彼氏の幼馴染が私のスノーボードを奪って骨折させたのに、彼はその子を抱えて行ってしまった
付き合って五年目。圭吾はようやく、私を実家に連れていく気になった。
手土産には、きれいに包装された和菓子を選んだ。前もって買っておいたワンピースに着替え、緊張しながら玄関をくぐる。ところが、圭吾の母親である千鶴は、和菓子を玄関脇の棚に置くと、すぐにアクセサリーケースを開けた。
「彩乃、これ、おばあちゃんの形見なの。ずっとあなたのために取っておいたのよ。ほら、つけてみて」
千鶴が差し出したのは、真珠のブレスレットだった。ソファに座っていた三輪彩乃は手首を差し出したものの、少しきついと眉を寄せる。すると圭吾が隣に座り、彼女の手を取った。
「こういうのはコツがあるんだよ。ハンドクリームを塗れば、すんなり入るから」
圭吾がブレスレットをつけてやると、家族はそろって笑った。千鶴まで息子の腕を軽く叩き、「本当に気が利くんだから」と目を細める。
笑い声が落ち着いたころ、千鶴はようやく私に目を向けた。
「真琴さん、気にしないでね。この子たちは小さいころから一緒だから、こういうことが当たり前になっているの」
圭吾は彩乃の手首を確かめてから、こちらを向いた。
「真琴、彩乃にジュースを持ってきてくれない? 帰国したばかりで、まだ時差ぼけもあるだろうし」
夕食が終わると、圭吾は私を玄関まで送ってきた。彩乃が今夜は実家に泊まることになり、客間も荷物でいっぱいだから、私はホテルを探して一晩過ごしてほしいという。
圭吾は財布から一万円札を二枚抜き、私の手に押し込んだ。
「悪いけど、今日はホテルに泊まってくれないか。これ、宿泊代に使って」
それから、彼は少し面倒そうに付け加えた。
「母さんからもらったものなんて気にするなよ。真珠のブレスレット一つで彩乃と揉めるな」
手の中の紙幣を握りしめたまま、家の中から聞こえる笑い声を聞いていた。
五年間、いつか彼の家族に恋人として認めてもらえる日を待ち続けてきた。けれど、ようやく招かれたその家で、私は泊まる場所さえ与えられなかった。帰国したばかりの幼なじみは、何の遠慮もなく、私がずっと欲しかった場所に座っている。
玄関先に立ち尽くすのをやめ、夜の街へ歩き出した。
1
霞森市のビジネスホテルで、一晩中眠れずにいた。窓の向こうには高層ビルの明かりが並び、ときおり遠くを電車が走っていく。ガラスに映った自分の顔は、ひどく疲れて見えた。
朝になり、スマートフォンを手に取った。来週予約していた沖縄行きの航空券と海辺のホテルをキャンセルし、以前から前撮りをお願いしていたカメラマンにも連絡を入れる。
「申し訳ありません。結婚式を取りやめることになりました。前撮りもキャンセルさせてください。ご迷惑をおかけしてすみません」
必要な連絡を済ませると、以前内見した部屋を紹介してくれた不動産会社に電話をかけた。あの小さなバルコニー付きの部屋は、まだ空いているという。その日のうちに契約する約束を取りつけた。
すべての手配を終えたころ、スマートフォンの画面が光った。彩乃がSNSを更新していた。
写真には、路肩にしゃがみ込み、白いハイヒールの泥をティッシュで丁寧に拭く圭吾の姿が写っていた。
添えられた文章には、こう書かれている。
「夜中にどうしてもラーメンが食べたいって連れ出したくせに、新しい靴を汚すなんて。罰として、ちゃんときれいにしてもらいました!」
写真の背景にある店の看板を見つめた。そこは、夏のあいだ何度も圭吾を誘った深夜営業のラーメン店だった。遠いし、夜中に食べるのは体に悪い。彼はいつもそう言って断っていた。
写真の下には、千鶴のコメントもあった。
「やっぱり圭吾が一番気が利くわね」
この半年、彩乃が何かを望めば、圭吾はほとんど断らなかった。夜食が食べたいと言えば深夜でも車を出す。靴が汚れたと聞けば道端にしゃがんで拭いてやる。行きたい場所があれば、仕事まで後回しにする。
翌朝、ホテルをチェックアウトし、タクシーで二人が暮らしていたマンションに戻った。圭吾の実家から車で四十分ほどの場所にあるこの部屋を、いつか二人の家族の住まいにするのだと思っていた。
今は、自分の身分証やパソコン、必要な私物を持ち出して、ここを離れたい。
クローゼットを開けると、思わず手が止まった。自分の服が半分ほどなくなり、反対側には彩乃のワンピースやコートがぎっしり掛かっていた。タグのついたままの下着まである。
圭吾はとっくに、彼女のための場所を用意していたのだ。
彩乃の荷物には触れず、自分の服を一着ずつ外して収納袋に詰めた。残りは回収業者に引き取ってもらうことにする。書斎を片づけていると、棚の隅から圭吾に贈ったカシミヤのマフラーが出てきた。包装紙もそのままで、一度も開けていないらしい。
彩乃がカシミヤにアレルギーがあると言ったことを思い出した。それ以来、部屋にはウールのルームシューズ一つ置かなくなった。それなのに、私が甲殻類に重いアレルギーを持っていることは、圭吾にとって大した問題ではなかった。
彩乃と海鮮料理を食べるために、私をレストランの外に停めた車の中で二時間も待たせたことがある。
戻ってきた圭吾は、酒と魚介の匂いをさせながら、テイクアウトの容器を差し出した。
「真琴の分もチャーハンを買ってきたから、食べなよ」
それを食べたあと、一晩中吐き続けた。圭吾は背中をさすろうともせず、普通の食事も受けつけられないなんて胃腸が弱すぎる、と呆れたように言った。
荷造りの途中で、圭吾から電話がかかってきた。向こうからは話し声や車のクラクションが聞こえてくる。彼の口調は、いつもと変わらず不機嫌だった。
「真琴、まだ来ないのか? 昨日のことで、いつまで拗ねてるつもりだよ」
返事をする前に、彼は続けた。
「もういいから、帰ってきて。あとでちゃんと説明する。今日、彩乃が買い物に行くんだけど、車の鍵が見つからないんだ。お前の車で送ってやってくれよ」
「後部座席も片づけておいて。お前の荷物なんか置くなよ。彩乃が後ろで休むんだから」
電話の向こうから、彩乃の声がした。
「圭吾、黒いストッキングが伝線しちゃった。新しいの、探して!」
マンションの玄関に立ち、新しい部屋の鍵を握りしめた。視線の先には、がらんとした駐車スペースがある。車は私名義で、頭金も毎月のローンも、ずっと私の給料から払ってきた。それなのに圭吾は、まるで自分の持ち物であるかのように、車を出せと言う。
「今日は無理。自分で何とかして」
そう告げて電話を切り、彼の番号を着信拒否にした。
2
着信拒否にして数日後、見知らぬ番号から電話がかかってきた。出てみると、圭吾の声が聞こえた。どうやら母親のスマートフォンを借りて、連絡してきたらしい。
「真琴、まだ怒ってるのか? もういいだろ。母さんにも叱られたんだ」
電話の向こうで、千鶴が口を挟んだ。
「真琴さん、圭吾も反省しているのよ。若い二人が、こんな小さなことで仲違いするなんてもったいないわ。五年も付き合ってきたんでしょう?」
圭吾はすぐに電話を代わり、謝罪のしるしを用意したと告げた。私の大好きな歌手、瀬名律のコンサートチケットを二枚手に入れたのだという。
大学を卒業した年、私たちはお金を節約するため、体育館の外にある歩道橋からコンサートを聴いたことがある。遠くから流れてくる歌声はぼんやりしていたけれど、圭吾がずっと手を握ってくれていたことは覚えている。
終演後、彼は会場の一番明るい場所を指さし、真剣な顔で約束した。
「真琴、次は絶対に最前列の真ん中で見せてやるよ。今度こそ、ちゃんと顔が見える席を取るから」
その言葉を五年間、ずっと覚えていた。
しばらく黙ったあと、小さく返事をした。
「……わかった」
コンサート当日、開演の三十分前に霞森ドームへ着いた。入場口には大勢の観客が並んでいた。圭吾が現れたのは、開演まであと五分というころだった。隣には彩乃がいた。
彩乃は私を見ると、申し訳なさそうに眉を下げた。
「真琴さん、ごめんなさい。途中で車が故障しちゃって。圭吾が迎えに来てくれたせいで、遅くなっちゃったの。怒ってないよね?」
圭吾はチケットを一枚、私に差し出した。
「先に入ってて。もうすぐ始まるから」
チケットを見下ろす。手元にあるのは一枚だけだった。隣の席もない。約束していた最前列の中央でもなかった。
圭吾はすでに彩乃の手を取り、別の入口へ向かっていた。
「俺たちは別の入口から入るんだ。お前は先に行ってて」
一人で会場に入り、指定された席に座った。隣の椅子は最後まで空いたままだった。ステージの照明が点灯したとき、以前、二人分の連番チケットを取ろうと一晩中パソコンに張りついていたことを思い出した。
あのときは結局、チケットを買えなかった。けれど今、圭吾は彩乃のために特別な席を用意している。
映画を見に行ったときも、似たようなことがあった。上映の途中で彩乃から電話がかかってきたのだ。家の鍵をなくして、中に入れなくなったという。圭吾はすぐに席を立ち、私を残して映画館を出ていった。
コンサートの休憩時間、スマートフォンを取り出してメッセージを送った。
【胃が痛くて、かなりつらい】
しばらくして返事が来た。
【こっちは手が離せない。少し我慢してくれよ。バッグに胃薬が入ってるだろ?】
ほぼ同じころ、彩乃がSNSを更新した。
写真には、圭吾が買ってきたお菓子や温かい飲み物が、座席いっぱいに並んでいた。
「やっぱり圭吾が一番わかってくれる。コンサート中も口寂しくならないように、こんなに買ってきてくれた。大好き!」
共通の友人たちが、次々とコメントや「いいね」をつけていた。
終演が近づくと、ステージでは観客参加の企画が始まった。大画面のカメラが最前列の中央を映し出し、そこに圭吾と彩乃が並んでいる姿が映った。会場のあちこちから、冷やかすような歓声が上がる。
彩乃は恥ずかしそうに圭吾の胸元へ顔を埋めた。圭吾は笑いながら、スタッフから渡されたマイクを受け取った。
「ありがとうございます。彼女は僕の恋人じゃないんですけど……」
客席から、惜しむような声が上がった。
圭吾は少し間を置いてから、続けた。
「でも、僕の人生で、恋人よりも大切な人なんです」
会場が歓声に包まれた。遠くの席から、二人が照明の下で祝福を受けている姿を見つめていた。あの場所にいるのが、当たり前の二人であるかのようだった。
そのとき、スマートフォンが震えた。
【さっきのは会場を盛り上げるためだよ。深い意味はないから】
画面を閉じ、バッグにしまった。コンサートが終わるまで、返事をする気にはなれなかった。
3
コンサートの翌日、圭吾は珍しく仕事を休み、スキーに誘ってきた。冬のあいだずっと行きたいと言っていたことを覚えていたらしい。新品のブランド物のスキーウェアまで用意していた。
それを見たとき、胸の奥に溜まっていた不満が、ほんの少しだけ和らいだ。彼も自分のしたことを反省しているのかもしれない。今度こそ、私のことを大切にしてくれるのかもしれない。
そう思って、誘いを受けた。
白嶺スキーリゾートに着いてから、ようやく気づいた。これは二人きりの旅行ではなかったのだ。休憩ロビーには彩乃と共通の友人たちが集まっていた。入口近くには、彩乃の帰国を祝う飾りつけまである。
「彩乃、日本へおかえり! 今日は思いきり楽しもう。費用は全部、圭吾のおごり!」
スキー用具を抱えたまま、ロビーに立ち尽くした。
私への埋め合わせだと思っていた旅行は、実際には彩乃の帰国祝いだった。
集まっている友人たちは、私が知らない人ばかりだった。彼らは圭吾と彩乃を囲み、二人が子どものころのように息を合わせて滑るところを見たいと騒いでいる。
彩乃の視線が、私の足元にあるスキー板に止まった。三か月分の給料を貯めて、ようやく買った限定モデルの板だった。
彼女は圭吾の袖を引いた。
「圭吾、真琴の板を借りてもいい? 今日のウェアにぴったりなんだもん」
圭吾は私に確認することもなく、しゃがみ込んで固定具を外し始めた。
「ちょっと、何するの?」
「いいだろ。彩乃はまだ初心者なんだから、いい板を使ったほうが安全だ。お前は上手いんだし、どんな板でも滑れるだろ」
彼は私の板を彩乃に渡し、代わりに初心者用の板を私の足元へ置いた。
サイズが合わず、ブーツを固定しようとしてもうまくいかない。圭吾に急かされ、友人たちも先にコースへ向かってしまった。仕方なく、無理に装着したまま上級者コースへ進むことになった。
彩乃は圭吾に支えられながら、ふらふらと滑っていた。わざとらしく転ぶたびに、周りから心配する声や笑い声が上がる。
ターンしようとした瞬間、足元から小さな音がした。
固定具が外れた。
体勢を崩し、そのままコース脇の防護ネットへ突っ込んだ。小さな悲鳴を上げた直後、脚が雪の斜面と柵の間に挟まり、鋭い痛みが全身を駆け抜けた。息をするのも苦しい。
少し離れた場所では、彩乃も転んでいた。雪の上に座り込み、足首を押さえて泣いている。
「圭吾……痛い。足首をひねっちゃったみたい。動かせないよ」
圭吾が振り返った。私が柵のそばで身動きできずにいることも、助けを求めて叫んでいることも、見えていたはずだった。
それでも彼は、彩乃のもとへ走っていった。しゃがみ込んで足首の様子を確かめると、彼女を抱き上げた。
「圭吾! 助けて! 脚が挟まって動けないの!」
彼は一度こちらを振り返った。
「真琴、動くなよ! 先に彩乃を休憩室へ連れていく。すぐ救助を呼ぶから!」
そう言って、圭吾は彩乃を抱いたまま、友人たちと一緒にリフト乗り場の方向へ歩いていった。
風雪が強くなっていく。冷たい雪の上に取り残され、動くこともできなかった。頬に落ちた雪はすぐに溶け、氷のように冷たい水が肌を伝う。何度叫んでも、声は風にかき消された。
どれだけ耐えられるのか、自分でもわからなかった。遠くから聞こえていた笑い声も、やがて聞こえなくなった。残ったのは、骨の奥まで響く痛みと、身体の芯から奪われていく熱だけだった。
4
目を覚ますと、鼻をつく消毒液の匂いがした。脚には分厚いギプスが巻かれ、膝から下に強い痛みが広がっている。目の前の景色も、ぼんやりとかすんでいた。
看護師の話では、定期巡回中のパトロール隊員が見つけてくれたらしい。脚の骨は複数箇所で折れており、長時間雪の中にいたため、目にも損傷を受けていた。視力は一時的に低下しているという。
スマートフォンを手に取ったが、圭吾からのメッセージは一件もなかった。
翌日の午後、病室のドアが開いた。圭吾が車椅子を押して入ってくる。座っていたのは彩乃だった。足首には薄い包帯が巻かれ、膝にはブランケットが掛けられている。
圭吾は私のギプスに目をやっただけで、責めるような口調になった。
「真琴、お前のせいで彩乃がどれだけ自分を責めたと思ってるんだ。気を失うほど落ち込んで、足まで痛めたんだぞ。これで満足か?」
彩乃は彼の袖をつかみ、目に涙を浮かべた。
「圭吾、そんな言い方しないで。真琴が悪いわけじゃないよ。私がいたから、こんなことになっちゃったんだもん……」
涙を拭い、彩乃は私に顔を向けた。
「真琴、ごめんね。許してくれる? 圭吾のことも、怒らないであげて」
謝りながら圭吾の顔色をうかがう彼女を見つめた。胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
黙っていると、圭吾はますます苛立ったように眉をひそめた。身をかがめ、私の顎をつかんで無理やり彩乃のほうへ顔を向けさせる。
「彩乃はもう謝っただろ。まだ何が不満なんだよ。こいつのせいじゃないって、お前から言ってやれよ。いつまでも気にするなって」
ベッドに横たわり、脚にはギプス、手の甲には点滴の管がつながっていた。彼はそんな私に、足首を少しひねっただけの女性を慰めろと言う。
思わず笑いが漏れた。けれど、胸の奥はひどく痛かった。
「桐谷圭吾。別れましょう」
彼は一瞬、言葉を失った。それから怒りをあらわにし、ベッド脇の点滴に手を伸ばした。管を乱暴につかみ、針を私の手の甲から引き抜く。
針の跡から血がにじみ出た。
「別れるだと? またそうやって俺を脅すのか! 別れたければ、まず彩乃に土下座して謝れ! お前のせいであいつがどれだけ怖い思いをしたと思ってるんだ!」
痛みで身体が震えた。それでも、圭吾の背後にいる彩乃が、うつむいたまま口元に薄い笑みを浮かべているのが見えた。
そのとき、病室のドアが勢いよく開いた。
立っていたのは、大学時代の先輩、神崎理人だった。私はその日の朝、看護師の携帯電話を借りて彼に連絡していた。今の状況を相談できる相手は、彼しか思い浮かばなかった。
理人の後ろには警察官が二人いた。彼はすぐにベッドのそばへ駆け寄り、私の手の甲にガーゼを当てた。看護師を呼び、傷の処置を急ぐように伝える。
「点滴の針を抜かれました。手の傷はここです。スキー場での事故についても、確認していただきたいことがあります。監視カメラの映像や救助記録は、保存をお願いしています」
圭吾の顔がこわばった。私につかみかかろうとしたが、理人が間に入って阻んだ。
「真琴! 話を聞いてくれ! わざとじゃないんだ。俺はただ、彩乃が心配で……。五年も付き合ってきたんだぞ。二人で話し合おう!」
答える気にはなれなかった。
理人に支えられながら、車椅子に移る。看護師が手の傷を処置したあと、警察官はその場にいた人たちから事情を聞き始めた。私も、スキー場で起きたことと病室での出来事を順に説明した。
病室へ戻る途中、圭吾が警察官のそばで何かを叫んでいるのが見えた。焦りと、まだ事態を受け入れられないような顔だった。
視線を戻し、もう彼の声を聞かないことにした。
5
警察が事情を調べ始めると、理人は病院の相談窓口を通じて、必要な記録を残しておくよう手配してくれた。スキー場側も、監視カメラの映像や巡回記録、事故報告書を保存すると約束してくれた。病院には、手の甲の傷と処置内容が記録されている。
圭吾はまだ現実を受け入れられないようだった。廊下で声を張り上げ、私を責め続けた。
「真琴、正気か? 俺たちの問題を警察に持ち込むなんて! 本当に俺を訴えるつもりなのか?」
理人は圭吾の怒鳴り声に取り合わず、警察官に保存してほしい証拠を説明した。スキー場の映像、救助記録、診療記録、そして当時その場にいた人たちの証言だ。
彩乃は車椅子に座ったまま、顔色を失っていた。こっそり立ち去ろうとしたところ、警察官に呼び止められ、事故の経緯について説明を求められた。
「私は何も知らなかったんです! スキー板を交換したのは圭吾です。私が頼んだわけじゃありません! 私だって怪我をしたんですよ!」
彼女は声を荒らげ、真琴を雪の中に残すよう自分から頼んだわけではない、と繰り返した。警察官はその場で誰かの責任を決めつけることなく、彼女の話を記録し、必要に応じて改めて事情を聞くと伝えた。
その後、私は静かな個室へ移された。理人はベッド脇に座り、申し訳なさそうに頭を下げた。
「真琴、ごめん。もっと早く来ていればよかった」
「先輩が来てくれて助かりました。どうしたらいいのか、もうわからなくなっていたから」
理人は書類の束を取り出し、スキー場の映像が保存されたと教えてくれた。コースへ向かう前、圭吾が私のスキー板を彩乃に渡し、代わりに別の板を私の前に置く様子が映っていた。私が防護ネットのそばで助けを求めている場面も残っているという。
巡回記録には、圭吾からスキー場のスタッフへ救助要請が入った形跡は残っていなかった。救助隊員が私を発見するまでにおよそ二時間かかったことも、記録で確認できた。
毛布をぎゅっと握りしめた。指先が震えていた。
氷点下の吹雪の中、脚を折って柵に挟まれ、意識を失いかけながら助けを待っていた。その間、圭吾は暖かい室内で、彩乃の帰国を祝っていた。
理人は書類を閉じ、スキー場での事故と病院での暴力行為は別々に調べられると説明した。お金や車についても、事故の調査とは分けて返還を求めていくことになった。
窓の外には、雲一つない青空が広がっていた。ゆっくりと息を吸い込む。
「先輩、最後まで手伝ってもらえますか。もう、内々に済ませるつもりはありません。謝られたからといって、責任を追及するのをやめる気もありません」
時間がかかったとしても、曖昧なまま終わらせるつもりはなかった。
6
圭吾が警察で事情を聞かれていると知り、千鶴は慌てて警察署へ向かった。担当者に息子の様子を尋ねても、捜査中のため詳しいことは話せないと言われる。何度も頼み込み、ようやく短い面会が認められた。ガラス越しに見えた圭吾は髪が乱れ、目も充血していた。
「母さん、頼むよ。真琴を何とかしてくれ! あいつ、俺を潰す気なんだ。訴えを取り下げるように説得してくれよ!」
千鶴は涙をこぼしながら、何度もうなずいた。
「大丈夫よ。お母さんが何とかするから。彩乃ならきっと力になってくれるわ」
面会を終えると、千鶴はすぐに彩乃が暮らすマンションへ向かった。
彩乃がドアを開けた途端、千鶴は彼女の手をつかみ、圭吾が警察の調べを受けていることを伝えた。
「彩乃、圭吾が大変なことになっているの。お父さんに頼んで、腕のいい弁護士を紹介してもらえないかしら? あなたのためにしたことも多かったんだから、少しくらい力になってくれてもいいでしょう?」
彩乃は手を引き抜き、笑顔を消した。
「おばさま、何を言っているんですか。こうなった以上、あとは警察に任せるしかないでしょう? 父が圭吾のために口利きするわけがありません」
千鶴は言葉を失った。
「彩乃、圭吾はあなたのためにあんなことをしたのよ! スキー場だって、あなたを心配していたから真琴を助けに行けなかったんでしょう? 病院でのことも、あなたのために腹を立てたから……」
「ちょっと、やめてください」
彩乃は鼻で笑い、リビングへ戻った。
「スキー板を私に渡したのは圭吾です。私が無理やり奪ったわけじゃありません。真琴を置いていったのも、彼が自分で決めたことですよね?」
彼女は立ち上がり、千鶴を見下ろした。
「病院で暴れたことまで私のせいにしないでください。私だって警察に呼ばれて、何時間も事情を聞かれたんです。おかげで評判まで傷つきました。私を巻き込みたくないなら、真琴を何とかして、これ以上騒ぎにならないようにしてください」
千鶴の顔が怒りで赤くなった。彩乃の手首に光る真珠のブレスレットが目に入る。
「それなら、桐谷家の形見のブレスレットを返してちょうだい! あれは将来のお嫁さんに渡すつもりだったのよ!」
彩乃は手首をくるりと回し、冷ややかに笑った。
「一度もらったものを返す必要なんてあります? おばさまが自分で私につけてくれたんでしょう。今さら返せと言われても困ります。もう帰ってください」
マンションの管理スタッフに促され、千鶴は外へ出された。冷たい風の吹く歩道に立ち尽くし、しばらく何も言えなかった。
彩乃に優しくしていれば、息子も自分を大切にしてくれる。そう信じていたのに、いざというとき、彩乃は何の助けにもなってくれなかった。
千鶴は迷った末、病院へ向かった。
病室の前で、スタッフからほかの患者の迷惑にならないよう注意されても、真琴の名前を呼び続けた。
「真琴さん、悪かったわ。全部、私が悪かったの! でも、圭吾の人生まで壊さないでちょうだい! 五年も付き合ってきたんでしょう? どうしてあの子を警察に訴えるの?」
廊下にいた患者や看護師が、次々と振り返った。千鶴は人が集まってきたのを見ると、さらに声を上げ、今にも膝をつきそうな様子で泣き始めた。
病室のドアが開いた。
出てきたのは、真琴ではなく理人だった。
理人は千鶴に、病室の前で騒ぎを起こすのをやめるよう告げた。今後も患者の療養を妨げる行為が続けば、病院側で記録を残し、必要に応じて警察へ相談することになるという。
「息子さんを助けたいなら、まず本人に責任を取らせてください。真琴にこれ以上、負担をかけないでください」
千鶴は泣き声を止めた。
理人を見つめ、それから閉ざされた病室のドアを見た。やがて肩を落とし、病院を後にした。
7
入院して一週間が経つころ、理人は圭吾のために使ったお金についても調べ始めていた。帳簿や利用明細を並べてみると、どれほどの金額を負担してきたのか、具体的に見えてきた。
付き合っていた五年間、圭吾は起業したばかりで資金繰りが苦しいと、何度も相談してきた。私は彼を信じ、二人で努力すれば、いつかもっと余裕のある暮らしができると思っていた。そのために、自分の貯金から少しずつお金を出し、総額で八百万円近くを彼の事業に回していた。
クレジットカードも二枚、彼に預けたままだった。
理人が利用明細を整理してくれたおかげで、先月、圭吾がパリの高級ブランド店で約百二十万円を使っていたことがわかった。購入したのはエルメスのバッグ。彩乃が帰国してからSNSに載せていた、あの贈り物だった。
半年前には、高級寿司店で八万八千円を支払っている記録もあった。その夜、圭吾は仕事で急な残業が入ったと言っていた。実際には彩乃を連れて海鮮料理を食べに行き、私は車の中で胃痛に耐えていたのだ。
普段、圭吾が乗っていたBMWの五シリーズも、頭金を払ったのは私だった。車は私名義で登録され、毎月のローンも私の給料口座から引き落とされていた。
明細を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「返してもらえる可能性はありますか?」
理人は書類を閉じ、慎重に答えた。
「まずは一つずつ確認しよう。貸したお金なら、記録をもとに返還を求められる可能性がある。カードの利用分も、真琴がどこまで了承していたのか、明細ごとに整理する必要がある」
彼は車の書類を取り出した。
「車は真琴名義だ。購入時の支払い記録とローンの明細をそろえて、弁護士を通じて返還を求めよう」
BMWについては、理人が車検証や支払い記録、ローンの資料をそろえ、弁護士を通じて圭吾に返還を求めた。名義も支払いも私のものだと確認できたため、以後は私の許可なく使わないよう通知してもらった。
彩乃はその車で友人との集まりに出かけるつもりだったらしい。ところが出発前に連絡が入り、車の登録名義が真琴であること、所有者が返還を求めていることを知らされた。
友人たちの前で、彩乃は声を荒らげた。
「これ、私の友達の車なんだけど! どうして急に使っちゃいけないなんて言われなきゃいけないの?」
友人の一人が書類を確認し、怪訝そうに尋ねた。
「名義は朝倉真琴になってるけど……。前に圭吾が彩乃にプレゼントした車だって言ってなかった?」
その場にいた人たちの表情が変わった。彩乃はこれまで、ブランドバッグや高価な服、車などをSNSで披露してきた。ところが、車の所有者すら説明できないとなると、周囲の見る目も変わってくる。
理人は、彩乃が海外で抱えていた金銭問題についても、確認できる範囲で調べてくれた。関係者から得た情報では、彩乃はギャンブルや高額な買い物で出費を重ね、帰国前には知人から金を借りていたらしい。
ただし、借金があるという事実だけで、圭吾に近づいた目的まで断定することはできない。理人も、今ある資料からわかることと、まだ証明できていないことを分けて考えるよう念を押した。
資料をまとめ、証拠のあることだけを弁護士に任せることにした。自分で確かめる必要のないことまで、追いかけるつもりはなかった。
8
数か月後、病院での暴力行為について圭吾は起訴され、裁判が始まった。スキー場での事故については別に捜査が続き、私が貸したお金や車の返還についても、弁護士を通じて話し合いを進めていた。
再び彼の姿を見たとき、以前の自信に満ちた面影はほとんど残っていなかった。髪は乱れ、顔色は悪く、目の下には濃い隈ができている。弁護士の隣に座る私を見ると、彼の目に恨みと懇願、そして隠しきれない恐怖が浮かんだ。
脚の骨折はまだ完全には治っていなかったが、装具を使えば歩けるようになっていた。理人に付き添われ、必要な手続きに出席した。
法廷では、病院での出来事に加え、事故当日の経緯についても説明が求められた。スキー場の監視映像には、防護ネットのそばで倒れた私が助けを求める一方、圭吾が彩乃を抱き上げてその場を離れる様子が残っていた。
別の映像には、休憩室で圭吾が彩乃に飲み物を渡し、友人たちと帰国祝いを続ける姿も映っていた。傍聴席から、抑えた驚きの声が漏れた。
スキー場での事故については、板を交換した経緯や救助記録、関係者の証言が別途調べられていた。病院での行為についても、診療記録と当日の証言が確認された。
彩乃も、スキー場での事故について事情を聞かれた。真琴が防護ネットに挟まれていたとは知らなかったし、圭吾に助けに行かないでほしいと頼んだこともない。彼女はそう繰り返した。
「私だって圭吾に騙されたんです! スキー板を渡してきたのは彼のほうです。私から頼んだわけじゃありません。真琴があんなにひどい怪我をしていたなんて、知らなかったんです!」
彼女は涙を拭い、さらに続けた。
「病院でのことも、本当に怖かったんです。私は圭吾と付き合っていたわけじゃありません。バッグもお金も、彼が自分からくれたものだと思っていました!」
話を聞いていた圭吾の顔色が、みるみる変わった。
事情聴取が終わり、職員の案内でそれぞれが廊下へ出たあと、二人は距離を置いたまま言い争いを始めた。
「彩乃、お前、よくそんなことが言えるな! スキー板だって、かわいいって言ったのはお前だろ。お前が痛いって泣くから、先に抱えていったんだ!」
彩乃はすぐに言い返した。
「あなたが勝手に決めたんでしょう! 私が真琴を置いていけなんて頼んだ?」
圭吾は怒りに顔を歪めた。
「お前のために真琴をあんな目に遭わせたんだぞ! バッグを買うために真琴のカードまで使った。それなのに、全部俺が勝手にやったことだって? だったら金を返せ! うちの形見のブレスレットも返せよ!」
職員が間に入り、二人に廊下での口論をやめるよう求めた。
彩乃は顔を青ざめさせ、うつむいた。圭吾はその場に立ち尽くし、涙を流していたが、彼女から慰めの言葉が返ってくることはなかった。
二人の言い争いから目をそらした。
どれほど問題が残っていようと、もう私には関係のないことだった。
9
その後も手続きは続いた。病院での暴力行為については、提出された診療記録や証言をもとに裁判所が判断を下した。スキー場での事故については、別途、警察による確認が続けられた。
お金の問題では、貸付記録やカードの利用明細、車の登録情報をもとに、弁護士を通じて圭吾側と交渉した。圭吾が認めた借入金の一部と車の返還について合意が成立し、カードの利用分も、私の同意が確認できない支出を中心に精算することになった。彩乃に渡った品物についても、すべてを一括して返せるわけではなく、購入経緯や支払い記録を確認したうえで、返還や精算の対象を決めていった。
傍聴席にいた千鶴は、結果を聞くと力が抜けたように椅子へ沈み込んだ。圭吾がうつむいたまま退出していくとき、私と目を合わせることはなかった。
圭吾が失ったのは、お金や以前の暮らしだけではなかった。今までのように甘えたり、口先で謝ったりしても、もう誰かが代わりに後始末をしてくれるわけではない。
彩乃も、以前のような華やかな生活を続けることは難しくなっていた。海外で抱えた借金は残ったままで、債権者たちは正規の手続きを通じて返済を求め始めた。車や高額な買い物をめぐる問題が周囲に知られ、友人たちの態度も変わっていった。
病院での件について判決が出てから数日後、必要な書類を受け取りに出かけた帰りに、圭吾と面会した。
ガラスの向こうに座る彼は、すっかり生気を失っていた。私を見るなり立ち上がり、両手をガラスにつけて泣き始めた。声が震え、言葉を続けることさえ難しそうだった。
「真琴……俺が悪かった。本当に反省してる。彩乃に惑わされてたんだ。俺がしたことは、全部間違ってた……!」
彼は私に、寛大な対応を求める書面を出してほしいと頼んだ。もう一度やり直せるなら、今度こそ大切にすると約束し、一生かけて償うとまで言った。
黙って彼の言葉を聞き終えてから、ゆっくりと口を開いた。
「圭吾。私、この半年で何が一番よかったと思っているか、わかる?」
彼は顔を上げた。わずかな期待が、その目に浮かんでいた。
「スキー場での事故があったから、あなたのことがわかったの。あのことがなければ、私はまだ自分に言い聞かせていたと思う。もっとあなたに尽くせば、いつか私を大切にしてくれるって」
立ち上がり、落ち着いた声で続けた。
「五年間のことは、私が人を見る目を間違えた。それだけよ。あなたを許すかどうかは、私が決めること。もうあなたの責任を代わりに背負うつもりはないし、自分が受けるべきものを諦めるつもりもない」
そう言って、出口へ向かった。
彼がこれからどんな人生を送ろうと、私が心配することではなかった。
10
半年後、霞森市に春が訪れた。
リハビリを続けた結果、脚の骨折は完治し、装具も必要なくなった。目の損傷も回復し、ようやく以前と同じように生活できるようになった。
この半年で、桐谷家の暮らしも大きく変わった。圭吾の事業は以前から資金繰りに余裕がなく、今回の件で生じた支払いと借入金の返済が重なった。千鶴は息子を支えるために家を手放し、家賃の安い小さなアパートへ移ったと聞いた。
彩乃も、海外で抱えた借金の返済と、周囲からの信用を失った現実に向き合うことになった。圭吾もまた、自分の行動がもたらした結果から逃れられなくなっていた。
私は返還を求めていたお金を回収し、財産の問題にも一つの区切りをつけたあと、以前の仕事を辞めて、独立したインテリアデザイン事務所を立ち上げた。
これまで積み重ねてきた経験と、仕事を通じて築いた信頼が、今の私を支えてくれている。開業から三か月で商業施設の内装設計をいくつか受注し、仕事も少しずつ軌道に乗り始めていた。
初雪が降った冬の初め、理人が白嶺スキーリゾートへ行かないかと誘ってくれた。
彼は私の回復具合に合ったコースを事前に調べ、新しいスキー用具も用意してくれていた。斜面の頂上に立ち、足元のスキー板を確かめる。澄んだ山の風を胸いっぱいに吸い込んだ。
ここには、忘れられないほどつらい記憶が残っていた。事故のあと、長いあいだ雪景色を見るだけで身体がこわばった。今もあのときの痛みを覚えている。それでも、もうこの場所を避ける必要はなかった。
理人は黒いスキーウェアを着て、隣に立っていた。証拠や責任の話をすることもなく、ただ穏やかな目でこちらを見ている。
「怖い?」
顔を向け、彼の目を見て笑った。
「少し。でも、滑ってみたい」
理人が手を差し出した。
「じゃあ、一緒に行こうか」
その手を取った。
「うん。一緒に行こう」
二人で同時にストックを蹴り、広い雪道へ滑り出した。風が耳元を通り過ぎ、陽の光を受けた雪がきらきらと輝いている。理人の後ろについてカーブを曲がり、少しずつ速度を上げた。
前方には、白く輝く山々が広がっていた。私は風を受けながら、彼と並んで滑り続けた。




