三十一話 悪魔の杖④
「来るなぁぁぁああっ! 来るなぁぁぁっ! ゾロモニア様に汚らわしい手で触るなぁぁぁぁっ!」
男は半狂乱になって叫び、涙さえ流していた。
よほどゾロモニア様にご執心だったらしい。
それもそうなるか。
この男が街までやってきたのは、杖の力を使いたかったからなのだろう。
いきなり大暴れして片っ端から石に変えていたところを見て、特に何かその先に大事な目的があったとは思えない。
こんな危ない奴がいたら、とっくの昔に大騒ぎになっているはずだ。
きっとゾロモニアの杖を手に入れたのはつい最近だと推測できる。
急に強い力を持って、ちょっと勘違いしてしまったんだろう。
俺は周囲の大人にも恵まれてきたし、上には上がいること(主に病魔など)や、助け合うことの大切さ(主に看病してくれる人の大切さ)を知っているのでなるべく思い上がらないよう心掛けているが、この男にはそれがなかったのかもしれない。
ひょっとしたら、一歩間違えたら俺もこの男のようになっていたかも……、
「ああああああっ! ゾロモニア様ぁぁぁあっ! わうぁぁああああああぁっ!」
それはないか。ないな、うん。
メアが心配そうにしていたので、俺は軽く手をひらひらとさせて大丈夫だと言外に伝えた。
もうこの男には何もできないだろう。
魔術の詠唱も、杖が使えなければ二度手間になる。
俺が大杖に指先で触れると、男は目が赤くなるほど見開いた。
試しに指でなぞってみると、地面に頭を打ち付け始めた。額が割れ、血が滲み出ている。
ちょっと怖くなってきた。
本物のゾロモニアの杖ならば、かなりの年代物であるはずだ。だがこの大杖には、特に汚れや傷は見られない。
転がして裏返してみると、焦げ痕一つ見つからないことに気が付く。
俺が男に炎の球を放ったとき、まともに巻き添えになっていたはずである。
傷一つないのは、杖自体が強力な魔力に守られている、ということなのだろうか。
メアがそうっと後ろからついてくる。
「……それ、ヤバいものなんじゃないんですか? だ、大丈夫ですよね? 下手に触ったら、あっちの男の人みたいに呪われたりしませんか?」
「大丈夫だ。その人は多分、元からちょっと個性的な人なんだろう」
俺が杖を握って持ち上げようとしたとき、一人の童女が目前に現れた。
突然何もないところから浮かび上がった。俺には、そんなふうに思えた。
肌の色は青く、一目見てただの人間ではないことが分かった。
童女の白目は漆黒に染まっており、金色の瞳が興味深げに俺を見つめている。
『おお! おお! ただの人間で、ここまでの魔力を持つ者がおるとは思わなんだ! 長年眠り、変化を待っていただけの甲斐があった!』
童女は声を弾ませて言った。
高揚のためか、青白い頬が赤らんでいた。
『申し遅れたの。妾は知恵の大悪魔、ゾロモニアである。もっとも杖に封じられているため、魔力で造り上げた化身に過ぎぬがの』
大杖の見せるゾロモニアの分身体ということらしい。
ゾロモニアは泳ぐように宙を舞い、顔を近づけてくる。
『ああ、妾はこの仰々しい名が嫌いでの、モニア、とでも呼んでくれればよい』
「そ、そう……」
予想外に馴れ馴れしい。
とりあえず、敵意はないと思ってよさそうだ。
街を襲ったのは、あくまでも杖を使った人間の意思だ、とでも言いたげな様子だ。
そこでふと、さっきまで大暴れしていた男が急に静かになったことに気が付き、俺は振り返る。
男は完全に石化した手足で地面に這い這いの姿勢になりながら、呆然とした表情でゾロモニアを見ていた。
「ゾ、ゾロモニア様……? あっ、あの、色々と言いたいことがあるのですが……あの、吾輩のときと、態度が……」
『ああ、マーグスよ、貴様の役目は終わったのだ。これまでご苦労であったの』
ゾロモニアがえらくあっさりとそうリストラ勧告をした瞬間、マーグスの悲壮な面が鬼の形相へと豹変した。
「わ、吾輩がっ! 吾輩がお救いしたのですぞ! あの辺境の修道院から、吾輩がっ!」
歯茎を剥きだしにし、マーグスが叫ぶ。
「ゾロモニア様も、この吾輩でよかったと! そ、そうだ! わかった! 隙を見て、その小僧を屠るためなのですな! いけませんゾロモニア様! 吾輩のためにそんな、ちんちくりんの小僧に遜り、猫撫で声まで出して媚びを売るような! そんな真似は貴方様に相応しくな……」
『しつこいぞマーグス。この男と貴様では、魔術師としての格が違うとわかっておらんわけではあるまい』
ゾロモニアはばっさりと男……マーグスとやらを、再度切り捨てる。
それからしばしの沈黙が訪れた。
俺が何か言った方がいいんだろうかと考えていると、マーグスが口を開く。
「このっ、この売女がぁぁっ! 魔術師と見たら、誰にでも媚びを売りやがって! 吾輩を、吾輩を裏切ったなぁぁぁっ!」
『妾が、貴様にいつ尾を振った? 妾が移動するため、力を貸してやる。それだけのことであろうに。不快であるの、マーグスよ、言葉は選ぶがいい。今は機嫌がいいから見過ごしてやるが……』
「な、なな、なぁっ!? ふざ、ふざけるなぁっ!」
なんかもう、別れ話の縺れみたいになってきたな。
痴話喧嘩は俺のいないところでやってくれ。
「こ、殺す! 貴様ら殺してやる! ぶっ殺してやる!」
男は裂けそうなほど大口を開けた後、呪文を詠唱し始めた。
「প্রেত আঁ…」
マーグスは腕が石化しているため、杖を振ることができない。
なので魔法陣の転写のための詠唱を省略することができず、そこから始めなければならない。
この状況で間に合うと、本気で思っているわけではないだろう。ただのやけっぱちだ。
俺は大杖から手を離して腰を上げ、小杖を男へと構えた。
「হন」
男の頭上に、世界樹のオーテムが現れる。
オーテムは重力に従い、男の頭を強打した。
ゴンっと鈍い音が鳴り、男はようやく意識を失った。
「え、えっと、アベル、そこに何かいるんですか?」
メアは杖に触れていないためか、ゾロモニアの姿が見えないようだ。
「一度でも杖に触ったら見えるみたいだな。メアも見るか?」
「んー……じゃあ、ちょっとだけ……」
メアは目を薄く開けながら、そうっと大杖へと手を伸ばす。
手が触れた瞬間、さっと引っ込め、ゆっくりと目を開ける。
「……あ、意外と可愛い」
メアはゾロモニアの化身の頬に触ろうとして手を伸ばしていたが、すかすかと通り抜けていた。。
どうやら触れないらしい。
ゾロモニアはメアが手を伸ばす様を興味なさ気に眺めていたが、メアの額を見るとわずかに表情を曇らせた。
『む、貴様……まぁ、今はよいか』
それからすぐ何事もなかったかのように、俺の方を向く。
俺がちらりと横目でメアの顔を窺うが、メアも何のことかはまったくわかっていないらしく、不安そうに首を傾げていた。
『さて、マーレンの若き魔術師アベルとやらよ、どうであろうか? 妾を使ってはもらえぬか?』
「使うって……杖に封印されたままでいいのか?」
『強き魔術師に仕え、世に変革を齎すことこそが妾の喜び! それが達成できるのならば、妾の封印などさした問題ではない』
……欲しいか、と言われれば欲しい。
間違いなく最上級の杖だし、長生きしているだけのことはあって、俺の知らないことも色々と知っているだろう。
ただ持ち運びにどう足掻いても目立つし、職質もらうとそのまま牢獄にぶちこまれてエベルハイドの隣人になりかねない。
それに、ゾロモニアは伝承では恐ろしい悪魔だった。
古代の魔術を人に教えて国を滅ぼさせたり、悪魔を大量に生み出して城を落としたり、誇張や創作もあるのだろうか、言い伝えられている悪事は数え切れないほどである。
『何を迷うておる。そちほどの者であれば、妾の価値はすぐわかるであろうに。そこのマーグスのように、何を捨てても得たいとは思わぬのか?』
「いや、でも……」
『妾が恐ろしいか? しかし案ぜよ、妾は昔から、決めた相手にはとことん尽くすタイプでの。何をどういわれておるのかは知らんが、すべては妾の主の意向よ。罪深いのは悪魔の業ではなく、人の欲の底知らずだとは思わぬか?』
要するに、使い手次第だと言いたいようだ。
目に余ることをさせたくないのなら、所有者である俺が自重しろ、と。
裏を返せば、『元カレがやれって言ったことだからウチ関係ないし、てへぺろ☆』ということになるが。
俺は唾を呑み込み、覚悟を決める。
「わかった。今日からお前を使……て……」
持ち上げようと掴んでみたが、予想外に重い。
俺は両腕で大杖を掴み、腰を落とす。
「ふっ、くくくくっ! ふんっ!」
なんとかわずかに持ち上がるも、先端の方が地に垂れたままだ。
重心がかなり寄っている。
『む、そち、どうした? 何を遊んでおるのだ?』
いや、重いんだけど。
「ちょ、ちょっとメア、手伝ってくれ」
「は、はい! うわ、これ普通に重い!」
なんとか二人掛かりで持ち上げる。
俺は手足を石にしていて四つん這いのまま気絶している男、マーグスとやらへと目線を落とす。
この人、なんであんなに平然と振り回せてたの。
「ど、どうしますか、これ?」
「……やっぱり止めとくか。ほら、いや別にそういうのじゃなくて、なんかやっぱり危なそうな気がしてきただけだけどな、うん」
『な、何を言っておる! 妾の価値が分からんわけではなかろう?』
そのとき、背後でがさりと音が鳴った。
「う、う……わ、私、生きてる……?」
石化の呪いを掛けられていたらしい女冒険者が、ゆっくりと立ち上がるところだった。
まずい、そろそろ被害者の呪いが解け始めてきたようだ。
掛かった順に解けるはずなので、ここがらどんどん動ける人は増えて行く。
というより、俺が真っ先に石化を解いた女の子のことも忘れていた。
女の子は地面に座り込み、夢でも見ているかのような顔つきで俺達のことを眺めていた。
「お、俺様は何を……」
ガストンの石化まで解けだした。
「あ、やべ……。メアッ! 放り投げるぞ!」
「え、え?」
『お、おい、冗談であろう? 冗談であるよな?』
今ならまだ間に合うはずだ。
俺はメアと協力し、ガストンへ向かって一、二の三でゾロモニアの杖を放り投げた。
ゾロモニアの杖はすぐ地面に落ちたが、そのまま転がり、ガストンの足許へと当たった。
「む? なんだこれは」
さすが体格がいいだけのことはあり、ガストンはゾロモニアの杖を片手で持ち上げた。
それを合図にしたかのように、周囲の石化が次々に解けて行く。
――――――――――
――その後、冒険者支援所にて。
「ガストンさんが、ガストンさんが助けてくれたんだ! ガストンさんがいなかったら、俺は、俺は今頃……」
「何言ってんだガストン『様』だろうがっ!」
「そんなことで騒ぐなよ。ガストンさんは寛大なお方だからすべてをお許しになるぞ」
施設の中は、すっかりガストン一色だった。
いや、施設の中だけではない。施設の外もガストンの話題でいっぱいであった。
「だからってお前、人として最低限の礼節ってもんが……」
「そういう押し付けをするお前のような輩が偉大なガストンさんの価値を下げているってなんでわからないんだ? 馬鹿なのか?」
「あぁ? もう一回言ってみやがれ」
なんかもう宗教染みて来たな。
いくら何でもと思うのだが、恐らく冒険者支援所やら領主が町おこしのためにガストンを名物冒険者に仕立て上げようとあれこれ手回しを始め、受け入れられやすくなるよう土壌を作っていたのだろう。
どこの世界もお金が絡むと皆必死になるんだな。
俺とメア、マイゼンは野次馬に混ざって冒険者支援所へ先回りしていた。
ガストンはなかなか現れなかった。
どこで道草を食っているのやら……と考えていると、バンッと盛大に扉が開けられた。
現れたのは勿論ガストンである。どこでくっ付けてきたのか、ガストンは女に囲まれていた。
ぴったり近づいているのは五人程度だが、距離を保って移動している親衛隊のような集団が結成されつつあった。
ガストンの登場により、一瞬施設内が静まり返る。
「俺様だぁぁああっ! 俺様の手柄だぁぁああっ!」
ガストンが紫紺の輝きを放つ大杖をこれ見よがしに掲げると、歓声が沸き上がった。
「うおおおおっ!」「さすがガストンさんっ!」
「ガストンさんが拳骨振り上げたら呪いが跳ね返ったって本当ですか!?」
「すげぇ、凄すぎる!」
「同じ人類としてマジで誇りでしかない!」
『アベルー! アベルー! い、今なら妾も許してやるぞ、な? お、おい、おいアベルゥゥウッ!!』
歓声に紛れて何かが聞こえた気がしたが、俺はそっと耳を塞いだ。
――後に、ガストンは悟る。
この日が、人生で最上の日であったと……。




