六 紅涙
唐突ですが、今回で最終話となります。
この日最大の一〇〇機以上の第五波の空襲が去った後、『武蔵』はさざ波を立てながらも西方に向かって動いていた。速力は一ノット。甲板や構築物、ありとあらゆる場所は赤い血に染まり、艦橋、砲塔、甲板や機銃砲台は焼けただれ、人間の手や足、頭、腸が散乱し、最早今の『武蔵』は遺体を満載した鉄の塊だった。
武蔵自身も見るに耐えない姿だった。軍服は破れ、露出した肌は血に染まり、肌と服の区別さえ付かない。正に体中が血に濡れ、傷だらけだった。垂れた腕は焼けただれ、服の半分が破け、真っ赤になった肌を晒している。長い髪は血でべとべとになり、少女は血の塊と化していた。
この戦いで『武蔵』の護衛を任されていた『利根』も爆弾二発を受けて傷ついていた。他の随伴していた駆逐艦も初の死傷者を出した。これを受け、栗田長官は『武蔵』に駆逐艦一隻の増派を命じた。
そして、その命令とほぼ同時に―――
栗田長官は信じられない命令を発したのである。
「反転、だと……?」
その命令を発した栗田長官の言葉を聞いて騒然となる艦橋の様子を、大和は呆然と眺めていた。『大和』艦橋に置かれた艦隊司令部。その長である栗田長官が、何を思ったのか、突然艦隊に反転を命じたのである。ここで西方への反転をするということは、サンベルナルジノ海峡に背を向ける形となる。いや、レイテ湾に背を向けることになる。
「何故だ。 何故、ここでそんな真似をする……ッ?!」
大和は動揺した。その命令が、大和には理解し難かったのだ。確かに本艦隊は敵の空襲を何度も受け、全艦隊の速力は落ち、戦力も削られている。囮役の小沢艦隊も敵の機動部隊を誘導できているのかもわからない。それもあって司令部は判断に困る部分があるのだろう。
だが、例えそうだとしても、艦隊が反転する理由にはなり得ない。大和はそう思った。そもそも、この作戦は連合艦隊最後の決戦として、全滅覚悟を前提としたものだったのではないか。このまま突撃して全滅する恐れがあるから、と言うのが理由だとしても、それは今更ではないか?
将兵たちの命もまた尊し。それは理解している。だが、このまま目標から背を向けてしまえば、先に死んでいった彼らの犠牲が無駄になってしまう。そして大和にとっては何より―――
今は遠い後方で、傷つきながらも後退しているだろう妹の努力は―――
「く……」
もう何が正しいのか、わからなくなっていた。
だが、悔しい思いだけが明確に、そこにあった。
大和は下唇を噛みながら、押し寄せてくる衝動を抑えるように拳を強く握った。動揺する司令部の光景を目の辺りにしながら、全艦は針路を反転させた。
まるで死の苦しみから逃げるように、栗田艦隊は西に向かって速力十八ノットで進んでいた。サンベルナルジノ海峡突破の予定が崩れた栗田艦隊は、西に避退していた『武蔵』の後を追う形となっていた。一方、米軍はこの栗田艦隊の反転を見て、栗田艦隊が退却したのだと判断していた。
栗田長官の反転命令を受け、艦隊が西に向かっている頃、『武蔵』は沈まない戦いを敢行していた。彼女は左舷部に海水を浸からせ、その傾斜を徐々に傾けながらも、未だに浮き続けていた。その傾いた艦の上を将兵たちが、少しずつ自分たちの目の前に近付いてくる黒い海面を見ていく内に、不沈戦艦と言う言葉に対し、不信感を増幅させないわけにはいかない心境に陥っていた。
「『武蔵』は沈まない」
姉の『大和』と同じように、就役当初から言われてきた言葉。しかしそれを発する者は、今は誰もいない。
「おい、大分艦内も傾斜してきたぞ」
「そろそろこの艦も沈むだろ。 まだ戦闘配置は解除されていないが、海で泳ぐことになるのも時間の問題だな」
そんな乗員の会話を、武蔵はただ無心に聞いていた。かつてはあれだけ不沈と豪語されてきた自分が、今となってはあっさりと“沈むのは時間の問題”と言われるようになっている。だが、それに対して武蔵は疑う余地を微塵も感じていなかった。自分のことは、自分が一番よくわかっていた。
艦は傾けばやがては転覆し、海中へと沈む。『武蔵』は艦橋と主砲等の上部構造物が重いために復元力が弱く、傾斜が大きくなり過ぎると転覆する。
敵機の魚雷は左舷に集中して命中したため、注水による復元は不可能になっていた。傾斜は増すばかりで、やがて転覆すると言う末路になるのは目に見えていた。
乗員の一人一人が感じられるほど、傾斜は増していた。武蔵は傾く自分の艦上で、赤く染まる隔壁に背を預けて、焼けただれた腕をだらんと下げている。赤い血に染まった細い身体は穴だらけで、生きているのが不思議なくらいだった。
それでも武蔵は生きていた。生き続けようとしていた。何が彼女をそうまでさせているのか。それは誰も知る由がない。
ただ、武蔵は一人、死に近付く自分自身を他人事のように感じながら、こんなことを考えていた。
「(いざ、こうして死を間近にしてみると……感じ方って全然違うものなんだなぁ……)」
あれだけ恐かった死というものは、いざ身近に近付いてくると、死に対する感覚が変わってくる。確かに死は恐い。それは変わらないし、むしろもっと恐い。だが、震え、泣き喚くほどの余力はない。自分は艦であり、沈むことは死に繋がる。そんな漠然とした考えが脳裏に浮かんだ。ただ、沈没は死なんだと、それが改めて思い知らされた。
「お姉ちゃんやみんなは……大丈夫かなぁ……」
今もこの広い海のどこかで、戦いに赴いている姉や仲間たちのことを思い、武蔵はぽつりと呟いた。
傷つき、今は死を待つしかない自分の代わりに、姉たちは敵の只中に立ち向かっている。
一緒に行けなかったのが、本当に心苦しいが―――
自分の戦いが、少しでも彼女たちのためになっていたらと、願わずにはいられなかった。
武蔵の思いが届いたのか、反転した栗田艦隊は再び再反転、敵中に向かって進撃していた。栗田艦隊の反転を退却と思い込んで狼狽した連合艦隊司令部から進撃命令が届いたが、既に栗田艦隊は再び敵に向かって進撃していた。
天祐を確信する思いで進撃する栗田艦隊。だが、後方に残された『武蔵』に、到底天祐が確信されることはなかった―――
日は落ち、薄暗くなった海に浮く巨艦の哀れな姿。しかしその海には、悲壮的な意志のもとで動き続ける者たちがいた。
左舷に傾斜して止まらない『武蔵』を艦尾から曳航しようとしてそろそろと近付く駆逐艦『清霜』の姿があった。何とかして彼女を救い出そうと懸命な、小さな駆逐艦の少女の努力も空しく、『武蔵』はゆっくりと沈没の道に向かっていた。
午後六時半、「総員集合、後甲板」の号令がかかった。ぞろぞろと後甲板に集合する乗員たちの光景を見て、小さくなる自分の命の灯火を改めて自覚した。
そしてほぼ同時に、武蔵は驚いていた。後甲板に集合した将兵の数は、武蔵を驚愕させるのに十分だった。その数、二千名。猛烈な敵の攻撃を受けた自分の上には、まだこれだけの生きている者がいたのだ。まだ、彼らは生きている。自分はもうすぐ死ぬだろうけど、まだこれほど多くの命が、生きているのだ。その事実が、死を目前とした武蔵の中に小さな希望を沸かせた。
死を目前としているのを直接表すように、既に艦首は海面と化していた。主砲が海面から顔を覗かせているが、既に甲板は沈み、海原となっている。その艦は、暗い海の中へ進もうとしている。
淡い月の光が照らす夜空の下、夜闇に溶け込んだ黒い海の上で、『武蔵』はゆっくりと傾斜を増しながら浮いていた。
じっと瞳を瞑っていた武蔵は、時が来たことを悟るように、瞳を開いた。
丁度、半壊したマストから、乗員たちの手によって軍艦旗が降ろされる所だった。
降ろされる軍艦旗。武蔵は自分がもうすぐ沈むことを知る。
同じ軍艦旗を手に、共に戦ってきた戦友たちを思い出し、愛しい姉を想い、武蔵は記憶を巡る―――
「みんなに……お姉ちゃんに出会えて……良かった……」
記憶はまるで水のように武蔵の中を流れていく。
そして最後に流れ、思い出すのは―――
大好きだった姉の顔。
とても格好良くて、優しくて、可愛くて、本当は誰よりも大きなものに悩んで背負ってきた姉。
妹を可愛がってくれる姉が大好きだった。
頼りになる姉が大好きだった。
何でも教えてくれる姉が大好きだった。
「私は――――」
傾斜が、増す。
マストから軍艦旗が降ろされると、まるでそれを待っていたかのように、更に傾斜が増した。
余りの傾斜に、滑り落ちる者もいた。
いよいよ、もうここには居られないと言うように、次々と乗員たちが暗い海に飛び込んでいく。
乗員たちが次々と脱出する中、武蔵は虚空に手を伸ばす。
周りには、既に誰もいない。
そこには、武蔵しかいなかった。
焼けただれ、全身を血まみれにした武蔵だけが、手を伸ばす。
そんな手を――――
「お姉ちゃん……」
伸ばした武蔵の手が、大和の暖かい手の温もりに包まれた。
目の前に光として現れた、大好きな姉。
優しいような悲しそうな表情の大和が、武蔵の手をそっと触れていた。
これは幻覚だろうか。
遥か遠方に行ったはずの姉が、こんな所にいるはずがない。
だが、幻覚でも何でも良い。
大好きな姉ともう一度会えたなら。
死ぬ前に、姉の顔が見れたなら。
そして、この温もりが事実として感じられるなら―――
もう、十分だよ―――
「私、お姉ちゃんの妹でいられて……幸せだった……」
最期に、武蔵は目の前の姉に最後の想いを伝えた。
武蔵は、笑っていた。
涙を流しながら。
そして、武蔵は光となった。
戦艦『武蔵』は遂にその身を完全に転覆させた。水中に入った煙突から炎と白煙が巻き上がり、やがて水中爆発を起こして艦首から沈没した。
反転した栗田艦隊がやって来た頃には、既に『武蔵』の姿はどこにも見られなかった。大和は波間に漂う妹の残骸を見つけた。それを見た途端、自然と大和の瞳から涙がこぼれた。
愛する妹を失った痛みは、今後、大和の心に深く刻み込まれることになった。
それは死ぬまで癒せない、永遠の傷。
しかしそれが、妹の記憶でもあった。
忘れない。
私は、勇敢に戦い、散っていった妹を決して忘れない――――
『武蔵』が沈んだ海の上で、大和は息を吸い込んだ。
そして―――歌い始める。
それは、かつて妹が自分にせがんでいた、歌。
姉妹二人だけの秘密。
自分の歌声が、妹に届くと信じて、歌詞を紡ぐ。
大和は歌う。
よく頑張ってくれた、妹の安らかな眠りを祈って―――
本作はこれにて終了となります。
神龍編シリーズの外伝としては久しぶりの作品となりました。今回はかの有名な日本の大戦艦、大和と武蔵を扱った内容となっておりますが、云わば神龍編シリーズの変態司令長官として登場した大和の過去編でもあります。
大和、そして妹の武蔵。彼女たちが生まれた時代が、彼女たちを引き裂く様を描いてみたつもりです。
大和はこの戦い以降、やがて神龍本編の沖縄特攻で自らも朽ち果てるまで、妹の傷を背負い続けてきたと言う事ですね。
相変わらず未熟な部分多々ありのままに仕上がってしまいましたが、最後まで読んでくださった方がいるならば感謝するばかりであります。
また会える日が訪れる事を願っております。