愛の行く末
一
冬の北陸、豪雪で知られるこの地を恐怖が覆った。北陸連続放火事件の発生である。はじめこの事件は、高岡連続放火事件として五件の放火を数えられるに過ぎなかったのだが、それが高岡に限らず富山市においても三件あることが分かり、富山連続放火事件となった。ところがこれだけではなかったのである。魚津で一件、滑川で一件、細入で一件、上市で一件の合計十二件がどうやら同一人物の犯行の疑いが強いことがわかったのだ。これほど広範囲で行われる事件である。これは富山県内に限らず他県にも飛び火していやしないかと調査した結果、新潟、石川における幾つかの放火に対しても同一人物の恐れありとなり、北陸に戦慄が走った。
この事件の最大の特徴は、犯行の動機がまるで不明であり、また一つ一つの事件に関連性を見出せないことである。それ故、連続放火事件として認識されるまでに時間がかかったのだ。強いて関連性を見出せると言えば、深夜に犯行が行われることが多いことだろうか。しかしそれとて、放火一般に言えることであって、この事件の特徴と呼ぶには聊かの疑念が生じる。それが三県に渡って操作網を拡大せねばならないのであるから、どれほど警察が混迷したかを察するに容易であろう。元来警察は縦割りの組織、それも県単位で区分されているのだから、如何に北陸とひとつに括られていようとも連係は難しいのだ。
しかしそれでも、この連続放火事件は既に五名の死者を出しており、一刻の猶予なしとして、即座に大捜査網が展開されることになった。しかしこの恐るべき犯人は、同一地域で二度の犯行を行った例は稀であり、その過去の例を取ってみても、高岡市と富山市と言う大合併の結果極めて広大な市域を抱くに至った二つの市で、それとて、例えば富山市の旧大沢野町にて二度の放火があったが、それも坂本と笹津と言う町の端と端の位置関係にある地区で行われたものである。その上、犯人の動機がまるで不明であって、事件に関連性も薄いのであるから、まるで特定のしようがない。警察の懸命な捜査を嘲笑うかのように、次の犯行はまさかの大阪で行われるのであった。そして兵庫でも一件。最も、これらが犯行の一つであることを、ついに警察は知ることも無く、この事件は迷宮入りとなった。
二
山田一郎は立山町に住む三十二歳の男である。
彼の親は酷い虐待を彼に加えた。彼に兄弟は無かった。親族は誰一人としてない。唯一父がいたが、その父も彼が十四歳の時に死んだのだった。
山田一郎は或る父親代わりとでも言うべき人からの斡旋を受けて、ここ立山町で仕事をすることになった。故郷と離れた場所で、一人静かに観光地の用務員でもしているのが彼に相応しかろうと考えてのことである。
彼は彼の仕事を気に入っている。恐らくは天職であろうとも思っている。用務員として、一人で黙々と作業に没頭できるこの仕事を。春夏は清掃が専らの仕事である。観光地の清掃作業は、楽に思えて実に辛い。そこいらにあるゴミ箱も、こまめに捨ててやらねば、鹿や猿だかが来て漁って行くのである。ゴミ箱からゴミ捨て場への距離も長い。手押し車で日に何度往復するか、数え切れないくらいである。事務のおばさんが面白半分に万歩計を彼に与えて測らせたことがある。そうして日に二十キロ以上を歩くことが分かった。春はまだしも、夏場の過酷さは察するに余りあるだろう。とりわけ北陸の湿度である。日本一雲の多い県は富山であると言うが、それも住むものには確かな実感となる。秋は秋で、来る冬に備えて松や何だと木が雪で倒れぬように縄で補強してやらねばならない。そのくせ観光客は紅葉狩りだと言って増えるのだから堪らない。冬は冬で、一日事務所の番をせねばならない。暖房は旧式のストーブ一つである。一晩で五十センチ積もることなどざらな地域であるから、その困苦も察しえよう。そのような仕事を彼はやっている。それも薄給ではあるが、元来欲の大部分を失った人間であるから、まるで意に介することはなかった。
彼は給料の大半を使うことがなかった。二年前、なんとなく中古の一軒家を買うことがあったが、他に金を使うとすれば、外食をするときくらいのものである。唯一彼に人間らしいところを見出すことが出来るとすれば、不味いものを好まないことであろうか。それより他は、まるで空っぽな人間である。
彼の自宅は、小さく古い家である。それでも三つの部屋と台所と居間があったが、彼は一つの部屋のみを使っていた。その部屋すらも、これと言ったものはおかれていなかった。がらんどうと言っても、差し支えないくらいである。
三
或る真冬の朝、彼は自動販売機に珈琲を買いに行く途中、或る女性を、それはまだ少女と呼ぶべき女性を見つける。傍目から見ても容姿端麗で、その着こなしのハイソであることは、彼の様な人間でも分かった。その女性をぼうっとして彼は見ていた。その女性は、彼の視線に気付くことなく、すうっと通り過ぎて行った。そして女性はふと立ち止まって、周囲を見渡した。おもむろに鞄から何かを、それはおそらく地図を取り出し、また歩き出した。彼は、何となくではあるが、彼女を何処かで見た記憶があった。そんな気がしたのだが、それが思い出されない。しかしよく考えれば、観光地で働く彼が、恐らくは観光客であろう彼女を見た記憶があっても何らおかしくは無いはずである。そう思い至った彼は、缶珈琲を買って、特に気に留めることなく家に帰るのだった。
四
彼は深夜、珈琲を買いに自動販売機へと向かった。寒いこの季節、しばしば彼は夜中に起きるのだが、寒さを気にかけない彼は、ジャケットを羽織って、よく珈琲や紅茶を買いに行くのだった。ただ甘く暖かい珈琲や紅茶を飲むためだけに。
その途中、彼は数日前、朝に見たあの女性を発見した。以前とは異なる格好で、しかし変わらぬ美しさで。ぼうっとして、彼は彼女を見ていた。余りにも影と一つになっていた彼を、彼女は見つけた。そうして、少し笑ったのだった。
五
彼女は彼の家に来ていた。彼に招かれて。彼は彼女を無理に連れて来たつもりはなかったのだが、彼女からすると非常な強制力で連れられて来たに違いなかった。だが意外なほどに彼女は無警戒で、何一つとして彼を拒むそぶりを見せなかった。ただ寒さからだろう。身を少し震わせて、萎縮してはいた。
彼は自動販売機で買ってきた珈琲の缶を開けた。そうして、彼女に、彼女が選んだ紅茶を渡した。彼女はそれを開けなかったが。
沈黙が二分か三分流れた。そうして彼は、ストーブをつけていないことに気がついた。元々、鈍い人間であるから、冬であっても暖房をつけないことはよくあるのだが、客人、そう確かに客人に違いない者がいるのだから、非礼であったと恐縮に思い、彼女に謝るのだった。
それを彼女はおかしく思った。そうして、沈黙は破られたのだった。
六
女は意外と厚くしっかりした座布団、それは殆ど新品同様であったものに座り、じっと男を見ていた。男も女を見ていた。そうして見つめあっていた。だが男の、ちょっと間の抜けた謝罪が契機となって、女は男に語りかけるのだった。
「貴方、何を御所望? 私、大抵のものであれば用意することが出来ますよ」
「別に、何も。欲しいものは無いです」
「欲しいものがない? そう。それなら……それなら、何で私を此処に連れてきたのですか?」
「ただ、寒そうでしたから。あそこでずっと立っているわけにもいかないと思ったのです」
「そう。変な話ね」
「そうかも知れません」
果たして男はどこを見ているのだろうか。確かに女を見ているに違いないが、どうにもその女を透して何かを見ている気がする。それが女の素直な感想だった。女はそこに不気味さと興味とを覚えた。そうして、独白するように語った。
「……私、欲しいものが一つあるの」
「それは何ですか」
「愛です。私、ずっと愛を求めているのです。そうして、色々なところに行って来ました」
「そうですか」
「でも、見つかっても、愛ってすぐ手放さなくてはならないのです。悲しいものですね」
「……そうでしょうか?」
「そうなのよ」
「僕は、愛を一度得たことがあります。でも、ずっと忘れることがありません。今も心にあります。だから、そんなことはないと思います」
「へぇ、そうなの。幸せね」
「……幸せ、ですか。考えたことがありませんでした」
そうしてしばしの静寂が訪れる。女はぬるくなった紅茶を飲み始めた。百二十円の紅茶を飲むその姿すら気品を感じさせた。
「私、愛は熱いものだと思います。そして、赤いものだと思います。少なくとも、そうだと教えられましたわ」
「僕も、同感です。愛は熱くて赤くて。もしかすると、痛いくらいかもしれません」
「あら、貴方。すごく、良いことを言うのね」
そうして一口紅茶を口に含み、つまらなさそうに言うのだった。
「ダメね。甘いだけで」
「冷めてしまいましたか?」
「えぇ。でも、冷めてなくてもダメね。熱くないから」
カーテンの隙間から月光が差し込む。氷輪のあやしきを受けた美貌玲瓏の少女が紡ぐ言葉の魅惑に眩しきを覚えざる者は果たしているのだろうか。
「貴方、愛を知っていると仰いましたね。私に、教えてくださいませんか?」
男はそれでものっぺらぼうだった。そうして言葉もなく、おもむろに立ち上がると、すぅっと一端部屋を出て、ほんの十秒ほどの後、刃渡り十五センチほどある包丁を持ってやって来たのだった。何の興奮も、動揺も見せることなく。それは女も同じであった。
(そう。そうしますか。それは、相応しい最後かも知れませんね)
そうして女は目を瞑り、運命に徹底して従事することにした。今までどおり、決して運命に抗うことなく、己の欲と才とに任せて生きてきたように。
男が眼前に立つのが分かる。そうして今にでも、刃を振り落とすであろうことも。或いは突き刺すのであろうか? 首に当て、引くという可能性もある。そういったことを、驚くほど冷静に考えていたとき、もの凄まじい匂いを帯びた熱い塊が顔から全身に浴びせかけられるのを感じた。
驚き目を開けると、そこには胸を真っ直ぐに切り裂いて、血を浴びせかける男の姿があった。
一目で絶死と判別がつく。男の足はがたつき、今にも倒れ込んでくる勢いであったが、男は決して倒れることなく、微笑を携えて死んでいった。
女の顔にも明らかな笑顔があった! あぁ、これは、これは、確かに愛です! それも今まで、私が求めて止まなかった愛よりももっと熱く滾る生きた愛です! 有難う、有難うと、女は心の中で繰り返した。
万の幸福が二人を祝福する。月は穏やかに微笑みかける。雪は深々と降り注ぐ。世界と隔絶されたその空間は、ただひたすらに幸福で満たされていた。そして愛情にも!
そうして女は、ポケットの中からライターを取り出す。そうして更なる愛で世界を埋めようとするのだった。熱き炎に焦がされながら、確かに彼女は愛を感じていた。
これ以降、北陸連続放火事件の発生は確認されなかった。
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