0 青と赤のフレンドシップ
白黒調の壁に濃い青の垂れ幕がかかった、武骨で大きな建物。威圧的な鉄柵に囲まれたそれが、警備隊、ロワリア部隊の本部だった。午前八時。厳しい冬の寒さに震えながら、国旗のはためく正門をくぐり、高尚かつ厳粛であるべき領域へと足を進める。
吉島梨乃香が警備隊に入隊してから半年以上が経つ。しかし、まだまだ新人である彼女に与えられる仕事は、専ら事務的で地味な雑用作業ばかりで、梨乃香自身が事件の現場に出たことは一度もなかった。危険な目に遭いたいわけでも、現場の凄惨な空気に晒されたいわけでもないのだ。ただ、事務室でひたすらお茶を淹れたり書類のコピーをとるばかりでなく、もっと警備隊の人間として、らしさを感じるような、やりがいのある仕事がしてみたいというのが本音だ。
この国、ロワリア国で二番目に大きなこの建物に、梨乃香と同じ制服を身に纏った何十もの隊員たちが出勤してくる。まばらに響く人々の足音。隊員たちのなかには梨乃香のように若い者もいれば、さらに歳を重ねた貫禄のある面持ちの者もいる。男女の比率としては男性のほうが多い。
たくさんの足音にまざり込んで歩いていた梨乃香だったが、進行方向にいた隊員たちが背後をちらりと見た途端、一斉に姿勢を正して敬礼したので、梨乃香はおどろき、思わずそちらを振り向いた。
短く整えられた暗い色の頭髪。明るい青をたたえた瞳。目尻はやや吊り上がっているように見えるが、決して目つきは悪くない。他の隊員たちと同じく紺色の制服。胸元のバッヂには二本の飾り紐。背はすらりと高く、顔立ちは若い。十九歳の梨乃香ともそこまで大きな年の差はないだろう。
警備隊員が身に着けるバッヂと装飾は、その者の階級を示すためにあった。梨乃香にも、周囲の隊員たちにもバッヂの飾り紐はついていない。二本の飾り紐からわかる彼の立場――それはその部隊の隊長である、ということ。我がロワリア部隊を取り仕切っている、この部隊で最上の階級。彼の姿が目に入った瞬間、梨乃香は素早く道をあけ、敬礼した。
その青年こそが、若くしてロワリア部隊の頂点に立つ男――或斗部隊隊長。厳格で、まじめで、聡明で、怒らせると鬼より怖いと噂だ。若くして部隊長の座に就いた実力者で、梨乃香は彼のことを恐れる傍ら、非常に尊敬していた。
周囲の隊員たちが口々に、或斗に挨拶をする。或斗もそれに応えている。おはようございます、梨乃香も口を開こうとしたとき、それより先に声をあげ、或斗の肩を叩く人物がいた。
「よう、或斗。おはようさん」
「赤兵、朝から元気だな」
赤みがかった髪に、彼女の勝ち気な性格を思わせる赤い瞳。胸元のバッヂには一本の飾り紐。それは班長である証だ。彼女――赤兵は、梨乃香の所属するA班の班長を務めている。いつ誰にでも強気で豪快な人だ。
或斗隊長と赤兵班長、二人の仲の良さを知らない隊員は、この部隊には存在しないだろう。聞いた話によると、二人は元々は別の部隊に所属していて、そのころからバディを組んでいたらしいが、最近になってこのロワリア部隊に赴任してきたらしい。
「また今日も眠そうな顔して。……おっと、隊長、ネクタイが曲がっておりますが?」
「ああ、すまん。いや、おいちょっとキツいぞ」
赤兵は或斗のネクタイを正し、軽く手を振って機嫌よさげに屋内へ入っていく。一人、その場に残された或斗は自分でもネクタイを少しいじってから、とくに何事もなかったかのように歩き出したのだった。
ロワリア部隊の通常勤務。一日二時間から三時間ほどの訓練。定期的な街のパトロール。当番制の施設内清掃。報告書や顛末書をはじめとした書類の作成や整理などの事務作業。一般市民からの通報があれば即座に出動――これらが基本的な業務内容となるが、ロワリア部隊の場合は、この国は狭く、また平和である。そのうえ国内には十年ほど前から既に自警団の役割も併せ持つ組織があるため、警備隊の出番というのはあまりないというのが現状だ。
なので国内よりも国外、南大陸中の全六カ国をそれぞれ管轄する別の部隊からの応援要請を受けて、人員の貸し出しという形で現場に向かうのだ。警備隊は万年人手不足と言われているが、ロワリア部隊に関しては飽和状態にあり、しかし、むしろそのおかげか、少なくとも南大陸の警備隊は他大陸よりは人手に不自由していない。
ただ、自分たちの管轄内があまりに平和であるゆえに、ロワリア部隊の隊員は実戦経験があまりなく、現場での捜査のうちに戦闘が発生してしまうと少しばかり弱く頼りない部分もあった。その問題を解決に導こうとしているのが、新たにロワリア部隊の隊長として任命された或斗隊長だ。
或斗と赤兵が来る以前までは一日一時間が基本だった訓練時間が倍以上になり、その内容も一変した。基本的な筋肉トレーニングやランニングなどの基礎体力をつける運動や、射撃、剣術、組手はもちろん、それ以外の細々とした――例えば鍵開けや縄抜けなどの――いざというときに役立ちそうな技術など、こなすメニューが格段に増え、訓練の密度が増した――らしい。梨乃香の入隊は二人の赴任と同時期だったので、二人が来る前のロワリア部隊がどうだったのかは知らない。
トレーニングの時間が増えたこと、その内容がより厳しくなったことに、一時は賛否が分かれたこともある。今までどおりでも十分にやっていけているのだから、無理をしなくても――という怠惰の気持ちが表れたのだろう。しかし、文句を言っていたのは最初だけで、だんだん体力がついて訓練についてこられるようになれば、想定以上の達成感があったのか文句を言う者は徐々に減っていった。なかでも、対人戦を想定した実戦訓練などは隊員たちのなかでも評判が良かった。
ただペアを組んで戦闘練習をするだけでなく、三対一での立ち回りや連携の取り方、逃げる者を指定された時間以内に捕まえるゲーム形式の追跡訓練。ときどきトーナメント形式で勝ち抜き戦をおこない、優勝者には食券などのご褒美が贈呈されるような、ちょっとしたイベントが開催されたりもする。
赤兵と或斗は訓練中には教官として皆に指示を出すのだが、指揮をとるだけでなく二人も他の隊員たちと同じ分、いやそれ以上の訓練メニューを一緒にこなしている、というのも反感を買わない理由のひとつでもあった。赤兵と或斗は二人とも負けず嫌いなようで、よく訓練中に二人で勝負をはじめてしまうのだが、二人の動きを見ているだけでも勉強になった。あきらかに強いのだ。
訓練中、梨乃香も赤兵と手合せする機会があった。手加減されていることはわかるし、こちらは受け身も防御も取れていたが、それでもなお一撃がとてつもなく重かったのをよく覚えている。梨乃香もいつか、あの二人のように強くなれるのだろうか。
扉をノックして、そっと部屋に顔を出す。梨乃香はまたお茶汲みなどの雑用ばかりさせられているのだが、今日は他の隊員から或斗にも茶を持って行くようにと言いつけられてしまった。怖いからといって断るわけにもいかず、身の竦む思いで隊長室まで来たのだ。
「失礼しま――」
「そんなことが許されるとでも思っているのか」
鋭い声にどきりとする。隊長室には後方に怪我を負った数名の隊員が並んで立っており、部屋の真ん中に一人の隊員と、彼に冷たい目線を向ける部隊長、或斗が立っていた。室内は息も詰まりそうなほど緊迫した空気に包まれており、無関係な梨乃香も思わず萎縮する。
「今回のことは始末書のひとつで片付けていいことではない。結果よければ、と楽観的に捉えているならば改めろ。その軽率な判断が何人の命を危険に晒したと思っている? 市民さえ守ればそれでいいわけではないのだぞ」
「申し訳……」
「声が小さいッ!」
「も、申し訳ありませんでした!」
最悪のタイミングで来てしまった。二進も三進もいかず、梨乃香がおろおろしていると、或斗の目がこちらに向いた。凍りつくように全身が固まる。
「A班の吉島梨乃香隊員か。どうした」
「あ、あ、あの、隊長に、お、お茶をお持ちし……」
「ああ、頼んだ覚えはないが……そうか、ありがとう。そこに置いといてくれ」
「は、はい」
言われるがままにそろそろと部屋に入り、奥のデスクにお茶を置き、そそくさと扉に飛びつく。へっぴり腰の梨乃香を笑う者などいなかった。
「し、失礼します」
やっとの思いで逃げ出し、閉じた扉に背中をついて、大きく息を吐く。生きた心地がしない。あれはたしかC班の隊員たちだ。説教を受けていたのはその班長。たしか、南大陸の最東端に位置するウィラント国へ応援に向かっていたようだが、おそらく現場でなにかあったのだろう。
或斗隊長の説教は傍で聞いているだけでも縮こまってしまう。幸いにも梨乃香はまだあの冷ややかな怒声を受けたことがないのだが、できれば今後一生、そんな機会は御免こうむる。そのためにも常にまじめに、誠実に、勤勉であろう。梨乃香はそう心に誓ってから早足でその場を去った。




