四 戦闘
飛行機が飛ぶには絶好の天気だった。その下を進む日本の大艦隊は、一路敵目標を目指す。既に別の海域等では戦闘が起こっていた。後に出撃した西村艦隊が敵編隊の盲爆を受け、戦艦『扶桑』『山城』も敵の牙に侵された。搭載した爆弾諸共敵艦に突っ込むと言う壮絶な光景も目撃されると言う比島沖での戦闘の最中、遂に栗田艦隊も、特に―――戦艦『武蔵』にとっての運命の時が近づきつつあった。
戦機がようやく高まる中、栗田艦隊は対空戦闘に備えながら、各艦がより行動の自由が取れる間距離を取って前進を行った。実は、既に艦隊は遂に敵索敵機によって発見されていた。大多数の敵編隊が押し寄せてくるのも時間の問題だろうと言うことは、全将兵のみならず、彼女たち自身も覚悟していた。
そして栗田司令部より、全軍に指令が届けられる。
―――敵機来襲近シ、天佑ヲ信ジ、最善ヲツクセ―――
その栗田司令部の指令が、『武蔵』には艦長から艦内放送によって伝えられた。それを聞いた『武蔵』の乗員たちは今か今かと敵編隊の来襲が予期される晴天を睨んだ。武蔵もまた、緊張の面持ちを持って、青々と広がる空を見据えた。
必ず現れるとわかっている敵機が中々現れないと言う、それはそれで不安と緊張が張り詰める『武蔵』の艦上に、淡い光が空間の狭間から現出した。そこから降り立ったのは、整えたポニーテールをきっちりと伸ばした大和だった。
降り立った大和の目の前には、待っていたかのように、鉢巻を額に締めた武蔵が毅然とした様子で立っている。大和はそんな妹の姿を見て、思ったことを口に出さずに、戦士になろうとしている妹の前に歩み寄った。
「武蔵」
大和の掛けた声は、軍人らしくもあり、姉らしくもあるいつもの声色だった。一瞬、武蔵の顔が普段の妹としての顔を浮かべる。
武蔵は微かに口を開くが、すぐにきゅっと閉じてしまう。姉に甘えたいと言う欲求が丸見えの妹を目の前にして、大和は内心で微笑ましく笑った。
――まぁ、私も他人のことは言えないが……
目の前にいる妹を甘えたいと言う気持ちは、果たして許されることだろうか。大和は珍しく自問していた。
だが、同じ気持ちを我慢した妹を見て、大和は決意した。妹がこんなにしっかりしているのに、姉である自分がこんなことではどうする―――
「もうすぐ敵編隊の空襲があるだろう。 心して掛かれよ」
本当に言いたいことは、こんなことではないのだが。
「勿論です。 最善を尽くします」
武蔵も相応に応えるように、敬礼しながら言った。
ここにいるのは軍人としての、戦友同士の二人。
それを互いに理解しての、やり取りだった。
「……………」
無言の時が生まれる。簡潔に告げてしまったことと、そんな装いが仇となったか、変にきまずい空気が流れる。
だが、このまま別れるのも正直惜しかった。やはりわかっていても、これから激しい戦闘になることがわかっているから尚更、このまま何もせず別れるのは正直惜しいのだ。
「……ッ」
何か言いたかった。何かを伝えたかった。だが、言葉が何故か見つからなかった。何も出ない自分の口がもどかしい。
覚悟はしていたとは言え、実際にその状況に直面すると、人はこんなにも動揺してしまうのか。自分が自分らしく無くなってしまうのか。大和は初めて、困惑した。それは今までになかった感覚だった。その原因は、きっと自分と同じ直面する場に、愛する妹がいるからなのかもしれない―――
困惑に身を絡まれた大和に、暖かい感触が触れた。それが柔らかく大和の身を包み込む。
大和の胸に顔を埋めて、武蔵が大和の身体に抱きつく。そんな状況に、大和は一瞬呆然となった。
「……………」
突然の出来事に、大和は躊躇した。
大和は何か言葉を掛けようとしたが、その前に武蔵が静かに離れた。
離れた武蔵の顔を見て、大和は驚愕した。
武蔵もまた、同じ気持ちだったのだ―――
でも、互いに言葉を交わすことは決してなかった。言葉はいらない。言葉を交わさずとも、お互いの気持ちは、充分に理解していた。それは大和も、武蔵も、お互いに。
武蔵は表情を整えるように、直立不動になって敬礼した。そして大和も、同じように答礼した。
そこにあるのは―――これから戦いに身を投じる互いの武運を祈る、戦友の姿であった。
どこからともなく敬礼を下ろすと、武蔵と大和は互いに微笑み合った。
二人の交叉する思いが確かめられたのを待っていたと言わんばかりに、敵機来襲を告げる警報が鳴り響く。
それを聞いた大和は、武蔵に一瞥を与えてから、自らの戦場へと戻っていった。それを見届けた武蔵も、黒い点がぽつぽつと浮かぶ青い空を見据えた。
十時二十五分、『大和』の電探が遂に敵編隊を捕捉した。
「敵機、四十機発見ッ! 一六〇度方向ッ!!」
即座に『大和』より全艦隊宛てに敵機発見の信号が発せられた。速力を上げた艦隊の中、『大和』にZ旗が揚げられる。外にいた兵員たちが一斉に艦内へ退避する。それに合わせるように、『大和』の巨砲九門が唸りをあげて旋回、空に多数現れた敵編隊目掛けて、砲身が上げられる。
手持ち無沙汰にされてきた大和の刀が遂に天空に向けられた。鞘から解放された大和の刀は、敵の血を欲している。大和は刀の先を敵編隊に向けつつ、鋭い眼光をじっと敵編隊に射した。
大和の刀が、すっと構えられる。そして―――
艦体を揺さぶるような地震が『大和』に襲い掛かった。『大和』が誇る九門の巨砲が、一斉に火を噴いたのである。火山の噴火に似た轟音と共に、三式弾が敵編隊の只中へと飛び込んでいった。
少し間を置いた後、刀を一閃振るった大和の視界に、五つほどの黒い線が空から落ちていくのが見えた。
「敵機五機撃墜ッ!!」
そんな報告が『大和』艦内に伝達される。歓喜が沸き起こる。三式弾の効果が遺憾なく発揮された瞬間だった。
『大和』の第一射を発端に、各艦の主砲が火を噴く。合計一二〇門の砲火が空に撃たれた。副砲、高角砲も加わり、敵機の周囲を火の雨があっという間に囲んだ。全艦隊を覆う壁のように弾幕が敵編隊に向かって放たれるが、勇猛果敢な敵機はそんな鉄壁さえも潜り抜け、我先にと艦隊に向かって突っ込んでくる。弾幕を潜り抜けた敵機の機銃弾や爆弾が、今度は各艦に襲い掛かってきた。
米軍の第一次攻撃隊は、艦隊の中でも一際目立つ大和型戦艦の姉妹を集中的に狙ってきた。輪形陣の外輪に陣取る駆逐艦の猛射を潜り抜けた敵機が、『大和』と『武蔵』に機銃と爆弾の雨を降らせた。
敵機から連続して放たれる爆弾は、幾つもの高い水柱を作り出し、巨艦を覆い隠してしまった。遠方からこの光景を見た者たちは、思わず爆弾が命中したのかと思う程だった。しかし、その中から獰猛に水の壁を突き破ってくる大和型戦艦の姉妹の姿は、その怯まない勇敢なる姿として見る者に感動を覚えさせた。
激しい戦闘の中を、武蔵は必死にその身を投じていた。正に投げ打つような感覚で、武蔵は戦いに身を振るい続けた。すぐそばまで接近してきた敵機、横切る敵機、爆弾を落としてから頭上を通り過ぎる敵機、自分に近寄る全ての敵を見据えるように、武蔵は目まぐるしく視線を向け、奮闘した。そして一機でも多くの敵を倒そうと、武蔵は縦横無尽に疾走するように戦った。
「ッあ……!」
声にならない声をあげながら、武蔵は必死に刀を振るった。正に必死だった。飛び散る破片や硝煙に視界を奪われても、水柱が自分を濡らしても、構わずに武蔵は戦った。一機、また一機と目の前に現れる敵機に向かって斬りかかる。だが、中々敵を斬ることは叶わなかった。
「来るな、来るな……ッ!!」
敵機は無数に自分の方へ殺到する。中には、パイロットの顔が見える程の距離もあった。敵のパイロットの顔なんて見たくなかった。人間なんて見たくなかった。見ると、自分が彼らを“殺そう”としている事実を改めて思い知らされるから。そして同時に、彼らもまた自分を“殺そう”としていることも。
「来る、なぁ……ッッ!」
その時、武蔵の放った一閃が、硝煙から飛び出してきた敵機の翼に赤黒い花を咲かせた。翼をぼきりと折られたように、敵機は身を翻しながら煙を吐き、武蔵の頭上を飛び越えて、そのまま海に向かって消えた。
『武蔵』の対空砲を浴びた一機の敵機が、やっとの思いで撃墜された瞬間だった。
武蔵はそのまま、ぺたんと前に手を付いてしまった。そのそばに刀が落ちてしまう。その一瞬の内に、武蔵は自分が斬った敵機が、攻撃機であったことを思い出していた。そしてその弾倉が閉じかけていた所も。
硝煙が晴れ、武蔵は視界の端に奇妙なものを見つけた。顔を上げ、海面の方に視線を投げてみると、海面に白いものがぼんやりと浮かんで近づいてくるのが見えた。それが魚雷とわかるまで、長い時間は要しなかった。
その瞬間、『武蔵』の艦体はズズン、と揺れた。だが、航行や戦闘状態に関して影響が生じる程のことでもなかった。しかし武蔵は確かに横腹の辺りに刺さるような激痛を感じた。「――ッ!」と、声を噛み殺して、武蔵は血渋きをあげて倒れた。
「な、なにが……」
武蔵は火のように熱い横腹を、手で触れてみた。そして生暖かい感触を拾った手に視線を落とすと、武蔵は思わず「ひっ」と声をあげかけた。
その手のひらには、自分の赤黒い血がべったりと付いていた。
初めて、攻撃を受けたと言う実感が沸いた。だが、巨艦である自分に一発の命中弾を受けようが、沈むことはない。
「こんなに、痛いものなんだ……」
艦のダメージは、その魂となる艦魂の身にも反映される。しかし、その痛感は未知数だ。どんなに痛くても、艦が無事であれば、死ぬ意味を持つ沈没の瞬間まで、味わい続けることになるだろう。
こんな痛みを、後、何度受けるのだろうか―――
ぶるりと悪寒が走った。傷は熱く、痛い。しかし武蔵は立つ。まだまだ戦える。自分にとっては屁でもないくらいの傷のはずだから。
事実、『武蔵』は右舷に一発の魚雷を受けたことになったが、速力も落ちていないし、戦闘に支障はなかった。
しかし、今後自分の身に降りかかる運命を、武蔵はまだこの時知る由もなかった―――