終わらない夏
蝉の声が、幾重にも重なって耳に張りついていた。この暑さにとうとう鋸の歯が生えて、頭の中を少しずつ挽いているみたいだった。
襟元はぐっしょり濡れて、首の後ろに貼りついている。こめかみを伝った汗が一滴、目に入った。しみて、拭おうと手を上げかける。けれど腕は何かに引かれて背中に回されていて、動かすたびにそれがきつく食い込んだ。
違う。
蝉じゃない。
誰かが叫んでいる。大勢が叫んでいる。声は熱気の中でひと塊になり、いくつもの口が開いては閉じた。舌も、歯も見える。そこから吐き出されるものが、どうしても頭に入ってこない。
……英語、わかんないんだってば。
うなだれると、目の前を赤い滴が落ちていった。
ほんの小さな赤。それがぼやけた視界からこぼれ落ちると、空いたところにはすぐ陽の光が入り込んだ。何度も強くまばたきをして、ようやく二つの言葉だけを聞き取った。
魔女。
焼け。
あんなにたくさんの口が、知らない言葉を吐いているのに。よりによって、この二つだけはわかってしまう。
ここへ跳躍したのは、ひと月ほど前だった。どう見ても中世にしか思えない、どこか辺境の小さな町。何という国なのかもわからない。地名も人の名前も、耳で聞いただけでは何ひとつ手がかりにならなかった。着いた途端、人目を避けたつもりだったのに、結局見つかってしまった。
今度は、向こうが僕に名前をつけてくれた。
村人の一人が、松明を掲げて近づいてきた。
火の熱が顔を打つ。身を引くと、後頭部が木の柱にぶつかった。足元にあった丸いものが転がり、かた、かた、と二度、軽く乾いた音がした。
薪だ。
足元を見る。何本も、何本も、積み上げられている。背中で縛られた手をもう一度動かした。縄は緩まない。さっきまでただの音だった言葉が、急にはっきりした形を持った。
違います、と言いたかった。
助けて、と言いたかった。
二つが一緒に喉元まで押し寄せて、口を開けたのに、吸い込んだのは焼けるような空気だけだった。涙のほうは簡単に出た。言葉を選ぶ必要も、誰かにわかってもらう必要もない。頬を伝い、汗と混ざって、口の端を流れるものはどちらも塩辛かった。
不意に、叫び声がやんだ。
村人たちが振り向く。その視線を追って、黒い長衣を着た男の人に気づいた。
胸元には十字架の刺繍。頭の真ん中だけがつるつるに剃られていて、周りを金色の髪が丸く囲んでいる。
きっちりと。
こんなに暑くて、騒がしくて、目の前ではまだ松明が燃えているのに、あの髪の輪だけが、きっちりしていた。
思わず、笑いが漏れた。
短くかすれた声は、喉を出た途端にひどく場違いに響いた。男の人がこちらを見て、慌てて口を結ぶ。
彼は松明を持つ人に何かを言った。相手は僕を指さして、声を張り上げた。手の中の炎も揺れる。彼はその人が話し終えるまで待ってから、静かに同じことを繰り返した。
僕は松明ばかり見ていた。
炎が横になびけば、目もそちらへ動く。ほんの少し下がるだけで、靴の中の足指が縮こまった。あの人が何を言っているのか、一言も頭に残らなかった。
ようやく、松明が足元の薪から離れた。
人々が少しずつ散っていく。最後の何人かは、歩きながら何度も振り返って僕をにらんだ。足は遠ざかっても、視線だけがいつまでも顔に残った。彼は柱の後ろへ回って縄をほどき、そのまま膝をつきかけた僕を支えてくれた。
近くで見ると、眉のあたりから汗が一滴流れ、頬を伝って襟の中へ消えていった。
青い目も見えた。
何もかもが汗でにじむ中、その青だけは、はっきりしていた。
「ありがとう……」
やっぱり出てくるのは日本語だった。
彼は清潔な布を額に当て、ここを押さえて、と身振りで伝えた。それから肩にマントをかけ、僕を連れ出してくれた。
マントが濡れた襟を押さえ、熱気まで中に閉じ込める。それでも僕は、しっかりと身に巻きつけていた。
小道の両側には畑が広がっていた。働いていた人たちが農具に体を預け、こちらを見る。畦を越えてくる視線は、マントでも隠せない僕の顔に止まった。彼のそばへ、少しだけ寄る。
彼は歩調を落としてくれた。
だから僕も、ゆっくり歩けた。日差しに白く焼けた道を、少しずつ進んでいく。次の一歩で膝が崩れるかもしれないと、もう心配しなくてよかった。
教会は小さく、長椅子が数列あるだけだった。座って初めて、足がずっと震えていたことに気づいた。木の座面が体を受け止めてくれても、震えのほうはもう終わったと知らないようで、膝の奥に細かく残り続けた。
彼はステンドグラスの下に立っていた。肩に赤や青の光が落ちて、確かに少し神々しかった。
それから、うつむいた。
頭のてっぺんが、きらりと光った。
「はは……ごめん、ほんとにごめん……」
うつむいて涙を拭いても、肩が止まらない。さっき流しきれなかったものが一度に押し寄せてきて、笑っても震え、泣いても震えた。額に押し当てた布はすっかりずれていた。
「知り合いに、あんまり似てるから」
通じるとは思わず、日本語で言い訳した。
そのとき、胸の奥から、覚えのある熱が上がってきた。
汗の届かないところに潜んでいる熱だった。初めはほんの小さなものが、ゆっくり広がっていく。僕はこれを知っている。夏の日差しにどれほど肌を焼かれていても、内側からにじみ出すこの感覚は紛れなかった。
また、行くんだ。
まだこの人のマントを着ていて、名前さえ知らないのに。
彼は少し笑い、教会の脇にある狭い階段を下りていった。僕は一人で座り、一息ずつ呼吸を整えながら、せめてもう少しゆっくりであってほしいと願った。
息が整うまで。
それくらいは。
すぐに足音が戻ってきた。
彼は木の椀を運んできた。
中には砕いた氷が盛られ、淡い緑色の汁が少しかかっている。氷の角が色ガラスを通った光を受けて、細かくきらめいた。この長い暑さをほんの少しだけ砕いて、椀に入れてきたみたいだった。
椀を見て、彼の顔を見た。
中世の神父。
かき氷。
この二つが並んだせいで、暑さでただでさえ働きの悪かった頭が、完全に止まった。
でも、あの椀の持ち方。青い目。こちらを見て、僕が何か言うのを待っている、その顔――
「トーマス?」
彼は僕の手に椀を渡し、隣に座った。
ひと口、食べた。
ミント。
細い冷たさが舌の上に広がった。しばらく口の中に留めておく。襟はまだ湿って首に貼りつき、額も痛かったけれど、口の中のほんの狭いところだけは、ようやく休ませてもらえた。
いちばん好きな味だった。
彼はゆっくり、はっきりした日本語で言った。
「今は、ジョンという名前だ」
「本当に、君なの?」
「そうだよ」
「じゃあ、その髪……」
彼は頭のてっぺんに手をやった。
「また伸びるよ」
また笑ってしまい、額の傷まで引きつった。彼は僕の手から布を取り、当て直してくれた。
聞くことは山ほどあった。次々と頭の中に押し寄せるのに、最初に選んだのは、いちばん役に立たない質問だった。
「僕のこと、知ってる?」
「知ってる」
彼はしばらく僕を見た。
「でも、君とは会う順番が違う」
うつむいて、氷を少しすくう。匙が椀の縁に触れ、小さな音がした。淡い緑の水の中で氷が動く。さっきまでくっきりしていた角が、もう丸くなり始めていた。
「この前は僕が慰めたんだよ。お墓の前であんまり泣いてるから、どうしたらいいかわからなくて」
彼は黙って聞いていた。
「今度は君に助けてもらっちゃった。かき氷までついてるし」
椀を少し持ち上げてみせる。
「僕のほうが得してるね」
彼も笑った。
少ししてから、尋ねた。
「私に会うのは、これで何回目?」
片手を空け、指を二本立てた。
「二回目」
彼は懐から小さな手帳を取り出した。紙は黄ばみ、端が毛羽立っている。めくるたびに、その端が指の腹をかすめた。あるページを開き、僕の言ったことを木炭で書き留める。
「じゃあ、君は不老不死ってこと?」
彼はうなずいた。
僕は匙をくわえたまま、しばらく彼を見ていた。
「まあ、僕みたいな時間跳躍者がいるんだもん。死なない人が一人くらいいても、変じゃないか」
彼は手帳をしまった。
「今度は、どのくらいいられる?」
椀では、ミントの水に浮かんだ氷がかすかに触れ合っていた。もうひと口、食べたかった。匙を入れて、淡い緑と白いかけらを一緒にすくう。それだけなのに。
「あ、あんまり長くは――」
熱が、一気に込み上げた。
最後まで言えなかった。
木の椀が長椅子にぶつかり、砕いた氷が床に散った。
ジョンは、まだそこに座っていた。
しばらくして腰をかがめ、匙を拾い、椀を起こした。
黒い長衣を脱いで丁寧に畳み、説教台に置く。それから長椅子のそばに落ちたマントを拾い、外へ出ていった。
椀の氷は、まだ溶けきっていなかった。
……
海水が口に流れ込んだ。
慌てて上体を起こし、水と砂を一緒に吐き出した。額の傷に塩水がしみて、息を吸うたび顔がゆがむ。舌の奥は苦く、歯の間には細かな砂が残っていた。いくら吐いても、まだ少しある気がした。
太陽は、相変わらず頭の上にあった。
濡れた砂に座ったまま、しばらく動けなかった。服から水が滴り、上からは陽が照りつける。ほどなく、びしょ濡れの布がまた体に貼りつき始めた。
「次くらい、違う季節にしてくれないかな」
秋でもいいから。
目の前の崖に道を塞がれ、海岸沿いに迂回するしかなかった。ひとつ角を回ったところで、城壁の向こうに立ち上る煙が見えた。
町が燃えていた。
煙は上がり、灰黒い縁を、白くまぶしい空に滲ませていく。遠くで鎧が光った。一度、また一度。鋭いものが目をかすめるようだった。槍を掲げた兵士たちの兜には、見覚えのあるものがついている。
箒みたいな、あれ。
映画で見た。
古代ギリシャ?
一歩、後ずさった。
今度は縛りつけられる柱もない。誰かが間に合うとも限らない。
この時代、トーマスはもう生まれてるんだろうか。
考えるのが怖くなり、脇の斜面へ駆け出した。
元・北越小の女傑を甘く見てもらっては困る。
何年も使っていない肩書きだけど、今日くらい役に立ってほしい。
木陰に這い込んだ頃には、自分に悪態をつく力さえ残っていなかった。手のひらは擦りむけ、膝も痛い。久しぶりの肩書きは、一歩だって余計に登らせてはくれなかった。草の上にうつ伏せになり、胸の中が空っぽになるほど息をした。ようやく仰向けになれたのは、ずいぶん経ってからだった。
木漏れ日が顔に落ちた。
光は葉に細かく砕かれても、熱までは砕かれない。ひとつずつ、額に、まぶたに、持ち上げた手の甲に貼りついてくる。
目を覆った。涙が指の間を抜けて流れた。
アニメやゲームでは、タイムマシンを作れば、いつだってすごい冒険が待っている。行ける場所も、間に合うことも、あんなにたくさんある。
僕はただ、かき氷を一杯、最後まで食べたかっただけなのに。
泣くだけ泣いて顔を拭き、町の見えるところまで這っていった。
白っぽい家々が、一帯ごと黒く焼けていた。屋根と屋根の間から煙が吹き出し、さっきまで分かれていた輪郭をひとつにしている。兵士たちは人々を海へ追い立てていた。誰かが立ち止まり、すぐに突き倒された。後ろの人はその体を避けて歩き続ける。
人の流れがそこで一度割れ、また閉じた。
岩についていた手を、ゆっくり引っ込めた。
手のひらは擦りむけ、膝もまだ痛い。さっきあの斜面を登るだけで、肺まで吐き出しそうになった。息はまだ整わない。岩の熱が残る指先を曲げると、傷口まで引きつれた。
僕には助けられない。
次の跳躍まで自分が生きていられるかどうかも、わからない。
反射した光が目をかすめた。
二人の兵士が外側の山道を登ってくる。慌てて木の陰へ身を引いた。その視界の端に、斜面の下、瓦礫のそばに立つ子供が入った。
七つか八つくらい。頭を丸めている。
あの瓦礫までは十数歩しかない。木の裏から細い道が斜めに延び、崩れた壁の後ろへ通じていた。兵士たちは反対側を歩いていて、まだ壁の角を回らなければならない。
丸坊主の子は壁に手をつき、背伸びして町を見ていた。
まだ、背伸びしている。
彼らには、まるで気づいていない。
僕は座り込み、両腕できつく膝を抱えた。擦りむいた手のひらが服に触れ、焼けるように痛い。小さくなれば、それだけ木陰に隠れられる。そのわずかな陰の中へ、もっと、もっと体を縮めた。
ここにいればいい。
声を出さなければ。
膝に顔を埋めた。
「ごめんなさい……」
次の瞬間、両手で膝を強く打った。
跳ね起き、砂利を蹴り、木の陰から飛び出した。
草が脛を打つ。足が滑り、手をついて、また前へ飛び出す。
「ごめん、お父さん、お母さん」
風に押された涙がこめかみへ流れた。拭く暇もなく斜面を駆け下り、瓦礫の裏の細道へ飛び込む。
振り向きかけた子の口を手で塞ぎ、崩れた壁へ引きずり込んだ。
その子は必死にもがき、僕の手に噛みついた。
痛みで目の前が白くなった。
犬か、君は!
歯を食いしばり、悲鳴を飲み込んだ。そのまま子供を引きずって、二枚の低い壁の間へ転がり込む。
金属の触れ合う音が近づいた。
子供が、急に動かなくなった。
抱き締めて、壁際にしゃがんだ。手のひらにはまだ歯が当たっている。胸が上下して、どうしても静まらない。さっき走った道が、まだ脚の中に、喉の中に続いていた。ひと息ごとに、空気が口から飛び出そうとした。
壁の外で足音が止まった。
二人とも、何も言わなかった。
汗が顎先に集まり、ぶら下がった。それを振り落とすためにうつむくことさえできない。
やがて音は、ゆっくり遠ざかっていった。
聞こえなくなってから、ようやく手を離した。
丸坊主が振り向いた。青い目を見開いて、長々と何かを言う。
僕は噛み破られた手を持ち上げた。
「怒るのはちょっと待って。ほら、もう代金は払ったから」
その子は手を見ず、町を指さした。
わからない言葉が、初めはせわしなく押し合っていた。それが次第にほどけ、声も小さくなっていく。最後にはひとつの言葉だけが残った。呼んでは止まり、また呼ぶ。
たぶん、わかった。
ママ。
しゃがんで、何か言おうとした。
唇は動いたのに、かけてやれる言葉が見つからない。僕の知っている言葉は二人の間で立ち止まり、向こうへ渡る道を見つけられずにいた。
結局、抱き締めて、そっと背中を叩くしかなかった。
初めは押しのけようとしていた子が、やがて僕の服をつかんだ。
布にこもった力は小さかった。それでも、ずっと離れなかった。
……
山の向こうには、町を逃れた人たちが集まっていた。
平たいパンを分けてくれる人も、水汲みを手伝えば食べ物をくれる人もいた。僕と丸坊主は、近くの使われていない石の家に住みついた。石は昼のあいだに少しずつ日差しを吸い込み、僕たちが寄りかかって座る頃にも、背中へ熱を返してきた。
昼間、その子は僕を水場へ案内し、僕はその子が危ないところへ行くのを止める。
二つ目のほうが、ずっと難しかった。
いつも、あの瓦礫のことばかり気にしているのだ。
一度、道を塞いで、木の枝で兵士が槍を突く真似をした。枝先を前へ出し、熱に揺れる空気の中で止める。その子には通じた。でも、急に大声で泣き始め、山の下を指さした。
「ママ」
手にした枝が、下がった。
それからは、一緒に行くことにした。
まず斜面に隠れて様子を見て、見回りが遠ざかるのを待つ。それから崩れた壁に沿って進んだ。角の向こうへは行かせず、僕は外側で見張っていた。
壁の角に隠れて、僕には見えないところがある。その子はそちらを、僕は反対側を見た。間に散らばった砂利へ陽が落ちて、目を休める場所もないほど白かった。
途中まで行っただけで、引き返さなければならない日もあった。その子が足を踏ん張って嫌がると、僕もしゃがみ、一緒にもう少しだけ町を見た。
少しだけ。
日が高くなってから、二人で帰った。
名前は教えてもらった。
長い名前だった。少なくとも、僕の舌には長すぎた。その子の口ではすらすら出てくる音が、僕の口に入ると押し合いへし合い、一歩も譲らなくなる。
何度試しても首を振られ、最後にはじれたように、もう一度言って聞かせてくれた。
「じゃあ、ナツって呼んでもいい?」
その子を指し、それから頭の上の太陽を指した。
「夏」
短い言葉だった。ようやく、舌がもつれずに済む。
向こうは、ひどく不満そうだった。
僕の名前も、うまく言ってくれなかった。何度か教えると、勝手に「テロス」みたいな響きの言葉で呼び始めた。
ゲームでレア装備を落としそうな名前だ。
直すたびにうなずくくせに、次にはまたそう呼ぶ。
まあ、いいか。こっちも本当の名前を呼べてないし。
桃太郎の話や学校の話、今思うと恥ずかしい子供の頃の話をして聞かせた。口を出た言葉は石の家をひと回りして、僕の耳に戻ってきた。たいてい反応はなかったけれど、鬼の真似をして自分の足につまずいたときだけは、少し笑ってくれた。
「今のは、お話に入ってないからね」
ますます笑った。
頭を撫でられるのも嫌いだった。手を伸ばすと、ずいぶん慣れた動きで横へ逃げる。なのに夜になると、眠気に少しずつ押されながら、自分から近づいて、くっついて座った。
昼間はあんなに離れたがるくせに、その距離を、夜には自分で埋めにくる。
手のひらの傷は、少しずつかさぶたになった。
傷の縁がつれて、かゆい。歯と砂利に残された痛みは、触れないようにすれば済む小さなところへ縮んでいった。その子の頭にも、柔らかな金髪が薄く生えた。もうつるつるではない。指を滑らせると、かすかな引っかかりがあった。
暑さは増すばかりだった。
「かき氷……」
家の外で手を扇ぎ、石ころをいじるナツにぼやいた。
手で起こす風まで熱く、一周して顔へ戻ってくる。
「かき氷、かき氷。ミントのかき氷」
ナツが顔を上げた。
手で椀の形を作り、すくって食べる真似をした。肩をすぼめ、口をゆがめ、歯にしみるところまで真剣にやる。うまく演じれば、歯だけでも先に冷たさを味わえる気がした。
長いこと眺めていたナツは、僕の手に石を一個載せた。
「これは食べられません」
手のひらの石は、日に温められていた。元の場所に返して、頬をつまむ。
「でも、その気持ちは褒めてあげよう」
それからは暑くなるたび、かき氷と言い続けた。無視されると、耳元まで寄って言った。
「かき氷。ミント味。絶対ミント味だからね」
その言葉を何度も口に含んだ。ひと口ずつ、まだ溶けない氷みたいに、角のあるままで。
どうせ、通じない。
どうせ、食べられない。
想像で涼むくらい、何もないよりましだった。
数日後、水汲みに行ったとき、水辺で覚えのある匂いに気づいた。
ごくかすかなものが熱気に混ざり、鼻先をかすめた。足を止め、もう一度嗅いで、しゃがみ込む。葉を指で揉むと、その匂いが指先から広がった。
「ミント!」
丸坊主がびくりとした。
葉を鼻先へ差し出すと、匂いを嗅ぎ、自分もしゃがんだ。僕が摘んだのと同じところから何枚かちぎる。指の間でしわくちゃになった葉から、同じ香りがした。
帰ってから、葉を木の椀に入れ、水を注いだ。
ひと口飲む。
水は、やっぱりぬるかった。
それでも口の中には、ようやく馴染みのある清涼感が残った。舌先からゆっくり広がり、すぐ消えてしまいそうで、もう少しだけ含んでいた。
「あとは氷だけだね、ナツ」
椀を渡した。
ナツは飲むと、水に浮かぶ葉を見下ろした。
……
ある日、瓦礫から帰ってきても、ナツは泣かなかった。
変わった形の瓦を拾い、ずっと持って歩いてきた。座ると、改まった顔で僕に差し出した。
どこがいいのか、わからなかった。縁も、反り具合も、色も、手がかりにはならない。それでもいつまでも差し出しているので、こちらも改まって手を伸ばし、受け取った。
夕方、二人で石の壁に寄りかかっていた。
昼間の熱が服越しに背中へ伝わる。ナツの髪についた草屑を取ってやった。薄く伸びた金髪はとても柔らかい。間に挟まった草を、指先でゆっくりつまみ出す。
眠そうにこくこくとうなずきながら、まだ僕の裾をつかんでいた。
もう一度、自分の名前をゆっくり言って聞かせた。
ひとつの音ずつ。最後まで言う頃には、僕まで知らない名前のように思えてきた。着慣れた服を裏返したら、見たことのない縫い目が現れたみたいに。
ナツが曖昧に返事をした。
「続きは、また明日ね」
頭に手を戻した。
ずっと夏でも、案外悪くない。
明日覚えられなければ、明後日でいい。
襟の下はまだ濡れていた。汗が肌に留まりすぎて、貼りつく感じにも馴染んでしまった。手の下には柔らかな髪があり、裾には離れない小さな手がある。そうして座っていると、明日も明後日も、それほど想像しにくいものではなかった。
壁の欠けたところから風が吹いた。
長いこと座ってから、ようやく、熱が皮膚だけにあるのではないと気づいた。
もっと深いところで。
ゆっくり、外へ広がっていた。
手が止まった。
ナツが顔を上げた。
息を吸って、その熱を押さえ込もうとした。でも胸に入ってくる空気まで熱く、どこを押さえればいいのかわからなかった。
もう少し、待って。
せめて、この子が眠るまで。
けれどナツは立ち上がり、家へ駆け込んだ。呼び止める間もなく、木の椀を持って戻ってくる。ミントの葉が何枚か浮かんでいた。
歩くたびに、水が揺れる。
肩をつかみ、こちらを向かせた。
「ナツ、僕、もう行かなきゃ」
ナツは僕を見ていた。
「谷に戻って、みんなと一緒にいて。一人で、どこかへ行っちゃだめだよ」
ゆっくり話した。
ひとつひとつを、できるだけ確かに、優しく置く。そうすれば、二人の間にもう少し留まってくれる気がした。長く留まれば、いつか通じるかもしれなかった。
「ここで、僕を待ってちゃだめだよ」
指が少し動き、椀の水が縁まで揺れた。
顎についていた灰を拭ってやる。
「お母さん、早く帰ってくるといいね」
今度こそ、別れの言葉を最後まで言えた。
ナツは真剣にうなずいた。
たぶん、わかっていない。僕にもそれはわかった。ナツはただ、椀をもう少しこちらへ差し出し、一生懸命、僕の発音を真似した。
「かきごおり」
受け取って、両手で包んだ。
水はまだ、ぬるかった。
……
まだ、両手で包んでいた。
十本の指は曲がったままなのに、その下が急に空っぽになった。椀の縁も、水もない。手のひらだけが器を包む形を残している。体のほうが少し遅れて、何がなくなったのか、まだ気づいていないようだった。
反射的に前へ手を伸ばした。靴底が硬い地面に引っかかり、よろめく。
そばを車が通り過ぎた。
馬車じゃない。
灰色の車体の後ろに、赤いランプ。排気管から熱が漏れる。車はすぐ角を曲がり、あまりいい匂いではないのに泣きたくなるようなものを、後に残した。
アスファルトの道端に立ち、ゆっくり顔を上げた。
電線。
電柱。
二階の壁にはエアコンの室外機が掛かり、その下へ長く水の跡が延びている。自動販売機の隣には自転車が止まっていた。前籠に中途半端に押し込まれたレジ袋が、風を受けて膨らみ、また柔らかくしぼむ。
薄い白が、籠の中で何度も息をしていた。
塀の向こうから蝉の声が押し寄せた。
今度こそ、本当に蝉だった。
馴染みがありすぎて、かえって泣けてきた。
塀の上から濃い緑の葉が覗き、縁だけが日差しに白く光っている。影は僕のところまでは届かず、塀の際に細く溜まっていた。見えているのに、すぐには逃げ込まなかった。
自販機に、日本語が書いてあった。
読めた。
どの文字も、ちゃんとそこにいてくれた。水があること、お茶があること、右のボタンの飲み物は今ないことまで教えてくれる。「売り切れ」だって知っている字だ。何がないのか、僕にもわかる。想像しなくていい。大勢の口の中から、ようやくわかる言葉が出てくるのを待たなくていい。あんな、わからないままでいたかった言葉を。
飲み物の写真には、水滴が印刷されていた。
ただの写真なのに、見ていると喉の奥まで少し涼しくなる気がした。
近づいて、機械の側面に手を当てた。
日差しを受けた金属は熱かった。
「日本?」
自分にしか聞こえないくらい、小さな声だった。
「日本だよ」
後ろで、誰かが答えた。
振り向いた。
薄い色のシャツ。肘の下までまくった袖。手に提げた買い物袋。数歩離れたところで、男の人が立ち止まっていた。金色の髪は風に少し乱れていたけれど、青い目はもう僕を見ていた。
知っている目だった。
「トーマス?」
彼はすぐには答えなかった。
先に目元がほころんで、それから口元が、どう笑えばいいのかわからないみたいに動いた。近づいてくると、買い物袋が脚に触れ、中のものが小さく鳴った。
「来たんだね」
「僕――」
彼の目が手のひらに止まった。
口元の笑みも、そこで少し止まった。
「……手は、まだ痛い?」
「もう痛くないよ。かゆいだけ」
手のひらを返して見せた。
「ちっちゃい子に噛まれてさ。あんなに小さいくせに、遠慮がないんだから」
彼は口を結び、少し横へ目をそらした。
「きっと、怖かったんだよ」
「僕だって怖かったよ」
「うん」
ひどく小さな返事だった。
また手を見下ろした彼は、なぜか耳のあたりが少し赤かった。伸びてきた指先はかさぶたを避け、そっと手首を支えた。
「見せて」
葉の影が肩の上で揺れた。ずいぶん丁寧に見てくれる。僕が指を少し曲げただけで、すぐ手の力を緩めた。
「こっちも」
指先がこめかみのそばで止まる。
「そこも治った。触らないで」
手がすぐ引っ込んだ。
「疲れてる?何か食べた?先にどこかで座ろうか」
口を開けたまま、しばらく見てしまった。
ひとつも答えが追いつかない。
彼もこちらを見ていた。やがて、ようやく自分が急ぎすぎたと気づいたように、うつむいて笑った。
「ごめん。ゆっくり話そう」
まず、頭の上を見た。
髪は、ちゃんと生えていた。
「伸びたんだね」
僕の視線を追って、彼は手を上げた。
「伸びたよ」
「よかった」
なぜか、急に笑いたくなった。さっきまで自販機につかまっていただけなのに、次には胸が痛くなるほど笑っていて、鼻の奥までつんとした。体の中から、短い笑いが何度もせり上がってくる。うつむいたまま、熱い金属に手をついていた。
彼は隣で待っていた。
笑い終わってから、買い物袋を反対の手に持ち替えた。
「今はクリスだよ」
「そっか」
鼻をすすり、今度こそ覚えようとした。
「名前、服に書いておいてくれない?次に会ったら先に見るから」
「考えておく」
真面目に言うので、また笑ってしまった。
笑い終わって、聞いた。
「今、何年?」
「二〇〇四年」
彼を見た。
背後ではまだ、機械が小さく唸っていた。日差しに熱くなった鉄板の向こうで、見えない飲み物を何列も冷やしている。
「ここ、戦争はしてないよね?」
「してない」
「縛られて、焼かれたりもしない?」
彼の笑みが、ゆっくり消えた。
「しないよ」
「よかった」
うなずいた。
言葉は、小さく口から落ちた。言ってから、両脚がずっとそれを待っていたのだと気づいた。もう走らなくていい理由を。
「じゃあ、先にちょっと座ってもいい?」
……
彼の家は遠くなかった。
建物の前には水が撒かれていて、コンクリートの半分はまだ濡れ、半分はもう乾いていた。その上を歩くと、靴底から湿った匂いが立ち、植木鉢の土の匂いと混ざった。
水は少しずつ引いていく。
乾いたところと濡れたところの境目は、とてもゆっくり動いた。ようやく僕にも、急がずに眺めていられる速さだった。
階段は涼しかった。
中に入って初めて、外の日差しに目が少し痛くなっていたと気づいた。壁も段も手すりも、初めはよく見えない。彼の後ろを歩きながら、暗がりから輪郭が浮かび上がるのを待った。目を細めなくていい場所に、自分が慣れるのを待った。
ドアが閉まっても、玄関で靴を見下ろしていた。
靴底の溝には砂が詰まっている。足の甲には草で切った細い傷が何本かあり、乾いた汗が、その周りに白っぽい塩を残していた。
彼がスリッパを置いてくれた。
足を入れる。
柔らかな底が足の裏を受け止めて、かえって落ち着かなかった。足指を動かしてみる。その下には砂利も、熱く刺さる砂もなかった。
つけたばかりのエアコンは、まだ十分に冷えていない。彼が日の当たる側のカーテンを閉めると、部屋が少し暗くなった。薄い布は光を遮りきれず、柔らかな薄黄色に変えて床へ落とした。
太陽は、まだそこにいる。
けれど布一枚の向こうから、今だけは僕を直接見つけられずにいた。
「お風呂はこっち」
二歩ほど歩いてから、彼が振り向いた。
「先に水でもいいよ。お腹すいてる? 何か作ろうか。それとも、先に寝たい?」
「クリス」
「うん?」
「まず、ひとつ選んで」
彼が止まった。
僕は指を一本立てた。
「一度にひとつしかできないから」
「わかった」
少し笑って、台所へ向かう。
「じゃあ、先に冷たいものを食べよう」
入口までついていき、冷蔵庫を開けるところを見ていた。
冷凍室はいっぱいだった。透明な容器がいくつも重なり、壁には白い霜がついている。いちばん手前のひとつを引き抜くと、その後ろにもひとつ見えた。中はやっぱり氷だった。
大きいもの、小さいもの。どれも固く凍って、隣り合っている。
あんな小さな扉の中に、夏でも流れていかずに済む水が、こんなに入るなんて。
「お店でも始めるの?」
「何の?」
「かき氷屋さん」
僕の視線を追った彼の口元が、少し動いた。
「始めないよ」
台所の隅には、かき氷器まで置いてあった。
氷を入れ、器を取り、削れてくる白いかけらを受け止める。手慣れていて、ほとんど下を見ずに物を取った。氷が高く積もると、器を少し回して真ん中を盛り上げ、最後に薄緑のシロップをかけた。
もう、匂いがした。
ミント。
運ばれてきた器の匙は、柄がこちらを向き、手を伸ばせばちょうどつかめるところにあった。
「どうして、僕がこれを好きだって知ってるの?」
受け取りながら、また顔を見てしまう。
「この前もそうだった。僕、話したっけ?」
彼はすぐ答えず、器の縁からこぼれそうな氷を戻してくれた。
「いつか、わかるよ」
「また、そうやって」
大きくひと匙すくった。
教会のときより細かい氷は、舌に載せ、軽く押すだけでほどけた。ミントの甘い冷たさが口いっぱいになり、喉の奥へ向かっていく。すぐ飲み込むのは惜しい。でも、いつまでも含んでいられず、先に歯がつんと痛んだ。
肩がすくんだ。
彼はすぐ、器を受け取ろうとするように手を伸ばした。
「平気、平気」
しっかり器を持ち、口の中がいっぱいのまま言った。
「今度は本当だから」
「何が?」
「歯が、しみるの」
彼は僕を見て、少ししてから、うつむいて笑った。
ゆっくり食べながら、もう一度台所を見た。
冷凍室は閉まっていた。
氷は、その中で安心して凍っていられる。太陽がもっと高くなり、誰かの窓辺や屋根や、逃げ場のないあらゆるものを照らしても、まだそこにいられる。
扉を開けて、容器をひとつ出せば、もう一杯作れる。
「普段も、よく食べるの?」
台所を片づけていた手が止まった。
「たまに」
自分の器を見下ろした。
あんなにたくさん、氷がある。
なのに彼は、自分の分さえ作らなかった。
……
シャワーを浴びながら、蛇口を開けては閉め、閉めては開けた。
水は、同じところから出てくる。
好きなだけ、流れ続ける。肩を、膝を、かさぶたになってもまだ痛みを覚えているところを伝っていく。閉めれば止まり、開ければ出る。蛇口を握って何度も試すうち、そこに触れている指を離すのが、少し惜しくなった。
頭を下げ、首の後ろに水を当てた。
汗にまみれた肌が、少しずつ洗われていく。髪が頬に貼りつき、毛先に集まった雫が足の甲へ落ちた。シャンプーのかすかな香りは、泡立てると狭い浴室いっぱいに広がった。
急いで出なくてもいい気がした。
目を閉じて、もう少し立っていた。
やがて彼が、洗って乾かした服をドアの外に置いてくれた。いつもの一式を着直すと、襟が乾いて柔らかく、首の後ろに触れた。そこだけが頼りなく軽かった。長いこと貼りついていた夏を、一枚剝がしてもらったようだった。
浴室から出ると、食事が用意されていた。
薄切りのきゅうりが、冷たい汁に少し浸っている。よそいたてのご飯からは湯気が上がっていた。茶碗を持とうとして指先が熱くなり、慌てて耳たぶをつまむ。
彼が箸を渡してくれた。
ひと口食べただけで、もう少し食べるかと聞かれた。コップの水が半分減ると、すぐ元どおりになった。
目の前のわずかな場所がどんどん整っていくのを見て、とうとう顔を上げた。
「おかずくらい、自分で取れるよ」
「知ってる」
「水も、自分で注げる」
「うん」
彼は手を引っ込めた。
けれど箸を置いた途端、また僕の顔を見る。
次に何が要るのか、待っているみたいだった。
その目が怖いわけではなかった。ただ、自分がどこにいればいいのか、少しわからなかった。彼はちゃんとテーブルの向こうに座っているのに、とても近くに感じた。まるで僕はここで何度も食事をしていて、次の言葉を置く場所まで、もう用意されているみたいに。
でも僕には、その場所がまだ見つからない。
うつむいて、残りのご飯を口へ運んだ。
食後、ソファでひと眠りした。
目を覚ますと、薄い毛布がかかっていた。エアコンの風は弱められ、手の甲に触れると、もう少しひんやりした。
カーテンは閉めきられていなかった。
明るい隙間が一本残り、眠る前より少し先の床を照らしていた。光の中を埃がゆっくり通っていく。細かく、ゆっくりと。この午後には、そんなふうに何もせず過ごせる場所が、いくらでもあるみたいだった。
寝転んだまま、しばらく見ていた。
日差しが、ただの日差しでいられることもあるんだ。
逃げなくていい。どこかに日が当たるまでに、何かを済ませなくてもいい。光が少し進み、もう少し進んでも、僕はまだここで横になっていられる。
クリスは食卓に座っていた。
起きた気配に顔を上げる。
「よく眠れた?」
目をこすりながらうなずいた。
そう聞かれたのは、ずいぶん久しぶりだった。
彼が氷水を注いでくれた。受け取ると、コップの表面がすぐ白く曇った。指でなぞると、透明な筋が残る。
「近くに図書館、ある?」
「あるよ」
「ちょっと行きたい」
彼は水差しを脇へ寄せた。
「何を探すの?」
「歴史の本かな。古代ギリシャの」
言ってから、自分でも少し心細くなった。
あそこが本当に古代ギリシャだったのかも、わかっていない。映画で見た兜をひとつ知っているだけ。海辺に町があり、兵士が大勢いた。家が軒を連ね、燃え始めると、どこまでがどの家なのかもわからなくなった。
それで、何が調べられるんだろう。
でも、試すくらいはできる。
「あそこで、子供の面倒を見てたんだ。これくらいの子」
腰のあたりに手を止めた。
「僕を噛んだ子」
彼は僕の手を見て、小さくうなずいた。
「お母さんがいなくなって、どうしても探しに帰ろうとするから。止められなくて、一緒に行ってた。そのあとは石の家に住んでて、食べ物を分けてくれる人もいて……」
いろいろなことが一緒に浮かび、口にするとかえってまとまらなかった。まだ小さい子なのだと先に伝えたかったし、谷にはほかの人たちがいて、引き取ってもらえるはずだとも言いたかった。
けれど、裾を握るあの力がずっと残っていた。
最後に出たのは、ひと言だけだった。
「急に、いなくなっちゃったから」
クリスは少し黙った。
「その子のことは、あとで考えよう」
顔を上げた。
「え?」
「お父さんとお母さんに、会いに行こう」
急いで言った。長いこと胸に置いていたものを、ようやく出せたみたいだった。
「今からでも行ける。私も一緒に行く」
僕は何も言わなかった。
エアコンの風がふくらはぎを撫でた。涼しいのに、足指が少しずつ縮まっていった。
「あの子の名前とか、住んでた通りとかを調べたいんじゃないよ。本に載ってるわけないって、それくらいわかってる。ただ、あの町がどうなったのか、あの人たちが――」
「わかってる」
「わかってない」
硬い声が出た。
自分にもわかった。
彼は一瞬止まり、声を和らげた。
「そのことは、ゆっくり調べられる。先に二人に会おう。ね?」
「行かない」
彼が僕を見た。
「ひと目だけでもいい」
「ひと目見て、そのあとは?」
膝の毛布をどけ、畳んだ。うまくいかず、角がどうしても揃わない。もう一度広げ、折り直す。柔らかな布を表に、裏に返しても、ひとつだけ角が余った。
「もう、こんなことになってるんだよ」
「それでも、会えるよ」
「どうやって?」
毛布を握り締めた。
「目の前に立って、娘ですって言うの? 信じなかったら? 信じてくれたら、どうするの?」
顔を上げた。
「それで? 話の途中で、急にいなくなるの。また待たせるの?」
「言わなくてもいい」
「我慢できなくなるよ」
部屋が静まった。
別の理由を見つけるより先に、その言葉が飛び出してしまった。
うつむいて、毛布を脇に置いた。
「今は普通に暮らしてるのに、僕が戻って何になるの。これからこんなことが起きるって知らせて、自分の子を見るたび、いつ消えるんだろうって心配させるの?」
彼は答えなかった。
「そんなもの、背負わせたくない」
「今、全部決めなくていいんだよ」
彼は立ち上がり、テーブルの端の鍵を取った。
「まず行こう。近くまで行くか、話すかは、着いてから決めればいい」
「行かないって言った」
「一緒に来て」
声は、まだ落ち着いていた。
落ち着いているからこそ、その奥の譲らなさを押し返せなかった。僕の言葉はそこに落ちて、何の跡も残せない。彼を止めるには軽すぎるみたいだった。
「今度こそ、どうしても連れていきたい」
「今度こそって?」
僕も立ち上がった。
膝がテーブルにぶつかり、コップの氷が小さく鳴った。
「いつの話? どうしていつも、何でも知ってるみたいな顔するの?」
鍵を持った手が止まった。
「そんなつもりは――」
「してるよ」
そういう意味ではないのかもしれない。それは、わかっていた。
でも、もう喉元には言葉が溢れていた。止められないし、あまり止めたくもなかった。やっと、通じる相手がいたのだ。どの言葉も我先にと飛び出して、もう体の中へ戻ろうとはしなかった。
「何でも、ゆっくりでいいんだね。あの子がどうなったかなんてどうでもよくて、調べるのはあと。まず親に会いに行って、あとは着いてから決めればいい」
「あの子がどうでもいいとは言ってない」
「そう言ったじゃない!」
急に声が大きくなった。
自分で驚いて、涙まで出てきた。
彼が半歩近づいた。
僕はすぐに下がった。
「君は、ゆっくりでいいよね」
彼はもう動かなかった。
「秋を待てる。夜が涼しくなって、葉っぱが黄色くなって、出かけるときにもう一枚持っていくようになるまで待てる。もっと寒くなれば、暖房をつけて、温かいものを食べられる。夏がつらくても、少し我慢すればいい。どうせ冬が来るんだから」
脚の脇に押しつけた手を、ますます強く握った。かさぶたが引っ張られて、かゆかった。
「薄着で出ちゃっても、取りに帰れる。ご飯を食べきれなくても、続きを食べられる。嫌な日には家に帰って寝ればいい。起きたら、同じベッドで、同じ場所にいる」
「私――」
「僕は、できないんだよ」
急に、息が続かなくなった。
鼻をすすった。ちゃんと伝えようとするほど、声がひどくなる。どの言葉も喉を通るたび、同じ痛いところを擦った。
「さっきまで、あの子に言ってたんだよ。また明日教えるって。明日って。それだけの言葉、言ったときには、何もおかしいと思わなかった」
自分の手を見た。
「それさえ、言っちゃいけないんだ」
クリスはそこに立っていた。
顔を上げる。さっきまで安心できたその顔が、今はこの言葉をぶつけられる、たったひとつの場所になっていた。
「君はいくつでも季節を過ごせる。名前を変えて、住む場所を変えて。いたいところに、いられる」
「私は、ただ――」
「僕は、ずっとここにいるのに!」
涙が落ちた。
拭おうと手を上げると、手のひらのざらついたかさぶたが、頬を少し引っかいた。
「襟がずっと濡れてるんだよ。やっと乾いても、次に目を開けたら、また首に貼りついてる。太陽があんなにまぶしくて、どこに行っても、まず陰を探さなきゃいけない」
声はだんだん小さくなり、最後はほとんど息だけになった。
「この夏、いったいいつになったら終わるの?」
彼が、そっと言った。
「私はここにいる」
「でも、君は僕じゃない」
その言葉を最後に、ようやく止まった。
テーブルの上の氷は小さくなり、水に浮かんでいた。もう互いに触れることもない。
彼の唇が少し動き、また閉じた。
鍵をテーブルの端へ戻す。
しばらくして、言った。
「わかった。今は、やめておこう」
僕は彼を見なかった。
彼も何も聞かなかった。畳み損ねて床に落ちた毛布を拾い、ソファの肘掛けに戻しただけだった。
「下にいるよ」
ドアが、静かに閉まった。
……
泣き終われば、少しはましになると思っていた。
せめて、軽くなるはずだった。
でも部屋が静かになると、あの言葉はまだ中に詰まっていた。ひとつも、口に出したからといって僕から離れてはくれなかった。
顔を洗いに行った。
冷たい水がまぶたに触れ、腫れたところが少し張った。洗面台に手をつき、鏡の中の、鼻先が赤くて髪の乱れた人を見た。そのとき、さっき自分が言ったことを思い出した。
いたいところに、いられる。
彼が泣くところを、僕は見ていた。
お墓の前だった。
あのときは、ひどく泣いていた。まともな慰めも思いつかず、そばにいることしかできなかった。
ちゃんと、見ていたのに。
さっきは、あの言葉を受け止めてくれる人が必要で、彼が死なないことしか思い出さなかった。
鏡についた水が、縁に沿って落ちていく。うつむいて、もう顔は見なかった。
蛇口を閉めた。
水が止まった。
少しして、もう一滴落ちた。洗面台の底に触れ、小さな音を立てた。
外で風鈴が鳴った。
どこかのベランダに掛けてあるのだろう。風は弱く、長いこと待たないと次の音がしない。かすかに触れて、すぐ止まることもあった。鳴っていない間、部屋はずっと静かで、自分の鼻をすする音まで聞こえた。
ゆっくり居間へ戻った。
日が傾き、テーブルの縁を照らしていた。コップの水滴が下まで流れ、小さく天板を濡らしている。紙で拭こうとして指が触れたとき、水がもうあまり冷たくないことに気づいた。
話してばかりで、ひと口も飲んでいなかった。
冷蔵庫が、ときどき小さく音を立てた。
冷凍室には、まだあんなに氷がある。
テーブルを拭いて、もう一度拭いた。水の跡はもうないのに、同じところをティッシュが行き来して、手が止まらなかった。
やがて、テーブルの端の鍵を取り、外へ出た。
クリスは、下の低い塀に座っていた。
塀の半分には、まだ日が当たっていた。彼は木陰にいるのに、靴先だけが明るいところに出ている。枝葉が動くと、光がズボンの裾を少し上り、またゆっくり引いていった。
両手は膝の上に置かれていた。シャツの袖をまくり直したらしく、さっきより整っている。何もせず、向かいの木を眺めていた彼が、足音に振り向いた。
近づいて、しばらく隣に立っていた。
「トーマ……クリス」
「うん」
「ごめんなさい」
彼が顔を上げた。
僕は靴先を見ながら、続きを言った。
「さっき言ったこと……君のせいじゃないのに」
彼は、すぐにいいよとは言わなかった。
そのおかげで、続きを言えた。
「君にも悲しいことがあるの、知ってる。見たこと、あるんだもん。ただ、僕……」
裾を指で揉んでいると、手のひらがかゆくなった。
「ここにいてくれたから、全部、ぶつけちゃった」
彼は少し横へずれた。
僕も座った。
塀には、昼間の温度がまだ残っていた。服越しに脚へ伝わり、石の家の外にあった壁を思い出した。手を膝に置き、指先をそっと布に当てた。もう揉まなかった。
しばらくして、彼が言った。
「あの子のこと、軽く言ってしまった。よくなかった」
僕はうつむいていた。
「お父さんとお母さんのことも。連れていこうとばかり思って、君の話を聞かなかった」
「助けようとしてくれたんだよね」
「急がせすぎた」
うなずいて、それから首を振った。
続けてやったせいで、自分でもわからなくなった。
彼は急かさなかった。
今度こそ、本当に急かさなかった。
座ったまま裾のしわを伸ばし、また握り、何度か繰り返した。靴先に陽が当たり、熱が少しずつ入ってくる。その小さな明るいところを見つめて、ようやく、とても小さな声で言った。
「本当は、会いたい」
彼がこちらを向いた。
「すごく」
また鼻の奥がつんとした。顔を上げると、上の階で誰かが洗濯物を干していた。白い袖が垂れ、風にそっと揺れている。袖口に集まった水滴は、なかなか落ちなかった。
「お母さんに、会いたい」
少しして、慌てて付け足した。
「お父さんにも。先にお母さんって言ったからって、お父さんが大事じゃないわけじゃないから」
クリスが笑った。
ほんの少しだった。僕もつられて少し笑えて、すぐには泣かずに済むくらいの。
「わかってる」
「二人の作ったご飯も食べたい。夏になると、お母さん、麦茶を冷蔵庫に入れてたんだ。大きなポットに。僕、飲むと戻すのが面倒で、いつも怒られてた」
自分の手を見た。
「次にお母さんが注ぐと、もう冷たくなくて。それで、また怒られる」
木の葉を抜けた風が、額の短い髪を持ち上げた。
「あの頃は、そんな小さなことで、よくひと夏じゅう言えるなあって思ってた」
手で目を押さえた。
手のひらの裏の暗闇にも、日差しの色が残っていた。
「もう一回、言ってくれたらいいのに」
隣の人は、何も言わなかった。
「会わないって言ったのは、会ったら帰れなくなるから。二人をつかんで、何も言えないまま、ずっとつかんでるかもしれない。それで、またいなくなる」
目から手を下ろし、膝に置いた。
指が、ゆっくり少し曲がった。
「二人まで、こんなふうに暮らしてほしくない」
「じゃあ、遠くから見よう」
彼が言った。
「まず、ひと目だけ」
彼を見た。
立ち上がらなかった。鍵を取ろうともしなかった。
「行きたくなったら、一緒に行こう」
鼻をすすった。
「一緒に来てくれる?」
「行くよ」
「我慢できなくて走っていったら、止めてね」
彼はしばらく僕を見た。
「わかった」
立ち上がって、ズボンを払った。
払ってから、土はもうとっくに洗い落とされていたことに気づいた。
……
電車に、数駅乗った。
彼は切符を二枚買い、一枚を渡してくれた。薄い紙には機械の中の温かさが残っていた。角をつまみ、彼が小銭をしまうのを待った。
駅には電車に間に合おうと走る人も、うつむいて鞄を探る人もいた。母親と手をつないだ小さな子が、二歩進んではぶら下がり、なかなかちゃんと歩こうとしない。
母親が顔を下げ、何かを言う。
その子はまた、素直にまっすぐ立った。
しばらく見ていた。
小さな手は、まだ母親の手の中にあった。二歩進み、ひと揺れして、また二歩進む。
クリスは何も聞かず、隣に立って、一緒に歩き出すのを待っていた。
車内は涼しかった。
座ると、思わず窓ガラスに手の甲をつけた。外は陽が照っているのに、ガラスは冷房で冷たくなっている。映った自分に指を当てると、その間を、遠くの家々が次々後ろへ流れた。
ときどき木の影が窓をかすめ、顔に落ちて、すぐに去った。
彼は隣に座り、自分の膝に手を置いていた。
もう、何かをしてくれようとはしなかった。
でも僕は、さっきより楽だった。ガラスに手を置いたままでいられたし、ずっと外を見てもよかった。何も言わず、二人を運ぶ車両に任せてもよかった。
駅を出ると、熱気が正面から押し寄せた。
肌に残っていた冷たさが、額から消え、次に首から消え、とうとう袖の中まで暑くなった。道沿いの家には簾が下りている。支柱を伝う朝顔の花は、もう薄く萎れて巻いていた。
道は、僕が教えた。
「こっち」
少し歩いて、また止まった。
「違う」
角の空き地を見た。
そこには店があるはずだった。ガラスの扉に色あせた広告が貼ってあって、子供の頃は通るたび覗き込んだ。先を歩くお母さんが呼び、一度で動かなければ迎えに戻ってきた。
今は、何もない。
柵の向こうに草が生え、背の高い何本かが外へ出て、道端で細い穂を揺らしていた。
しばらく立ってから、あの店はまだできていないのかもしれないと思い出した。
記憶の中では、ガラスの扉はそこにあり、広告も色あせたままだった。まばたきをすると、目の前には日に照らされた空き地しかなかった。
「先、行こう」
クリスがうなずいた。
また少し歩いた。
知っているものと知らないものが、隣り合っていた。同じ道なのに、あの壁は少し低く、この木は少し細い。記憶の中の目印には、もうあるものと、まだないものがあった。
まだないところを、いったん頭の中で空けなければ、今の道が見えなかった。
陰に入ると、自然に足が遅くなる。
陰を出ると、また急ぎたくなる。
彼はずっと、ついてきてくれた。
一度、手の甲に触れてしまい、とっさに手を引いた。彼はこちらを見ただけで、次の道を教えるのを待った。
「前の線路を渡って」
声が、少しかすれていた。
「渡ったら、また……」
最後まで言えなかった。
踏切が鳴った。
黄色と黒の遮断機が下り始めた。もうすぐそこだった。あと数歩で渡れる。思わず足を速めると、クリスが手を出して止めた。
目の前に、遮断機が下りた。
立ち止まった。
「この電車を待とう」
「わかってる」
半歩、下がった。
それでも、向こうを見てしまった。
線路の向こうの小道を、二人が遠ざかっていく。
男の人と、女の人。
二人の間には、ベビーカーがあった。
幌が広がり、中は見えない。女の人は二歩歩いて、腰をかがめた。中の子供の何かを直しているようだった。男の人も止まった。片手を持ち手に置き、もう片方を上げて、手の甲で顔をぬぐった。
足が、それ以上下がらなくなった。
あの仕草。
お父さんは、いつもああやって汗を拭いた。
頬からこすって、鼻の下まで来ると、最後に強くひと拭き。子供の頃は、そんな拭き方は格好悪いと言って、いつもハンカチを渡した。お父さんは受け取って、次にはまた同じように拭いた。
女の人が体を起こし、肩から落ちたバッグの紐を上げた。
その後ろ姿を見つめた。
二本の線路と、照り返す道を挟んで、スカートの色は日差しに薄く洗われていた。
でも僕は、お母さんが歩くとき、左肩が少し下がるのを知っている。
バッグを持っていると、もっとよくわかる。
「見て」
クリスの腕に触れた。
彼も、そちらを見た。
「あの二人……」
続きは、言うのが怖かった。
言葉が舌の奥で止まる。そのまま含んでおいた。まだ口にしなければ、ゆっくり確かめられる気がした。目の前の仕草を、もう一度ずつ見られる気がした。
女の人が、また顔を下げた。
男の人はベビーカーを少し押して、彼女が来るのを待つ。
小道を風が渡り、スカートの裾が脚からふわりと離れ、また戻った。幌の隅も動いた。女の人が手で押さえると、男の人の歩みがさらにゆっくりになった。
どこにでもいる、普通の二人だった。
少し外を歩き、疲れたら涼しいところで休めばいい。太陽がもう少し屋根の後ろへ下がったら、ベビーカーを押して帰る。扉を開け、外の暑さを向こうへ閉め出す。
冷蔵庫には、麦茶があるかもしれない。
お母さんが出して、ポットに触れ、飲んだあと戻さなかったのは誰、と聞く。
二人を見ていたら、叱られたくなった。
遮断機につかまった。
手のひらのかさぶたが、薄い皮膚の向こうで、熱くなった塗装に触れた。
胸も、ふっと熱くなった。
動かなかった。
歩くのが速すぎたのかもしれない。
さっきはあんなに急いだし、電車の涼しさはとっくに消えている。首の後ろから汗が襟へ入り込み、こめかみも濡れていた。この小道は全部、日差しに浸っている。線路の上の空気さえ、かすかに揺れていた。
少しくらい熱くても、普通だ。
線路に細い震えが伝わった。
先に、風が来た。
遠くから押し寄せ、裾をめくる。錆と埃の匂いが少しした。クリスがこちらを向き、手から顔へ目を移した。
言わなければいけないのは、わかっていた。
あそこが、熱くなり始めている。
肌じゃない。
もっと、深いところ。
でも、向こうの二人はまだ歩いていた。
「待って」
とても小さく言った。
クリスの手が重なった。
引き離そうとはしなかった。ただ遮断機から僕の手を外し、握った。
そのとき、電車が踏切へ入ってきた。
先頭車両が、小道を隠した。
続けて、一両。また一両。窓が次々目の前を流れ、ガラスの中では人影や座席や広告、細切れの日差しが揺れた。
背伸びした。
無駄だった。
「すぐ、通り過ぎるよ」
彼に言ったのか、自分に言ったのか、わからない。
彼の手に少し力がこもった。
僕も強く握り返し、親指をその関節に押し当てた。確かな硬さが、手の中にある。もっと深く握り、一本ずつ指を落ち着かせようとした。
この電車さえ、通り過ぎれば。
もう一度、見られれば。
まだ、よく見えていない。
お母さんと呼ぼうかどうかさえ、決めていない。
なのに熱は、もう指先まで広がっていた。
電車はまだ目の前を走り続け、果てがないほど長かった。クリスのそばへ少し寄って、もっと深く、その手の中へ自分の手を押し込もうとした。
足の下から、硬い道が消えた。
電車が通り過ぎるまで、待てなかった。
……
手のひらには、強く握られた痛みが少し残っていた。
もう一度指を曲げる。さっきまで押し当てていた関節を、指先で探した。
何も、なかった。
電車の音が耳元で途切れた。次に吸い込んだ空気は、日に温まった草木の匂いがした。靴底が砂利を踏み、一歩よろめく。支えを探して伸ばした手が、ざらつく木の幹に触れた。
樹皮が手のひらに食い込んだ。
手を引き、勢いよく振り返った。
後ろには細い道があった。脇には石灯籠が立ち、木の影が斜めに落ちている。もっと高いところでは、葉が数枚、日差しに白く輝いていた。今にも薄く焼け抜けて、枝から消えてしまいそうだった。
「クリス?」
声は、出たきり散っていった。
道を数歩進んで、また振り向いた。
木一本、隔てただけかもしれない。
曲がり角にいるのかもしれない。
そちらへ歩いた。足元で砂利が細かく鳴った。けれど曲がっても、まだ道しかなかった。傘を差した女の人が前を通る。下駄が地面に当たり、短くはっきり響いた。しばらく見ていると、向こうもこちらを見た。それから傘を少し傾け、僕を避けて通った。
黒い髪を後ろで結い、歩くたびに着物の袖が揺れていた。傘の下の顔立ちにも、馴染みがあった。
日本人?
少なくとも、そう見える。
身振りをしようと持ち上げた手が、宙で止まった。ゆっくり下ろす。どう動かせば通じるのか、まだ考えてもいなかった手は、急に要らなくなった。今度は、そのまま話してもいいのかもしれない。まずひとつ、言葉を最後まで言って、わかる返事を待てるのかもしれない。
「すみません……」
日本語が、すんなり口を出た。
彼女が足を止め、こちらを見た。
胸につかえていた息が、そこで少し下りた。
ここが日本かどうか、次に今は何年かを聞いた。
明治三十一年。
はっきり答えてくれた。
聞き取れたのに、しばらく立ったままでいてから、ようやく頭を下げた。
明治。
教科書にしかなかった言葉を、彼女は何気なく口にした。天気や道の名前や、今日の行き先と同じように。傘の縁が揺れ、彼女は遠ざかっていった。一人残された僕は、さっきまで歩いていた帰り道を、少しずつ頭の中にしまった。
線路を渡って、まっすぐ。
それから?
クリスに教えそびれた曲がり角は、もうどれも役に立たなかった。道は覚えているのに、そこへ行けない。
遠すぎた。
今度は、駅からどちらへ行けばいいかを考えることさえ、無駄だった。
木々の奥から、蝉の声が降ってきた。枝葉を抜けた風が、少し湿った涼しさを顔に残す。風がやむと、またこめかみから汗がにじんだ。
手を上げ、拭った。
洗ったばかりの服だった。
襟には、乾かしてもらった柔らかさがまだ少し残っている気がした。でも首の後ろはもう濡れている。その小さな布が貼りついて、顔を動かすたび、肌をかすかに引っ張った。
「トーマス」
もう一度、呼んだ。
さっきより、小さく。
近くの人が振り向いたので、慌てて首を振り、木陰に下がった。
返事は、なかった。
……
木陰を抜けると、まず青緑が見えた。
高いところで、何人かの頭の上から覗いていた。もう少し進むと、巻いた髪、伏せた目、広い肩が、枝葉の向こうから少しずつ現れた。
足が止まった。
鎌倉の大仏。
ほとんど考える間もなく、名前が記憶から浮かび上がり、目の前のものにぴたりと重なった。
陽が額と肩を照らし、衣のひだに沿って落ちている。窪みは色が深く、静かに影を溜めていた。膝のあたりでは、また明るい空の光に受け止められる。
そこに、座っていた。
小学校の頃に見たのと、同じように。
数歩進み、また止まって見上げた。額を汗が伝っていく。目を細めても、すぐに顔を下げるのは惜しかった。
本当に、同じだった。
僕は一度、その下に立ったことがある。首が痛くなっても、まだ見ていたくなった。あの頃は、とても大きくて、空までこの大仏のために空けてあるように思えた。
あの日も、暑かった。
帽子のつばでは日差しを防ぎきれず、リュックの紐が肩に食い込んだ。水筒の麦茶は、最後には振ると大きな音がするくらいしか残っていなかった。先生が並ぶように言い、写真の前列の子はしゃがみ、後ろの子は首を伸ばした。誰も半分しか顔が写らないのは嫌だった。
隣の子が急に大仏の真似をして、目を伏せ、口を結んだ。
僕は立っていられないほど笑った。
写真を撮る人がもう手を上げ、先生がもう一度声をかけても、まだこっそり肘でつついていた。その顔、もうやめてよ、と。
今となっては、誰だったのか、少し思い出せない。
顔はぼやけた。
笑い声は残っている。
それから、写真を撮ったあとに先生が大仏を指さして言ったことも。
あとで、ここに集合です。
あのときは、見つけられないかもしれないなんて、少しも思わなかった。
あんなに大きな大仏が、梢と空の間に座っている。離れるときに振り向けば、そこにいた。少し遠くまで見に行って戻ってきても、まだそこにいた。
これだけ覚えていればよかった。
どこを曲がったか、どちらが近いか、来るときこの木の前を通ったか。全部は覚えなくていい。顔を上げて、あの青緑さえ見えれば、遠くへ来すぎていないとわかった。
そこまで考えて、少し笑ってしまった。
「あなたは、ずっとここなんですね」
小さな声だった。言ってから、大仏にそんな話し方をするのはよくない気がして、慌てて背筋を伸ばし、頭を下げた。
大仏は、相手にしなかった。
相変わらずの顔だった。
目を伏せ、口元には、僕には読み取れない何かがあった。子供の頃は笑っていると思った。でも今は、ただ長く座り続けて、何かに急いで応じなくてもよくなっただけのようにも見えた。
周りを、少しずつ歩いた。
覚えていないところもあった。
木の位置、石の色、脇へ通じる小道。あのとき見なかったのか、それともあとからできたのか。わからないまま、歩きながら頭に残る景色の隅を探した。
記憶には明るいところも、何もないところもあった。さっきまでわかる気がしたのに、近づくと、あまり似ていない石に変わってしまう。
でも、顔を上げれば、まだ見えた。
あの青緑だけは、確かにそこに留まっていた。
ようやく、足取りがゆっくりになった。
……
木陰に、長いこと座っていた。
初めは、ただ休むつもりだった。
そのうち、立ちたくなくなった。
ここからは入口が見えた。人が入ってきては見上げ、見終えた人は反対側へゆっくり去っていく。砂利を踏む音は近づけばはっきりし、遠ざかるとまた風に混ざった。
誰かがあちらから来るたび、僕は少し顔を上げた。
何度もそうしてから、自分が何を見ているのかに気づいた。
明るい色の髪。
周りより少し高い肩。
あるいは、まくった袖が少し見えただけ。
そんな切れ端が人の間から覗くと、先に目を向けた。よく見えてから、ゆっくり視線を戻した。
両手を膝に置き、長いこと見下ろした。
おかしいな。
約束したわけでもないのに。
呼べば出てくる人じゃない。いくら長く生きていても、どこかで自分の用事をしているはずだ。買い物をして、ご飯を食べて、僕の知らない誰かと話す。
向こうは、今、夜かもしれない。
窓辺で、僕には読めない本を開いているかもしれない。
何年も僕に会っていなくて、今日、木の下に一人で座り、来てくれないと密かに拗ねている人のことなんて、思い出しもしないかもしれない。
そんなことは、わかっている。
なのにさっき、着いた途端に名前を呼んだ。
ここがどこかも確かめず、ひと声かければ、返事があるはずだと思っていた。
顔を両手に埋めた。
手のひらはまだ熱かった。目を覆うと、蝉の声がもっと近くなった。
「世話を焼くのがうますぎるのも、困るよね」
さらに小さな声になった。
自分に言い訳をしているだけみたいに。
まだ、何度かしか会っていない。
それなのに、手元へコップを置く音が恋しかった。急がずに話す声が。笑い終わるのも、まとまらない話を言い終えるのも、待ってくれることが。
あの、「下にいるよ」も。
そのときは、怒るので精いっぱいだった。
でもあとで外へ出たら、本当に下にいた。
低い塀に座り、袖をきちんとまくって、足音がすれば振り向いてくれた。
たったひと言で、人はそこにいてくれることがあるんだ。
僕が泣き終わって、顔を洗って、ゆっくり階段を下りてからも、まだ見つけられるところに。
ゆっくり手を下ろした。
目の前には、やっぱり大仏がいた。
木の陰から誰かが出てくることも、隣に立って、疲れたか、先に座りたいかと聞いてくれることもなかった。
脚を少し引き寄せ、通る人のために場所を空けた。
日差しが木陰の縁を、少しずつ、こちらへ進んできていた。
……
子供の頃、先生はこの大仏について、ほかにもいろいろ教えてくれた。
いつ造り始めたのか、高さはどれくらいか、重さはどれくらいか。
ほとんど忘れてしまった。
あの頃は水を飲んだり、友達を探したり、帰りのバスで眠れるかを考えたりするのに忙しかった。年号はやたらに長くて、試験の紙に書くためだけにあるようだった。その下で汗だくになっている僕とは、あまり関係がなかった。
今、見上げていると、ひどく単純なことが少しわかった。
この大仏は、もう、こんなにたくさんの夏を座って過ごしてきたのだ。
僕の知っている服を着た人も、知らない服を着た人も、ここへ来る。葉が伸び、落ち、また伸びる。下に立った子供は顔を上げ、途方もなく大きいと思う。何年も経って戻ってきても、やっぱり首を反らさなければ、その顔は見えない。
覚えては忘れたあの年号は、こんなふうに、少しずつ過ぎた時間だった。
肩に陽が当たり、衣のひだに影が落ちる。
人が近づき、遠ざかる。
僕が生まれる前から、ここにいた。
小学校の遠足は、今からなら、まだずっと先だ。
それでも、もうここにいる。
あの騒がしい集合写真も、そこに写る、まだ大きくなっていない顔も全部、この午後から少しずつ待っていけば、やがてここへ来る。
そう思って、座ったまま動かなかった。
立っていられないほど笑っていた僕は、まだ来るのだ。リュックを背負い、麦茶の少しだけ残った水筒を持ち、同級生の間に詰め込まれて、隣の子の変な顔をやめさせようとしている。
大仏は、ここに座り続けていればいい。
見ていると、胸が少しずつ楽になった。
覚えているものが、全部、後ろに取り残されたわけではないんだ。
先にここへ来ていたものもある。
ただ、近づいて、顔を上げなければ、僕にはわからなかった。
あの日、写真を撮ったところに、もう一度立ちたくなった。
よく覚えていないので、見当をつけて少し横へ歩き、また戻る。最後に日の当たる地面で止まり、記憶の中のカメラがあったはずのほうへ向いた。
背中には大仏。
隣は、空いていた。
手を上げ、ポーズを取ってみて、ゆっくり下ろした。
あのときは、あんなに窮屈だった。
隣の子が触るのが嫌で、前の子に顔を隠されるのも嫌で、早く先生が解散と言ってくれないかと思っていた。肩と肩がくっついて、少し動くだけで、同じように暑がっている誰かに当たった。
今は、こんな広いところを、一人で使えてしまう。
うつむくと、足元に自分の影があった。
風が吹き、裾が揺れた。
影も、揺れた。
急に、一人で写真を撮りたくなくなった。
……
木陰が移ると、別の場所へ座り直した。
そこからも、大仏は見えた。
大きな輪郭を見つめながら、少しずつトーマスの顔を思い出した。
それから、前に会ったとき、今はクリスだと言っていたことを思い出した。
今は?
明治三十一年には、何という名前なんだろう。
どの名前で探せばいいのかさえ、わからない。
まったく、もう。
名前も服も、ころころ変えて。前には頭の真ん中がつるつるだったのに、その次にはちゃんと髪が生えていた。会うたびに、見慣れないものの中から、少しずつ彼を見つけなければならない。
でも、あの目は覚えている。
青い目。
目を閉じ、思い浮かべてみた。
まだ、はっきりしていた。
僕を見ると、初めは止まる。それから、目元にゆっくり笑みが浮かぶ。僕がいきなりそこへ現れるのは、嬉しいことなのだというように。手を止めて、こちらへ歩いてきてくれるくらいには。
あの笑い方も、覚えている。
そっと指を握った。
これからも、そうだったらいいな。
どこへ落ちて、目を開けて、どんな空を見ることになっても。せめて一人だけ、知っている人がいてくれたら。
ゆっくり探せばいい。
間違えても、遅くなってもいい。目の前まで行けば、彼はまだ顔を上げて、僕が誰か、わかってくれる。
子供の頃、はぐれても、集合場所さえ覚えていれば、そこまで怖くなかったみたいに。
大仏は、ここにいる。
でも僕は、いつもここへ来られるわけではない。
遠く離れた場所もある。大仏さえ、まだない頃もあるかもしれない。名前も言えない町や、ひと言も通じない道は、僕がこれを覚えているからといって、ここへの道を残してはくれない。
何か、ほかのものを覚えていたかった。
知らない年月を越えても、まだ僕にわかる何かを。
そこまで考えて、少し恥ずかしくなった。
欲張りな願いだった。
会うたびに彼のほうではどれだけ経っているのか、ちゃんと聞いたこともないのに。
僕にはまだ消えきらない熱が、彼のところでは、窓を閉めたり服を替えたりできる季節を、いくつも越しているのかもしれない。
聞かなかった。
なのに、もう心の中で、こっそり場所を空けていた。
そこに、立っていてほしかった。
僕だと、わかってほしかった。
また別れを言いそびれても、すぐにその人を、これからの日々からしまい込まずに済むように。
まだ、残しておいてもいい。
あの青い目も、言いかけた言葉も、次に会ったら最初に話したいことも。
今だけ、会えないのかもしれない。
次が、あるのかもしれない。
……
人が来て、もう出る時間だと教えてくれた。
慌てて立ち上がり、ズボンの埃を払い、頭を下げた。
長く座りすぎて、脚が少ししびれていた。一歩目を出すと、足の下に小さな針がたくさんあるようだった。膝に手をつき、少し待ってから、来た道を戻った。
夕方の風は、さっきより柔らかかった。
襟はまだ濡れて首の後ろに貼りついていたけれど、もうそれほど熱くはなかった。葉の奥には暮れかけの色が溜まり、それでも陽はまだ高いところに残って、梢を透かしていた。
門まで来て、また振り向いた。
大仏は、まだ座っていた。
枝葉に隠れて一部分しか見えなくても、ちゃんとわかった。
空の手を、そっと握った。
次に会ったら、まず聞いてみたい。
僕がいなくなったあと、待っていてくれる?
ずっとずっと経っても、待っていてくれる?
……
それから、いくつもの場所が僕の足元を過ぎていった。
日に白く焼けた石段。苔の生えた井戸の縁。雨に濡れきった船板。ご飯を目の前に出してくれる人も、戸を叩くより先に閂をかける人もいた。知らない言葉の中に、少しずつわかるものが増える。でも、次に移った先では、それも役に立たなくなった。
やっと覚えた音だけが口に残った。開ける扉を二度と見つけられない、何本かの鍵のように。
相変わらず、お腹はすくし、眠くもなった。髪を洗ったばかりのときに風が吹くと、それだけで嬉しかった。汗の貼りつかない首筋を毛先がかすめると、今日もそう悪くないと思えた。
ただ、もうずいぶん長く歩いている道もあった。
夏は、いつまでも終わらなかった。
……
一九三七年、六月。
上海。
新聞社の前に立ち、英字新聞に並ぶ数字をしばらく見ていた。後ろを人が通り、道端の浅い水溜まりへ革靴を踏み込んだ。空の半分が砕けた。
雨がやんだばかりだった。
雨は大して涼しさを運ばず、かえって通りじゅうを湿気で膨らませていた。背中に貼りついた服を少し浮かせても、風が入り込む前にまた戻ってしまう。店先の日除けには水が溜まり、布がたわんでいた。店員が長い竹竿で押し上げると、大量の水が落ちてきて、通る人たちが避けた。
僕も、跳びのいた。
なかなか素早かった。
よかった。この特技は、まだ残っている。
電車がベルを鳴らし、角を曲がっていった。窓から扇子を持つ手がいくつも出ている。帽子を取り、額に当てる人もいた。道端の女の人は首筋の汗がチャイナドレスの襟へ流れているのに、耳飾りだけは暑さも知らず、話すたびに揺れていた。
蝉の声は、街路樹の濃い葉の奥に隠れていた。車の音が少し遠のくと、押し込められていた声がまた浮かび、車輪の去った隙間を埋めた。
陰のある側を歩いた。
ここには、外国人が多かった。
明るい髪、暗い髪、日に赤く焼けた首筋、腕に挟んだ帽子。カフェの扉が開くたび、短い音楽と別の言葉が漏れ出し、閉まると一緒に途切れた。
白いスーツの男が角に立ち、身をかがめて連れの煙草に火をつけていた。先に髪が目に入り、足が遅くなった。顔が上がってから、また歩き出した。
違った。
髪の色が似ていなくても、見てしまうことがあった。
少し横を向いた人の肩や背中が、ちょうど光の中に浮かぶと、もうひと目。目のほうが先に止まり、顔を確かめてから、足のためらいがほどけた。
こんな探し方、馬鹿みたいだとは思う。
でも、外国人がこんなにいる。
もしかしたら。
彼も暑がって襟を緩め、どこかの店の前で、今日は何を食べようかと迷っているかもしれない。
ショーウインドーの前を通り、ガラス越しに後ろを見た。
人力車が一台、ゆっくり過ぎていくだけだった。
……
夕方、川辺まで来た。
水は湿った匂いを立て、熱の残る石岸に沿ってゆっくり流れていた。橋の影には何艘かの舟が寄り合い、屋根の下に洗濯物が干してある。子供が舷に腹ばいになり、水に浸かった縄を指でいじっていた。
岸辺の空き地に、白い布が張ってあった。
長さの違う椅子が何列か並び、後ろには立っている人もいた。机の上に映写機が一台あり、そばにはブリキの缶がいくつか置かれている。川風が来ると、白い布の裾が膨らみ、すぐに戻った。
映画だ。
足を止めた。
やっと、言葉がわからなくてもできそうなことがあった。
隣で紙の扇子を持った人が、何かを言った。僕は白い布を指し、映写機を指して、どうにか英単語を探した。
その人は別の言葉に替え、ゆっくり話してくれた。
それでも、全部はわからなかった。
最後に映写機の後ろの空いた椅子を指し、懐中時計を見てから、両手を広げた。
「Late.」
これは、わかった。
映写技師が遅れているんだ。
うなずいて、笑ってみせた。
映画にも、もう少し待つ時間が要るらしい。
白い布に、隣の木の枝が影を落としていた。葉が揺れ、影も揺れる。前の席の男の子が、つかまえようと高く手を伸ばした。そばの大人が笑った。
まだ映像のない白い布の前で、もう小さな手が伸びていた。
うつむいて、手のひらに触れた。
傷跡はずいぶん薄くなっていた。手を開くと掌の線に隠れるところがあり、皮膚を少し寄せなければ、全部は見つけられない。
とっくに、痛くなくなっていた。
何年も経つうちに、噛まれたあの瞬間、どれほど痛かったのかさえ忘れてしまった。痛みは記憶からきれいに引き、周りより薄い線だけを残した。自分で探さなければならないくらいの。
あの子が怒った顔は、まだ覚えているのに。
少し笑って手を下ろし、もう少し川沿いに歩こうとした。暗くなる。今夜の寝場所くらい、決めておかなければ。
不意に、後ろで自転車のベルが鳴った。
短い音だった。ちょっと触れただけで、すぐハンドルを握り直さなければならなかったみたいに。
荷物をくくりつけた自転車を押して、誰かが人の間を通ってきた。椅子を避け、待っている人たちに何か言って軽く頭を下げる。それから、車体に結んだ平たい丸い缶を外した。
先に、手が見えた。
袖は肘の下までまくってあった。缶の蓋を指で押さえ、親指で縁をひと回り確かめる。
それから、顔が上がった。
金色の髪が少し乱れていた。額に汗で貼りついた髪もあれば、妙に跳ねたところもある。急いで来た道の風が、ここへ着いてもまだ離してくれないみたいだった。
青い目が、人の頭の上をかすめた。
僕の足は、その場に止まった。
……
川辺の手すりには、昼間の温かさが残っていた。
つかまって、少し前へ寄る。石岸に触れる水がひととき静まり、ぼんやりと人の姿を映した。
水の中の女も手を上げ、こめかみに触れた。
もう、昔の美少女じゃない。
四十くらい。
風が来ると顔は崩れ、やむとまたゆっくり戻った。目尻に細いしわがあることも、笑えば口元の線が前より深くなることも知っていた。今日初めて現れた変化ではない。
知らない場所の鏡で、何度も見ていた。顔を近づけ、髪の一本が光で白く見えるだけなのか、本当に白いのかを調べたこともある。
どの場所も僕のために何も残してくれないのに、顔には少しずつ跡が増えた。
でも、さっき彼を見た瞬間には、何も考えなかった。
ただ、駆け寄りたかった。
昔みたいに服をつかみ、まず呼び止めて、それから笑うか泣くか決めたかった。
こめかみから手を下ろした。
僕だと、わからなかったら?
僕は彼を覚えている。あんなにはっきりと。椀を持つとき、どこに指を添えていたかさえ、まだ頭に残っている。
でも彼は、今の僕を覚えているとは限らない。
振り向くと、彼はもう映写機の横で、うつむいてリールをいじっていた。間を人が通り、とっさに脇へよけた。その人が通り過ぎると、今度はどうやって一歩戻ればいいのか、わからなくなった。
たった一人分、空けただけなのに。
その短い距離の向こうへ、今の顔をどう持っていけばいいのか、急にわからなかった。
まず、呼んだほうがいいのかもしれない。
でも、どの名前で?
「そちらの方」
顔を上げた。
彼はリールを手に、こちらを見ていた。日本語で尋ねる。
「少し、手伝ってもらえる?フィルムが絡んでしまって」
川風が吹き、額の髪をもう少し乱した。
口を開けた。
用意しかけていた言葉は、ひとつも役に立たなかった。
結局、近づいて、手を差し出した。
「先に言っとくけど、壊しても弁償できないからね」
「ここを支えるだけでいい」
リールを渡し、僕がしっかり持つのを待ってから、ゆっくり手を離した。ほどけたフィルムが二重に輪を作り、支柱にかかっている。彼はうつむいて少しずつ直し、ときどき、もう少し上へ、もう少しこちらへと身振りで伝えた。
僕は、もう少し彼のほうへ寄った。
肩が、彼の腕に触れそうだった。
汗の匂いに、かすかな石鹸の匂いが混ざっていた。これだけ近づいて初めて、彼の呼吸もいつもより速いとわかった。本当に急いで来たらしい。
今度は、僕が遅れたんじゃないんだ。
手の中のリールを見下ろし、急に笑いたくなった。
泣きたくもなった。
同じところで二つの気持ちが押し合うので、リールをもっとしっかり支えた。
「人使いが上手だね」
「ごめん」
真面目な声だったのに、口元が少し動いた。
慌てて目を伏せた。
フィルムには一こまずつ、小さな人が写っていた。あんなに近く並んで、まだ動いていない。大事に支える指がこわばると、彼が反対側を持ち、重さを分けてくれた。
「これでいい?」
「うん」
彼は僕を見た。
「それで、いいよ」
……
映画が始まると、彼にいちばん近い椅子に座った。
スクリーンでは、男が自分の帽子を追いかけていた。帽子が転がるたび、そちらへ走る。やっと押さえたと思ったら、今度は誰かの足の下にあった。見上げる情けない顔がおかしくて、周りの人と一緒に、つい笑ってしまった。
言葉がわからなくても、同じところで笑えるんだ。
笑ってから、後ろを見た。
彼は、まだいた。
映写機の光がそばを抜け、空気の中の細かな埃を照らしている。横を向いていた彼は、椅子の音がすると、こちらを見た。
慌てて前へ向き直った。
少しすると、また振り向いてしまった。
三度目には、彼はそのまま僕にうなずいた。
わかってるよ、とでもいうように。
鼻に触れ、ようやくしばらくおとなしくしていた。
あの晩の映画がどんな話だったのか、あとになるとあまり覚えていなかった。なかなか頭に収まらない帽子と、後ろで規則正しく響く機械の音だけは残った。
一こま、また一こま。小さな人たちが、ようやく動き始めた。
ときどきスクリーンがかすかに揺れ、川風が額の汗を冷ましてくれた。座ったまま、その音が確かに進んでいくのを聞いていた。今夜どこへ行けばいいのかは、もう考えなかった。
映画が終わると、彼はリールをしまい、缶の蓋をひとつずつ閉めた。
僕は椅子を二脚、運ぶのを手伝った。
人が去ると、空き地は急に広くなった。白い布はまだ掛かっていたけれど、光を失うと、しわが全部見えた。さっきまで走り回っていた人たちは、何重もの輪になって缶の中へ戻され、風だけがまだ、ときどき布の隅を持ち上げた。
彼は最後の缶を置くと、川辺へ来て、僕の隣で止まった。
二人で手すりに寄りかかった。
対岸には灯りがついていた。水に落ちた光を舟の舳先がそっと分け、長い線に引き延ばしていく。
横顔を盗み見た。
やっぱり、あのままだった。
だから、ちゃんと話すはずの言葉が、少し形を変えて出た。
「時間跳躍者って、思ったより早く年を取るんだね」
彼がこちらを向いた。
目の前に手を出し、開いて、握った。
「ほら。誕生日をいつ祝えばいいのかもわからないのに、しわだけは、ちゃんと増える」
彼は何も言わなかった。
僕も川を見た。
「明日には、学校へ戻れるんじゃないかって思うこともあるんだ。宿題、出してないから、先生に呼ばれるなあって」
そこまで言って、自分で笑った。
「本当に戻ったら、まず、どなたですかって聞かれそうだけど」
彼がポケットからハンカチを出し、手元へ差し出した。
受け取って、こめかみを拭いた。洗い込まれた布は柔らかく、折り目が手のひらに触れた。その線に沿ってゆっくり畳み直していると、もうあの冗談を続けたくなくなった。
「今は、何て名前?」
彼が少し笑った。
「アレックス」
「アレックス」
繰り返すと、返事をしてくれた。
これで、また知り合いになれた。
ハンカチを握ったまま、もう少し顔を見て、とうとう聞いた。
「どうして、僕だってわかったの?」
彼は、続きを待った。
「さっき、前に会ったことがあるって、先に言ったほうがいいかなって思ってた。覚えてなかったら、かき氷とか、教会とか、それから……」
言葉を止め、自分の顔を指した。
「もしかして、こんな僕にも、もう会ってたの?」
「もっと年を取った君にも、会ってる」
固まってしまった。
彼は少し笑った目で僕を見ていた。
「ちょっと」
肘で軽くつついた。
「女性に、そういうこと言うのは失礼だよ」
「失礼だったね」
返事が速すぎて、まるで反省しているように聞こえなかった。
もう一度にらもうとしたのに、先に口元が緩んだ。
「こういうときは、全然変わってない、昔のままだよって言うんだよ」
彼は黙って、僕を見た。
少し恥ずかしくなって、先に顔をそらした。
「やっぱりいい。そこまで嘘つかなくても」
川を舟が通った。灯りが足元からゆっくり離れ、手すりの下の水がまた暗くなった。手を置くと、彼の手の甲に触れた。
どちらも、引かなかった。
少しして、彼の指が動き、僕の指の脇に触れた。
川を見つめたまま、見えもしない舟を真剣に見ているふりをして、手だけをゆっくり返した。
彼の手のひらが、重なった。
温かかった。
指を少し曲げると、握ってくれた。
さっきまでは、あんなに話せたのに。今は、ひと言しか残っていなかった。長いこと胸に置いてきた言葉だった。知らない扉の前をいくつも過ぎ、行く先もわからない夕方をいくつも越えて、それでも置くところが見つからなかった。
今、彼は隣にいた。
その手を握り、ようやく聞けた。
「待っていてくれる?」
小さな声だった。
聞き終わって初めて、息を止めていたことに気づいた。
彼は、つないだ手を見下ろさなかった。
「ずっと、待っている」
彼を見た。
川辺にはまだ人が通り、遠くで自転車のベルがひとつ鳴った。誰かが店の日除けを畳み、ひだに溜まった水が、ぽたぽた落ちていた。
長いこと、何も言えなかった。
意味はもう、わかっていた。それでも言葉は耳元に残った。もう少しはっきり聞きたくて、でも、声を出すのが惜しかった。自分の声で、あの言葉を覆ってしまいそうだった。
結局、我慢できない性分が先に顔を出した。
「それなのに、今日は遅刻したんだ」
彼がうなずいた。
「うん」
「もう少しで、帰るところだったよ」
手の中で、彼の指が少し強くなった。
ちょっと文句を言うだけのつもりだった。
なのに言い終わると、急に目の奥がひどく熱くなった。
うつむいて、握りしめてしわになったハンカチを広げた。一度拭き、もう一度拭く。忙しそうに手を動かした。そうしていれば、見られずに済む気がした。
彼は隣で、拭き終わるのを待っていた。
つないだほうの手は、ずっと離れなかった。
……
近くに、しばらく住むことになった。
アレックスが探してくれた部屋は二階にあって、窓の外には洗濯物を干す竹竿が何本も渡っていた。午前中に誰かがシーツを洗うと、布の隅から水が滴った。下の屋台が開けば、匂いは人より先に上ってきて、閉まりきらない窓の隙間から入り込んだ。
彼は早く来る日も、遅く来る日もあった。
自転車のベルが、少しずつ聞き分けられるようになった。
本当は、ほかの人と大して違わない。ただ、あの音がすると、決まって下で誰かが見上げてくれる。
僕は窓へ身を乗り出した。
「ちょっと待って!」
言ってから、靴を探し始めた。
一度、急ぎすぎて、階段の角で水の入った盥を持つ女の人にぶつかりかけた。長々と小言を言われ、何度も頭を下げるしかなかった。外へ出ても、まだ上で声がした。
「何て言ってるの?」
「ゆっくり歩きなさいって」
「あんなに長くて、それだけ?」
「ほかにも、少し」
彼は自転車が倒れないよう押さえてくれた。
残りは、聞かないことにした。
後ろに乗ると、通りは別の速さで流れ始めた。
歩くよりは速い。でも、見えなくなるほどではない。店先で切った瓜、竹籠の中で濡れた布をかけられた菓子。結ったばかりの女の人の髪から、風に吹かれた短い毛が数本、耳のそばへこぼれた。
どれもそばを通り過ぎていく。立ち止まらなくても、ひと目見る時間はあった。
もう、明るい髪の後ろ姿を、一人ずつ確かめなくてよかった。
ときには、ぼんやりすることさえあった。
二度聞かれて初めて、何が食べたいかという質問だったのだと気づくくらいに。
「全部、食べたい」
「さっきの店も?」
「うん」
彼は少し笑ったようだった。
自転車が、ゆっくり道端に止まった。
夏は、まだ暑かった。
午後の部屋では、枕を裏返しても、冷たいのは少しの間だけだった。肌が触れた途端、その冷たさは体温に食べられ、髪の生え際からまた汗がにじんだ。
相変わらずよく眠れない日もあり、夢も見た。起きると、まず窓の外の看板と通りを確かめた。
わかってから、ゆっくり息を戻した。
でも、下では自転車のベルが鳴る。
だから枕に顔を埋め直して、もう少しだけ、ぐずぐずしていられた。
……
いなくなったのは、穏やかな朝だった。
朝ご飯はもう食べていた。豆乳が思ったより熱く、急いで飲んだせいで舌をやけどした。道すがら、舌先でそっと上顎に触れ続けていた。
アレックスは、ゆっくり自転車をこいでいた。
水を撒いたばかりの道を車輪が通ると、湿った匂いが立った。日差しはまだ通りいっぱいには広がらず、建物の影が斜めに横たわっている。店の戸板を一枚ずつ外し、壁に立てかける人がいた。腕が明るいところへ伸び、また影の中へ戻った。
後ろに座り、彼の腰の脇に手を添えていた。
シャツが風で少し膨らみ、指の甲に触れた。
そのとき、あの馴染みの熱が、少しずつ上がってきた。
うつむいて、しばらく待った。
まだ、そこにあった。
道が小さく跳ね、体が前へ動いた。額が彼の背中に触れる。
「どうしたの?」
少し強くつかんだ。
「そろそろ、行くみたい」
ペダルを踏む動きが緩んだ。
自転車はまだ、まっすぐ進んでいた。朝の空気の中で、チェーンの回る音がよく聞こえた。ハンドルを握る手を見ていたら、初めて後ろに乗ったとき、ちゃんと座れたか、わざわざ振り向いてくれたのを思い出した。
もう、そんな必要はなかった。
どう近づけばいいのか、どこに足を収めればいいのか、曲がるときはどちらへ少し体を寄せればいいのか。僕はもう知っていた。
体が、覚えていた。
車輪が進めば、次の小さな揺れを、どうやって彼と一緒にやり過ごせばいいのか、わかった。
「止まろうか?」
首を振ってから、見えないのだと思い出した。
「ううん」
風が、二人のそばを通った。
「このままがいい」
そっと頬を背中へつけた。
薄い布一枚の向こうから、一人の体温と、まだ日に温められていない、清潔な朝の匂いが伝わった。手はまだ腰の脇をつかみ、シャツと一緒に指の甲が小さく動いた。
胸の熱は、外へ広がり続けていた。
目を閉じた。
「アレックス」
「うん」
「またね」
しばらくして、彼が言った。
「またね」
……
自転車の後ろが、急に軽くなった。
アレックスはハンドルを立て直し、ゆっくり半回転だけペダルを踏んで、道端に止まった。
振り向いた。
後ろには、誰もいなかった。
シャツの腰には、つかまれたしわが何本か残っていた。
しばらく見てから、口元を少し緩めた。
それから、小さく息をついた。
……
枕元のカレンダーには、AUGUSTと印刷されていた。
その下に、大きな数字。
31。
朝、看護師さんが前の一枚を剝がしてくれた。糊のところから紙が離れ、かすかな音を立てた。彼女はそれをひと折りして、持って出ていった。僕はその音をずっと覚えていて、夕方になっても、ついそちらを見てしまった。
八月の、最後の日。
最後の日も、こんなに薄いのだ。光が透けるほどの紙が、枕元に静かに貼りついて、僕が見るのを待っていた。
枕を二つ重ね、ベッドに起き上がっていた。長く座っていると、体が少しずつ下がっていく。彼は気づくと立ち上がり、肩を支え、枕を直してくれた。ほんの少し動くだけでも大変だった。座り直せた頃には、額に汗がにじんでいた。
彼がハンカチで拭ってくれた。
窓は細く開いていた。風がカーテンを持ち上げ、外の濃い緑を見せてくれる。夕日はまだ葉の先に留まっていた。窓の近くの何枚かは縁が丸まり、風を受けて触れ合うと、ごく小さな音がした。
そちらを向き、しばらく耳を澄ませた。
木では、まだ蝉が鳴いているようだった。
ここまで離れると、その声は遠く、聞こえたり聞こえなかったりした。よく聞こうとすると部屋の時計の音がはっきりしすぎて、探すのをやめると、また細いひと筋が窓から入り込む気がした。
あんなに長い夏が、ここまで来ると、こんな細い音しか残していなかった。
「蝉の声、だんだん聞こえなくなってきたね」
彼も、僕の視線の先を見た。
「この夏も、やっと終わるのかな」
言ってから、少し笑った。
こんなに待ったのに、やっぱり誰かに聞かなければわからない。
彼はすぐ答えず、掛け布団の上から僕の手を取った。指はもううまく伸びず、皮膚が緩く関節を覆っていた。手首を支え、頭を下げて、その額に僕の手のひらを当てた。
金髪が、指の腹をかすめた。
まだ、柔らかい。
少し指を動かし、垂れてきたひと房を払ってやろうとした。うまくできなかった。すると、もう少し頭を下げて、触りやすくしてくれた。
「うん」
すぐ近くから、声がした。
「明日は、秋だよ」
彼を見た。
灯りはまだついていない。窓の外の最後の光が、顔の片側を照らしていた。額も、眉のあたりも、目の下のわずかな肌も、昔のままだった。そこに置いた僕の手の甲の染みが、やけにはっきり見えた。
「じゃあ明日は、もう一枚持ってきてね」
「わかった」
「秋になった途端に、風邪をひくのは嫌だから」
彼がうなずき、手のひらの下で額が小さく動いた。
急に、手を離すのが惜しくなった。
……
医者が入ってきたときも、彼はベッドの脇に座っていた。
ノックが聞こえると、まず僕の手を掛け布団に戻し、端を整えてから立って場所を空けた。
いくつか質問された。聞き取れたものも、残せなかったものもあった。耳に届いた音は、意味になる前に少しずつ散ってしまう。
もう一度お願いしようとしたら、隣の人が先にかがみ、日本語で聞いた。
「疲れた?」
「ちょっと」
「どこか、具合の悪いところは?」
少し考えた。
「格好が悪い」
彼が止まった。
もう片方の手を上げ、髪に触れた。
「後ろ、ぺたんこになってない?」
しばらく僕を見て、ようやく笑った。
「なってないよ」
「また、そう言う」
医者も、何の話か何となくわかったらしく、少し笑った。それから僕の手首を取った。指が少し冷たかった。顔を下げてしばらく数え、次に聴診器を胸へ当てる。息をするよう促された。
言われたとおりにした。
吸って、少し止めて、ゆっくり吐く。
こんな簡単なことにも、今では根気よく待ってくれる人が要る。息が入るのを待ち、また体から出るのを待つ。その間の少しの止まりまで、長くなっていた。
診察が終わると、医者は彼に何か話した。
低い声だった。彼は聞き、ときどきうなずき、ずっと椅子の背に手をかけていた。
もう、無理に聞こうとはしなかった。
カーテンが戻り、梢の光を隠した。椅子の背を握る彼の指が見えた。しばらく経ってから、少しずつ緩んだ。
医者が出ていっても、彼はすぐには座らなかった。枕をひとつ抜いて、僕をもう少し低く寝かせてくれた。
手を伸ばして袖口をつかんだ。
彼が止まった。
「行っていいとは、言ってないよ」
「わかってる」
椅子が近くへ寄せられた。
座り直した彼の膝が、ベッドの縁に触れそうだった。布を離すと、その手が代わりに受け止めてくれた。
……
運ばれてきた夕食を、少し食べた。
彼が水を渡してくれた。自分で持とうとして、指はもうコップに触れていたのに、手首が震えた。結局、彼に底を支えてもらい、縁から少し飲んだ。
ぬるい水だった。
しばらく含んでから、飲み込んだ。
「前は、水も自分で注げるなんて言ってたのに」
彼がコップをテーブルへ戻した。
「覚えてる」
「大きなことは、言わないほうがいいね」
ため息をつくつもりが、笑ったような声になった。
彼は唇の端の水をハンカチで拭い、少し手を止めてから畳んだ。濡れたところは内側へ折り込まれ、指の下に小さく、ほかより濃い色だけが残った。
テーブルには、小さな目覚まし時計も置いてあった。
そちらを見た。
「十二時に、合わせてくれる?」
彼も時計を見た。
「今夜の」
「うん」
時計を取り、裏の小さなつまみを回す。中の部品がかすかに擦れた。その手を見つめ、合わせ終わるのを待ってから、またカレンダーを見た。
「その時間になったら、起こしてね」
「うん」
「ちゃんと、知っておきたいから」
少し休み、息をついた。
「こんなに、待ったんだもん」
彼は時計を元に戻し、僕から見えるほうへ向けてくれた。
細い針が、まだ動いている。横になったまま、その針が少しずつ、僕の代わりに明日へ向かうのを見ていた。
……
暗くなると、窓ガラスに少しずつ部屋が映った。
ベッド、小さなテーブル、灯り。それから、ベッドの脇に座る人。
窓の外の木は闇に引き取られたけれど、ガラスは彼を残してくれた。ほんの少し目を動かすだけで、もう一人見えた。
彼は一度寝返りを手伝い、足元の布団を少し緩めてくれた。でも足がまだ冷たくて、またかけ直してもらった。
こういうことに、彼はもう慣れていた。どこに枕を入れれば楽になるのかも、コップが遠すぎると僕がこっそり手を伸ばすことも、知っていた。
下がってきた頭を見て、ふと笑った。
「やっぱり、髪があるほうがいいね」
彼が目を上げた。
「教会のとき」
僕は言った。
「うつむくたび、どうしても笑っちゃって。あとから考えると、本当に失礼だったね」
「あのとき、もう謝ってくれたよ」
「あれは、なし。謝りながら、まだ笑ってたんだもん」
彼も笑った。
あのときの真似をしてみようと首を前へ動かすと、すぐに手が伸び、支えてくれた。
「はい、やめます」
枕へ戻った。
「せっかく、やってみせようとしたのに」
彼の手は肩の後ろに残り、落ち着いて横になったのを待ってから、ゆっくり抜けた。
しばらくして、また聞いた。
「冷蔵庫の氷は?」
「何?」
「クリスの、冷蔵庫」
彼を見ながら、重なった容器を思い出した。透明な壁に白い霜がついていて、ひとつ抜くと、後ろからまたひとつ現れた。あのとき台所の入口に立ち、あそこには尽きない冷たさが隠れていると思った。
「あんなにたくさん。本当に、お店を始めるんだと思ったよ」
「始めないよ」
「知ってる。自分では食べないくせに」
彼は、つないだ手を見下ろした。
「君が来たら、少しはあったほうがいいと思って」
「それにしても、多すぎるよ」
彼は言い返さなかった。
しばらく笑っていたら、不意に目が潤んだ。
「知ってたら、もう一杯食べたのに」
彼が顔を上げた。
「どうしてミントが好きだって知ってるの、って聞いたよね」
「うん」
「いつか、わかるよって」
その言葉が、ゆっくり口元に戻ってきた。
あのときは氷を含み、歯が少し痛くて、また教えてくれないと思いながら、それ以上は聞かなかった。次のひと匙もあったし、冷蔵庫にはまだ氷がたくさんあった。質問がひとつ途中で終わっても、何とも思わなかった。
今になって考えると、聞き終えていないことが、ずいぶんたくさんあった。
彼を見て、もうひと言言おうとした。でも、まぶたが少しずつ重くなった。
彼は首元へ落ちた髪を払ってくれた。
「少し、休もう」
「行かないでね」
「ここにいるよ」
それで、目を閉じた。
……
次に目を覚ますと、部屋の灯りはもう暗くしてあった。
どれだけ眠ったのか、わからなかった。
彼はまだ、手を握っていた。ベッドの縁に置いていた腕は少し位置が変わり、袖口に深いしわが何本もついていた。指を動かすと、すぐ顔を上げ、かがんで覗き込んでくれた。
「起きた?」
少しうなずいた。
本当は、それほどはっきり目が覚めていなかった。夢の何かが、まだ残っていた。取り払われた物干し綱に掛かっていた服だけが、頭の中でそっと揺れ続けているみたいだった。
よく見ようとすると、もう少し散った。
彼がコップを取り、水を飲むかと聞いた。
首を振った。
「じゃあ、話をしようか」
「うん」
思っていたより、小さな声だった。
彼が、もう少し近づいた。
「上海の映画、覚えてる?」
彼を見て、ゆっくり口元を緩めた。
「帽子」
「そう」
彼が笑った。
「あとで聞いたよね。フィルムは本当に絡んでいたのかって」
「本当に?」
「本当。でも、一人でも直せた」
彼に、軽く触れたかった。
指を動かすと、その手をもう少し深く包んでくれた。
「それなのに、呼んだの」
「来てほしかったから」
言ってから、彼はしばらく黙った。
見ていると、心に古くてかすかな嬉しさが戻った。あの晩、椅子に座って振り返ると、まだ彼がいた。そのときと同じだった。
こんなに経っても、あの嬉しさは残っていた。
「何度も振り向いてたね。三度目にうなずいたら、やっと前を向いてくれた」
覚えてる、と言いたかった。
唇は動いたけれど、ごく小さな声しか出なかった。
彼はそれでも、聞こえたように僕を見ていた。
「あとで自転車に乗って朝ご飯に行ったら、店を通るたび止まりたがってた。さっきの店もって聞いたら、うんって」
笑った。
たぶん、声は出ていなかった。それでも彼も笑ってくれた。
「靴を履きかけたまま、階段を駆け下りたこともあったね。途中の女の人が長く話して、どうしてあんなに長いのかって聞いた」
親指が、僕の指の脇を撫でた。
「あの続きはね、ちゃんと靴を履いてから走りなさい、階段が狭いんだから、転んだらどうするのって」
そうだったんだ。
あのとき、残りは聞かないと決めたのを思い出し、何だか少し損をした気がした。こんなに経ってから、ようやく続きを教えてくれるなんて。
文句を言いたかった。
でも、頭の中ではもう言い終わっているのに、口が追いつかなかった。言葉はそこで、足りるだけの息を待ち、舌と唇がゆっくり元の場所を見つけるのを待っていた。
彼は少し待って、それからまた話し始めた。
昔は、僕のほうがよくしゃべった。
話しているうちに遠くへ行ってしまっても、彼は聞いてくれた。やっと初めに何を話そうとしたのか思い出して、戻ってくるまで。言葉を奪うことはめったになかったし、次の言葉で間を埋めようと急ぐこともなかった。
でも、今夜は違った。
話をひとつ終えて僕を見つめ、しばらくすると、また何かを思い出して続けた。ところどころで自分でも少し笑い、うつむいて掛け布団を直し、それから目を上げ、続きを話した。
僕は、聞いていた。
声が少し遠くなると、彼はかがんだ。僕の目がほかへ動くと、同じところを見て、コップや枕や、ベッドの脇の灯りを少し動かしてくれた。
時計は、まだ動いていた。
彼の話す場所が、ひとつずつ、この暗くなった部屋を通った。水の音がするところも、まだ陽の照るところもあった。もう戻れない通りに、彼の声の中で、また少しだけ歩ける道ができた。
もう、そこへ行かなくてもよかった。
聞いていれば、それでよかった。
……
やがて、彼は話を止めた。
目を開けると、僕の手のひらを見下ろしていた。
あの傷跡は、もう見つけにくくなっていた。肌には深さの違う線がいくつもあり、その間に混ざった古い傷は、かえってありふれて見えた。彼の指の腹が、そのひと筋の上で止まっていた。長いこと、止まっていた。
「あの子……」
彼が言った。
顔を見た。
「石の家で、君が世話をしていた子」
「ナツ」
この言葉は、まだ覚えていた。
口にしても、舌はもつれなかった。
彼はうなずき、僕の手を握ったまま、喉を小さく動かした。
「ずっと、話していなかったことがある」
手を上げようとした。
また髪に触れたいと思ったらしく、彼はすぐに少し持ち上げてくれた。僕はただ指を動かし、その手のひらを軽く押した。
「ちょっと、待って」
彼が止まった。
顔を見つめ、ずいぶん経ってから、ようやく続きを見つけた。
「最後に、もう一度、家に帰りたいな」
窓の外は、もう暗かった。
ガラスには枕元のわずかな光が映っていた。木も、外の道も見えない。なのに頭の中には、急にはっきりと、扉がひとつ浮かんだ。
少し緩んだドアの取っ手。下へ押すと、初めに少し空回りする。
玄関の靴は、いつも揃っていない。
台所では水が出ているかもしれない。お母さんが扉に背を向け、帰ってきた音を聞くと、まず、ご飯は食べたのと聞く。お父さんは奥に座り、こちらを見てから、テレビの音を少し下げる。
あの扉は、確かめなくてもわかる。
手を置けば、どう押せばいいのか、あの少しの遊びをどうやり過ごし、押し開ければいいのか、ちゃんと知っている。
長く考えすぎて、彼がいつ身を寄せてくれたのかも、気づかなかった。
両手で、僕の手が包まれるまで。
「うん」
彼が言った。
「家へ、連れて帰るよ」
目を見た。
青い目。
まだ、わかる。
「一緒に?」
「一緒に」
うなずいた。
彼は枕を低くして、いつでも触れられるところに手を残してくれた。もう握る力はあまりなかった。指を少しだけ曲げ、彼の指にかけた。
頬にシーツが触れ、洗いたての淡い匂いがした。
子供の頃、遠足の帰りにバスで眠ったことを思い出した。目が覚めても、まだ家ではなくて、大人が言った。もう少し寝てていいよ、着いたら起こすから。
だから、目を開けて道を確かめなくてよかった。
どの角を曲がったか覚えなくていい。眠さをこらえ、何度も窓の外を見なくていい。
手を預け、ゆっくり目を閉じた。
……
枕元の目覚ましが、十二時に鳴った。
彼が手を伸ばして止めると、部屋はすぐに静かになった。
カレンダーの数字は、まだ三十一だった。
「十二時だよ」
身をかがめ、ごく小さく言った。
手の中の手は、動かなかった。
しばらく待ってから、彼女の首元にかかった白い髪をひと筋払い、そっと肩を揺すった。
「家に帰ろう」
返事は、なかった。
……
最初は、それが跳躍だとは知らなかった。
覚えているのは、家へ帰る途中だったということだけだ。前に木陰があった。そこを抜け、もうひとつ角を曲がれば、見慣れた通りに出るはずだった。
ところが次の一歩で、靴底が砂利に沈んだ。
足元を見て、顔を上げた。
木は、まだあった。
道は、なくなっていた。
白っぽい墓石がいくつも並び、石と石の間に細い道を残していた。供えられた花には、日差しに萎れたものもあった。花びらは花立ての口に垂れ、水に浸かった茎だけが緑を保っている。夏はここでも、花をそっとしておく気にはなれないらしかった。
葉の奥から、蝉の声が降っていた。
しばらく立って、半歩だけ下がった。
砂利が、もう一度鳴った。
「……道、間違えた?」
口にしてから、自分でも変だと思った。
道を間違えるにしたって、間違えられる道くらい、なければ困る。
入口を探して振り向くと、先に、一人の男の人へ目が止まった。
金色の髪。
墓石の前に座り、深く身をかがめて、片手で目を覆っていた。もう片方は膝につき、ズボンの布を握り締めている。長いこと、ほどけなかった。
初めは、汗を拭いているのだと思った。
肩が、一度震えるまでは。
顔をもっと伏せた。込み上げる息を飲み込もうとしたようだった。でも、もう一度吸い込むと、喉から途切れた声が少し漏れた。指の隙間を伝った涙が手の甲を流れ、手首に落ちた。
立ち止まった。
道を尋ねようとしていた言葉も、口元で止まった。
こういうときは、邪魔しないほうがいいのかもしれない。
でも、あんまり悲しそうに泣いていた。
少し落ち着くまで待とうと、しばらくそこにいた。彼はずっと顔を上げなかった。ときどき呼吸が少し整っても、手を下ろし、目の前を見ると、また目を覆ってしまう。
ようやく整いかけた息が、すぐに崩れた。
辺りを見た。
ほかに、誰もいなかった。
結局、近づいた。
靴底で砂利を踏む音は、できるだけ小さくした。それでも彼には聞こえないようだった。手を伸ばし、一度ためらってから、そっと肩に触れた。
「Hello……」
彼の体が、ぴたりと止まった。
慌てて手を引っ込めた。
しまった。
このあと、何て言うんだっけ。
泣かないで?お悔やみ申し上げます?どっちも英語で何て言うの?
男の人が、ゆっくり顔を上げた。
青い目だった。
目の周りは赤く、まつげも濡れていた。僕を見て、少し唇を開いた。さっきまで整わなかった息を、この先どう続ければいいのか、急に忘れてしまったみたいだった。
つい、自分の顔に触れた。
何か、ついてる?
彼の片手が動いた。少し上がり、結局、膝で止まった。
ずいぶん経ってから、ようやく一度まばたきをした。
目元が先に、少し笑った。
でも口元では、その笑みがうまく続かなかった。うつむき、ハンカチで目を押さえ、またこちらを見た。
「こんにちは」
日本語だった。
「日本語、話せるんだ!」
急に声が大きくなった。慌てて周りを見て、少し声を落とし、続けて尋ねた。
「ここ、日本?」
彼がうなずいた。
ほっとした。
少なくとも、わけもわからず外国まで歩いてきたわけではない。
わけもわからず墓地に入ったのも、大してましではないけれど。
彼は、まだ僕を見ていた。
何だか恥ずかしくなり、後ろを指して、また手を下ろした。
「さっき、道を間違えたみたいで。ここにいるのが見えたから、その……」
続きを言いにくかった。
道を聞こうとしたら、すごく泣いていたので、とは言えない。
彼はうつむき、ズボンを握っていた手をゆっくりほどいた。そこだけ布がすっかりしわになっていた。ひと撫でして、直らなかったので、そのまま止めた。
「ありがとう」
「お礼なんて、僕、何もしてないよ」
慌てて手を振った。
言い終わると、また二人とも黙ってしまった。
木漏れ日が、ちょうど首の後ろに当たっていた。避けようと少し横へ動いたけれど、こめかみの汗はもう頬へ流れていて、手の甲でこするしかなかった。
彼はその仕草を見て、また口元を少し動かした。
僕も、つられて笑った。
本当に、何を言えばいいかわからなかった。
「今年の夏、ほんとに暑いね」
彼はしばらく僕を見た。
「そうだね」
まだ、少しかすれた声だった。
襟をつまみ、二度ほど扇いだ。風が肌をなで、ほんの一瞬だけ涼しかった。手を止めると、暑さはすぐ戻った。襟がまた首の後ろにつき、さっき浮かせたところも、すぐに濡れた。
彼はハンカチを畳み、ゆっくり立ち上がった。
途中で、脚がしびれていたのか、少し体が揺れた。慌てて手を伸ばすと、彼は脇の石の縁につかまり、少し待ってから立ち直った。
「大丈夫」
手を戻した。
彼は僕より少し背が高かった。立つと、顔の涙の跡がよく見えた。目尻から顎まで続く一本はまだ乾かず、光を受けてかすかに輝いていた。
さっき天気の話をしたのも、よくなかった気がしてきた。
「あの、もう少しここにいたいなら、僕、一人で――」
「かき氷、食べる?」
顔を上げた。
彼はこちらを見て、少し間を置き、付け足した。
「ミント味」
「どうして、僕がミントのかき氷好きだって知ってるの!」
今度こそ、声を抑えられなかった。
彼が笑った。
少しずつ、笑みが広がった。目にはまだ涙があったけれど、今度はさっきほど苦しそうではなかった。
見ていると、僕も笑いたくなった。でも、こんなにすぐ嬉しそうにするのもよくない気がして、口元をどうすればいいのかわからなかった。
「ごめん、そういう意味じゃ……」
「いいんだよ」
彼が言った。
自分の指を、少し握った。
何がいいのかも、わからなかった。
でも彼はもうハンカチをポケットにしまい、肩の力もさっきほど入っていなかった。こっそり確かめてから、結局、出かけた言葉を最後まで言った。
「ミントが、いちばん好きなんだ」
「うん」
小さな返事だった。
大事に覚えてくれるみたいに。
もっと先に聞くべきことを、ふと思い出した。
「そうだ、名前は?」
「トーマス」
「名字は?」
彼は少し笑ったまま、僕を見た。
「教えない」
「けち!」
口に出した途端、少し後悔した。
さっきまで、泣いていた人なのに。
もう、けちだなんて言ってしまった。
でもトーマスは怒らなかった。うつむいて一度笑い、そばの小さな手帳を取った。反った表紙を閉じ、墓石の前に置く。
古い手帳だった。
紙の端は毛羽立ち、表紙も少し曲がっていた。指の腹でそっと押さえて伸ばし、まっすぐに置き直す。手はしばらくそこに留まってから、ゆっくり離れた。
隣で待っていた。
葉の間から風が抜け、こめかみの汗がようやく少し冷えた。
彼が、またこちらへ向いた。
「行こう」
「お店、遠い?」
「遠くない」
小道へ二歩ほど出て、また止まり、僕を待った。
慌てて足元の石の縁をまたいだ。
トーマス。
心の中で、もう一度言ってみた。
覚えやすい名前だ。
木陰を出るとき、もう一度顔を見た。目はまだ赤かったけれど、呼吸は落ち着いていた。少し考えてから、やっぱり小さく聞いた。
「少し、よくなった?」
彼が振り向いた。
それから、うなずいた。
「ずっとよくなった」
「よかった」
僕も、ほっとした。
もう墓地の門が見えていた。外を自転車が一台通った。前籠には薄い色の布がかかり、風に隅が持ち上がって、すぐ戻った。
二歩ほど急いで、隣へ並んだ。
「かき氷、もう売り切れてないよね?」
「大丈夫」
「どうして、わかるの?」
彼がこちらを見た。
「あるよ」
確かな声だったので、ひとまず信じることにした。
二人で、墓地を出た。
……
足音が、少しずつ遠ざかっていった。
石の道を風が抜け、墓前の黄ばんだ手帳を揺らした。
反った表紙が持ち上がり、その内側の、色あせた文字が見えた。
ナツ。
紙がかすかに震え、少しめくれて、また戻った。
陽が梢を越え、まっすぐ墓石に当たった。
夏目遥。
その三文字が、きらきらと光っていた。
墓石の表面は、終わらない夏のように、焼けるほど熱かった。




