ、ジゼルによくアドバイスをくれるのだ。
アベルがいなくなってからアベルの足取りを追うために族長の書庫を調べていた際、偶然見つけたものである。
シムは、自分には精霊になる前の想いが朧げながらに残っているのだ、と精霊語を本に綴り、ジゼルへと説明していた。
シムもまたジゼルと同じように結婚式の前に兄が集落を出て破談になった過去があり、そのためジゼルには協力を惜しまないといってくれていた。
シムの綴る精霊語は難解な言い回しが多かった。
シムの言葉を理解するため、ジゼルは死に物狂いで精霊語の勉強をした。
その熱中ぶりたるや、短期間とはいえ全盛期のアベルに並ぶほどであった。
彼女の父であるゼレルートは『やはり血は争えぬな』と訳知り顔で頷いていたが、当然ゼレルートがそこまで狂信的に魔術修行に熱中した時期はない。
「そもそも中位精霊って、それ要するに悪魔……」
「……シムさんは、兄様に逃げられた私のことを憐れんで、こうして知恵を貸してくれているのですよ?」
ジゼルの表情は、以前変わらず笑みを浮かべていた。
しかし口調が若干速くなり、魔導書を握る手に力が籠っていたことにシビィも気付いていた。
「ああ……うん、いや、そうだけど……」
精霊といえば、基本的に下位精霊のことを示す。
悪魔、精霊獣、中位精霊、大精霊は、すべて精霊が集合して自らの意志を持った者を指す言葉である。
定義はあるものの曖昧であり、地方や時代、主観によっていくらでも変わる。
そもそも精霊に生前の記憶が残っている、というのがすでに胡散臭い話であった。
確かに精霊は様々な生物や物、場所に宿った思念の断片であるとはいわれている。
だがシビィは、シムほどしっかりと生前の想いが残っている精霊の前例など、聞いたことがなかった。
「待っていてください兄様! ジゼルが必ず、兄様を連れ戻してみせますから!」
ジゼルはそう言い、魔導書を一層と強く抱き締めた。
シビィは苦しそうに光を放つ魔導書を見て、ぶるりと身震いした。
次に兄様をこの腕で抱き締めたときはもう二度と放さないという強い意志が込められているように感じたからである。




