五 死闘
彼女たちの―――そして武蔵の壮絶なる闘いをご覧ください。
米軍の第一次攻撃隊四十四機は戦艦『大和』『武蔵』に殺到したが、『大和』に命中弾はなかった。『武蔵』は魚雷一本を受けたが、まるでかすり傷程度のように平気で航進を続けた。魚雷が命中した箇所からは、まるで血のように、青い海面に『武蔵』の重油が黒い尾を引いていた。その重油の跡が、やがて第二波、第三波の格好の目印になることを、彼女は知る由もない。
しかも思いがけない事態が彼女の身に降りかかっていた。被雷の際の衝撃で、主砲方位盤が故障したのである。それは、自慢の巨砲による一斉射撃が不可能になったことを意味していた。
それでも『武蔵』を含めた栗田艦隊はタブラス水道を過ぎて、シブヤン海に進出した。陽の光は相変わらず眩しく、これ以上ない程の晴天だった。
その間、横腹に包帯を巻いた武蔵を見舞った大和は、武蔵の姿を見て絶句した。戦闘の最中に無傷と言うのは負傷よりあり得ない。と言いながら、大和自身は今の所無傷ではあったが、武蔵の傷ついた身体を見て、大和はショックを感じ得なかった。艦自体は大丈夫だろう。だが、妹の傷ついたと言う事実は、大和には自身が思っていた以上に衝撃的だった。大和はその思いを表に出さないように努めたが、逆に武蔵に「心配しないで」と気を遣われてしまった。大和は妹に見透かれる自分を呪った。
「(私が、武蔵を護る……これは、絶対だ)」
大和の中に、新たな決意が生まれていた。
十二時三分、第二波の敵攻撃隊三十五機が太陽を背に栗田艦隊に襲い掛かった。艦隊から一斉に対空砲の弾幕が乱れ、空に咲いた無数の火の花や煙があっと言う間に太陽を覆い隠した。まるで海上は曇り空が覆ったように暗くなった。
機銃弾の火線が、一機の敵機を貫通した。敵機は火だるまになりながら海面に落ちていく。しかし、そんな『武蔵』の対空砲からは統一性が消えかかっていた。『武蔵』の主砲方位盤故障が他の戦闘配置部署に影響を与えていたからである。
先の主砲方位盤故障による損害で、統一的射撃指揮が取れなくなっていた。そのため各主砲の砲塔は独立射撃を指示されていた。本来、主砲は遠距離にいる敵機射撃を目的としており、これを発射する時は機銃員を退避させてからの実施となる。機銃や高角砲は主砲の砲撃を潜り抜けてきた敵機に対する近接戦闘用だ。だが、今の統一的射撃ができなくなった『武蔵』の主砲は、各砲塔が各自自由に、しかも機銃員の思いがけない時に発射されるものだから、機銃員は一・四トンもの砲弾が放たれる衝撃をもろに受ける羽目になってしまった。おかげで機能を奪われ、更に衝撃で身体を吹き飛ばされる機銃員にはたまったものではなかった。
主砲発射の爆風を受け、木の葉のように身を吹き飛ばされた機銃員たちの末路を見た武蔵は、何時かの主砲試射の際の、実験用のモルモットの亡骸を思い出していた―――
それでも『武蔵』は己の砲弾を全て使い果たすような勢いで、連射を続けた。『武蔵』の頭上はまるで傘が覆うように、弾幕の壁が出来上がっていた。
しかし――それで『武蔵』の身が無事に済む結果には到底成り得るわけではなかった。
第二波の空襲が終わった。戦艦『武蔵』の艦上は散々たる光景だった。撃ち尽くした弾が無数に散らばり、敵機の凶弾に倒れた者、味方の主砲発射の衝撃で薙ぎ倒された者、様々な形で死に至った者たちの遺体やその一部が転がっていた。血にまみれた甲板や構造物。大和はそれらの光景を見た時、自らの艦上と比べて、断然に『武蔵』の有様の方が上回っていることを実感した。
「武蔵……」
大和はぽつりと、武蔵の名を呼んだ。それに応えるように―――血まみれになった妹が、笑った。
「お姉ちゃん……」
戦闘が始まって初めてお姉ちゃんと呼ばれた。
大和は自分より先に傷だらけになっていく妹を見て、心が張り裂ける思いに駈られた。
武蔵は第二波の攻撃の前よりも、身体中を血に濡らしていた。
第二波の攻撃で、『武蔵』は敵機の集中攻撃を浴びて、魚雷三本を左舷に受け、更に二五〇キロ爆弾の直撃を二発、至近弾五発と言う傷手を負った。その影響により、速力は二十二ノットに落ち、次第に隊列から落伍を始めていた。
護る、と腹に決めていたにも関わらず、武蔵はどんどん傷ついていった。大和は妹に襲い掛かる敵機を撃墜しようとするが、逆に『武蔵』が、まるで『大和』を庇うように敵の攻撃の一手を引き受けて、集中的に浴びているように見える。
それが気のせいであってほしい。まさか妹の方が自分を護ろうとして、こんな姿になってしまっているなんて、考えたくなかった。
しかし―――武蔵が大和に向ける笑顔が、大和の考えを否定しないようにしていた。
武蔵は何も言わない。だが、明らかに―――
「まだまだ」
大和はその声の方向に視線を向けた。
そこには、血まみれになりながらも笑顔を絶やさない武蔵がいた。
「武蔵……」
「まだまだ大丈夫だよ、お姉ちゃん。 私、まだ戦えるよ」
大和は、また困惑した。
自分が知っている妹は、どこに行ってしまったのか―――そんな思いを、一瞬だけでも自分の頭の中に過ぎらせてしまったのだ。
身体が傷ついただけではない。その目で地獄絵図のような光景を散々見たはずである。傷ついているのは、身体だけではないはずだ。
なのに―――妹は、優しい笑顔を忘れていない。
本当に目の前にいる妹が、あんなに不安や恐怖に竦んでいた妹なのだろうか。
「(何を、馬鹿な……ッ!)」
大和は自分を叱咤した。妹が妹以外の何者でもないのは当たり前のことだ。こんな馬鹿なことを一瞬でも考えてしまった自分こそ、どんなに脆弱な奴なのか。
大和は知らない。武蔵は、命を削る思いで、正に魂を削ることで、自分が戦う意味を理解し始めていることを。それが、今の武蔵を形作っていることを。
武蔵は見つけたのだ。
護りたいものが、そこにあることを―――
そしてそれが、戦いの中で得ることができる強さなのだと言うことを―――
自分が戦い、傷つき、護りたいものが護られていることを知ることで、その者はどこまでも戦えるのだと。
大和は空を仰いだ。どこまでも広がる空の青が憎かった。護衛の戦闘機が一機もない空なんて必要ない。少しずつ傷ついていく仲間を、家族を見て、大和は耐えられない思いを抱いていた。
―――これが、二人の姉妹が最後に交わした思いだった。
この頃、隊列から脱落しかける『武蔵』の姿を、後方から見守っていた『大和』の艦隊司令部も耐えられなかった。護衛の戦闘機もない以上、繰り返される敵機の空襲は防ぎ切れない。そして敵機は傷ついた『武蔵』を集中的に襲ってくるのは容易く想像出来た。
栗田司令部は傷ついた『武蔵』を見ながら、この作戦全体の経過を懸念していた。囮役を買って出た小沢艦隊は果たして敵機動部隊を引き付けているだろうか、基地航空隊は敵戦力に打撃を与えることは出来ているだろうか、そんな焦りが司令部の中にあった。
栗田司令部は再三に渡って小沢艦隊に対し、状況把握を求めて電信を打ち続けたが、返事は返ってこなかった。小沢艦隊は目的通りに敵機動部隊を引き付け、その状況が栗田艦隊に送られていたが、栗田司令部はそれを知らなかった。
代わりに来たのは―――敵の第三波の攻撃だった。
一時三十三分、敵の第三波が傷ついた『武蔵』を中心に第一部隊に対して集中的攻撃を敢行。今度は無傷の第二部隊にまで襲い掛かってきた。爆撃機、雷撃機、戦闘機が入れ混じった六十八機の敵機群が容赦ない攻撃の雨を艦隊に降らせる。その中を突破しようと、栗田艦隊は依然サンベルナルジノ海峡に向かって東進、シブヤン海のど真ん中を猛進した。
この戦闘で『大和』も被害を受けた。一番砲塔前部に二五〇キロ爆弾二発が命中、上甲板を貫いて中甲板を炸裂、初の死傷者を出した。『大和』もまたこの比島沖の大決戦において傷を負った。
第四波も容赦なく襲い掛かる。まるで鷹のように大空から飛び掛り、縦横無尽に飛び交う敵機は、見事な程に統率が取れ、強敵な相手だった。まるで潮のようにさっと攻撃を仕掛け、そして引いていく。中々こちらの攻撃を浴びせられない。なのにこちらの被害が増えるばかり。水上艦の攻撃が如何に航空機に対して無力なのかが思い知らされる戦いだった。
大和は腕にぎゅっと歯に噛んだ包帯をきつく縛った。敵の攻撃を初めて浴びた大和の傷だった。しかし、武蔵はもっと傷ついていた―――
『大和』に次ぐ巨艦『武蔵』は傷つき、遂に後方にいた第二部隊の目と鼻の先に姿を現した。速力が落ち、隊列から落伍したのである。『大和』は落伍する『武蔵』を引き止める術を持たなかった。ただ後方へと取り残されていく『武蔵』を悲しげに見詰めるしかない。だが、『武蔵』はまるで『大和』に先に行けと言っているように海の上を這っていた。
戦艦『武蔵』はその身を遂に海水に浸からせていた。傾斜は一〇度ほど傾き、火や煙を発することもなく、ただその身を海水に少しずつ浸からせて、ゆっくりと漂うだけだった。菊水の紋章が、重油の色を帯びた海水から顔を出しているが、艦首は海面に向かって突っ込んでいる状態にあった。
艦上の現状と言えば、言葉では言い表せないほどの光景だった。遺体ばかりが転がる艦上は、火薬の匂いがまるで線香の匂いのように思える。人の一部がまるでボールや棒切れのように無造作に転がっている。そして、その場に似つかわしくない少女はその中で一人、血に濡れた身体を晒しながら天を仰いでいた。
敵の度重なる空襲によって深く傷ついた『武蔵』は、三分の一の機銃と機銃員、半数以上の弾薬補給員を失い、最早戦闘能力は失いつつあった。速力は低下し続け、既に第一部隊の陣列から落伍し、ただ孤独に漂流している。そんな『武蔵』に対し、栗田長官から発せられた命令は、マニラへの避退だった。それは艦隊の“主砲”の一つである、『武蔵』のレイテ湾突入を断念させると言う意味だった。
自分が艦隊の主砲として、付いてきてくれるみんなのために、覚悟を持って作戦を成功させようと決意していたのに―――それが叶えられなくなったことに、武蔵は苦痛と悲壮感を持って、後退する我が身を何度も悔いていた。
既に姉とは顔を会わせられない距離まで遠ざかっている。姉をはじめとした他の艦隊のみんなは意気揚々と敵の空襲を潜り抜けながら目標に向かっている。なのに、自分はみんなに付いていけない。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
何度目かわからない謝罪の言葉を繰り返す。苦痛と悲壮感で胸がいっぱいなのに、涙はどうしてか出てこない。泣く、と言う基準がよくわからなくなっていた。
「もう何もかも、ごちゃごちゃしてて……私、よくわからないよ……」
武蔵は、身体だけでなく精神も傷だらけだった。四度の敵の空襲、その過程に見た光景、戦い、全てが武蔵の中に荒れ狂う波として押し寄せ、武蔵の中にあった純情な欠片を押し流してしまった。
そんな中でも、武蔵の脳裏には世界でたった一人の姉の顔だけが浮かんでいた。とても格好良い、そして可愛い、自慢のお姉ちゃん。
「お姉ちゃん……今、どこにいるの……?」
姉と自分は今、分かれた道をそれぞれ進んでいる。姉はそのまま戦いの海に向かい続けている。そして自分は―――どこへ向かっているのだろうか、自分でさえわからない。
ただ、姉と会えない。それだけは、わかった気がした。
それが―――更に、悲しかった。
武蔵の目の前に、淡い光が照らされる。しかしそれは姉の光ではなかった。
「七戦隊三番艦、利根であります。 武蔵殿」
現れたのは、第二部隊に属する第七戦隊所属の重巡『利根』の艦魂だった。武蔵は、厳しい表情で現れた利根の顔を、ただ傍観していた。
「私は貴艦の護衛並びに警戒任務を承り、参上致しました。 貴艦の北方へ至るまでの警護を務めさせていただきます」
利根は敬礼を武蔵に向けながら護衛の件を伝えた。それを聞いた武蔵は、ただ、微笑んで応えた。
「ありがとう。 感謝するよ」
「…………」
武蔵の惨状を目の辺りにして、堪え切れないと言う利根の表情が垣間見えた。敵に蹂躙され、傷ついた戦友の姿を見るのは、同じ兵士として耐えられないのだろう。だが、彼女は目を逸らさずに、最後まで彼女に視線を向けたまま、最後に、武蔵の武勇を讃えるためか、ぴしりと敬礼した。
武蔵も微笑を浮かべたまま、答礼する。利根は「必ず、お守り致します」と震えを抑えるような声で言い残すと、光に覆われて消えた。
『利根』は『武蔵』護衛の任を受けると、第二部隊の輪形陣から離れ、傷ついた『武蔵』に近付いていった。『武蔵』の護衛を任じられたのは『利根』一隻の他に、駆逐艦一隻。傷ついた巨艦『武蔵』を護衛するには明らかに数が足りない。それでも『利根』は、『武蔵』の護衛・警戒に当たった。
遅い速度で避退する『武蔵』に付いていく『利根』―――しかし、その『利根』が持つ電探が、第五波の敵の大編隊を捉えていた。
利根は出撃して以来、この作戦で初めて、一番の強固な意志を持って挑もうとしているのかもしれない。もうすぐ敵の大編隊が押し寄せてくる。敵は必ず、傷ついた『武蔵』を狙ってくるだろう。そして『武蔵』を護ることが、今の自分の任務だ。彼女を護ることは、敵機を一機でも多く撃ち落とすことである。
利根は、傷つき、血にまみれた武蔵の姿を思い出していた。彼女を護ると、約束した。彼女の姉、大和の代わりに、自分が武蔵を護らないといけない。
「やるんだ……必ず、やってみせる……!」
利根はその瞳に決意の炎を燃やす。失敗は許されない。これ以上、戦友を死なすわけにはいかない。やがて空気を奮わせる轟音を唸らせ、現れた無数の黒い点が浮かぶ大空を、利根は睨んだ。
第五波の敵大編隊は予想通り、傷ついた『武蔵』に攻撃を集中してきた。速力を失った巨艦は、彼らにとっては単なる大きな的でしかない。血のように重油の尾を海面に引き、遅い足で航行する巨艦を、敵機が群がるように襲い掛かってくる。
『武蔵』に攻撃を仕掛けてくる敵機を、『利根』は『武蔵』の北方二〇〇〇メートルから狙い撃った。『利根』の砲弾に落とされ、蝿のように落ちていく敵機。利根は必死に彼女を護ろうと、我が身の安全も構わず、弾を撃ち続けた。しかしこれを邪魔に思った敵が、その矛先を彼女の方にも向けるようになる。
一〇〇機以上の敵機が襲い掛かる中、内三十五機が『武蔵』を護衛する『利根』に攻撃を浴びせてきた。『武蔵』に向かっていた敵機が、ぐるりと方向を変えて、『利根』に集中してくる。
「く……ッ!」
自分を狙ってくる敵を撃ち落とすのは至難の業だった。敵は編隊を組み、『利根』の対空砲を巧みに避けていく。数で攻めてくる敵に、利根は太刀打ちできなかった。やがて、その牙が遂に利根にも触れることとなる。
頭上の遠くから突然聞こえてきた爆音に気付いてみると、敵の爆撃機が急降下を仕掛けてきた。利根はこれを迎え撃つが、既に遅かった。急降下する敵爆撃機の周囲に花火が咲くだけで、その降下を止めることはできなかった。そして、急降下した敵爆撃機は二五〇キロ爆弾を『利根』に投下、これが初の直撃弾となった。
『利根』の艦体から火が噴き出し、周囲の海面が大きく震えた。多くの乗員が吹き飛ばされ、『利根』は更に二度目の命中弾を受ける。
利根もまたその身体を傷つけ、満身創痍の状態と化していた。
「げほ……ッ」
足をひきずりながら、利根は煙の間から抜け出すと、北へと視線を向けた。そして、絶句した。利根の視界に映ったのは、その巨大な艦体から大きな火を昇らせる『武蔵』の姿だった。




