1 晩酌の長引く予兆
白い息を吐いて手を擦り合わせた。少しでも体温を取り戻そうと体が小刻みに震える。中庭にホウキをかけ、地面に積もった枯れ葉を集めながら、北風の容赦ない攻撃を受け続ける。梨乃香は元々寒がりだ。
いつものようにデスクワークをこなそうとしていた梨乃香は、先輩の言いつけによって中庭の掃除をさせられていた。掃除は当番制ではあるが、本部の中庭はその対象外なのだ。年に二度ほど隊員総出で草むしりをする以外では、誰か気付いた人が厚意でやっていることがあるくらいだ。
寒いので早く終わらせて屋内へ戻ろうと、必死に手を動かすのだが、掃いても掃いても一向に終わる気配がない。掃除をすること自体はいいのだが……枯れ葉掃除というものは、いったいどのタイミングでやめればいいのだろうか。
「梨乃、こんなとこでなにしてんだ。サボリか?」
突然の声に振り返ると、裏口からこちらに向かって歩いてくる赤兵の姿があった。梨乃、というのは梨乃香の愛称だ。
「班長! いえ……中庭の掃除を頼まれたので」
「なに? そんなのテキトーでいいよ。サッと軽く掃いて終わっちゃいな。寒いだろ」
「あ、はい」
「こんの忙しいときになにやらせてんだか。どこの部隊のいつの時代も、新人ってのはこき使われるもんなんだねえ」
「ひょっとして、班長がまだ新人だったころも、ですか?」
「まあね。あたしはもう、すぐに我慢できなくって暴れてやったよ。茶汲みとか、そういう自分でもできるだろって雑用は断固拒否してやったさ」
「暴れたって……だ、大丈夫だったんですか?」
「平気平気。警備隊は人手が足りてないからねえ。それくらいでクビ切られたり罰せられたりしないよ。あんたもね、言いなりになってばかりだとナメられるよ? あたしは、手が空いてるんなら新人だろうが女だろうが現場にもガンガン連れて行きたいんだからさ。雑用なんかで忙しいんじゃ、それもできないだろ」
「は、はい」
「ほら、ホウキ置いてきな。中であったかいもんでも飲もうや」
赤兵に言われ、裏口の横にある掃除用具専用のロッカーにホウキを片付けた。赤兵は梨乃香がロッカーを閉めたのを確認すると、屋内へ戻っていく。そのうしろを追いかけて、二階のオフィスルームへ向かった。事務仕事担当の隊員たちが忙しそうにしている。この部屋の奥に給湯室があるのだ。
梨乃香が水道の横に置かれていたコーヒーポットを手に取り、揺らして中身を確認する。赤兵は収納棚から紙コップを二つ取り出した。
「あ、吉島ちゃーん、俺もコーヒー!」
「俺も、ミルク多めで!」
オフィスからの声に梨乃香が答える前に、赤兵が身を乗り出した。
「うるせえぞ野郎ども! コーヒーくらい自分で淹れな!」
彼女の厳しい言葉に、しょんぼりした声が返ってくる。
「い、いいんですか? ほうっておいて」
「いいんだよ。たかがコーヒーを入れるくらい、ガキでもできらぁ。この程度の手間すら面倒がって他人に任せるようになっちゃオシマイさ。知ってるか? 或斗隊長はコーヒーを他人に頼んだことがねえんだ」
「そうなんですか? でも、隊長ほどの立場だと私たちより忙しいでしょうし、むしろ部下に淹れさせるほうが自然な気もしますけど……」
梨乃香がコップにコーヒーを注ぎながら意外そうに言う。だが、たしかに言われてみると、給湯室の付近で何度か彼が自分でコーヒーを淹れたり、お湯を沸かしている姿を見ているし、彼にそういった雑用を頼まれたこともなかった。
「ま、それもそうなんだけどなあ」
赤兵が同意するように苦笑しながら、梨乃香にシュガースティックを一本わたす。その直後。
「なんだ、俺の話か?」
突然、すぐ真後ろから聞こえた男性の声に、びくりと肩が跳ねた。反射的に振り返ると、すぐ目の前に二本の飾り紐があった。
「ひゃあっ!? た、たいちょ……!」
おどろいてよろけた拍子に、コップの中身が揺れ、連動して手触りのいい紙容器が、するりと手の中から逃げ出した。湯気を纏う黒い液体が宙を舞い、目の前の紺色に吸い込まれた。
ばしゃり。
瞬間、梨乃香の顔面から一気に血の気が失せた。
「あッづッ!?」
「いやあああ!? ご、ごごめんなさい! ごめんなさい! 申し訳ありません!」
あっはっは、と赤兵が軽快に笑い飛ばす。傍にあった布巾であわてて服にかかったコーヒーを拭く或斗に、梨乃香は何度も何度も頭をさげる。土下座したほうがいいかもしれない。赤兵が笑っているおかげで空気は重くならずに済んでいるが、とんでもないことをしてしまった。よりにもよって、相手はあの或斗隊長なのだ。
「く、クリーニング代払います! あ、あ、あのっ、火傷とかっ」
「え、いや、気にしなくていい。クリーニングなんて大げさだ」
「で、でもシミになったりしたら!」
「うーん……まあ、なったとしても目立たないだろ。それに、替えが利く物だし、すぐに洗えば大丈夫だ。赤兵、ちょっと着替えに帰るから、その間になにかあったら指揮は頼む」
「ああ、わか――って、そのまま行くのか?」
「徒歩五分もかからないだろ」
「はいはい。じゃあ、戻ってくるまでにあんたの分のコーヒーも淹れといてやるよ」
「そうか? 悪いな。じゃあ行ってくる」
或斗は小走りで給湯室を出て行った。そのまま彼がオフィスから出て行ったあと、床にこぼれたコーヒーを雑巾で拭きながら、梨乃香は魂が抜けたようにため息をついた。或斗は怒っていないようだったが、それでもあとが怖くて仕方がないのだ。やはり土下座するしかないかもしれない。
「あの……班長」
「どうした?」
「隊長、怒ってますよね……?」
「あっはっは、あれが怒ってるように見えたか? ま、コーヒーひっかけたのがあたしだったら、ひと言くらいは文句言ってただろうけどさ。たぶん、あんたをおどかしちまったことを申し訳ないと思ってるくらいだろうよ」
「そ、そんな、あの或斗隊長が?」
「そうだよ。あの或斗隊長だぜ? コーヒーを腹から飲まされたくらいで怒るわけないって」
「え、ええ?」
梨乃香の知っている或斗と、赤兵の知っている或斗で、あきらかに意見が食い違っている。かみ合っていない。梨乃香がなにも言えずに閉口するうちに、赤兵は新しくコーヒーを淹れなおした。彼女はスティックシュガーを数本、でたらめにつかみ取ると、一気に封を切って或斗のコーヒーにドバドバ投入した。
「あ、えっ、班長、お砂糖入れすぎでは?」
「んー? そうか?」
赤兵は梨乃香の忠告に気の抜けた返事をするだけで、さらにそこにミルクを他の隊員が一杯に使う二倍から三倍の量を混ぜ込んだ。これではコーヒーではなく、かなり甘めのカフェオレだ。
「そ……それ、隊長の分なんですよね……?」
「そうだよ。あっ! そうか、しまったなあ。砂糖じゃなくて塩を入れてやるべきだったか」
「いやあの」
「あの人、甘党なんだよ。これくらいしないと飲めねえの。まあ、会議のときとか、出先では無理してブラック飲むこともあるけど。そうでなくても、なんか人より糖分が必要らしいぜ?」
意外だ。
「班長って、隊長のことをよく知っていますね」
「まあ、この部隊じゃ、あたしが一番あいつと付き合い長いからね」
「怖くないんですか?」
「怖いィ?」
赤兵が頓狂な声をあげる。梨乃香がおずおず頷いたのを見て、彼女は腕を組んでなにかを考え込む。
「梨乃、今晩、暇か?」
梨乃香は少し戸惑った。
「夜、ですか? はあ、暇……というか、なにも予定はありませんけど」
「飲みに行くぞ」
「私、まだお酒は」
「仕事終わったら正門前に集合な」
「え、あ、はい」
*
赤兵の強引な誘いによって、彼女の晩酌に付き合うこととなった梨乃香は、内心では少し楽しみにしながらも、或斗のこともあるので同時にやや憂鬱な気分も抱えたままにその日の仕事をこなしきった。或斗が戻るまでに他の隊員から仕事を頼まれたので、彼が帰ってきたところに立ち会うことはなく、給湯室での出来事を思い出さないように集中して仕事に打ち込むうち、あっという間に時間は進み、気付いたときには待ち合わせの時間が目前まで迫っていた。空が薄暗いのを窓から一瞥したあと、まだオフィスに残っている隊員たちにひと声かけてから、正門へ向かった。
外に出た途端、身を刺すような冬の夜風が梨乃香を出迎える。いつの間にか降り始めた雪が地面を薄く覆っていた。これから帰宅、あるいは帰寮するらしい隊員たちは皆、うつむいたまま早足に去っていく。寒さに耐えているのだ。寒空の下、正門前に立ち止まっている人影に駆け寄った。赤兵だ。誰かと話している。
「班長、お待たせしま……」
「おう、梨乃。やっと来たか」
梨乃香の声と体がぴたりと止まる。赤兵の隣に立つ人物に、視線が釘付けになった。それはまぎれもなく、或斗隊長である。
「あ、あの、どうして隊長がここに」
「言ってなかったか? 今日の飲み仲間だ」
「えっ」
腕組みをしながら体を縮めていた或斗が震える声で、なあ、と言った。
「立ち話はあとにして、早く行こうぜ。まさか俺の足、凍ってないよな?」
「おっとこいつは大変だ、半分ほど凍っちまってる。よし、じゃあさっそく行くとすっか。これ以上は或斗が凍死しちまうからな。いつもの店でいいだろ?」
「いい。いい。寒くないならどこでもいい」
「情けないねえ」
赤兵の先導で連れてこられたのは、ロワリア部隊本部から近い位置にある小さな居酒屋だった。外装もこぢんまりとしており、入口の前に灯りのともった古い提灯が垂れている。未成年の梨乃香には縁のない店だが、隊員たちの多くが出入りしているのをよく見かける。
店内に入ると、或斗がほっとしたように息をついた。
「ああ、寒かった」
「ご、ごめんなさい。ずいぶん、待たせてしまったみたいで……」
「気にするな。待たされるのは赤兵で慣れてる」
「おい、あたしは慣れさせるほどあんたを待たせた覚えはないよ」
「どの口が言うか……おっちゃん、俺と赤兵になにか適当にアルコールと、この子にソフトドリンクを」
カウンター席の奥に声をかけると、はいよ、と威勢のいい声が返ってきた。厨房から食器の音が聞こえると、梨乃香たちは四人掛けのテーブル席に移動した。赤兵と梨乃香が並んで座り、その正面に或斗が腰掛ける。
「隊長、あの、コーヒーの件は、本当にすみませんでした」
「いや、俺のほうこそ、おどろかせたみたいで悪かったな。火傷しなかったか?」
「いえ、私は平気です。本当に、私がもっとしっかりコップを持っていれば……」
「はいはいストップ。すぎたことをいつまでも気にしてんじゃないよ。謝罪の応酬でキリがない」
赤兵が間に入って話を止める。店主が二人分のビールグラスと、梨乃香の分のドリンクをテーブルへ運んでくる。
「両手に華とはうらやましいね、隊長さん」
「からかわんでくださいよ」
赤兵がつまみの料理を何品か注文したあと、梨乃香は先ほどから気になっていたことを尋ねた。
「お二人はよくこのお店に?」
或斗が頷く。
「ああ、わりと頻繁に。まあ他の隊員も一緒なことが多いけどな」
「班長はどうして急に、私を?」
メニュー表をテーブルの端においた赤兵は、そうそう、と思い出したように或斗を見る。
「おい或斗。この子、あんたが怖いんだってさ。ちょっとさ、仕事と私事でのギャップが強すぎるんじゃないの? まじめなのはいいけど仕事中の態度が恐ろしいのなんの」
「えっ」
或斗がおどろいた顔で赤兵を見て、梨乃香を見た。梨乃香はあせった顔で赤兵を見ている。
「俺って、そんなに怖いか? っていうかギャップ……?」
「まさか自覚ないの? あんた、昔から仕事中は鬼みたいだよ。あたしでさえそのときのあんたには声かけづらいと思ってんだから、相当にね。まあ、仕事以外はちゃらんぽらんだけど」
「ちゃらんぽらんって」
或斗が机に両肘をついて頭を抱える。
「嘘……まさか、俺ってそんなに怒鳴ってる?」
「いや、怒鳴ることはほとんどないな。あえて言うなら、声が小さい! って言うときくらいだ。ただなあ、あんた基本的に静かに怒るから、余計に圧迫感あるっつーかさ。仕事中はほとんど無表情だし」
「マジか」
或斗が目に見えて落ち込んでいく。でも、とあわてた梨乃香が口をはさむ。
「理不尽なことで叱りつけたり、間違ったことを言ったりしたことは、一度もないです。隊長はいつも私たちの間違いを正すために叱ってくださいますし、それはたしかに、私たちのためになっています」
「おいおい、新人に庇われてどうすんだよ或斗」
「つらい。なんで教えてくれなかったんだ」
「いや、わざとメリハリつけてんのかと思ってたからさ」
「あ、あの、隊長と班長はいつから――というより、どういったご関係で?」
赤兵は仕事中もそうだが、或斗に対して敬語を使わないどころか、名前も呼び捨てで親しげだ。或斗もそれについて言及せず、お互いに軽口を叩き合っている。
赤兵が、そうだねえ、と天井を見やる。或斗がまるで昨日のことでも思い出すようにさらりと三年前、と答えた。
「俺と赤兵は元々、セレイア部隊に配属されてたんだ。こいつが入隊してきたのが三年前で、俺が教育係みたいなものだったから、それからだな。お前が思っているよりは短いぜ、俺らの縁は」
三年前――赤兵はたしか現在、二十一歳だと聞いている。つまり、入隊当初は十八歳だったことになる。
「あ、あれ? 警備隊への入隊って十八歳からですよね。それじゃ、班長は既定の歳で一発で試験に受かったんですか?」
警備隊は合格の水準が高いうえに、若すぎる受験者はほとんど浪人するものだ。梨乃香もそうだった。一浪で合格したのも奇跡に近い。それを経験せずして入隊など、滅多にない事例だと聞く。
「あたしだけじゃないよ。或斗だってそうだ」
「えっ」
「そういえばそうだったなあ」
赤兵も或斗もなんでもないような顔をしている。
「もう今から七年前か。なつかしいな」
「ということは……隊長、二十五歳だったんですか」
七年と聞くと新人からすればそれなりに長いように聞こえるが、部隊隊長という肩書きを考えるとあまりに短い。赤兵にしてもそうだ。入隊からわずか三年で班長という立場を手に入れるとは、やはりこの二人と他の隊員たちとでは、根本的ななにかが違うのだろう。
「あの、隊長と班長がまだ新人だったころって、どんな感じだったんですか?」
或斗が二杯目の酒を注文する。いいねえ、と赤兵が明るい声をあげた。
「ここいらで過去の振り返りといこうや、隊長。あたしもあんたの新人時代の話は聞いてみたいもんだ」
「昔話か……俺の過去なんて、そうおもしろい話でもないし、ちゃんと覚えてるわけでもないんだが。酒の肴にはちょうどいいかもな。よし、武勇伝は少ないが、セレイア部隊にいたころのことを思い出してみるか」
赤兵と梨乃香に乗せられてか、酒が入って口が軽くなっているのか、或斗は次のように語りだす。
「警備隊を志願した理由は……まあ、大したことでもないから、今はあえて伏せるが。さっきも言ったとおり、俺が入隊したのは今から七年前のことだった」




