15 赤の窮地と黒の収束
赤兵が覚悟を決め、剣を握りなおしたときだった。
男の死体を食いあさる魔獣たちの、すぐ横の石壁が轟音とともに吹き飛んだ。無数の瓦礫が降り注ぎ、ほとんどの一角狼は回避が間に合わずにその下敷きになる。赤兵はそちらに気を取られ、そして、目を疑った。
「赤兵、無事か!」
「あ、或斗! なんでここに?」
壁の向こうから現れたのは或斗だった。額に傷を負っており、頬までその血が垂れている。息は荒く、瓦礫の山を乗り越えてこちらにやって来る足取りもどこか頼りない。服は汚れ、顔色も悪い。壁の崩壊に巻き込まれずに残った一匹の一角狼が或斗に向かって襲い掛かるが、赤兵が投げつけた剣が頭に刺さり、倒れ込んだ。或斗がその剣を抜き取って赤兵に返す。なぜかユミルが或斗のうしろから赤兵のもとへ駆け寄ってきた。
「やっと部隊に合流したと思ったら、他の隊員が赤兵が迷子を捜しに行ったきりだと。それでこの近くまで来たときに、この教会のほうで大きな音がしたから、まさかと思って。そしたらこの子を見つけて……」
ちら、と或斗がユミルを見た。ユミルは視線に気付き、赤兵のうしろに隠れてしまう。或斗はそのまま赤兵に向き直り、今朝にベアムへ発ってから戻って来るまでの出来事を簡潔に説明した。赤兵は黙って聞いていたが、話し終えたときに或斗が赤兵の左腕に気付く。
「赤兵、その傷は?」
「ちょっと野良犬に噛まれただけさね。あ、でも、消毒と傷口の保護と、今の戦いのうちに無駄になっちまったが、一応は止血もしてるんだからな」
「……そうか。だが一刻も早くちゃんとした手当てを受けたほうがいいな」
「あんたこそ、ずいぶん男前になったじゃないか。よりにもよって頭をやられて……平気なのか?」
「あまり平気でもないが、能力を使わなければ問題な……」
ぼた、と或斗の鼻から血が出た。数滴どころではなく、ぼたぼたと際限なく流れ出した血液に、或斗はあわてて鼻を押さえる。
「お、おい或斗」
「だ、大丈……」
近寄ろうとする赤兵に手を向けて制止する或斗だが、体がぐらりと大きく揺れ、頭を押さえてその場に膝をついてしまった。ここに来るまで――具体的には一度捕まって脱出するまで――に、かなりの力を消耗していたのだ。今ここで石材の壁を吹き飛ばしたのは、魔獣を一網打尽にして赤兵を救うためだったが、それも苦渋の決断だっただろう。
「う……」
「む、無茶するからだ。おい、立てるか?」
荒い呼吸を繰り返しながら、或斗は立ち上がろうとするも、体が言うことを聞かないのか手足がぶるぶると震えているばかりで、自力では動けそうにない。
「も……少し、待てば、おさま、る」
「本当かよ。さすがのあたしでも、この状況であんたを片腕に抱えて行くのは無理だぜ?」
「い、や……、……いや、大丈夫、だ。……マシになってきた」
「本当に大丈夫なのかよ」
「ああ、ああ……もう、立てる。それより、この子の避難を、急がないと」
或斗はゆっくりと立ち上がるが、依然として顔色は悪く、立っているだけでもふらついている。口元が鼻血でベタベタだと指摘すると、袖で乱雑にぬぐった。
「急ぐぞ。余力がないのは俺だけじゃないだろ、赤兵」
「……ふん。バカ言え、あたしはまだ戦える。道中のワンちゃんどもは任せな。あんたはその子を見といてくれ。ちゃんと歩けるんだろうな?」
「力を使った直後が特別にキツイだけで、時間を置けばだんだん良くなってくる。とはいえ、あと一回でも力を使えば、また倒れてしまいそうだが」
「そうかい。じゃあ、なにがあっても使うなよ」
「ああ。行こう」
教会を出るときはおぼつかない足取りの或斗だったが、しばらく歩いて先ほどC班の班長と別れた地点に到着するころには、平衡感覚をすっかり取り戻したらしく、歩く速度を上げてやや小走りになっても問題なくついて来た。
問題のカルセットの大群だが、他の隊員たちの無線での報告を聞いている限りだと、南区には手の空いた隊員や他部隊からの増援が加勢に行き、大群の戦力の実に五割を削ったそうだ。しかし住民の避難が完了しているからいいものの、既に防衛体制は当初と比べて大きく崩されており、防衛ではなく戦争と成り果てている。
そして残りの五割が街にどんどん侵入してきているのはわかった。先ほど通ったときよりも街が荒れていて、カルセットの姿も多く目につくようになったからだ。ただ、騒ぎで寄ってきた別種の野生カルセットとの争いや、一角狼同士の仲間割れもそこかしこで起きているので、残りの五割――といっても実際はそれより少ないはずだ。それでも避難の途中に既に何匹も屠ったが、魔獣は次々に湧いて出る。じきに他の隊員たちがここいらの魔獣も殲滅しに来るだろう。
「前には進めてるけど、キリがねえな」
「赤兵、血が」
左腕の傷から垂れた血が指先から地面に滴る。上腕に巻いたネクタイをもう一度きつく巻きなおす。左袖が血を吸って重い。戦う際に力んでしまって、どうしても出血を促してしまうのだ。もはや止血の意味がないようにも思えるが、これがなければもっと多量の血を流しているだろう。
「顔色が悪いぞ。血を流しすぎたんじゃないのか」
「なに、まだ平気だ。少なくとも避難所に着くまでは持つ」
先頭を歩く赤兵が足を止める。目だけを動かして周囲を確認し、鼻を鳴らす。ユミルが心配そうな顔で赤兵を見た。
「……お姉さん?」
「し。獣のニオイが濃くなった……まずいな、囲まれてる。血を嗅ぎつけられたか、それとも逃げて来る人間を待ち伏せしていたか」
「数はわかるか」
「そのへんの物陰からチラチラ見えているだけで五匹。遠巻きに警戒してるのが……どうだろうな。向こうに二匹見えるが、まだいるかもしれない。或斗、体の調子は?」
「単純な戦闘だけなら問題ない。……と思う」
「んだよ、頼りねえな」
「この子を守りながらとなると、多勢との戦闘は避けたほうが――」
或斗が言い終わらないうちに、物陰から三匹の一角狼が姿を現した。赤兵と或斗は同時に構えて迎撃態勢に入る。三匹同時に飛びかかって来るのを、一匹を石を投げつけて怯ませ、あとの二匹を二人で同時に斬り捨てた。残った一匹が頭を振って距離を取り、遠吠えをあげる。するとその左右から二匹、奥から三匹加勢した。
「言ってる場合じゃなくなったな。やれるか?」
「当然だ、あたしを誰だと思ってやがる!」
五匹になった獣たちが野蛮に吠え散らしながら地面を蹴り、五匹が同時に高く跳んだ。その動きをよく見ながら、二人は剣を強く握る。
だが、それらを地に落としたのは、或斗と赤兵、そのどちらでもなかった。
突然、まったくの別方向から放たれた矢が、その場の魔獣全てを貫いたのだ。矢――と言っても、細長い棒状の物が飛来したために咄嗟にそう思っただけで、実際には細長い鉄杭のような外見だ。杭の飛んできた方向を目で追うと、おそらく民家だろう。その屋根の上に誰かがいた。
「あ、あれ、は」
その誰かは、手に弓などは持っておらず、そして赤兵たちに気付くと眉をひそめた。腰にさげた大剣を手で支え、屋根から飛び降り、平然とこちらに歩いてくる姿は、何度も目にしたことのある一人の男。
陽の光をまぶしく照り返す左右非対称に伸びた銀髪。その真っ白な髪とは反対に、目尻の吊り上がった黒い瞳。右頬の下に十字架の刺青。耳には十字架のピアスと、襟元にはこれまた十字架のチョーカー。しかし、神聖さのカケラも感じさせない日頃の粗野で乱暴な言動が、彼に信心など微塵もないことを物語っている。
「なんだぁ? いきなり犬どもが飛び跳ねたと思ったら、人間がいたのか」
セレイア国の化身、セレイア・キルギス。
「せ、せ、セレイア……」
「お? ……ああ、てめえらか。なにしてんだこんなところで」
「い、いや、それはこっちのセリフっつーか……」
「この国は俺の庭だぜ? いつどこをどう散歩しようが俺の勝手だ。で、その庭を荒らしまわってるクズどもがいるって聞いて、気に入らねえからぶっ潰しに来ただけだ。……なんだ、そのガキは?」
セレイアがユミルに気付く。すると、ユミルはやはり赤兵のうしろに隠れてしまった。たしかに、子どもにしてみれば怖いだろう。或斗が説明した。
「迷子です。母親とはぐれて、街に取り残されていたところを赤兵が発見し、保護しました。避難所へ連れて行こうと急いでいたところです」
「そのツラを見るに、てめえら二人とも満身創痍みてえだが。そいつぁご苦労なこった」
言いながらセレイアが片手を挙げ、ハンドサインのような動きをした。すると、彼の周囲に先ほどと同じ細長い鉄杭が現れ、彼の合図によって赤兵たちの背後へとひとりでに発射される。その瞬間、風を切る音にまざって、かすかに水の匂いと、頬になにか冷たい物がかかった気がした。
近すぎず遠くもない位置から獣の悲鳴があがる。振り返ると、杭が頭に深々と突き刺さった一角狼が転がっていた。水属性系の能力だろうと直感する。
「それより、なんだってんだこの騒ぎは? カルセットがテロでも起こしてんのか?」
何事もないように言うセレイアに、或斗が戸惑いながら頷く。
「お、おおむねそのとおりです。警備隊員が押し留めてはいますが、カルセット一角狼を手懐けて率いているテロ集団が、都市部を侵攻中で」
「死んだな、そいつら」
「え?」
「ヒト型ならまだしも、獣型の有害カルセットの代表格たる一角狼を手懐けるなんざ、ただの人間にできるはずがねえ。やつらもバカじゃねえからな。おおかた、おとなしく従ったフリをしておいて、混乱に乗じて背後から喰い殺す機会をうかがってるんだろうよ」
「たしかに、あたしがさっき戦ったやつも、手懐けてたはずの一角狼に襲われて死んだ。まさか他の場所でも?」
「いつそうなってもおかしくはねえな。いや、もうなってるかもしれねえ。他に知ってることを教えろ」
「知ってること……そうだ、或斗」
「ベアム亡国にその集団のアジトがあったのを、今朝に発見しました。それから、テロに参加しているメンバーの連判状がそこに……これです」
或斗が胸ポケットから折りたたまれた紙を出してセレイアに渡す。セレイアはそれを見ると、めんどくさそうにため息をついた。
「二十――六人か。脆弱な人間がたったこれだけで俺に挑もうとした、その度胸だけは認めてやらなくもねえが、……おい、スーリガ。いるか」
二秒後、傍の通路から一角狼の死骸が飛び出してきた。そのあとにゆっくりと人間の足音が近付き、現れたのは軍服を着た長身の男だ。青い髪は襟足がやや長く、セレイア同様に目つきが悪い。炎のような赤い瞳は、下のまぶたに暗い隈を持っている。
「……ん。なんだ、ここにいたのか。セレイア」
「なんでもいいからアシ用意しろ。今すぐだ。おい警備員、連中の根城を知ってるなら案内はお前がやれ」
「えっ」
「セレイア。馬車の手配はするが、出発よりその子どもの避難と二人の手当てが先だ。人間の体はお前が思っているほど丈夫にはできていない」
スーリガと呼ばれた男がセレイアに意見する。こちらはわりと常識人のようだ。セレイアはスーリガを睨むが、舌打ちをしてから北の避難所に向かって歩き出す。或斗たちもそれに続くが、スーリガはこちらに背を向けて、どこかに連絡をしているようだった。
「人間ってなぁ、つくづく脆弱だな。ならさっさと行くぞ。街はてめえら警備隊に任せときゃそのうち鎮圧するだろ」
セレイアに連れられて避難所に向かい、ユミルを母元に送り届け、手当てを受けたら、休む間もなく再び外へと連れ出された。突然現れた国の化身に、避難所にいた民草はおどろきを隠せずにいたが、セレイアはそれに構わず隊の者に一連の話を進め、強引に出立を決行したのだ。スーリガはここに残り、警備隊に助太刀するようだ。
馬車の中、窓の外を眺めながら誰かと連絡を取っていたセレイアが、通信機を切って赤兵たちを見た。
「街はずれの廃墟に馬が繋がれていた。そのテロ集団が移動に使ったんだろうよ。だが、それにしちゃ見つかった馬の数が少ねえ。おそらく、既に五人ほど都市部からアジトに逃げ帰ってるはずだ。閉じ込めてたはずのお前がいなくなったことに気付いたら、すぐにでも行方をくらませるだろう」
「つまりあたしらは、そいつらがどこぞへ逃げちまう前にカチこむってことか」
「わかってんじゃねえか。……ったく、ベアムが留守でなきゃ、わざわざ俺が出向く必要もねえってのに」
「それで同行するのが怪我人の赤兵と俺というのは……」
独り言のように呟く或斗だが、セレイアは鼻で笑う。
「人数がいるってところに目をいかせるのが目的だから誰だっていいんだよ。お前らは戸口に立ってるだけでいい。あとは俺が片付けてやる。ま、それで逃げ出したやつがいたら、追ってもらうことにはなるだろうが」
あれやこれやと話すうちに目的の森に到着した。馬車を降り、或斗が先頭に立って赤兵とセレイアを導く。しばらく歩くと、やがて大きな廃倉庫が現れた。或斗は声をひそめてセレイアを振り向く。
「あそこです」
セレイアはずかずかと倉庫に歩み寄り、大きなガレージの横の扉の前で屈む。なにかを拾って立ち上がり、赤兵にも見せた。
「なんだこりゃ。……絆創膏?」
「それ、或斗のじゃねえのか? たしか、最近はいつも持ってたろ」
「あ……すみません、さっき捕まったときに落として、拾うのを忘れていました」
「ふうん。なんでこんなところで絆創膏を?」
「鍵開け用の針金が一緒に入っているんです。いつ必要になるかわからないので、隊員の多くはどこかしらに持って歩いてるんですよ」
「鍵開けぇ? コソドロみてえなこと教わってんだな、警備隊ってのは。……ん? いや、待てよ、そういや、鍵開けなら俺も得意だったな」
「え、あんたが?」
赤兵が意外そうに言う。たしかに、或斗も同じようなことを言いそうになった。彼が針金を持って、扉の前で地道にカチャカチャやっている姿が想像できないのだ。
セレイアはにやりと口角を上げ、扉に向き直るとおもむろに右足を上げ、あろうことかそのまま扉を蹴破ったのだ。ドカン、と派手な音が森中に響く。鍵どころか蝶番から破壊され、扉そのものが中に向かって吹き飛ばされる。
「……ほら、な?」
大きく歪んだ扉の下敷きになって、男が一人のびていた。おそらく、外から聞こえた話し声を不審に思って近づいたところに、飛んできた扉が直撃したのだ。部屋の中にいた残りの五人がざわつき、しかし、すぐに武器を構えて迎撃の意思を見せる。
それからは早かった。セレイアは獰猛な獅子のごとく苛烈さで暴れまわり、瞬く間に五人の男を片付けたのだ。うち四人は能力者だったのだが、彼の前ではそんなものは些細な問題らしかった。人間業ではない。いや、真実、彼ら国の化身とは人間と同じカタチをとって存在しているだけで、決して人間ではないのだ。
かくして、テロ集団の企ては失敗に終わったのだった。