前編
安倍マリア。父はかの有名な安倍清明の血を引く末裔で、母は異国の地からやって来た魔女だった。父には生まれたときより定められた許嫁がいたにも関わらず、母との道ならぬ恋に走り、父の裏切りを愛していたが故に許せなかった許嫁によって呪い殺された。母は私を生んだ瞬間に、怨霊となった許嫁によって取り憑かれ殺された。
私も殺されそうになったが、父の霊によって助かった。
父は母よりも私の命を選んだ。そう言えればどんなによかったかと思うが、現実には、父は私ではなく母と輪廻の輪に戻ることを選んだに過ぎない。人を呪い殺した許嫁は輪廻の輪には戻れはずもなく、遅れてやって来た安倍家の者に祓い滅された。
そうして一人この世に残された私は、安倍家の血を引く半端者として、渋々本家に引き取られた。
生まれてから一度も染められたことのない完璧な黒髪を腰まで伸ばされ、夜をそのまま嵌め込んだような美しい黒い瞳を瞬かせながら、マリアは縁側で己の式神と戯れていた。
安倍家で育てられて早十七年。魔女の血が半分入ったマリアは、まともに陰陽師の教育を施されることもなく、広大な安倍家の敷地の隅に慎ましい離れを与えられただけだった。
それでも、同世代の安倍家の子どもたちが操る式神を見よう見まねで真似て、なんとか彼女の容姿とよく似たカラスアゲハの式神をたくさん生みだすことは出来た。
細い指に、マリアのカラスアゲハが一匹とまる。
主であるマリアにだけ伝わる言葉で、カラスアゲハが視てきたものを伝える。
「ふうん、そう。空間の歪みがねえ」
マリアは日本人離れした美貌に笑みを浮かべた。
―――もうすぐ、この退屈した日々が終わる。
「この家を出られるなら、異世界だろうと地獄だろうと大歓迎だわ」
マリアの中に流れる魔女の血が告げている。
もうすぐ大規模な魔法が日本に展開され、界を越えて誰かが引っ張られるだろうと。
マリアは式神を使ってそれを探らせ、そして強引に自分が選ばれるように仕向けた。
準備は万端。あとは時が満ちるのを待つのみ。
「私を満足させてくれる何かがあるといいのだけれど」
指先にとまったカラスアゲハに、そっと赤い唇を寄せて口づける。
蝶はぴくりと羽をふるわせ、月へ向かって飛翔した。
「選ばせてあげるわ。ここで死ぬか、私のペットとして生き延びるか」
煌めく銀色の髪をもった頭部に生えた黒いロップイヤーの耳をやわやわといじりながら、私はにっこりとほほ笑みかけてあげた。膝をついてくる男の美しい顔が、耐えるような表情になる。でも、彼の頭に生えたお耳は素直。私が触るのに反応して、ぴくぴく痙攣する。
「ペットがご不満?
私のお願いを聞いてくれて、私を守ってくれるなら呼び名なんでどうでもいいの。
可愛いらしくて愚かな兎さん」
セーラー服からシュッと音を立ててリボンを抜きとる。
真っ赤なリボンを、首輪代わりに喉仏の出た男の色っぽい首に巻いてやる。
男の蒼い瞳が、じっとこちらを見ている。不愉快だわ。私はわざときつくリボンを結んでやった。男がうっと苦しげな声をあげる。
「似合うわ。サヴァン。兎みたいな耳をつけた魔族のあなたにぴったり。
瞳が蒼いのが気に入らなかったから、この紅いリボンがあなたにお似合いだわ」
私はきつく結んでやったリボンをいじる。
男――サヴァンと勝手に名付けてやった名前で呼べば、一瞬きょとんとしたものの、すぐに己の名だと気づいたのか、サヴァンは特に異論を示さなかった。私になされるがまま。
それどころか、どこか無機質だった蒼い瞳が、今は熱っぽく私を見つめてさえいる。
「従属して喜んでいるの?気持ち悪い男ね、あなた」
気持ち悪いけれど、私だけを見つめてくれるのなら許してあげるわ。
私は内心でそうほくそ笑み、リボンを引っ張って、サヴァンの顔を自分の顔の方に引き寄せる。
「望み通り結んであげる、<魂の隷属>。私の母の――魔女は悪魔と契約を結ぶものだと聞いたわ。私が異界で魔族と契約を結んでも何の不思議もないわよね」
私を嫌々育ててくれた安倍家は妖魔と契約を交わし使役している。
これは魔女と陰陽師の両方の血を受け継ぐ私の必然的な運命なのだろう。
人ざらなる者と契約を交わし従えるという事実に、半端者の血が歓喜をあげているようにさえ感じる。
「さあ、誓いのキスを交わしましょう」
まるで興奮するかのように火照った自分自身の身体を抱きしめ――、それから私以上に興奮したような面持ちで私の挙動を見守るサヴァンの冷たい唇を強引に奪ってやる。
「あぁ――…あぁ、マリア様……マリア様……」
触れるだけの口づけで誓いを終わらすつもりだった。
発情してきた浅ましい兎が、下僕の分際で立場を弁えず、涎を垂らしなが躾のなっていない獣のように私の唇を舐めてくる。
浅ましくも出会ったばかりの私を一心に求めてくるその姿に、少しだけご褒美をあげなくもないと思った。
「ン、仕方ないわね――」
毛並みのよいロップイヤーを掴みながら、舌を伸ばしてやる。
「マリア様…っ!」
サヴァンは感極まったような声をあげ、私よりも血色のよい舌を自ら伸ばし、ちろちろと舌を絡めてきた。
「んむ、ふぁ、あぁ」
人間を堕落させ、絶望と快楽の感情を食らう魔族だけはある。
サヴァンの舌使いにあまく切ない快感が生まれ、私ははしたない声をあげてしまう。
私の反応に気を良くしたサヴァンの手が、セーラー服ごしに私の胸の方に伸びてくる気配を感じた。
分を弁えない不埒な兎には躾が必要。
互いの口の端から唾液を零しながらも絡め合っていた舌に、思いっきり噛みついてやった。
「……っ!マリア様、どうして…っ」
それはもう血が出るくらい、思いっきり。
サヴァンがこちらの嗜虐心をくすぐるような哀れめいた表情を浮かべ、私を非難する。
蒼い瞳は色っぽく潤み、吐く息は荒い。躾のなってない下僕は、発情した彼自身を私の太腿に擦りつけてさえきていた。
「穢らわしいものを擦りつけないで。気持ち悪いのよ、あなた」
ぽたぽたと噛みついてやった舌から血を零すサヴァンを見つめ、あたしは冷たく言い放つ。
「それに、私があなたに許したのは唇までよ?サヴァン。胸を触ろうとするなんてもってのほか、あまつさえあなたの醜い欲望を向けてくるなんて、鳥肌が立っちゃうわ」
手の甲まで隠れるくらい長いセーラー服の袖を、腕までめくりあげて鳥肌を見せつける。
「気持ち悪い…俺がですか…マリア様…」
口の端から血が零れるのに気にも留めず、私に気持ち悪いと言われて呆然とするサヴァン。ただでさえ垂れた可愛らしい耳が、余計にうなだれる。
――ああ、なんて可愛らしくて愚かな兎。
私の言動で一喜一憂その姿に、たまらない優越感を覚える。
これが支配の愉悦。私は穢らわしいと思いながらも、指先で口の端の血を掬いとり自分の口に運んで舐め取ってやる。
「ま、りあ様」
馬鹿の一つ覚えみたいに、さっきから私の名前しか呼ばないサヴァンは、私の行動に声を震わせた。




