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終わらない夏

作者: 朱色の豚
掲載日:2026/10/18

 蝉の声が、幾重にも重なって耳に張りついていた。この暑さにとうとう鋸の歯が生えて、頭の中を少しずつ挽いているみたいだった。

 襟元はぐっしょり濡れて、首の後ろに貼りついている。こめかみを伝った汗が一滴、目に入った。しみて、拭おうと手を上げかける。けれど腕は何かに引かれて背中に回されていて、動かすたびにそれがきつく食い込んだ。

 違う。

 蝉じゃない。

 誰かが叫んでいる。大勢が叫んでいる。声は熱気の中でひと塊になり、いくつもの口が開いては閉じた。舌も、歯も見える。そこから吐き出されるものが、どうしても頭に入ってこない。

 ……英語、わかんないんだってば。

 うなだれると、目の前を赤い滴が落ちていった。

 ほんの小さな赤。それがぼやけた視界からこぼれ落ちると、空いたところにはすぐ陽の光が入り込んだ。何度も強くまばたきをして、ようやく二つの言葉だけを聞き取った。

 魔女。

 焼け。

 あんなにたくさんの口が、知らない言葉を吐いているのに。よりによって、この二つだけはわかってしまう。

 ここへ跳躍(ジャンプ)したのは、ひと月ほど前だった。どう見ても中世にしか思えない、どこか辺境の小さな町。何という国なのかもわからない。地名も人の名前も、耳で聞いただけでは何ひとつ手がかりにならなかった。着いた途端、人目を避けたつもりだったのに、結局見つかってしまった。

 今度は、向こうが僕に名前をつけてくれた。

 村人の一人が、松明を掲げて近づいてきた。

 火の熱が顔を打つ。身を引くと、後頭部が木の柱にぶつかった。足元にあった丸いものが転がり、かた、かた、と二度、軽く乾いた音がした。

 薪だ。

 足元を見る。何本も、何本も、積み上げられている。背中で縛られた手をもう一度動かした。縄は緩まない。さっきまでただの音だった言葉が、急にはっきりした形を持った。

 違います、と言いたかった。

 助けて、と言いたかった。

 二つが一緒に喉元まで押し寄せて、口を開けたのに、吸い込んだのは焼けるような空気だけだった。涙のほうは簡単に出た。言葉を選ぶ必要も、誰かにわかってもらう必要もない。頬を伝い、汗と混ざって、口の端を流れるものはどちらも塩辛かった。

 不意に、叫び声がやんだ。

 村人たちが振り向く。その視線を追って、黒い長衣を着た男の人に気づいた。

 胸元には十字架の刺繍。頭の真ん中だけがつるつるに剃られていて、周りを金色の髪が丸く囲んでいる。

 きっちりと。

 こんなに暑くて、騒がしくて、目の前ではまだ松明が燃えているのに、あの髪の輪だけが、きっちりしていた。

 思わず、笑いが漏れた。

 短くかすれた声は、喉を出た途端にひどく場違いに響いた。男の人がこちらを見て、慌てて口を結ぶ。

 彼は松明を持つ人に何かを言った。相手は僕を指さして、声を張り上げた。手の中の炎も揺れる。彼はその人が話し終えるまで待ってから、静かに同じことを繰り返した。

 僕は松明ばかり見ていた。

 炎が横になびけば、目もそちらへ動く。ほんの少し下がるだけで、靴の中の足指が縮こまった。あの人が何を言っているのか、一言も頭に残らなかった。

 ようやく、松明が足元の薪から離れた。

 人々が少しずつ散っていく。最後の何人かは、歩きながら何度も振り返って僕をにらんだ。足は遠ざかっても、視線だけがいつまでも顔に残った。彼は柱の後ろへ回って縄をほどき、そのまま膝をつきかけた僕を支えてくれた。

 近くで見ると、眉のあたりから汗が一滴流れ、頬を伝って襟の中へ消えていった。

 青い目も見えた。

 何もかもが汗でにじむ中、その青だけは、はっきりしていた。

「ありがとう……」

 やっぱり出てくるのは日本語だった。

 彼は清潔な布を額に当て、ここを押さえて、と身振りで伝えた。それから肩にマントをかけ、僕を連れ出してくれた。

 マントが濡れた襟を押さえ、熱気まで中に閉じ込める。それでも僕は、しっかりと身に巻きつけていた。

 小道の両側には畑が広がっていた。働いていた人たちが農具に体を預け、こちらを見る。畦を越えてくる視線は、マントでも隠せない僕の顔に止まった。彼のそばへ、少しだけ寄る。

 彼は歩調を落としてくれた。

 だから僕も、ゆっくり歩けた。日差しに白く焼けた道を、少しずつ進んでいく。次の一歩で膝が崩れるかもしれないと、もう心配しなくてよかった。

 教会は小さく、長椅子が数列あるだけだった。座って初めて、足がずっと震えていたことに気づいた。木の座面が体を受け止めてくれても、震えのほうはもう終わったと知らないようで、膝の奥に細かく残り続けた。

 彼はステンドグラスの下に立っていた。肩に赤や青の光が落ちて、確かに少し神々しかった。

 それから、うつむいた。

 頭のてっぺんが、きらりと光った。

「はは……ごめん、ほんとにごめん……」

 うつむいて涙を拭いても、肩が止まらない。さっき流しきれなかったものが一度に押し寄せてきて、笑っても震え、泣いても震えた。額に押し当てた布はすっかりずれていた。

「知り合いに、あんまり似てるから」

 通じるとは思わず、日本語で言い訳した。

 そのとき、胸の奥から、覚えのある熱が上がってきた。

 汗の届かないところに潜んでいる熱だった。初めはほんの小さなものが、ゆっくり広がっていく。僕はこれを知っている。夏の日差しにどれほど肌を焼かれていても、内側からにじみ出すこの感覚は紛れなかった。

 また、行くんだ。

 まだこの人のマントを着ていて、名前さえ知らないのに。

 彼は少し笑い、教会の脇にある狭い階段を下りていった。僕は一人で座り、一息ずつ呼吸を整えながら、せめてもう少しゆっくりであってほしいと願った。

 息が整うまで。

 それくらいは。

 すぐに足音が戻ってきた。

 彼は木の椀を運んできた。

 中には砕いた氷が盛られ、淡い緑色の汁が少しかかっている。氷の角が色ガラスを通った光を受けて、細かくきらめいた。この長い暑さをほんの少しだけ砕いて、椀に入れてきたみたいだった。

 椀を見て、彼の顔を見た。

 中世の神父。

 かき氷。

 この二つが並んだせいで、暑さでただでさえ働きの悪かった頭が、完全に止まった。

 でも、あの椀の持ち方。青い目。こちらを見て、僕が何か言うのを待っている、その顔――

「トーマス?」

 彼は僕の手に椀を渡し、隣に座った。

 ひと口、食べた。

 ミント。

 細い冷たさが舌の上に広がった。しばらく口の中に留めておく。襟はまだ湿って首に貼りつき、額も痛かったけれど、口の中のほんの狭いところだけは、ようやく休ませてもらえた。

 いちばん好きな味だった。

 彼はゆっくり、はっきりした日本語で言った。

「今は、ジョンという名前だ」

「本当に、君なの?」

「そうだよ」

「じゃあ、その髪……」

 彼は頭のてっぺんに手をやった。

「また伸びるよ」

 また笑ってしまい、額の傷まで引きつった。彼は僕の手から布を取り、当て直してくれた。

 聞くことは山ほどあった。次々と頭の中に押し寄せるのに、最初に選んだのは、いちばん役に立たない質問だった。

「僕のこと、知ってる?」

「知ってる」

 彼はしばらく僕を見た。

「でも、君とは会う順番が違う」

 うつむいて、氷を少しすくう。匙が椀の縁に触れ、小さな音がした。淡い緑の水の中で氷が動く。さっきまでくっきりしていた角が、もう丸くなり始めていた。

「この前は僕が慰めたんだよ。お墓の前であんまり泣いてるから、どうしたらいいかわからなくて」

 彼は黙って聞いていた。

「今度は君に助けてもらっちゃった。かき氷までついてるし」

 椀を少し持ち上げてみせる。

「僕のほうが得してるね」

 彼も笑った。

 少ししてから、尋ねた。

「私に会うのは、これで何回目?」

 片手を空け、指を二本立てた。

「二回目」

 彼は懐から小さな手帳を取り出した。紙は黄ばみ、端が毛羽立っている。めくるたびに、その端が指の腹をかすめた。あるページを開き、僕の言ったことを木炭で書き留める。

「じゃあ、君は不老不死ってこと?」

 彼はうなずいた。

 僕は匙をくわえたまま、しばらく彼を見ていた。

「まあ、僕みたいな時間跳躍者(ジャンパー)がいるんだもん。死なない人が一人くらいいても、変じゃないか」

 彼は手帳をしまった。

「今度は、どのくらいいられる?」

 椀では、ミントの水に浮かんだ氷がかすかに触れ合っていた。もうひと口、食べたかった。匙を入れて、淡い緑と白いかけらを一緒にすくう。それだけなのに。

「あ、あんまり長くは――」

 熱が、一気に込み上げた。

 最後まで言えなかった。

 木の椀が長椅子にぶつかり、砕いた氷が床に散った。

 ジョンは、まだそこに座っていた。

 しばらくして腰をかがめ、匙を拾い、椀を起こした。

 黒い長衣を脱いで丁寧に畳み、説教台に置く。それから長椅子のそばに落ちたマントを拾い、外へ出ていった。

 椀の氷は、まだ溶けきっていなかった。

 ……

 海水が口に流れ込んだ。

 慌てて上体を起こし、水と砂を一緒に吐き出した。額の傷に塩水がしみて、息を吸うたび顔がゆがむ。舌の奥は苦く、歯の間には細かな砂が残っていた。いくら吐いても、まだ少しある気がした。

 太陽は、相変わらず頭の上にあった。

 濡れた砂に座ったまま、しばらく動けなかった。服から水が滴り、上からは陽が照りつける。ほどなく、びしょ濡れの布がまた体に貼りつき始めた。

「次くらい、違う季節にしてくれないかな」

 秋でもいいから。

 目の前の崖に道を塞がれ、海岸沿いに迂回するしかなかった。ひとつ角を回ったところで、城壁の向こうに立ち上る煙が見えた。

 町が燃えていた。

 煙は上がり、灰黒い縁を、白くまぶしい空に滲ませていく。遠くで鎧が光った。一度、また一度。鋭いものが目をかすめるようだった。槍を掲げた兵士たちの兜には、見覚えのあるものがついている。

 箒みたいな、あれ。

 映画で見た。

 古代ギリシャ?

 一歩、後ずさった。

 今度は縛りつけられる柱もない。誰かが間に合うとも限らない。

 この時代、トーマスはもう生まれてるんだろうか。

 考えるのが怖くなり、脇の斜面へ駆け出した。

 元・北越小の女傑を甘く見てもらっては困る。

 何年も使っていない肩書きだけど、今日くらい役に立ってほしい。

 木陰に這い込んだ頃には、自分に悪態をつく力さえ残っていなかった。手のひらは擦りむけ、膝も痛い。久しぶりの肩書きは、一歩だって余計に登らせてはくれなかった。草の上にうつ伏せになり、胸の中が空っぽになるほど息をした。ようやく仰向けになれたのは、ずいぶん経ってからだった。

 木漏れ日が顔に落ちた。

 光は葉に細かく砕かれても、熱までは砕かれない。ひとつずつ、額に、まぶたに、持ち上げた手の甲に貼りついてくる。

 目を覆った。涙が指の間を抜けて流れた。

 アニメやゲームでは、タイムマシンを作れば、いつだってすごい冒険が待っている。行ける場所も、間に合うことも、あんなにたくさんある。

 僕はただ、かき氷を一杯、最後まで食べたかっただけなのに。

 泣くだけ泣いて顔を拭き、町の見えるところまで這っていった。

 白っぽい家々が、一帯ごと黒く焼けていた。屋根と屋根の間から煙が吹き出し、さっきまで分かれていた輪郭をひとつにしている。兵士たちは人々を海へ追い立てていた。誰かが立ち止まり、すぐに突き倒された。後ろの人はその体を避けて歩き続ける。

 人の流れがそこで一度割れ、また閉じた。

 岩についていた手を、ゆっくり引っ込めた。

 手のひらは擦りむけ、膝もまだ痛い。さっきあの斜面を登るだけで、肺まで吐き出しそうになった。息はまだ整わない。岩の熱が残る指先を曲げると、傷口まで引きつれた。

 僕には助けられない。

 次の跳躍(ジャンプ)まで自分が生きていられるかどうかも、わからない。

 反射した光が目をかすめた。

 二人の兵士が外側の山道を登ってくる。慌てて木の陰へ身を引いた。その視界の端に、斜面の下、瓦礫のそばに立つ子供が入った。

 七つか八つくらい。頭を丸めている。

 あの瓦礫までは十数歩しかない。木の裏から細い道が斜めに延び、崩れた壁の後ろへ通じていた。兵士たちは反対側を歩いていて、まだ壁の角を回らなければならない。

 丸坊主の子は壁に手をつき、背伸びして町を見ていた。

 まだ、背伸びしている。

 彼らには、まるで気づいていない。

 僕は座り込み、両腕できつく膝を抱えた。擦りむいた手のひらが服に触れ、焼けるように痛い。小さくなれば、それだけ木陰に隠れられる。そのわずかな陰の中へ、もっと、もっと体を縮めた。

 ここにいればいい。

 声を出さなければ。

 膝に顔を埋めた。

「ごめんなさい……」

 次の瞬間、両手で膝を強く打った。

 跳ね起き、砂利を蹴り、木の陰から飛び出した。

 草が脛を打つ。足が滑り、手をついて、また前へ飛び出す。

「ごめん、お父さん、お母さん」

 風に押された涙がこめかみへ流れた。拭く暇もなく斜面を駆け下り、瓦礫の裏の細道へ飛び込む。

 振り向きかけた子の口を手で塞ぎ、崩れた壁へ引きずり込んだ。

 その子は必死にもがき、僕の手に噛みついた。

 痛みで目の前が白くなった。

 犬か、君は!

 歯を食いしばり、悲鳴を飲み込んだ。そのまま子供を引きずって、二枚の低い壁の間へ転がり込む。

 金属の触れ合う音が近づいた。

 子供が、急に動かなくなった。

 抱き締めて、壁際にしゃがんだ。手のひらにはまだ歯が当たっている。胸が上下して、どうしても静まらない。さっき走った道が、まだ脚の中に、喉の中に続いていた。ひと息ごとに、空気が口から飛び出そうとした。

 壁の外で足音が止まった。

 二人とも、何も言わなかった。

 汗が顎先に集まり、ぶら下がった。それを振り落とすためにうつむくことさえできない。

 やがて音は、ゆっくり遠ざかっていった。

 聞こえなくなってから、ようやく手を離した。

 丸坊主が振り向いた。青い目を見開いて、長々と何かを言う。

 僕は噛み破られた手を持ち上げた。

「怒るのはちょっと待って。ほら、もう代金は払ったから」

 その子は手を見ず、町を指さした。

 わからない言葉が、初めはせわしなく押し合っていた。それが次第にほどけ、声も小さくなっていく。最後にはひとつの言葉だけが残った。呼んでは止まり、また呼ぶ。

 たぶん、わかった。

 ママ。

 しゃがんで、何か言おうとした。

 唇は動いたのに、かけてやれる言葉が見つからない。僕の知っている言葉は二人の間で立ち止まり、向こうへ渡る道を見つけられずにいた。

 結局、抱き締めて、そっと背中を叩くしかなかった。

 初めは押しのけようとしていた子が、やがて僕の服をつかんだ。

 布にこもった力は小さかった。それでも、ずっと離れなかった。

 ……

 山の向こうには、町を逃れた人たちが集まっていた。

 平たいパンを分けてくれる人も、水汲みを手伝えば食べ物をくれる人もいた。僕と丸坊主は、近くの使われていない石の家に住みついた。石は昼のあいだに少しずつ日差しを吸い込み、僕たちが寄りかかって座る頃にも、背中へ熱を返してきた。

 昼間、その子は僕を水場へ案内し、僕はその子が危ないところへ行くのを止める。

 二つ目のほうが、ずっと難しかった。

 いつも、あの瓦礫のことばかり気にしているのだ。

 一度、道を塞いで、木の枝で兵士が槍を突く真似をした。枝先を前へ出し、熱に揺れる空気の中で止める。その子には通じた。でも、急に大声で泣き始め、山の下を指さした。

「ママ」

 手にした枝が、下がった。

 それからは、一緒に行くことにした。

 まず斜面に隠れて様子を見て、見回りが遠ざかるのを待つ。それから崩れた壁に沿って進んだ。角の向こうへは行かせず、僕は外側で見張っていた。

 壁の角に隠れて、僕には見えないところがある。その子はそちらを、僕は反対側を見た。間に散らばった砂利へ陽が落ちて、目を休める場所もないほど白かった。

 途中まで行っただけで、引き返さなければならない日もあった。その子が足を踏ん張って嫌がると、僕もしゃがみ、一緒にもう少しだけ町を見た。

 少しだけ。

 日が高くなってから、二人で帰った。

 名前は教えてもらった。

 長い名前だった。少なくとも、僕の舌には長すぎた。その子の口ではすらすら出てくる音が、僕の口に入ると押し合いへし合い、一歩も譲らなくなる。

 何度試しても首を振られ、最後にはじれたように、もう一度言って聞かせてくれた。

「じゃあ、ナツって呼んでもいい?」

 その子を指し、それから頭の上の太陽を指した。

「夏」

 短い言葉だった。ようやく、舌がもつれずに済む。

 向こうは、ひどく不満そうだった。

 僕の名前も、うまく言ってくれなかった。何度か教えると、勝手に「テロス」みたいな響きの言葉で呼び始めた。

 ゲームでレア装備を落としそうな名前だ。

 直すたびにうなずくくせに、次にはまたそう呼ぶ。

 まあ、いいか。こっちも本当の名前を呼べてないし。

 桃太郎の話や学校の話、今思うと恥ずかしい子供の頃の話をして聞かせた。口を出た言葉は石の家をひと回りして、僕の耳に戻ってきた。たいてい反応はなかったけれど、鬼の真似をして自分の足につまずいたときだけは、少し笑ってくれた。

「今のは、お話に入ってないからね」

 ますます笑った。

 頭を撫でられるのも嫌いだった。手を伸ばすと、ずいぶん慣れた動きで横へ逃げる。なのに夜になると、眠気に少しずつ押されながら、自分から近づいて、くっついて座った。

 昼間はあんなに離れたがるくせに、その距離を、夜には自分で埋めにくる。

 手のひらの傷は、少しずつかさぶたになった。

 傷の縁がつれて、かゆい。歯と砂利に残された痛みは、触れないようにすれば済む小さなところへ縮んでいった。その子の頭にも、柔らかな金髪が薄く生えた。もうつるつるではない。指を滑らせると、かすかな引っかかりがあった。

 暑さは増すばかりだった。

「かき氷……」

 家の外で手を扇ぎ、石ころをいじるナツにぼやいた。

 手で起こす風まで熱く、一周して顔へ戻ってくる。

「かき氷、かき氷。ミントのかき氷」

 ナツが顔を上げた。

 手で椀の形を作り、すくって食べる真似をした。肩をすぼめ、口をゆがめ、歯にしみるところまで真剣にやる。うまく演じれば、歯だけでも先に冷たさを味わえる気がした。

 長いこと眺めていたナツは、僕の手に石を一個載せた。

「これは食べられません」

 手のひらの石は、日に温められていた。元の場所に返して、頬をつまむ。

「でも、その気持ちは褒めてあげよう」

 それからは暑くなるたび、かき氷と言い続けた。無視されると、耳元まで寄って言った。

「かき氷。ミント味。絶対ミント味だからね」

 その言葉を何度も口に含んだ。ひと口ずつ、まだ溶けない氷みたいに、角のあるままで。

 どうせ、通じない。

 どうせ、食べられない。

 想像で涼むくらい、何もないよりましだった。

 数日後、水汲みに行ったとき、水辺で覚えのある匂いに気づいた。

 ごくかすかなものが熱気に混ざり、鼻先をかすめた。足を止め、もう一度嗅いで、しゃがみ込む。葉を指で揉むと、その匂いが指先から広がった。

「ミント!」

 丸坊主がびくりとした。

 葉を鼻先へ差し出すと、匂いを嗅ぎ、自分もしゃがんだ。僕が摘んだのと同じところから何枚かちぎる。指の間でしわくちゃになった葉から、同じ香りがした。

 帰ってから、葉を木の椀に入れ、水を注いだ。

 ひと口飲む。

 水は、やっぱりぬるかった。

 それでも口の中には、ようやく馴染みのある清涼感が残った。舌先からゆっくり広がり、すぐ消えてしまいそうで、もう少しだけ含んでいた。

「あとは氷だけだね、ナツ」

 椀を渡した。

 ナツは飲むと、水に浮かぶ葉を見下ろした。

 ……

 ある日、瓦礫から帰ってきても、ナツは泣かなかった。

 変わった形の瓦を拾い、ずっと持って歩いてきた。座ると、改まった顔で僕に差し出した。

 どこがいいのか、わからなかった。縁も、反り具合も、色も、手がかりにはならない。それでもいつまでも差し出しているので、こちらも改まって手を伸ばし、受け取った。

 夕方、二人で石の壁に寄りかかっていた。

 昼間の熱が服越しに背中へ伝わる。ナツの髪についた草屑を取ってやった。薄く伸びた金髪はとても柔らかい。間に挟まった草を、指先でゆっくりつまみ出す。

 眠そうにこくこくとうなずきながら、まだ僕の裾をつかんでいた。

 もう一度、自分の名前をゆっくり言って聞かせた。

 ひとつの音ずつ。最後まで言う頃には、僕まで知らない名前のように思えてきた。着慣れた服を裏返したら、見たことのない縫い目が現れたみたいに。

 ナツが曖昧に返事をした。

「続きは、また明日ね」

 頭に手を戻した。

 ずっと夏でも、案外悪くない。

 明日覚えられなければ、明後日でいい。

 襟の下はまだ濡れていた。汗が肌に留まりすぎて、貼りつく感じにも馴染んでしまった。手の下には柔らかな髪があり、裾には離れない小さな手がある。そうして座っていると、明日も明後日も、それほど想像しにくいものではなかった。

 壁の欠けたところから風が吹いた。

 長いこと座ってから、ようやく、熱が皮膚だけにあるのではないと気づいた。

 もっと深いところで。

 ゆっくり、外へ広がっていた。

 手が止まった。

 ナツが顔を上げた。

 息を吸って、その熱を押さえ込もうとした。でも胸に入ってくる空気まで熱く、どこを押さえればいいのかわからなかった。

 もう少し、待って。

 せめて、この子が眠るまで。

 けれどナツは立ち上がり、家へ駆け込んだ。呼び止める間もなく、木の椀を持って戻ってくる。ミントの葉が何枚か浮かんでいた。

 歩くたびに、水が揺れる。

 肩をつかみ、こちらを向かせた。

「ナツ、僕、もう行かなきゃ」

 ナツは僕を見ていた。

「谷に戻って、みんなと一緒にいて。一人で、どこかへ行っちゃだめだよ」

 ゆっくり話した。

 ひとつひとつを、できるだけ確かに、優しく置く。そうすれば、二人の間にもう少し留まってくれる気がした。長く留まれば、いつか通じるかもしれなかった。

「ここで、僕を待ってちゃだめだよ」

 指が少し動き、椀の水が縁まで揺れた。

 顎についていた灰を拭ってやる。

「お母さん、早く帰ってくるといいね」

 今度こそ、別れの言葉を最後まで言えた。

 ナツは真剣にうなずいた。

 たぶん、わかっていない。僕にもそれはわかった。ナツはただ、椀をもう少しこちらへ差し出し、一生懸命、僕の発音を真似した。

「かきごおり」

 受け取って、両手で包んだ。

 水はまだ、ぬるかった。

 ……

 まだ、両手で包んでいた。

 十本の指は曲がったままなのに、その下が急に空っぽになった。椀の縁も、水もない。手のひらだけが器を包む形を残している。体のほうが少し遅れて、何がなくなったのか、まだ気づいていないようだった。

 反射的に前へ手を伸ばした。靴底が硬い地面に引っかかり、よろめく。

 そばを車が通り過ぎた。

 馬車じゃない。

 灰色の車体の後ろに、赤いランプ。排気管から熱が漏れる。車はすぐ角を曲がり、あまりいい匂いではないのに泣きたくなるようなものを、後に残した。

 アスファルトの道端に立ち、ゆっくり顔を上げた。

 電線。

 電柱。

 二階の壁にはエアコンの室外機が掛かり、その下へ長く水の跡が延びている。自動販売機の隣には自転車が止まっていた。前籠に中途半端に押し込まれたレジ袋が、風を受けて膨らみ、また柔らかくしぼむ。

 薄い白が、籠の中で何度も息をしていた。

 塀の向こうから蝉の声が押し寄せた。

 今度こそ、本当に蝉だった。

 馴染みがありすぎて、かえって泣けてきた。

 塀の上から濃い緑の葉が覗き、縁だけが日差しに白く光っている。影は僕のところまでは届かず、塀の際に細く溜まっていた。見えているのに、すぐには逃げ込まなかった。

 自販機に、日本語が書いてあった。

 読めた。

 どの文字も、ちゃんとそこにいてくれた。水があること、お茶があること、右のボタンの飲み物は今ないことまで教えてくれる。「売り切れ」だって知っている字だ。何がないのか、僕にもわかる。想像しなくていい。大勢の口の中から、ようやくわかる言葉が出てくるのを待たなくていい。あんな、わからないままでいたかった言葉を。

 飲み物の写真には、水滴が印刷されていた。

 ただの写真なのに、見ていると喉の奥まで少し涼しくなる気がした。

 近づいて、機械の側面に手を当てた。

 日差しを受けた金属は熱かった。

「日本?」

 自分にしか聞こえないくらい、小さな声だった。

「日本だよ」

 後ろで、誰かが答えた。

 振り向いた。

 薄い色のシャツ。肘の下までまくった袖。手に提げた買い物袋。数歩離れたところで、男の人が立ち止まっていた。金色の髪は風に少し乱れていたけれど、青い目はもう僕を見ていた。

 知っている目だった。

「トーマス?」

 彼はすぐには答えなかった。

 先に目元がほころんで、それから口元が、どう笑えばいいのかわからないみたいに動いた。近づいてくると、買い物袋が脚に触れ、中のものが小さく鳴った。

「来たんだね」

「僕――」

 彼の目が手のひらに止まった。

 口元の笑みも、そこで少し止まった。

「……手は、まだ痛い?」

「もう痛くないよ。かゆいだけ」

 手のひらを返して見せた。

「ちっちゃい子に噛まれてさ。あんなに小さいくせに、遠慮がないんだから」

 彼は口を結び、少し横へ目をそらした。

「きっと、怖かったんだよ」

「僕だって怖かったよ」

「うん」

 ひどく小さな返事だった。

 また手を見下ろした彼は、なぜか耳のあたりが少し赤かった。伸びてきた指先はかさぶたを避け、そっと手首を支えた。

「見せて」

 葉の影が肩の上で揺れた。ずいぶん丁寧に見てくれる。僕が指を少し曲げただけで、すぐ手の力を緩めた。

「こっちも」

 指先がこめかみのそばで止まる。

「そこも治った。触らないで」

 手がすぐ引っ込んだ。

「疲れてる?何か食べた?先にどこかで座ろうか」

 口を開けたまま、しばらく見てしまった。

 ひとつも答えが追いつかない。

 彼もこちらを見ていた。やがて、ようやく自分が急ぎすぎたと気づいたように、うつむいて笑った。

「ごめん。ゆっくり話そう」

 まず、頭の上を見た。

 髪は、ちゃんと生えていた。

「伸びたんだね」

 僕の視線を追って、彼は手を上げた。

「伸びたよ」

「よかった」

 なぜか、急に笑いたくなった。さっきまで自販機につかまっていただけなのに、次には胸が痛くなるほど笑っていて、鼻の奥までつんとした。体の中から、短い笑いが何度もせり上がってくる。うつむいたまま、熱い金属に手をついていた。

 彼は隣で待っていた。

 笑い終わってから、買い物袋を反対の手に持ち替えた。

「今はクリスだよ」

「そっか」

 鼻をすすり、今度こそ覚えようとした。

「名前、服に書いておいてくれない?次に会ったら先に見るから」

「考えておく」

 真面目に言うので、また笑ってしまった。

 笑い終わって、聞いた。

「今、何年?」

「二〇〇四年」

 彼を見た。

 背後ではまだ、機械が小さく唸っていた。日差しに熱くなった鉄板の向こうで、見えない飲み物を何列も冷やしている。

「ここ、戦争はしてないよね?」

「してない」

「縛られて、焼かれたりもしない?」

 彼の笑みが、ゆっくり消えた。

「しないよ」

「よかった」

 うなずいた。

 言葉は、小さく口から落ちた。言ってから、両脚がずっとそれを待っていたのだと気づいた。もう走らなくていい理由を。

「じゃあ、先にちょっと座ってもいい?」

 ……

 彼の家は遠くなかった。

 建物の前には水が撒かれていて、コンクリートの半分はまだ濡れ、半分はもう乾いていた。その上を歩くと、靴底から湿った匂いが立ち、植木鉢の土の匂いと混ざった。

 水は少しずつ引いていく。

 乾いたところと濡れたところの境目は、とてもゆっくり動いた。ようやく僕にも、急がずに眺めていられる速さだった。

 階段は涼しかった。

 中に入って初めて、外の日差しに目が少し痛くなっていたと気づいた。壁も段も手すりも、初めはよく見えない。彼の後ろを歩きながら、暗がりから輪郭が浮かび上がるのを待った。目を細めなくていい場所に、自分が慣れるのを待った。

 ドアが閉まっても、玄関で靴を見下ろしていた。

 靴底の溝には砂が詰まっている。足の甲には草で切った細い傷が何本かあり、乾いた汗が、その周りに白っぽい塩を残していた。

 彼がスリッパを置いてくれた。

 足を入れる。

 柔らかな底が足の裏を受け止めて、かえって落ち着かなかった。足指を動かしてみる。その下には砂利も、熱く刺さる砂もなかった。

 つけたばかりのエアコンは、まだ十分に冷えていない。彼が日の当たる側のカーテンを閉めると、部屋が少し暗くなった。薄い布は光を遮りきれず、柔らかな薄黄色に変えて床へ落とした。

 太陽は、まだそこにいる。

 けれど布一枚の向こうから、今だけは僕を直接見つけられずにいた。

「お風呂はこっち」

 二歩ほど歩いてから、彼が振り向いた。

「先に水でもいいよ。お腹すいてる? 何か作ろうか。それとも、先に寝たい?」

「クリス」

「うん?」

「まず、ひとつ選んで」

 彼が止まった。

 僕は指を一本立てた。

「一度にひとつしかできないから」

「わかった」

 少し笑って、台所へ向かう。

「じゃあ、先に冷たいものを食べよう」

 入口までついていき、冷蔵庫を開けるところを見ていた。

 冷凍室はいっぱいだった。透明な容器がいくつも重なり、壁には白い霜がついている。いちばん手前のひとつを引き抜くと、その後ろにもひとつ見えた。中はやっぱり氷だった。

 大きいもの、小さいもの。どれも固く凍って、隣り合っている。

 あんな小さな扉の中に、夏でも流れていかずに済む水が、こんなに入るなんて。

「お店でも始めるの?」

「何の?」

「かき氷屋さん」

 僕の視線を追った彼の口元が、少し動いた。

「始めないよ」

 台所の隅には、かき氷器まで置いてあった。

 氷を入れ、器を取り、削れてくる白いかけらを受け止める。手慣れていて、ほとんど下を見ずに物を取った。氷が高く積もると、器を少し回して真ん中を盛り上げ、最後に薄緑のシロップをかけた。

 もう、匂いがした。

 ミント。

 運ばれてきた器の匙は、柄がこちらを向き、手を伸ばせばちょうどつかめるところにあった。

「どうして、僕がこれを好きだって知ってるの?」

 受け取りながら、また顔を見てしまう。

「この前もそうだった。僕、話したっけ?」

 彼はすぐ答えず、器の縁からこぼれそうな氷を戻してくれた。

「いつか、わかるよ」

「また、そうやって」

 大きくひと匙すくった。

 教会のときより細かい氷は、舌に載せ、軽く押すだけでほどけた。ミントの甘い冷たさが口いっぱいになり、喉の奥へ向かっていく。すぐ飲み込むのは惜しい。でも、いつまでも含んでいられず、先に歯がつんと痛んだ。

 肩がすくんだ。

 彼はすぐ、器を受け取ろうとするように手を伸ばした。

「平気、平気」

 しっかり器を持ち、口の中がいっぱいのまま言った。

「今度は本当だから」

「何が?」

「歯が、しみるの」

 彼は僕を見て、少ししてから、うつむいて笑った。

 ゆっくり食べながら、もう一度台所を見た。

 冷凍室は閉まっていた。

 氷は、その中で安心して凍っていられる。太陽がもっと高くなり、誰かの窓辺や屋根や、逃げ場のないあらゆるものを照らしても、まだそこにいられる。

 扉を開けて、容器をひとつ出せば、もう一杯作れる。

「普段も、よく食べるの?」

 台所を片づけていた手が止まった。

「たまに」

 自分の器を見下ろした。

 あんなにたくさん、氷がある。

 なのに彼は、自分の分さえ作らなかった。

 ……

 シャワーを浴びながら、蛇口を開けては閉め、閉めては開けた。

 水は、同じところから出てくる。

 好きなだけ、流れ続ける。肩を、膝を、かさぶたになってもまだ痛みを覚えているところを伝っていく。閉めれば止まり、開ければ出る。蛇口を握って何度も試すうち、そこに触れている指を離すのが、少し惜しくなった。

 頭を下げ、首の後ろに水を当てた。

 汗にまみれた肌が、少しずつ洗われていく。髪が頬に貼りつき、毛先に集まった雫が足の甲へ落ちた。シャンプーのかすかな香りは、泡立てると狭い浴室いっぱいに広がった。

 急いで出なくてもいい気がした。

 目を閉じて、もう少し立っていた。

 やがて彼が、洗って乾かした服をドアの外に置いてくれた。いつもの一式を着直すと、襟が乾いて柔らかく、首の後ろに触れた。そこだけが頼りなく軽かった。長いこと貼りついていた夏を、一枚剝がしてもらったようだった。

 浴室から出ると、食事が用意されていた。

 薄切りのきゅうりが、冷たい汁に少し浸っている。よそいたてのご飯からは湯気が上がっていた。茶碗を持とうとして指先が熱くなり、慌てて耳たぶをつまむ。

 彼が箸を渡してくれた。

 ひと口食べただけで、もう少し食べるかと聞かれた。コップの水が半分減ると、すぐ元どおりになった。

 目の前のわずかな場所がどんどん整っていくのを見て、とうとう顔を上げた。

「おかずくらい、自分で取れるよ」

「知ってる」

「水も、自分で注げる」

「うん」

 彼は手を引っ込めた。

 けれど箸を置いた途端、また僕の顔を見る。

 次に何が要るのか、待っているみたいだった。

 その目が怖いわけではなかった。ただ、自分がどこにいればいいのか、少しわからなかった。彼はちゃんとテーブルの向こうに座っているのに、とても近くに感じた。まるで僕はここで何度も食事をしていて、次の言葉を置く場所まで、もう用意されているみたいに。

 でも僕には、その場所がまだ見つからない。

 うつむいて、残りのご飯を口へ運んだ。

 食後、ソファでひと眠りした。

 目を覚ますと、薄い毛布がかかっていた。エアコンの風は弱められ、手の甲に触れると、もう少しひんやりした。

 カーテンは閉めきられていなかった。

 明るい隙間が一本残り、眠る前より少し先の床を照らしていた。光の中を埃がゆっくり通っていく。細かく、ゆっくりと。この午後には、そんなふうに何もせず過ごせる場所が、いくらでもあるみたいだった。

 寝転んだまま、しばらく見ていた。

 日差しが、ただの日差しでいられることもあるんだ。

 逃げなくていい。どこかに日が当たるまでに、何かを済ませなくてもいい。光が少し進み、もう少し進んでも、僕はまだここで横になっていられる。

 クリスは食卓に座っていた。

 起きた気配に顔を上げる。

「よく眠れた?」

 目をこすりながらうなずいた。

 そう聞かれたのは、ずいぶん久しぶりだった。

 彼が氷水を注いでくれた。受け取ると、コップの表面がすぐ白く曇った。指でなぞると、透明な筋が残る。

「近くに図書館、ある?」

「あるよ」

「ちょっと行きたい」

 彼は水差しを脇へ寄せた。

「何を探すの?」

「歴史の本かな。古代ギリシャの」

 言ってから、自分でも少し心細くなった。

 あそこが本当に古代ギリシャだったのかも、わかっていない。映画で見た兜をひとつ知っているだけ。海辺に町があり、兵士が大勢いた。家が軒を連ね、燃え始めると、どこまでがどの家なのかもわからなくなった。

 それで、何が調べられるんだろう。

 でも、試すくらいはできる。

「あそこで、子供の面倒を見てたんだ。これくらいの子」

 腰のあたりに手を止めた。

「僕を噛んだ子」

 彼は僕の手を見て、小さくうなずいた。

「お母さんがいなくなって、どうしても探しに帰ろうとするから。止められなくて、一緒に行ってた。そのあとは石の家に住んでて、食べ物を分けてくれる人もいて……」

 いろいろなことが一緒に浮かび、口にするとかえってまとまらなかった。まだ小さい子なのだと先に伝えたかったし、谷にはほかの人たちがいて、引き取ってもらえるはずだとも言いたかった。

 けれど、裾を握るあの力がずっと残っていた。

 最後に出たのは、ひと言だけだった。

「急に、いなくなっちゃったから」

 クリスは少し黙った。

「その子のことは、あとで考えよう」

 顔を上げた。

「え?」

「お父さんとお母さんに、会いに行こう」

 急いで言った。長いこと胸に置いていたものを、ようやく出せたみたいだった。

「今からでも行ける。私も一緒に行く」

 僕は何も言わなかった。

 エアコンの風がふくらはぎを撫でた。涼しいのに、足指が少しずつ縮まっていった。

「あの子の名前とか、住んでた通りとかを調べたいんじゃないよ。本に載ってるわけないって、それくらいわかってる。ただ、あの町がどうなったのか、あの人たちが――」

「わかってる」

「わかってない」

 硬い声が出た。

 自分にもわかった。

 彼は一瞬止まり、声を和らげた。

「そのことは、ゆっくり調べられる。先に二人に会おう。ね?」

「行かない」

 彼が僕を見た。

「ひと目だけでもいい」

「ひと目見て、そのあとは?」

 膝の毛布をどけ、畳んだ。うまくいかず、角がどうしても揃わない。もう一度広げ、折り直す。柔らかな布を表に、裏に返しても、ひとつだけ角が余った。

「もう、こんなことになってるんだよ」

「それでも、会えるよ」

「どうやって?」

 毛布を握り締めた。

「目の前に立って、娘ですって言うの? 信じなかったら? 信じてくれたら、どうするの?」

 顔を上げた。

「それで? 話の途中で、急にいなくなるの。また待たせるの?」

「言わなくてもいい」

「我慢できなくなるよ」

 部屋が静まった。

 別の理由を見つけるより先に、その言葉が飛び出してしまった。

 うつむいて、毛布を脇に置いた。

「今は普通に暮らしてるのに、僕が戻って何になるの。これからこんなことが起きるって知らせて、自分の子を見るたび、いつ消えるんだろうって心配させるの?」

 彼は答えなかった。

「そんなもの、背負わせたくない」

「今、全部決めなくていいんだよ」

 彼は立ち上がり、テーブルの端の鍵を取った。

「まず行こう。近くまで行くか、話すかは、着いてから決めればいい」

「行かないって言った」

「一緒に来て」

 声は、まだ落ち着いていた。

 落ち着いているからこそ、その奥の譲らなさを押し返せなかった。僕の言葉はそこに落ちて、何の跡も残せない。彼を止めるには軽すぎるみたいだった。

「今度こそ、どうしても連れていきたい」

「今度こそって?」

 僕も立ち上がった。

 膝がテーブルにぶつかり、コップの氷が小さく鳴った。

「いつの話? どうしていつも、何でも知ってるみたいな顔するの?」

 鍵を持った手が止まった。

「そんなつもりは――」

「してるよ」

 そういう意味ではないのかもしれない。それは、わかっていた。

 でも、もう喉元には言葉が溢れていた。止められないし、あまり止めたくもなかった。やっと、通じる相手がいたのだ。どの言葉も我先にと飛び出して、もう体の中へ戻ろうとはしなかった。

「何でも、ゆっくりでいいんだね。あの子がどうなったかなんてどうでもよくて、調べるのはあと。まず親に会いに行って、あとは着いてから決めればいい」

「あの子がどうでもいいとは言ってない」

「そう言ったじゃない!」

 急に声が大きくなった。

 自分で驚いて、涙まで出てきた。

 彼が半歩近づいた。

 僕はすぐに下がった。

「君は、ゆっくりでいいよね」

 彼はもう動かなかった。

「秋を待てる。夜が涼しくなって、葉っぱが黄色くなって、出かけるときにもう一枚持っていくようになるまで待てる。もっと寒くなれば、暖房をつけて、温かいものを食べられる。夏がつらくても、少し我慢すればいい。どうせ冬が来るんだから」

 脚の脇に押しつけた手を、ますます強く握った。かさぶたが引っ張られて、かゆかった。

「薄着で出ちゃっても、取りに帰れる。ご飯を食べきれなくても、続きを食べられる。嫌な日には家に帰って寝ればいい。起きたら、同じベッドで、同じ場所にいる」

「私――」

「僕は、できないんだよ」

 急に、息が続かなくなった。

 鼻をすすった。ちゃんと伝えようとするほど、声がひどくなる。どの言葉も喉を通るたび、同じ痛いところを擦った。

「さっきまで、あの子に言ってたんだよ。また明日教えるって。明日って。それだけの言葉、言ったときには、何もおかしいと思わなかった」

 自分の手を見た。

「それさえ、言っちゃいけないんだ」

 クリスはそこに立っていた。

 顔を上げる。さっきまで安心できたその顔が、今はこの言葉をぶつけられる、たったひとつの場所になっていた。

「君はいくつでも季節を過ごせる。名前を変えて、住む場所を変えて。いたいところに、いられる」

「私は、ただ――」

「僕は、ずっとここにいるのに!」

 涙が落ちた。

 拭おうと手を上げると、手のひらのざらついたかさぶたが、頬を少し引っかいた。

「襟がずっと濡れてるんだよ。やっと乾いても、次に目を開けたら、また首に貼りついてる。太陽があんなにまぶしくて、どこに行っても、まず陰を探さなきゃいけない」

 声はだんだん小さくなり、最後はほとんど息だけになった。

「この夏、いったいいつになったら終わるの?」

 彼が、そっと言った。

「私はここにいる」

「でも、君は僕じゃない」

 その言葉を最後に、ようやく止まった。

 テーブルの上の氷は小さくなり、水に浮かんでいた。もう互いに触れることもない。

 彼の唇が少し動き、また閉じた。

 鍵をテーブルの端へ戻す。

 しばらくして、言った。

「わかった。今は、やめておこう」

 僕は彼を見なかった。

 彼も何も聞かなかった。畳み損ねて床に落ちた毛布を拾い、ソファの肘掛けに戻しただけだった。

「下にいるよ」

 ドアが、静かに閉まった。

 ……

 泣き終われば、少しはましになると思っていた。

 せめて、軽くなるはずだった。

 でも部屋が静かになると、あの言葉はまだ中に詰まっていた。ひとつも、口に出したからといって僕から離れてはくれなかった。

 顔を洗いに行った。

 冷たい水がまぶたに触れ、腫れたところが少し張った。洗面台に手をつき、鏡の中の、鼻先が赤くて髪の乱れた人を見た。そのとき、さっき自分が言ったことを思い出した。

 いたいところに、いられる。

 彼が泣くところを、僕は見ていた。

 お墓の前だった。

 あのときは、ひどく泣いていた。まともな慰めも思いつかず、そばにいることしかできなかった。

 ちゃんと、見ていたのに。

 さっきは、あの言葉を受け止めてくれる人が必要で、彼が死なないことしか思い出さなかった。

 鏡についた水が、縁に沿って落ちていく。うつむいて、もう顔は見なかった。

 蛇口を閉めた。

 水が止まった。

 少しして、もう一滴落ちた。洗面台の底に触れ、小さな音を立てた。

 外で風鈴が鳴った。

 どこかのベランダに掛けてあるのだろう。風は弱く、長いこと待たないと次の音がしない。かすかに触れて、すぐ止まることもあった。鳴っていない間、部屋はずっと静かで、自分の鼻をすする音まで聞こえた。

 ゆっくり居間へ戻った。

 日が傾き、テーブルの縁を照らしていた。コップの水滴が下まで流れ、小さく天板を濡らしている。紙で拭こうとして指が触れたとき、水がもうあまり冷たくないことに気づいた。

 話してばかりで、ひと口も飲んでいなかった。

 冷蔵庫が、ときどき小さく音を立てた。

 冷凍室には、まだあんなに氷がある。

 テーブルを拭いて、もう一度拭いた。水の跡はもうないのに、同じところをティッシュが行き来して、手が止まらなかった。

 やがて、テーブルの端の鍵を取り、外へ出た。

 クリスは、下の低い塀に座っていた。

 塀の半分には、まだ日が当たっていた。彼は木陰にいるのに、靴先だけが明るいところに出ている。枝葉が動くと、光がズボンの裾を少し上り、またゆっくり引いていった。

 両手は膝の上に置かれていた。シャツの袖をまくり直したらしく、さっきより整っている。何もせず、向かいの木を眺めていた彼が、足音に振り向いた。

 近づいて、しばらく隣に立っていた。

「トーマ……クリス」

「うん」

「ごめんなさい」

 彼が顔を上げた。

 僕は靴先を見ながら、続きを言った。

「さっき言ったこと……君のせいじゃないのに」

 彼は、すぐにいいよとは言わなかった。

 そのおかげで、続きを言えた。

「君にも悲しいことがあるの、知ってる。見たこと、あるんだもん。ただ、僕……」

 裾を指で揉んでいると、手のひらがかゆくなった。

「ここにいてくれたから、全部、ぶつけちゃった」

 彼は少し横へずれた。

 僕も座った。

 塀には、昼間の温度がまだ残っていた。服越しに脚へ伝わり、石の家の外にあった壁を思い出した。手を膝に置き、指先をそっと布に当てた。もう揉まなかった。

 しばらくして、彼が言った。

「あの子のこと、軽く言ってしまった。よくなかった」

 僕はうつむいていた。

「お父さんとお母さんのことも。連れていこうとばかり思って、君の話を聞かなかった」

「助けようとしてくれたんだよね」

「急がせすぎた」

 うなずいて、それから首を振った。

 続けてやったせいで、自分でもわからなくなった。

 彼は急かさなかった。

 今度こそ、本当に急かさなかった。

 座ったまま裾のしわを伸ばし、また握り、何度か繰り返した。靴先に陽が当たり、熱が少しずつ入ってくる。その小さな明るいところを見つめて、ようやく、とても小さな声で言った。

「本当は、会いたい」

 彼がこちらを向いた。

「すごく」

 また鼻の奥がつんとした。顔を上げると、上の階で誰かが洗濯物を干していた。白い袖が垂れ、風にそっと揺れている。袖口に集まった水滴は、なかなか落ちなかった。

「お母さんに、会いたい」

 少しして、慌てて付け足した。

「お父さんにも。先にお母さんって言ったからって、お父さんが大事じゃないわけじゃないから」

 クリスが笑った。

 ほんの少しだった。僕もつられて少し笑えて、すぐには泣かずに済むくらいの。

「わかってる」

「二人の作ったご飯も食べたい。夏になると、お母さん、麦茶を冷蔵庫に入れてたんだ。大きなポットに。僕、飲むと戻すのが面倒で、いつも怒られてた」

 自分の手を見た。

「次にお母さんが注ぐと、もう冷たくなくて。それで、また怒られる」

 木の葉を抜けた風が、額の短い髪を持ち上げた。

「あの頃は、そんな小さなことで、よくひと夏じゅう言えるなあって思ってた」

 手で目を押さえた。

 手のひらの裏の暗闇にも、日差しの色が残っていた。

「もう一回、言ってくれたらいいのに」

 隣の人は、何も言わなかった。

「会わないって言ったのは、会ったら帰れなくなるから。二人をつかんで、何も言えないまま、ずっとつかんでるかもしれない。それで、またいなくなる」

 目から手を下ろし、膝に置いた。

 指が、ゆっくり少し曲がった。

「二人まで、こんなふうに暮らしてほしくない」

「じゃあ、遠くから見よう」

 彼が言った。

「まず、ひと目だけ」

 彼を見た。

 立ち上がらなかった。鍵を取ろうともしなかった。

「行きたくなったら、一緒に行こう」

 鼻をすすった。

「一緒に来てくれる?」

「行くよ」

「我慢できなくて走っていったら、止めてね」

 彼はしばらく僕を見た。

「わかった」

 立ち上がって、ズボンを払った。

 払ってから、土はもうとっくに洗い落とされていたことに気づいた。

 ……

 電車に、数駅乗った。

 彼は切符を二枚買い、一枚を渡してくれた。薄い紙には機械の中の温かさが残っていた。角をつまみ、彼が小銭をしまうのを待った。

 駅には電車に間に合おうと走る人も、うつむいて鞄を探る人もいた。母親と手をつないだ小さな子が、二歩進んではぶら下がり、なかなかちゃんと歩こうとしない。

 母親が顔を下げ、何かを言う。

 その子はまた、素直にまっすぐ立った。

 しばらく見ていた。

 小さな手は、まだ母親の手の中にあった。二歩進み、ひと揺れして、また二歩進む。

 クリスは何も聞かず、隣に立って、一緒に歩き出すのを待っていた。

 車内は涼しかった。

 座ると、思わず窓ガラスに手の甲をつけた。外は陽が照っているのに、ガラスは冷房で冷たくなっている。映った自分に指を当てると、その間を、遠くの家々が次々後ろへ流れた。

 ときどき木の影が窓をかすめ、顔に落ちて、すぐに去った。

 彼は隣に座り、自分の膝に手を置いていた。

 もう、何かをしてくれようとはしなかった。

 でも僕は、さっきより楽だった。ガラスに手を置いたままでいられたし、ずっと外を見てもよかった。何も言わず、二人を運ぶ車両に任せてもよかった。

 駅を出ると、熱気が正面から押し寄せた。

 肌に残っていた冷たさが、額から消え、次に首から消え、とうとう袖の中まで暑くなった。道沿いの家には簾が下りている。支柱を伝う朝顔の花は、もう薄く萎れて巻いていた。

 道は、僕が教えた。

「こっち」

 少し歩いて、また止まった。

「違う」

 角の空き地を見た。

 そこには店があるはずだった。ガラスの扉に色あせた広告が貼ってあって、子供の頃は通るたび覗き込んだ。先を歩くお母さんが呼び、一度で動かなければ迎えに戻ってきた。

 今は、何もない。

 柵の向こうに草が生え、背の高い何本かが外へ出て、道端で細い穂を揺らしていた。

 しばらく立ってから、あの店はまだできていないのかもしれないと思い出した。

 記憶の中では、ガラスの扉はそこにあり、広告も色あせたままだった。まばたきをすると、目の前には日に照らされた空き地しかなかった。

「先、行こう」

 クリスがうなずいた。

 また少し歩いた。

 知っているものと知らないものが、隣り合っていた。同じ道なのに、あの壁は少し低く、この木は少し細い。記憶の中の目印には、もうあるものと、まだないものがあった。

 まだないところを、いったん頭の中で空けなければ、今の道が見えなかった。

 陰に入ると、自然に足が遅くなる。

 陰を出ると、また急ぎたくなる。

 彼はずっと、ついてきてくれた。

 一度、手の甲に触れてしまい、とっさに手を引いた。彼はこちらを見ただけで、次の道を教えるのを待った。

「前の線路を渡って」

 声が、少しかすれていた。

「渡ったら、また……」

 最後まで言えなかった。

 踏切が鳴った。

 黄色と黒の遮断機が下り始めた。もうすぐそこだった。あと数歩で渡れる。思わず足を速めると、クリスが手を出して止めた。

 目の前に、遮断機が下りた。

 立ち止まった。

「この電車を待とう」

「わかってる」

 半歩、下がった。

 それでも、向こうを見てしまった。

 線路の向こうの小道を、二人が遠ざかっていく。

 男の人と、女の人。

 二人の間には、ベビーカーがあった。

 幌が広がり、中は見えない。女の人は二歩歩いて、腰をかがめた。中の子供の何かを直しているようだった。男の人も止まった。片手を持ち手に置き、もう片方を上げて、手の甲で顔をぬぐった。

 足が、それ以上下がらなくなった。

 あの仕草。

 お父さんは、いつもああやって汗を拭いた。

 頬からこすって、鼻の下まで来ると、最後に強くひと拭き。子供の頃は、そんな拭き方は格好悪いと言って、いつもハンカチを渡した。お父さんは受け取って、次にはまた同じように拭いた。

 女の人が体を起こし、肩から落ちたバッグの紐を上げた。

 その後ろ姿を見つめた。

 二本の線路と、照り返す道を挟んで、スカートの色は日差しに薄く洗われていた。

 でも僕は、お母さんが歩くとき、左肩が少し下がるのを知っている。

 バッグを持っていると、もっとよくわかる。

「見て」

 クリスの腕に触れた。

 彼も、そちらを見た。

「あの二人……」

 続きは、言うのが怖かった。

 言葉が舌の奥で止まる。そのまま含んでおいた。まだ口にしなければ、ゆっくり確かめられる気がした。目の前の仕草を、もう一度ずつ見られる気がした。

 女の人が、また顔を下げた。

 男の人はベビーカーを少し押して、彼女が来るのを待つ。

 小道を風が渡り、スカートの裾が脚からふわりと離れ、また戻った。幌の隅も動いた。女の人が手で押さえると、男の人の歩みがさらにゆっくりになった。

 どこにでもいる、普通の二人だった。

 少し外を歩き、疲れたら涼しいところで休めばいい。太陽がもう少し屋根の後ろへ下がったら、ベビーカーを押して帰る。扉を開け、外の暑さを向こうへ閉め出す。

 冷蔵庫には、麦茶があるかもしれない。

 お母さんが出して、ポットに触れ、飲んだあと戻さなかったのは誰、と聞く。

 二人を見ていたら、叱られたくなった。

 遮断機につかまった。

 手のひらのかさぶたが、薄い皮膚の向こうで、熱くなった塗装に触れた。

 胸も、ふっと熱くなった。

 動かなかった。

 歩くのが速すぎたのかもしれない。

 さっきはあんなに急いだし、電車の涼しさはとっくに消えている。首の後ろから汗が襟へ入り込み、こめかみも濡れていた。この小道は全部、日差しに浸っている。線路の上の空気さえ、かすかに揺れていた。

 少しくらい熱くても、普通だ。

 線路に細い震えが伝わった。

 先に、風が来た。

 遠くから押し寄せ、裾をめくる。錆と埃の匂いが少しした。クリスがこちらを向き、手から顔へ目を移した。

 言わなければいけないのは、わかっていた。

 あそこが、熱くなり始めている。

 肌じゃない。

 もっと、深いところ。

 でも、向こうの二人はまだ歩いていた。

「待って」

 とても小さく言った。

 クリスの手が重なった。

 引き離そうとはしなかった。ただ遮断機から僕の手を外し、握った。

 そのとき、電車が踏切へ入ってきた。

 先頭車両が、小道を隠した。

 続けて、一両。また一両。窓が次々目の前を流れ、ガラスの中では人影や座席や広告、細切れの日差しが揺れた。

 背伸びした。

 無駄だった。

「すぐ、通り過ぎるよ」

 彼に言ったのか、自分に言ったのか、わからない。

 彼の手に少し力がこもった。

 僕も強く握り返し、親指をその関節に押し当てた。確かな硬さが、手の中にある。もっと深く握り、一本ずつ指を落ち着かせようとした。

 この電車さえ、通り過ぎれば。

 もう一度、見られれば。

 まだ、よく見えていない。

 お母さんと呼ぼうかどうかさえ、決めていない。

 なのに熱は、もう指先まで広がっていた。

 電車はまだ目の前を走り続け、果てがないほど長かった。クリスのそばへ少し寄って、もっと深く、その手の中へ自分の手を押し込もうとした。

 足の下から、硬い道が消えた。

 電車が通り過ぎるまで、待てなかった。

 ……

 手のひらには、強く握られた痛みが少し残っていた。

 もう一度指を曲げる。さっきまで押し当てていた関節を、指先で探した。

 何も、なかった。

 電車の音が耳元で途切れた。次に吸い込んだ空気は、日に温まった草木の匂いがした。靴底が砂利を踏み、一歩よろめく。支えを探して伸ばした手が、ざらつく木の幹に触れた。

 樹皮が手のひらに食い込んだ。

 手を引き、勢いよく振り返った。

 後ろには細い道があった。脇には石灯籠が立ち、木の影が斜めに落ちている。もっと高いところでは、葉が数枚、日差しに白く輝いていた。今にも薄く焼け抜けて、枝から消えてしまいそうだった。

「クリス?」

 声は、出たきり散っていった。

 道を数歩進んで、また振り向いた。

 木一本、隔てただけかもしれない。

 曲がり角にいるのかもしれない。

 そちらへ歩いた。足元で砂利が細かく鳴った。けれど曲がっても、まだ道しかなかった。傘を差した女の人が前を通る。下駄が地面に当たり、短くはっきり響いた。しばらく見ていると、向こうもこちらを見た。それから傘を少し傾け、僕を避けて通った。

 黒い髪を後ろで結い、歩くたびに着物の袖が揺れていた。傘の下の顔立ちにも、馴染みがあった。

 日本人?

 少なくとも、そう見える。

 身振りをしようと持ち上げた手が、宙で止まった。ゆっくり下ろす。どう動かせば通じるのか、まだ考えてもいなかった手は、急に要らなくなった。今度は、そのまま話してもいいのかもしれない。まずひとつ、言葉を最後まで言って、わかる返事を待てるのかもしれない。

「すみません……」

 日本語が、すんなり口を出た。

 彼女が足を止め、こちらを見た。

 胸につかえていた息が、そこで少し下りた。

 ここが日本かどうか、次に今は何年かを聞いた。

 明治三十一年。

 はっきり答えてくれた。

 聞き取れたのに、しばらく立ったままでいてから、ようやく頭を下げた。

 明治。

 教科書にしかなかった言葉を、彼女は何気なく口にした。天気や道の名前や、今日の行き先と同じように。傘の縁が揺れ、彼女は遠ざかっていった。一人残された僕は、さっきまで歩いていた帰り道を、少しずつ頭の中にしまった。

 線路を渡って、まっすぐ。

 それから?

 クリスに教えそびれた曲がり角は、もうどれも役に立たなかった。道は覚えているのに、そこへ行けない。

 遠すぎた。

 今度は、駅からどちらへ行けばいいかを考えることさえ、無駄だった。

 木々の奥から、蝉の声が降ってきた。枝葉を抜けた風が、少し湿った涼しさを顔に残す。風がやむと、またこめかみから汗がにじんだ。

 手を上げ、拭った。

 洗ったばかりの服だった。

 襟には、乾かしてもらった柔らかさがまだ少し残っている気がした。でも首の後ろはもう濡れている。その小さな布が貼りついて、顔を動かすたび、肌をかすかに引っ張った。

「トーマス」

 もう一度、呼んだ。

 さっきより、小さく。

 近くの人が振り向いたので、慌てて首を振り、木陰に下がった。

 返事は、なかった。

 ……

 木陰を抜けると、まず青緑が見えた。

 高いところで、何人かの頭の上から覗いていた。もう少し進むと、巻いた髪、伏せた目、広い肩が、枝葉の向こうから少しずつ現れた。

 足が止まった。

 鎌倉の大仏。

 ほとんど考える間もなく、名前が記憶から浮かび上がり、目の前のものにぴたりと重なった。

 陽が額と肩を照らし、衣のひだに沿って落ちている。窪みは色が深く、静かに影を溜めていた。膝のあたりでは、また明るい空の光に受け止められる。

 そこに、座っていた。

 小学校の頃に見たのと、同じように。

 数歩進み、また止まって見上げた。額を汗が伝っていく。目を細めても、すぐに顔を下げるのは惜しかった。

 本当に、同じだった。

 僕は一度、その下に立ったことがある。首が痛くなっても、まだ見ていたくなった。あの頃は、とても大きくて、空までこの大仏のために空けてあるように思えた。

 あの日も、暑かった。

 帽子のつばでは日差しを防ぎきれず、リュックの紐が肩に食い込んだ。水筒の麦茶は、最後には振ると大きな音がするくらいしか残っていなかった。先生が並ぶように言い、写真の前列の子はしゃがみ、後ろの子は首を伸ばした。誰も半分しか顔が写らないのは嫌だった。

 隣の子が急に大仏の真似をして、目を伏せ、口を結んだ。

 僕は立っていられないほど笑った。

 写真を撮る人がもう手を上げ、先生がもう一度声をかけても、まだこっそり肘でつついていた。その顔、もうやめてよ、と。

 今となっては、誰だったのか、少し思い出せない。

 顔はぼやけた。

 笑い声は残っている。

 それから、写真を撮ったあとに先生が大仏を指さして言ったことも。

 あとで、ここに集合です。

 あのときは、見つけられないかもしれないなんて、少しも思わなかった。

 あんなに大きな大仏が、梢と空の間に座っている。離れるときに振り向けば、そこにいた。少し遠くまで見に行って戻ってきても、まだそこにいた。

 これだけ覚えていればよかった。

 どこを曲がったか、どちらが近いか、来るときこの木の前を通ったか。全部は覚えなくていい。顔を上げて、あの青緑さえ見えれば、遠くへ来すぎていないとわかった。

 そこまで考えて、少し笑ってしまった。

「あなたは、ずっとここなんですね」

 小さな声だった。言ってから、大仏にそんな話し方をするのはよくない気がして、慌てて背筋を伸ばし、頭を下げた。

 大仏は、相手にしなかった。

 相変わらずの顔だった。

 目を伏せ、口元には、僕には読み取れない何かがあった。子供の頃は笑っていると思った。でも今は、ただ長く座り続けて、何かに急いで応じなくてもよくなっただけのようにも見えた。

 周りを、少しずつ歩いた。

 覚えていないところもあった。

 木の位置、石の色、脇へ通じる小道。あのとき見なかったのか、それともあとからできたのか。わからないまま、歩きながら頭に残る景色の隅を探した。

 記憶には明るいところも、何もないところもあった。さっきまでわかる気がしたのに、近づくと、あまり似ていない石に変わってしまう。

 でも、顔を上げれば、まだ見えた。

 あの青緑だけは、確かにそこに留まっていた。

 ようやく、足取りがゆっくりになった。

 ……

 木陰に、長いこと座っていた。

 初めは、ただ休むつもりだった。

 そのうち、立ちたくなくなった。

 ここからは入口が見えた。人が入ってきては見上げ、見終えた人は反対側へゆっくり去っていく。砂利を踏む音は近づけばはっきりし、遠ざかるとまた風に混ざった。

 誰かがあちらから来るたび、僕は少し顔を上げた。

 何度もそうしてから、自分が何を見ているのかに気づいた。

 明るい色の髪。

 周りより少し高い肩。

 あるいは、まくった袖が少し見えただけ。

 そんな切れ端が人の間から覗くと、先に目を向けた。よく見えてから、ゆっくり視線を戻した。

 両手を膝に置き、長いこと見下ろした。

 おかしいな。

 約束したわけでもないのに。

 呼べば出てくる人じゃない。いくら長く生きていても、どこかで自分の用事をしているはずだ。買い物をして、ご飯を食べて、僕の知らない誰かと話す。

 向こうは、今、夜かもしれない。

 窓辺で、僕には読めない本を開いているかもしれない。

 何年も僕に会っていなくて、今日、木の下に一人で座り、来てくれないと密かに拗ねている人のことなんて、思い出しもしないかもしれない。

 そんなことは、わかっている。

 なのにさっき、着いた途端に名前を呼んだ。

 ここがどこかも確かめず、ひと声かければ、返事があるはずだと思っていた。

 顔を両手に埋めた。

 手のひらはまだ熱かった。目を覆うと、蝉の声がもっと近くなった。

「世話を焼くのがうますぎるのも、困るよね」

 さらに小さな声になった。

 自分に言い訳をしているだけみたいに。

 まだ、何度かしか会っていない。

 それなのに、手元へコップを置く音が恋しかった。急がずに話す声が。笑い終わるのも、まとまらない話を言い終えるのも、待ってくれることが。

 あの、「下にいるよ」も。

 そのときは、怒るので精いっぱいだった。

 でもあとで外へ出たら、本当に下にいた。

 低い塀に座り、袖をきちんとまくって、足音がすれば振り向いてくれた。

 たったひと言で、人はそこにいてくれることがあるんだ。

 僕が泣き終わって、顔を洗って、ゆっくり階段を下りてからも、まだ見つけられるところに。

 ゆっくり手を下ろした。

 目の前には、やっぱり大仏がいた。

 木の陰から誰かが出てくることも、隣に立って、疲れたか、先に座りたいかと聞いてくれることもなかった。

 脚を少し引き寄せ、通る人のために場所を空けた。

 日差しが木陰の縁を、少しずつ、こちらへ進んできていた。

 ……

 子供の頃、先生はこの大仏について、ほかにもいろいろ教えてくれた。

 いつ造り始めたのか、高さはどれくらいか、重さはどれくらいか。

 ほとんど忘れてしまった。

 あの頃は水を飲んだり、友達を探したり、帰りのバスで眠れるかを考えたりするのに忙しかった。年号はやたらに長くて、試験の紙に書くためだけにあるようだった。その下で汗だくになっている僕とは、あまり関係がなかった。

 今、見上げていると、ひどく単純なことが少しわかった。

 この大仏は、もう、こんなにたくさんの夏を座って過ごしてきたのだ。

 僕の知っている服を着た人も、知らない服を着た人も、ここへ来る。葉が伸び、落ち、また伸びる。下に立った子供は顔を上げ、途方もなく大きいと思う。何年も経って戻ってきても、やっぱり首を反らさなければ、その顔は見えない。

 覚えては忘れたあの年号は、こんなふうに、少しずつ過ぎた時間だった。

 肩に陽が当たり、衣のひだに影が落ちる。

 人が近づき、遠ざかる。

 僕が生まれる前から、ここにいた。

 小学校の遠足は、今からなら、まだずっと先だ。

 それでも、もうここにいる。

 あの騒がしい集合写真も、そこに写る、まだ大きくなっていない顔も全部、この午後から少しずつ待っていけば、やがてここへ来る。

 そう思って、座ったまま動かなかった。

 立っていられないほど笑っていた僕は、まだ来るのだ。リュックを背負い、麦茶の少しだけ残った水筒を持ち、同級生の間に詰め込まれて、隣の子の変な顔をやめさせようとしている。

 大仏は、ここに座り続けていればいい。

 見ていると、胸が少しずつ楽になった。

 覚えているものが、全部、後ろに取り残されたわけではないんだ。

 先にここへ来ていたものもある。

 ただ、近づいて、顔を上げなければ、僕にはわからなかった。

 あの日、写真を撮ったところに、もう一度立ちたくなった。

 よく覚えていないので、見当をつけて少し横へ歩き、また戻る。最後に日の当たる地面で止まり、記憶の中のカメラがあったはずのほうへ向いた。

 背中には大仏。

 隣は、空いていた。

 手を上げ、ポーズを取ってみて、ゆっくり下ろした。

 あのときは、あんなに窮屈だった。

 隣の子が触るのが嫌で、前の子に顔を隠されるのも嫌で、早く先生が解散と言ってくれないかと思っていた。肩と肩がくっついて、少し動くだけで、同じように暑がっている誰かに当たった。

 今は、こんな広いところを、一人で使えてしまう。

 うつむくと、足元に自分の影があった。

 風が吹き、裾が揺れた。

 影も、揺れた。

 急に、一人で写真を撮りたくなくなった。

 ……

 木陰が移ると、別の場所へ座り直した。

 そこからも、大仏は見えた。

 大きな輪郭を見つめながら、少しずつトーマスの顔を思い出した。

 それから、前に会ったとき、今はクリスだと言っていたことを思い出した。

 今は?

 明治三十一年には、何という名前なんだろう。

 どの名前で探せばいいのかさえ、わからない。

 まったく、もう。

 名前も服も、ころころ変えて。前には頭の真ん中がつるつるだったのに、その次にはちゃんと髪が生えていた。会うたびに、見慣れないものの中から、少しずつ彼を見つけなければならない。

 でも、あの目は覚えている。

 青い目。

 目を閉じ、思い浮かべてみた。

 まだ、はっきりしていた。

 僕を見ると、初めは止まる。それから、目元にゆっくり笑みが浮かぶ。僕がいきなりそこへ現れるのは、嬉しいことなのだというように。手を止めて、こちらへ歩いてきてくれるくらいには。

 あの笑い方も、覚えている。

 そっと指を握った。

 これからも、そうだったらいいな。

 どこへ落ちて、目を開けて、どんな空を見ることになっても。せめて一人だけ、知っている人がいてくれたら。

 ゆっくり探せばいい。

 間違えても、遅くなってもいい。目の前まで行けば、彼はまだ顔を上げて、僕が誰か、わかってくれる。

 子供の頃、はぐれても、集合場所さえ覚えていれば、そこまで怖くなかったみたいに。

 大仏は、ここにいる。

 でも僕は、いつもここへ来られるわけではない。

 遠く離れた場所もある。大仏さえ、まだない頃もあるかもしれない。名前も言えない町や、ひと言も通じない道は、僕がこれを覚えているからといって、ここへの道を残してはくれない。

 何か、ほかのものを覚えていたかった。

 知らない年月を越えても、まだ僕にわかる何かを。

 そこまで考えて、少し恥ずかしくなった。

 欲張りな願いだった。

 会うたびに彼のほうではどれだけ経っているのか、ちゃんと聞いたこともないのに。

 僕にはまだ消えきらない熱が、彼のところでは、窓を閉めたり服を替えたりできる季節を、いくつも越しているのかもしれない。

 聞かなかった。

 なのに、もう心の中で、こっそり場所を空けていた。

 そこに、立っていてほしかった。

 僕だと、わかってほしかった。

 また別れを言いそびれても、すぐにその人を、これからの日々からしまい込まずに済むように。

 まだ、残しておいてもいい。

 あの青い目も、言いかけた言葉も、次に会ったら最初に話したいことも。

 今だけ、会えないのかもしれない。

 次が、あるのかもしれない。

 ……

 人が来て、もう出る時間だと教えてくれた。

 慌てて立ち上がり、ズボンの埃を払い、頭を下げた。

 長く座りすぎて、脚が少ししびれていた。一歩目を出すと、足の下に小さな針がたくさんあるようだった。膝に手をつき、少し待ってから、来た道を戻った。

 夕方の風は、さっきより柔らかかった。

 襟はまだ濡れて首の後ろに貼りついていたけれど、もうそれほど熱くはなかった。葉の奥には暮れかけの色が溜まり、それでも陽はまだ高いところに残って、梢を透かしていた。

 門まで来て、また振り向いた。

 大仏は、まだ座っていた。

 枝葉に隠れて一部分しか見えなくても、ちゃんとわかった。

 空の手を、そっと握った。

 次に会ったら、まず聞いてみたい。

 僕がいなくなったあと、待っていてくれる?

 ずっとずっと経っても、待っていてくれる?

 ……

 それから、いくつもの場所が僕の足元を過ぎていった。

 日に白く焼けた石段。苔の生えた井戸の縁。雨に濡れきった船板。ご飯を目の前に出してくれる人も、戸を叩くより先に閂をかける人もいた。知らない言葉の中に、少しずつわかるものが増える。でも、次に移った先では、それも役に立たなくなった。

 やっと覚えた音だけが口に残った。開ける扉を二度と見つけられない、何本かの鍵のように。

 相変わらず、お腹はすくし、眠くもなった。髪を洗ったばかりのときに風が吹くと、それだけで嬉しかった。汗の貼りつかない首筋を毛先がかすめると、今日もそう悪くないと思えた。

 ただ、もうずいぶん長く歩いている道もあった。

 夏は、いつまでも終わらなかった。

 ……

 一九三七年、六月。

 上海。

 新聞社の前に立ち、英字新聞に並ぶ数字をしばらく見ていた。後ろを人が通り、道端の浅い水溜まりへ革靴を踏み込んだ。空の半分が砕けた。

 雨がやんだばかりだった。

 雨は大して涼しさを運ばず、かえって通りじゅうを湿気で膨らませていた。背中に貼りついた服を少し浮かせても、風が入り込む前にまた戻ってしまう。店先の日除けには水が溜まり、布がたわんでいた。店員が長い竹竿で押し上げると、大量の水が落ちてきて、通る人たちが避けた。

 僕も、跳びのいた。

 なかなか素早かった。

 よかった。この特技は、まだ残っている。

 電車がベルを鳴らし、角を曲がっていった。窓から扇子を持つ手がいくつも出ている。帽子を取り、額に当てる人もいた。道端の女の人は首筋の汗がチャイナドレスの襟へ流れているのに、耳飾りだけは暑さも知らず、話すたびに揺れていた。

 蝉の声は、街路樹の濃い葉の奥に隠れていた。車の音が少し遠のくと、押し込められていた声がまた浮かび、車輪の去った隙間を埋めた。

 陰のある側を歩いた。

 ここには、外国人が多かった。

 明るい髪、暗い髪、日に赤く焼けた首筋、腕に挟んだ帽子。カフェの扉が開くたび、短い音楽と別の言葉が漏れ出し、閉まると一緒に途切れた。

 白いスーツの男が角に立ち、身をかがめて連れの煙草に火をつけていた。先に髪が目に入り、足が遅くなった。顔が上がってから、また歩き出した。

 違った。

 髪の色が似ていなくても、見てしまうことがあった。

 少し横を向いた人の肩や背中が、ちょうど光の中に浮かぶと、もうひと目。目のほうが先に止まり、顔を確かめてから、足のためらいがほどけた。

 こんな探し方、馬鹿みたいだとは思う。

 でも、外国人がこんなにいる。

 もしかしたら。

 彼も暑がって襟を緩め、どこかの店の前で、今日は何を食べようかと迷っているかもしれない。

 ショーウインドーの前を通り、ガラス越しに後ろを見た。

 人力車が一台、ゆっくり過ぎていくだけだった。

 ……

 夕方、川辺まで来た。

 水は湿った匂いを立て、熱の残る石岸に沿ってゆっくり流れていた。橋の影には何艘かの舟が寄り合い、屋根の下に洗濯物が干してある。子供が舷に腹ばいになり、水に浸かった縄を指でいじっていた。

 岸辺の空き地に、白い布が張ってあった。

 長さの違う椅子が何列か並び、後ろには立っている人もいた。机の上に映写機が一台あり、そばにはブリキの缶がいくつか置かれている。川風が来ると、白い布の裾が膨らみ、すぐに戻った。

 映画だ。

 足を止めた。

 やっと、言葉がわからなくてもできそうなことがあった。

 隣で紙の扇子を持った人が、何かを言った。僕は白い布を指し、映写機を指して、どうにか英単語を探した。

 その人は別の言葉に替え、ゆっくり話してくれた。

 それでも、全部はわからなかった。

 最後に映写機の後ろの空いた椅子を指し、懐中時計を見てから、両手を広げた。

「Late.」

 これは、わかった。

 映写技師が遅れているんだ。

 うなずいて、笑ってみせた。

 映画にも、もう少し待つ時間が要るらしい。

 白い布に、隣の木の枝が影を落としていた。葉が揺れ、影も揺れる。前の席の男の子が、つかまえようと高く手を伸ばした。そばの大人が笑った。

 まだ映像のない白い布の前で、もう小さな手が伸びていた。

 うつむいて、手のひらに触れた。

 傷跡はずいぶん薄くなっていた。手を開くと掌の線に隠れるところがあり、皮膚を少し寄せなければ、全部は見つけられない。

 とっくに、痛くなくなっていた。

 何年も経つうちに、噛まれたあの瞬間、どれほど痛かったのかさえ忘れてしまった。痛みは記憶からきれいに引き、周りより薄い線だけを残した。自分で探さなければならないくらいの。

 あの子が怒った顔は、まだ覚えているのに。

 少し笑って手を下ろし、もう少し川沿いに歩こうとした。暗くなる。今夜の寝場所くらい、決めておかなければ。

 不意に、後ろで自転車のベルが鳴った。

 短い音だった。ちょっと触れただけで、すぐハンドルを握り直さなければならなかったみたいに。

 荷物をくくりつけた自転車を押して、誰かが人の間を通ってきた。椅子を避け、待っている人たちに何か言って軽く頭を下げる。それから、車体に結んだ平たい丸い缶を外した。

 先に、手が見えた。

 袖は肘の下までまくってあった。缶の蓋を指で押さえ、親指で縁をひと回り確かめる。

 それから、顔が上がった。

 金色の髪が少し乱れていた。額に汗で貼りついた髪もあれば、妙に跳ねたところもある。急いで来た道の風が、ここへ着いてもまだ離してくれないみたいだった。

 青い目が、人の頭の上をかすめた。

 僕の足は、その場に止まった。

 ……

 川辺の手すりには、昼間の温かさが残っていた。

 つかまって、少し前へ寄る。石岸に触れる水がひととき静まり、ぼんやりと人の姿を映した。

 水の中の女も手を上げ、こめかみに触れた。

 もう、昔の美少女じゃない。

 四十くらい。

 風が来ると顔は崩れ、やむとまたゆっくり戻った。目尻に細いしわがあることも、笑えば口元の線が前より深くなることも知っていた。今日初めて現れた変化ではない。

 知らない場所の鏡で、何度も見ていた。顔を近づけ、髪の一本が光で白く見えるだけなのか、本当に白いのかを調べたこともある。

 どの場所も僕のために何も残してくれないのに、顔には少しずつ跡が増えた。

 でも、さっき彼を見た瞬間には、何も考えなかった。

 ただ、駆け寄りたかった。

 昔みたいに服をつかみ、まず呼び止めて、それから笑うか泣くか決めたかった。

 こめかみから手を下ろした。

 僕だと、わからなかったら?

 僕は彼を覚えている。あんなにはっきりと。椀を持つとき、どこに指を添えていたかさえ、まだ頭に残っている。

 でも彼は、今の僕を覚えているとは限らない。

 振り向くと、彼はもう映写機の横で、うつむいてリールをいじっていた。間を人が通り、とっさに脇へよけた。その人が通り過ぎると、今度はどうやって一歩戻ればいいのか、わからなくなった。

 たった一人分、空けただけなのに。

 その短い距離の向こうへ、今の顔をどう持っていけばいいのか、急にわからなかった。

 まず、呼んだほうがいいのかもしれない。

 でも、どの名前で?

「そちらの方」

 顔を上げた。

 彼はリールを手に、こちらを見ていた。日本語で尋ねる。

「少し、手伝ってもらえる?フィルムが絡んでしまって」

 川風が吹き、額の髪をもう少し乱した。

 口を開けた。

 用意しかけていた言葉は、ひとつも役に立たなかった。

 結局、近づいて、手を差し出した。

「先に言っとくけど、壊しても弁償できないからね」

「ここを支えるだけでいい」

 リールを渡し、僕がしっかり持つのを待ってから、ゆっくり手を離した。ほどけたフィルムが二重に輪を作り、支柱にかかっている。彼はうつむいて少しずつ直し、ときどき、もう少し上へ、もう少しこちらへと身振りで伝えた。

 僕は、もう少し彼のほうへ寄った。

 肩が、彼の腕に触れそうだった。

 汗の匂いに、かすかな石鹸の匂いが混ざっていた。これだけ近づいて初めて、彼の呼吸もいつもより速いとわかった。本当に急いで来たらしい。

 今度は、僕が遅れたんじゃないんだ。

 手の中のリールを見下ろし、急に笑いたくなった。

 泣きたくもなった。

 同じところで二つの気持ちが押し合うので、リールをもっとしっかり支えた。

「人使いが上手だね」

「ごめん」

 真面目な声だったのに、口元が少し動いた。

 慌てて目を伏せた。

 フィルムには一こまずつ、小さな人が写っていた。あんなに近く並んで、まだ動いていない。大事に支える指がこわばると、彼が反対側を持ち、重さを分けてくれた。

「これでいい?」

「うん」

 彼は僕を見た。

「それで、いいよ」

 ……

 映画が始まると、彼にいちばん近い椅子に座った。

 スクリーンでは、男が自分の帽子を追いかけていた。帽子が転がるたび、そちらへ走る。やっと押さえたと思ったら、今度は誰かの足の下にあった。見上げる情けない顔がおかしくて、周りの人と一緒に、つい笑ってしまった。

 言葉がわからなくても、同じところで笑えるんだ。

 笑ってから、後ろを見た。

 彼は、まだいた。

 映写機の光がそばを抜け、空気の中の細かな埃を照らしている。横を向いていた彼は、椅子の音がすると、こちらを見た。

 慌てて前へ向き直った。

 少しすると、また振り向いてしまった。

 三度目には、彼はそのまま僕にうなずいた。

 わかってるよ、とでもいうように。

 鼻に触れ、ようやくしばらくおとなしくしていた。

 あの晩の映画がどんな話だったのか、あとになるとあまり覚えていなかった。なかなか頭に収まらない帽子と、後ろで規則正しく響く機械の音だけは残った。

 一こま、また一こま。小さな人たちが、ようやく動き始めた。

 ときどきスクリーンがかすかに揺れ、川風が額の汗を冷ましてくれた。座ったまま、その音が確かに進んでいくのを聞いていた。今夜どこへ行けばいいのかは、もう考えなかった。

 映画が終わると、彼はリールをしまい、缶の蓋をひとつずつ閉めた。

 僕は椅子を二脚、運ぶのを手伝った。

 人が去ると、空き地は急に広くなった。白い布はまだ掛かっていたけれど、光を失うと、しわが全部見えた。さっきまで走り回っていた人たちは、何重もの輪になって缶の中へ戻され、風だけがまだ、ときどき布の隅を持ち上げた。

 彼は最後の缶を置くと、川辺へ来て、僕の隣で止まった。

 二人で手すりに寄りかかった。

 対岸には灯りがついていた。水に落ちた光を舟の舳先がそっと分け、長い線に引き延ばしていく。

 横顔を盗み見た。

 やっぱり、あのままだった。

 だから、ちゃんと話すはずの言葉が、少し形を変えて出た。

「時間跳躍者(ジャンパー)って、思ったより早く年を取るんだね」

 彼がこちらを向いた。

 目の前に手を出し、開いて、握った。

「ほら。誕生日をいつ祝えばいいのかもわからないのに、しわだけは、ちゃんと増える」

 彼は何も言わなかった。

 僕も川を見た。

「明日には、学校へ戻れるんじゃないかって思うこともあるんだ。宿題、出してないから、先生に呼ばれるなあって」

 そこまで言って、自分で笑った。

「本当に戻ったら、まず、どなたですかって聞かれそうだけど」

 彼がポケットからハンカチを出し、手元へ差し出した。

 受け取って、こめかみを拭いた。洗い込まれた布は柔らかく、折り目が手のひらに触れた。その線に沿ってゆっくり畳み直していると、もうあの冗談を続けたくなくなった。

「今は、何て名前?」

 彼が少し笑った。

「アレックス」

「アレックス」

 繰り返すと、返事をしてくれた。

 これで、また知り合いになれた。

 ハンカチを握ったまま、もう少し顔を見て、とうとう聞いた。

「どうして、僕だってわかったの?」

 彼は、続きを待った。

「さっき、前に会ったことがあるって、先に言ったほうがいいかなって思ってた。覚えてなかったら、かき氷とか、教会とか、それから……」

 言葉を止め、自分の顔を指した。

「もしかして、こんな僕にも、もう会ってたの?」

「もっと年を取った君にも、会ってる」

 固まってしまった。

 彼は少し笑った目で僕を見ていた。

「ちょっと」

 肘で軽くつついた。

「女性に、そういうこと言うのは失礼だよ」

「失礼だったね」

 返事が速すぎて、まるで反省しているように聞こえなかった。

 もう一度にらもうとしたのに、先に口元が緩んだ。

「こういうときは、全然変わってない、昔のままだよって言うんだよ」

 彼は黙って、僕を見た。

 少し恥ずかしくなって、先に顔をそらした。

「やっぱりいい。そこまで嘘つかなくても」

 川を舟が通った。灯りが足元からゆっくり離れ、手すりの下の水がまた暗くなった。手を置くと、彼の手の甲に触れた。

 どちらも、引かなかった。

 少しして、彼の指が動き、僕の指の脇に触れた。

 川を見つめたまま、見えもしない舟を真剣に見ているふりをして、手だけをゆっくり返した。

 彼の手のひらが、重なった。

 温かかった。

 指を少し曲げると、握ってくれた。

 さっきまでは、あんなに話せたのに。今は、ひと言しか残っていなかった。長いこと胸に置いてきた言葉だった。知らない扉の前をいくつも過ぎ、行く先もわからない夕方をいくつも越えて、それでも置くところが見つからなかった。

 今、彼は隣にいた。

 その手を握り、ようやく聞けた。

「待っていてくれる?」

 小さな声だった。

 聞き終わって初めて、息を止めていたことに気づいた。

 彼は、つないだ手を見下ろさなかった。

「ずっと、待っている」

 彼を見た。

 川辺にはまだ人が通り、遠くで自転車のベルがひとつ鳴った。誰かが店の日除けを畳み、ひだに溜まった水が、ぽたぽた落ちていた。

 長いこと、何も言えなかった。

 意味はもう、わかっていた。それでも言葉は耳元に残った。もう少しはっきり聞きたくて、でも、声を出すのが惜しかった。自分の声で、あの言葉を覆ってしまいそうだった。

 結局、我慢できない性分が先に顔を出した。

「それなのに、今日は遅刻したんだ」

 彼がうなずいた。

「うん」

「もう少しで、帰るところだったよ」

 手の中で、彼の指が少し強くなった。

 ちょっと文句を言うだけのつもりだった。

 なのに言い終わると、急に目の奥がひどく熱くなった。

 うつむいて、握りしめてしわになったハンカチを広げた。一度拭き、もう一度拭く。忙しそうに手を動かした。そうしていれば、見られずに済む気がした。

 彼は隣で、拭き終わるのを待っていた。

 つないだほうの手は、ずっと離れなかった。

 ……

 近くに、しばらく住むことになった。

 アレックスが探してくれた部屋は二階にあって、窓の外には洗濯物を干す竹竿が何本も渡っていた。午前中に誰かがシーツを洗うと、布の隅から水が滴った。下の屋台が開けば、匂いは人より先に上ってきて、閉まりきらない窓の隙間から入り込んだ。

 彼は早く来る日も、遅く来る日もあった。

 自転車のベルが、少しずつ聞き分けられるようになった。

 本当は、ほかの人と大して違わない。ただ、あの音がすると、決まって下で誰かが見上げてくれる。

 僕は窓へ身を乗り出した。

「ちょっと待って!」

 言ってから、靴を探し始めた。

 一度、急ぎすぎて、階段の角で水の入った盥を持つ女の人にぶつかりかけた。長々と小言を言われ、何度も頭を下げるしかなかった。外へ出ても、まだ上で声がした。

「何て言ってるの?」

「ゆっくり歩きなさいって」

「あんなに長くて、それだけ?」

「ほかにも、少し」

 彼は自転車が倒れないよう押さえてくれた。

 残りは、聞かないことにした。

 後ろに乗ると、通りは別の速さで流れ始めた。

 歩くよりは速い。でも、見えなくなるほどではない。店先で切った瓜、竹籠の中で濡れた布をかけられた菓子。結ったばかりの女の人の髪から、風に吹かれた短い毛が数本、耳のそばへこぼれた。

 どれもそばを通り過ぎていく。立ち止まらなくても、ひと目見る時間はあった。

 もう、明るい髪の後ろ姿を、一人ずつ確かめなくてよかった。

 ときには、ぼんやりすることさえあった。

 二度聞かれて初めて、何が食べたいかという質問だったのだと気づくくらいに。

「全部、食べたい」

「さっきの店も?」

「うん」

 彼は少し笑ったようだった。

 自転車が、ゆっくり道端に止まった。

 夏は、まだ暑かった。

 午後の部屋では、枕を裏返しても、冷たいのは少しの間だけだった。肌が触れた途端、その冷たさは体温に食べられ、髪の生え際からまた汗がにじんだ。

 相変わらずよく眠れない日もあり、夢も見た。起きると、まず窓の外の看板と通りを確かめた。

 わかってから、ゆっくり息を戻した。

 でも、下では自転車のベルが鳴る。

 だから枕に顔を埋め直して、もう少しだけ、ぐずぐずしていられた。

 ……

 いなくなったのは、穏やかな朝だった。

 朝ご飯はもう食べていた。豆乳が思ったより熱く、急いで飲んだせいで舌をやけどした。道すがら、舌先でそっと上顎に触れ続けていた。

 アレックスは、ゆっくり自転車をこいでいた。

 水を撒いたばかりの道を車輪が通ると、湿った匂いが立った。日差しはまだ通りいっぱいには広がらず、建物の影が斜めに横たわっている。店の戸板を一枚ずつ外し、壁に立てかける人がいた。腕が明るいところへ伸び、また影の中へ戻った。

 後ろに座り、彼の腰の脇に手を添えていた。

 シャツが風で少し膨らみ、指の甲に触れた。

 そのとき、あの馴染みの熱が、少しずつ上がってきた。

 うつむいて、しばらく待った。

 まだ、そこにあった。

 道が小さく跳ね、体が前へ動いた。額が彼の背中に触れる。

「どうしたの?」

 少し強くつかんだ。

「そろそろ、行くみたい」

 ペダルを踏む動きが緩んだ。

 自転車はまだ、まっすぐ進んでいた。朝の空気の中で、チェーンの回る音がよく聞こえた。ハンドルを握る手を見ていたら、初めて後ろに乗ったとき、ちゃんと座れたか、わざわざ振り向いてくれたのを思い出した。

 もう、そんな必要はなかった。

 どう近づけばいいのか、どこに足を収めればいいのか、曲がるときはどちらへ少し体を寄せればいいのか。僕はもう知っていた。

 体が、覚えていた。

 車輪が進めば、次の小さな揺れを、どうやって彼と一緒にやり過ごせばいいのか、わかった。

「止まろうか?」

 首を振ってから、見えないのだと思い出した。

「ううん」

 風が、二人のそばを通った。

「このままがいい」

 そっと頬を背中へつけた。

 薄い布一枚の向こうから、一人の体温と、まだ日に温められていない、清潔な朝の匂いが伝わった。手はまだ腰の脇をつかみ、シャツと一緒に指の甲が小さく動いた。

 胸の熱は、外へ広がり続けていた。

 目を閉じた。

「アレックス」

「うん」

「またね」

 しばらくして、彼が言った。

「またね」

 ……

 自転車の後ろが、急に軽くなった。

 アレックスはハンドルを立て直し、ゆっくり半回転だけペダルを踏んで、道端に止まった。

 振り向いた。

 後ろには、誰もいなかった。

 シャツの腰には、つかまれたしわが何本か残っていた。

 しばらく見てから、口元を少し緩めた。

 それから、小さく息をついた。

 ……

 枕元のカレンダーには、AUGUSTと印刷されていた。

 その下に、大きな数字。

 31。

 朝、看護師さんが前の一枚を剝がしてくれた。糊のところから紙が離れ、かすかな音を立てた。彼女はそれをひと折りして、持って出ていった。僕はその音をずっと覚えていて、夕方になっても、ついそちらを見てしまった。

 八月の、最後の日。

 最後の日も、こんなに薄いのだ。光が透けるほどの紙が、枕元に静かに貼りついて、僕が見るのを待っていた。

 枕を二つ重ね、ベッドに起き上がっていた。長く座っていると、体が少しずつ下がっていく。彼は気づくと立ち上がり、肩を支え、枕を直してくれた。ほんの少し動くだけでも大変だった。座り直せた頃には、額に汗がにじんでいた。

 彼がハンカチで拭ってくれた。

 窓は細く開いていた。風がカーテンを持ち上げ、外の濃い緑を見せてくれる。夕日はまだ葉の先に留まっていた。窓の近くの何枚かは縁が丸まり、風を受けて触れ合うと、ごく小さな音がした。

 そちらを向き、しばらく耳を澄ませた。

 木では、まだ蝉が鳴いているようだった。

 ここまで離れると、その声は遠く、聞こえたり聞こえなかったりした。よく聞こうとすると部屋の時計の音がはっきりしすぎて、探すのをやめると、また細いひと筋が窓から入り込む気がした。

 あんなに長い夏が、ここまで来ると、こんな細い音しか残していなかった。

「蝉の声、だんだん聞こえなくなってきたね」

 彼も、僕の視線の先を見た。

「この夏も、やっと終わるのかな」

 言ってから、少し笑った。

 こんなに待ったのに、やっぱり誰かに聞かなければわからない。

 彼はすぐ答えず、掛け布団の上から僕の手を取った。指はもううまく伸びず、皮膚が緩く関節を覆っていた。手首を支え、頭を下げて、その額に僕の手のひらを当てた。

 金髪が、指の腹をかすめた。

 まだ、柔らかい。

 少し指を動かし、垂れてきたひと房を払ってやろうとした。うまくできなかった。すると、もう少し頭を下げて、触りやすくしてくれた。

「うん」

 すぐ近くから、声がした。

「明日は、秋だよ」

 彼を見た。

 灯りはまだついていない。窓の外の最後の光が、顔の片側を照らしていた。額も、眉のあたりも、目の下のわずかな肌も、昔のままだった。そこに置いた僕の手の甲の染みが、やけにはっきり見えた。

「じゃあ明日は、もう一枚持ってきてね」

「わかった」

「秋になった途端に、風邪をひくのは嫌だから」

 彼がうなずき、手のひらの下で額が小さく動いた。

 急に、手を離すのが惜しくなった。

 ……

 医者が入ってきたときも、彼はベッドの脇に座っていた。

 ノックが聞こえると、まず僕の手を掛け布団に戻し、端を整えてから立って場所を空けた。

 いくつか質問された。聞き取れたものも、残せなかったものもあった。耳に届いた音は、意味になる前に少しずつ散ってしまう。

 もう一度お願いしようとしたら、隣の人が先にかがみ、日本語で聞いた。

「疲れた?」

「ちょっと」

「どこか、具合の悪いところは?」

 少し考えた。

「格好が悪い」

 彼が止まった。

 もう片方の手を上げ、髪に触れた。

「後ろ、ぺたんこになってない?」

 しばらく僕を見て、ようやく笑った。

「なってないよ」

「また、そう言う」

 医者も、何の話か何となくわかったらしく、少し笑った。それから僕の手首を取った。指が少し冷たかった。顔を下げてしばらく数え、次に聴診器を胸へ当てる。息をするよう促された。

 言われたとおりにした。

 吸って、少し止めて、ゆっくり吐く。

 こんな簡単なことにも、今では根気よく待ってくれる人が要る。息が入るのを待ち、また体から出るのを待つ。その間の少しの止まりまで、長くなっていた。

 診察が終わると、医者は彼に何か話した。

 低い声だった。彼は聞き、ときどきうなずき、ずっと椅子の背に手をかけていた。

 もう、無理に聞こうとはしなかった。

 カーテンが戻り、梢の光を隠した。椅子の背を握る彼の指が見えた。しばらく経ってから、少しずつ緩んだ。

 医者が出ていっても、彼はすぐには座らなかった。枕をひとつ抜いて、僕をもう少し低く寝かせてくれた。

 手を伸ばして袖口をつかんだ。

 彼が止まった。

「行っていいとは、言ってないよ」

「わかってる」

 椅子が近くへ寄せられた。

 座り直した彼の膝が、ベッドの縁に触れそうだった。布を離すと、その手が代わりに受け止めてくれた。

 ……

 運ばれてきた夕食を、少し食べた。

 彼が水を渡してくれた。自分で持とうとして、指はもうコップに触れていたのに、手首が震えた。結局、彼に底を支えてもらい、縁から少し飲んだ。

 ぬるい水だった。

 しばらく含んでから、飲み込んだ。

「前は、水も自分で注げるなんて言ってたのに」

 彼がコップをテーブルへ戻した。

「覚えてる」

「大きなことは、言わないほうがいいね」

 ため息をつくつもりが、笑ったような声になった。

 彼は唇の端の水をハンカチで拭い、少し手を止めてから畳んだ。濡れたところは内側へ折り込まれ、指の下に小さく、ほかより濃い色だけが残った。

 テーブルには、小さな目覚まし時計も置いてあった。

 そちらを見た。

「十二時に、合わせてくれる?」

 彼も時計を見た。

「今夜の」

「うん」

 時計を取り、裏の小さなつまみを回す。中の部品がかすかに擦れた。その手を見つめ、合わせ終わるのを待ってから、またカレンダーを見た。

「その時間になったら、起こしてね」

「うん」

「ちゃんと、知っておきたいから」

 少し休み、息をついた。

「こんなに、待ったんだもん」

 彼は時計を元に戻し、僕から見えるほうへ向けてくれた。

 細い針が、まだ動いている。横になったまま、その針が少しずつ、僕の代わりに明日へ向かうのを見ていた。

 ……

 暗くなると、窓ガラスに少しずつ部屋が映った。

 ベッド、小さなテーブル、灯り。それから、ベッドの脇に座る人。

 窓の外の木は闇に引き取られたけれど、ガラスは彼を残してくれた。ほんの少し目を動かすだけで、もう一人見えた。

 彼は一度寝返りを手伝い、足元の布団を少し緩めてくれた。でも足がまだ冷たくて、またかけ直してもらった。

 こういうことに、彼はもう慣れていた。どこに枕を入れれば楽になるのかも、コップが遠すぎると僕がこっそり手を伸ばすことも、知っていた。

 下がってきた頭を見て、ふと笑った。

「やっぱり、髪があるほうがいいね」

 彼が目を上げた。

「教会のとき」

 僕は言った。

「うつむくたび、どうしても笑っちゃって。あとから考えると、本当に失礼だったね」

「あのとき、もう謝ってくれたよ」

「あれは、なし。謝りながら、まだ笑ってたんだもん」

 彼も笑った。

 あのときの真似をしてみようと首を前へ動かすと、すぐに手が伸び、支えてくれた。

「はい、やめます」

 枕へ戻った。

「せっかく、やってみせようとしたのに」

 彼の手は肩の後ろに残り、落ち着いて横になったのを待ってから、ゆっくり抜けた。

 しばらくして、また聞いた。

「冷蔵庫の氷は?」

「何?」

「クリスの、冷蔵庫」

 彼を見ながら、重なった容器を思い出した。透明な壁に白い霜がついていて、ひとつ抜くと、後ろからまたひとつ現れた。あのとき台所の入口に立ち、あそこには尽きない冷たさが隠れていると思った。

「あんなにたくさん。本当に、お店を始めるんだと思ったよ」

「始めないよ」

「知ってる。自分では食べないくせに」

 彼は、つないだ手を見下ろした。

「君が来たら、少しはあったほうがいいと思って」

「それにしても、多すぎるよ」

 彼は言い返さなかった。

 しばらく笑っていたら、不意に目が潤んだ。

「知ってたら、もう一杯食べたのに」

 彼が顔を上げた。

「どうしてミントが好きだって知ってるの、って聞いたよね」

「うん」

「いつか、わかるよって」

 その言葉が、ゆっくり口元に戻ってきた。

 あのときは氷を含み、歯が少し痛くて、また教えてくれないと思いながら、それ以上は聞かなかった。次のひと匙もあったし、冷蔵庫にはまだ氷がたくさんあった。質問がひとつ途中で終わっても、何とも思わなかった。

 今になって考えると、聞き終えていないことが、ずいぶんたくさんあった。

 彼を見て、もうひと言言おうとした。でも、まぶたが少しずつ重くなった。

 彼は首元へ落ちた髪を払ってくれた。

「少し、休もう」

「行かないでね」

「ここにいるよ」

 それで、目を閉じた。

 ……

 次に目を覚ますと、部屋の灯りはもう暗くしてあった。

 どれだけ眠ったのか、わからなかった。

 彼はまだ、手を握っていた。ベッドの縁に置いていた腕は少し位置が変わり、袖口に深いしわが何本もついていた。指を動かすと、すぐ顔を上げ、かがんで覗き込んでくれた。

「起きた?」

 少しうなずいた。

 本当は、それほどはっきり目が覚めていなかった。夢の何かが、まだ残っていた。取り払われた物干し綱に掛かっていた服だけが、頭の中でそっと揺れ続けているみたいだった。

 よく見ようとすると、もう少し散った。

 彼がコップを取り、水を飲むかと聞いた。

 首を振った。

「じゃあ、話をしようか」

「うん」

 思っていたより、小さな声だった。

 彼が、もう少し近づいた。

「上海の映画、覚えてる?」

 彼を見て、ゆっくり口元を緩めた。

「帽子」

「そう」

 彼が笑った。

「あとで聞いたよね。フィルムは本当に絡んでいたのかって」

「本当に?」

「本当。でも、一人でも直せた」

 彼に、軽く触れたかった。

 指を動かすと、その手をもう少し深く包んでくれた。

「それなのに、呼んだの」

「来てほしかったから」

 言ってから、彼はしばらく黙った。

 見ていると、心に古くてかすかな嬉しさが戻った。あの晩、椅子に座って振り返ると、まだ彼がいた。そのときと同じだった。

 こんなに経っても、あの嬉しさは残っていた。

「何度も振り向いてたね。三度目にうなずいたら、やっと前を向いてくれた」

 覚えてる、と言いたかった。

 唇は動いたけれど、ごく小さな声しか出なかった。

 彼はそれでも、聞こえたように僕を見ていた。

「あとで自転車に乗って朝ご飯に行ったら、店を通るたび止まりたがってた。さっきの店もって聞いたら、うんって」

 笑った。

 たぶん、声は出ていなかった。それでも彼も笑ってくれた。

「靴を履きかけたまま、階段を駆け下りたこともあったね。途中の女の人が長く話して、どうしてあんなに長いのかって聞いた」

 親指が、僕の指の脇を撫でた。

「あの続きはね、ちゃんと靴を履いてから走りなさい、階段が狭いんだから、転んだらどうするのって」

 そうだったんだ。

 あのとき、残りは聞かないと決めたのを思い出し、何だか少し損をした気がした。こんなに経ってから、ようやく続きを教えてくれるなんて。

 文句を言いたかった。

 でも、頭の中ではもう言い終わっているのに、口が追いつかなかった。言葉はそこで、足りるだけの息を待ち、舌と唇がゆっくり元の場所を見つけるのを待っていた。

 彼は少し待って、それからまた話し始めた。

 昔は、僕のほうがよくしゃべった。

 話しているうちに遠くへ行ってしまっても、彼は聞いてくれた。やっと初めに何を話そうとしたのか思い出して、戻ってくるまで。言葉を奪うことはめったになかったし、次の言葉で間を埋めようと急ぐこともなかった。

 でも、今夜は違った。

 話をひとつ終えて僕を見つめ、しばらくすると、また何かを思い出して続けた。ところどころで自分でも少し笑い、うつむいて掛け布団を直し、それから目を上げ、続きを話した。

 僕は、聞いていた。

 声が少し遠くなると、彼はかがんだ。僕の目がほかへ動くと、同じところを見て、コップや枕や、ベッドの脇の灯りを少し動かしてくれた。

 時計は、まだ動いていた。

 彼の話す場所が、ひとつずつ、この暗くなった部屋を通った。水の音がするところも、まだ陽の照るところもあった。もう戻れない通りに、彼の声の中で、また少しだけ歩ける道ができた。

 もう、そこへ行かなくてもよかった。

 聞いていれば、それでよかった。

 ……

 やがて、彼は話を止めた。

 目を開けると、僕の手のひらを見下ろしていた。

 あの傷跡は、もう見つけにくくなっていた。肌には深さの違う線がいくつもあり、その間に混ざった古い傷は、かえってありふれて見えた。彼の指の腹が、そのひと筋の上で止まっていた。長いこと、止まっていた。

「あの子……」

 彼が言った。

 顔を見た。

「石の家で、君が世話をしていた子」

「ナツ」

 この言葉は、まだ覚えていた。

 口にしても、舌はもつれなかった。

 彼はうなずき、僕の手を握ったまま、喉を小さく動かした。

「ずっと、話していなかったことがある」

 手を上げようとした。

 また髪に触れたいと思ったらしく、彼はすぐに少し持ち上げてくれた。僕はただ指を動かし、その手のひらを軽く押した。

「ちょっと、待って」

 彼が止まった。

 顔を見つめ、ずいぶん経ってから、ようやく続きを見つけた。

「最後に、もう一度、家に帰りたいな」

 窓の外は、もう暗かった。

 ガラスには枕元のわずかな光が映っていた。木も、外の道も見えない。なのに頭の中には、急にはっきりと、扉がひとつ浮かんだ。

 少し緩んだドアの取っ手。下へ押すと、初めに少し空回りする。

 玄関の靴は、いつも揃っていない。

 台所では水が出ているかもしれない。お母さんが扉に背を向け、帰ってきた音を聞くと、まず、ご飯は食べたのと聞く。お父さんは奥に座り、こちらを見てから、テレビの音を少し下げる。

 あの扉は、確かめなくてもわかる。

 手を置けば、どう押せばいいのか、あの少しの遊びをどうやり過ごし、押し開ければいいのか、ちゃんと知っている。

 長く考えすぎて、彼がいつ身を寄せてくれたのかも、気づかなかった。

 両手で、僕の手が包まれるまで。

「うん」

 彼が言った。

「家へ、連れて帰るよ」

 目を見た。

 青い目。

 まだ、わかる。

「一緒に?」

「一緒に」

 うなずいた。

 彼は枕を低くして、いつでも触れられるところに手を残してくれた。もう握る力はあまりなかった。指を少しだけ曲げ、彼の指にかけた。

 頬にシーツが触れ、洗いたての淡い匂いがした。

 子供の頃、遠足の帰りにバスで眠ったことを思い出した。目が覚めても、まだ家ではなくて、大人が言った。もう少し寝てていいよ、着いたら起こすから。

 だから、目を開けて道を確かめなくてよかった。

 どの角を曲がったか覚えなくていい。眠さをこらえ、何度も窓の外を見なくていい。

 手を預け、ゆっくり目を閉じた。

 ……

 枕元の目覚ましが、十二時に鳴った。

 彼が手を伸ばして止めると、部屋はすぐに静かになった。

 カレンダーの数字は、まだ三十一だった。

「十二時だよ」

 身をかがめ、ごく小さく言った。

 手の中の手は、動かなかった。

 しばらく待ってから、彼女の首元にかかった白い髪をひと筋払い、そっと肩を揺すった。

「家に帰ろう」

 返事は、なかった。

 ……

 最初は、それが跳躍(ジャンプ)だとは知らなかった。

 覚えているのは、家へ帰る途中だったということだけだ。前に木陰があった。そこを抜け、もうひとつ角を曲がれば、見慣れた通りに出るはずだった。

 ところが次の一歩で、靴底が砂利に沈んだ。

 足元を見て、顔を上げた。

 木は、まだあった。

 道は、なくなっていた。

 白っぽい墓石がいくつも並び、石と石の間に細い道を残していた。供えられた花には、日差しに萎れたものもあった。花びらは花立ての口に垂れ、水に浸かった茎だけが緑を保っている。夏はここでも、花をそっとしておく気にはなれないらしかった。

 葉の奥から、蝉の声が降っていた。

 しばらく立って、半歩だけ下がった。

 砂利が、もう一度鳴った。

「……道、間違えた?」

 口にしてから、自分でも変だと思った。

 道を間違えるにしたって、間違えられる道くらい、なければ困る。

 入口を探して振り向くと、先に、一人の男の人へ目が止まった。

 金色の髪。

 墓石の前に座り、深く身をかがめて、片手で目を覆っていた。もう片方は膝につき、ズボンの布を握り締めている。長いこと、ほどけなかった。

 初めは、汗を拭いているのだと思った。

 肩が、一度震えるまでは。

 顔をもっと伏せた。込み上げる息を飲み込もうとしたようだった。でも、もう一度吸い込むと、喉から途切れた声が少し漏れた。指の隙間を伝った涙が手の甲を流れ、手首に落ちた。

 立ち止まった。

 道を尋ねようとしていた言葉も、口元で止まった。

 こういうときは、邪魔しないほうがいいのかもしれない。

 でも、あんまり悲しそうに泣いていた。

 少し落ち着くまで待とうと、しばらくそこにいた。彼はずっと顔を上げなかった。ときどき呼吸が少し整っても、手を下ろし、目の前を見ると、また目を覆ってしまう。

 ようやく整いかけた息が、すぐに崩れた。

 辺りを見た。

 ほかに、誰もいなかった。

 結局、近づいた。

 靴底で砂利を踏む音は、できるだけ小さくした。それでも彼には聞こえないようだった。手を伸ばし、一度ためらってから、そっと肩に触れた。

「Hello……」

 彼の体が、ぴたりと止まった。

 慌てて手を引っ込めた。

 しまった。

 このあと、何て言うんだっけ。

 泣かないで?お悔やみ申し上げます?どっちも英語で何て言うの?

 男の人が、ゆっくり顔を上げた。

 青い目だった。

 目の周りは赤く、まつげも濡れていた。僕を見て、少し唇を開いた。さっきまで整わなかった息を、この先どう続ければいいのか、急に忘れてしまったみたいだった。

 つい、自分の顔に触れた。

 何か、ついてる?

 彼の片手が動いた。少し上がり、結局、膝で止まった。

 ずいぶん経ってから、ようやく一度まばたきをした。

 目元が先に、少し笑った。

 でも口元では、その笑みがうまく続かなかった。うつむき、ハンカチで目を押さえ、またこちらを見た。

「こんにちは」

 日本語だった。

「日本語、話せるんだ!」

 急に声が大きくなった。慌てて周りを見て、少し声を落とし、続けて尋ねた。

「ここ、日本?」

 彼がうなずいた。

 ほっとした。

 少なくとも、わけもわからず外国まで歩いてきたわけではない。

 わけもわからず墓地に入ったのも、大してましではないけれど。

 彼は、まだ僕を見ていた。

 何だか恥ずかしくなり、後ろを指して、また手を下ろした。

「さっき、道を間違えたみたいで。ここにいるのが見えたから、その……」

 続きを言いにくかった。

 道を聞こうとしたら、すごく泣いていたので、とは言えない。

 彼はうつむき、ズボンを握っていた手をゆっくりほどいた。そこだけ布がすっかりしわになっていた。ひと撫でして、直らなかったので、そのまま止めた。

「ありがとう」

「お礼なんて、僕、何もしてないよ」

 慌てて手を振った。

 言い終わると、また二人とも黙ってしまった。

 木漏れ日が、ちょうど首の後ろに当たっていた。避けようと少し横へ動いたけれど、こめかみの汗はもう頬へ流れていて、手の甲でこするしかなかった。

 彼はその仕草を見て、また口元を少し動かした。

 僕も、つられて笑った。

 本当に、何を言えばいいかわからなかった。

「今年の夏、ほんとに暑いね」

 彼はしばらく僕を見た。

「そうだね」

 まだ、少しかすれた声だった。

 襟をつまみ、二度ほど扇いだ。風が肌をなで、ほんの一瞬だけ涼しかった。手を止めると、暑さはすぐ戻った。襟がまた首の後ろにつき、さっき浮かせたところも、すぐに濡れた。

 彼はハンカチを畳み、ゆっくり立ち上がった。

 途中で、脚がしびれていたのか、少し体が揺れた。慌てて手を伸ばすと、彼は脇の石の縁につかまり、少し待ってから立ち直った。

「大丈夫」

 手を戻した。

 彼は僕より少し背が高かった。立つと、顔の涙の跡がよく見えた。目尻から顎まで続く一本はまだ乾かず、光を受けてかすかに輝いていた。

 さっき天気の話をしたのも、よくなかった気がしてきた。

「あの、もう少しここにいたいなら、僕、一人で――」

「かき氷、食べる?」

 顔を上げた。

 彼はこちらを見て、少し間を置き、付け足した。

「ミント味」

「どうして、僕がミントのかき氷好きだって知ってるの!」

 今度こそ、声を抑えられなかった。

 彼が笑った。

 少しずつ、笑みが広がった。目にはまだ涙があったけれど、今度はさっきほど苦しそうではなかった。

 見ていると、僕も笑いたくなった。でも、こんなにすぐ嬉しそうにするのもよくない気がして、口元をどうすればいいのかわからなかった。

「ごめん、そういう意味じゃ……」

「いいんだよ」

 彼が言った。

 自分の指を、少し握った。

 何がいいのかも、わからなかった。

 でも彼はもうハンカチをポケットにしまい、肩の力もさっきほど入っていなかった。こっそり確かめてから、結局、出かけた言葉を最後まで言った。

「ミントが、いちばん好きなんだ」

「うん」

 小さな返事だった。

 大事に覚えてくれるみたいに。

 もっと先に聞くべきことを、ふと思い出した。

「そうだ、名前は?」

「トーマス」

「名字は?」

 彼は少し笑ったまま、僕を見た。

「教えない」

「けち!」

 口に出した途端、少し後悔した。

 さっきまで、泣いていた人なのに。

 もう、けちだなんて言ってしまった。

 でもトーマスは怒らなかった。うつむいて一度笑い、そばの小さな手帳を取った。反った表紙を閉じ、墓石の前に置く。

 古い手帳だった。

 紙の端は毛羽立ち、表紙も少し曲がっていた。指の腹でそっと押さえて伸ばし、まっすぐに置き直す。手はしばらくそこに留まってから、ゆっくり離れた。

 隣で待っていた。

 葉の間から風が抜け、こめかみの汗がようやく少し冷えた。

 彼が、またこちらへ向いた。

「行こう」

「お店、遠い?」

「遠くない」

 小道へ二歩ほど出て、また止まり、僕を待った。

 慌てて足元の石の縁をまたいだ。

 トーマス。

 心の中で、もう一度言ってみた。

 覚えやすい名前だ。

 木陰を出るとき、もう一度顔を見た。目はまだ赤かったけれど、呼吸は落ち着いていた。少し考えてから、やっぱり小さく聞いた。

「少し、よくなった?」

 彼が振り向いた。

 それから、うなずいた。

「ずっとよくなった」

「よかった」

 僕も、ほっとした。

 もう墓地の門が見えていた。外を自転車が一台通った。前籠には薄い色の布がかかり、風に隅が持ち上がって、すぐ戻った。

 二歩ほど急いで、隣へ並んだ。

「かき氷、もう売り切れてないよね?」

「大丈夫」

「どうして、わかるの?」

 彼がこちらを見た。

「あるよ」

 確かな声だったので、ひとまず信じることにした。

 二人で、墓地を出た。

 ……

 足音が、少しずつ遠ざかっていった。

 石の道を風が抜け、墓前の黄ばんだ手帳を揺らした。

 反った表紙が持ち上がり、その内側の、色あせた文字が見えた。

 ナツ。

 紙がかすかに震え、少しめくれて、また戻った。

 陽が梢を越え、まっすぐ墓石に当たった。

 夏目遥。

 その三文字が、きらきらと光っていた。

 墓石の表面は、終わらない夏のように、焼けるほど熱かった。

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