罪咎穢れ、君には愛を
――ぐぎっ。
今までに聞いた事のない音がして、見下ろせば、たくちゃんから全身の力が抜けて畳の上にずり落ちてしまっていた。
垂れ目がちな円らなお目々を真っ白に剥いて、泡を含んだ透明な液体があどけない口元を汚していく。
円卓に用意していたコップの水。
私が目を離した隙、それをたくちゃんが飲んでしまったことがキッカケだった。
……どうしたの、たくちゃん?
眠い眠いの?
ほら。ちゃんと起きて、なんか言って。いつもみたいに。
ごめんなさい、おかーさんって……。
謝ったらちゃんと許してあげるから。悪いことしないから、どこにもいかないでって、その一言でお母さん、外出の予定もキャンセルして一日中たくちゃんと一緒にいてあげるから。
……なのに、なんでお返事してくれないの?
いつもはすぐに聞こえる小さなお返事はなく、たくちゃんは体をしきりに震わせている。小さな、それでいてスラッとした体全部を使って畳を小刻みに叩き続ける。
ドン、ドン、ドン……ガタ、ガタ……。
やがて音が止み、たくちゃんの震えが収まった頃になって。ついさっき聞こえた音が耳の奥で再び鳴り始めた。
鈍くて、まるで何かが潰れたような濁った音。
――おかーさん、ごめんなさい。もう悪いことしません。
――ごめんなさい。ごめんなさい。
目の前で横たわるたくちゃん。上睫毛のすぐ下から覗く黒目がそう訴えているようで。でも、狭いアパートの一室は痛いほど静かで。
「た……たくちゃん?」
たくちゃんは身じろぎひとつ、瞬きひとつしないで、ただ白い目でこちらをぼんやりと見つめてくる。
「たくちゃん……たくちゃん……! たくちゃんッ!!」
私は急に目の前が信じられなくなって、部屋に濁る沈黙を押しのけるようにして、ありったけの大声で叫んだ。
たった一人の家族……大事な大事なたくちゃんの名前を。
◆
赤い光が視界を横切り、つんざくようなサイレンが鼓膜の震えを押さえつけ、私の体はどこか知らない場所へと運ばれていく。ずっと一緒にいたたくちゃんとは別の方向へ。それはそう……当たり前。
だって、私はまだこの通りちゃんと生きていて、たくちゃんはもう――。
◇
たくちゃんのおとーさんである男は、私があの子を産んですぐにいなくなった。私自身、アレがどんな顔を、風貌をしていたのかさえ朧気にしか思い出せない。それくらいどこにでもいるような、どうでもいい男だった。
両親はすでにこの世にいない。頼れる親戚筋もいない。そもそも、頼りたいような仲の良い親戚なんていなかった。
だから必然、私は一人でたくちゃんを育てた。ずっと二人で暮らしてきた。狭いアパートで密やかに。
悪いことをすれば、ちゃんと教えた。
私の思うことをしなければ、それもちゃんと教えた。
たくちゃんを少しずつおかーさんと同じ色に染めていった。
たくちゃんは誰にも渡さない。誰の手にも汚させない。
たくちゃんは、私の……私だけの大切な家族。
私、ただ一人の……。
◇
――気持ち悪いほど規則正しいサイクルを続けて、もうどれくらい経っただろう。
夜。窓もなく淀んだように暗い空間で、私はぼんやりとすぐ前に並ぶ黒い格子模様を眺めていた。
打ちっ放しの床の冷たさが、私がまだ生きていることを教えてくれる。
しんと静まり返った中にいると、自然と瞼の重みも増してくる。
……もう眠ろう。
そう思えど眠れない。ここ数年間の、いつものとおりだ。
――おかーさん。
あの日以来。毎晩私が意識を朦朧とさせるたび、耳の奥でたくちゃんの声が響いてくるようになっていた。
――ごめんなさい。おかーさん。
たくちゃんが生きていたら、今はどんなお顔になってるかな。背はどれくらいおっきくなってるかな。
目は開けたまま、暗闇の中に夢幻を思い描く。
未来のたくちゃん。記憶の中のたくちゃん。
そういえば……最後の、あの子の良いお顔はどんなだったかな。
思い返せばまず一番に浮かぶのは、あの日の幸せそうなお顔。
邪気の無い様子で、ただひたすら欲のまま、コップの水に口づけていたたくちゃん。そんなに長い間、お水飲ませてあげてなかったかな……。そう思わせるほどホッとした様子だった。
その笑顔が、お前は母親失格だ、暗にそう伝えてくるようで。無邪気なはずのたくちゃんの笑顔が悪魔のように見えて、どうしようもなく自分を責め立てている気がして。
気づけば私は、手に持っていたはずの錠剤を投げつけ、抵抗のない弱くて弱くて仕方ない体を力一杯揺さぶっていた。そして……。
――ぐぎっ。
「あぁぁ……、あぁぁぁああ……!」
あの柔らかな感触が、熱が、手の平を這い回る。
細くて温かい、たくちゃんの首の感触。
あの時、もっと違う方法で叱っていたら、こんなことにはならなかったのだろうか。それとも、もっともっと前から何かが少しずつずれていて、それがあんな形で……。
――お母さん、ぼくいいこにしてるから。いたいいたいしないで。
「たくちゃん……たくちゃん……! ごめんね……! お母さん、いたいいたいしちゃったね……ごめんね……」
頭を掻きむしって、鼓膜の裏側のたくちゃんに赦しを請う。
わかってる。
謝っても謝っても、私の罪は消えない。
日が経つにつれて、あの日の後悔が膨らんでいくばっかり。わかってはいるけど、どうしようもない。気が狂いそう。思いっきり胃の中のものを吐き出してしまいたい。
狭い部屋の冷えた空気が、私の壊れそうな意識を繋ぎとめてくれていた。
◆
数年ぶりに吸った町の空気は想像よりもずっとずっと生温かった。
空を見上げれば鼠色の固まりが空を覆い尽くしている。降り出すのも時間の問題らしい。
見慣れた町にほんの少しの変化。
国道沿いに不気味に建っていた廃ビルは消え去り、代わりに寂れた土の色がぽっかり空いている。舗装されたばかりの道には、ぺちゃんこに伸びた動物の死骸。そのすぐ横で主婦らしき二人が持ち寄った噂話を嬉しそうに喋っている。平和に歪んだ世界。
◇
比較的根暗で悲観的な私だが、一つ自慢できるとすればこのルックスだろうか。
見た目に関して不自由した記憶はない。そのおかげで都合のいい男も寄ってくる。
だからお金と気持ちいいだけの愛に飢えることは生涯一度もなかった。
「ま、また……会えますか?」
「う~ん、これからちょっと忙しいから……。また連絡するね」
当面生きられるだけの可能性を財布にしまい、偶々ゆきずって絡んだだけの若い青年、彼の言葉を曖昧に濁す。
けっこう可愛い子なんだけど、今は他にやることがあるんだ。
――おかーさん。
私はこれから向かわなくちゃいけない。
ずっと待っていてくれた、たくちゃんのところへ。
おかーさんやっと出てこれたよ。
これからすぐ、会いに行くからね。
◇
たくちゃんのお墓は町の片隅、小高い丘を切り開いた霊園にあった。
親戚の人間に聞いて、追っ払われるようにこの場所まで走ってきた。
新しい墓石の前には、可愛らしい黄色のお花がさされていて、それがたくちゃんの優しいお顔を思い起こさせる。
否応なく、聞こえてくる。
――おかーさん。
耳元でハッキリと、たくちゃんの声が聞こえる。すぐそばにいるって、体全体がそう感じる。
「……ああ、たく……ちゃん」
切れた息が喉に絡んで、うまく声が出せない。
でも、ちゃんとお返事しなくちゃ。
私がたくちゃんにずっと言ってきたことだもの。
――おかーさん、悪いことして、ごめんなさい。
「おかーさん……も、ごめ……んね」
悪いことをしたら謝らなくちゃいけないって、ずっと教えてきた。
――いたい、いたい。ごめんなさい、おかーさん。もうしません。
それでも悪いことをしたら、いたいいたいしなきゃいけないって、ずっと教えてきた。
「ごめん……ね、たくちゃ……、あ……あが……」
切れた息が喉に絡んで。
いや……違う。
頭が自然と右を向いて。景色がたくちゃんのお墓から墓前の路へと流れる。
ずっとたくちゃんを見ていたいのに……。
私の抵抗もないようにして、勝手に首が回っていく。横目が背後の景色を映しはじめる。
――いいこにしてるから。どこにもいかないで。
「た……が……、あが……はぁ……!」
顎の先端が右肩にぶつかり、先程降りだした雨が肩を、私の髪を濡らしていたと初めて気づく。
それでもなお私の頭は後ろを向こうとする。
息がつまって、声を遮る。体中の血が全部集まったかと思うほど、顔が熱く膨らむ。涙か汁かが眼球に押し出されたのか、じわじわと視界を揺らす。
声はもう出ないけど、それでも心で懺悔を繰り返す。
ごめんね。
たくちゃん、ちゃんと謝ってたのに、何度も謝ってたのに、おかーさんひどかったね。
たくさんいたいいたいされても、仕方ないよね。
ねぇ、たくちゃん……。
おかーさん、どこで間違っちゃったんだろうね……。
――おかーさん。いかないで。一緒にいて。おかーさん。
今まで寂しかったね。いっぱい怖かったね。
おかーさん、もう大丈夫だから。
もうどこにも行かないから。
これからはずっと、一緒にいようね。たくちゃん。
――ぐぎっ。
いつかも聞いた懐かしい音。あの日のたくちゃんとおそろいの音がして。
真っ白に霞み失せていく視界の端に、たくちゃんの笑う顔が映った気がした。
お読みいただきありがとうございました!
このお話はフィクションですが、不快な思いをされたら申し訳ありませんでした。




