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「あなたの人生をください」

作者: のほほん
掲載日:2026/05/26

第一章 運命の出会い


 春の風が桜の花びらを舞い散らせる四月。中学校の入学式の朝、高瀬涼介は校門の前で足を止めた。

 理由はひとつ。


 桜の木の下に、ひとりの少女が立っていたからだ。


 彼女は人混みから少し離れた場所で、ただ静かに空を見上げていた。白いブラウスの胸元に赤いリボンをつけて、風に髪をなびかせながら。その横顔には、同い年の子どもたちには似つかわしくない、どこか諦めたような翳りがあった。


 きれいだ。


 涼介はそれだけを思った。いや、きれいという言葉では足りない気がした。何か言葉にならないものが、胸の奥を強く締めつけた。


「おい涼介、早く行くぞ」


 幼馴染みの克也に腕を引かれても、涼介の目はその少女から離れなかった。


「あの子、誰だ」


「知らねえよ。新入生だろ」


「そうじゃなくて」


 涼介は言葉を探した。


「あの子、何か……違う」


 克也は呆れたように鼻を鳴らした。


「一目惚れかよ。入学式の初日から」


 涼介は否定しなかった。


 少女の名前は、白河結衣といった。


 同じクラスになったことを知ったとき、涼介は本気で神様に感謝した。


 しかし結衣は、クラスの輪になかなか溶け込もうとしなかった。昼休みも教室の隅で本を読み、放課後はすぐに帰る。誰かが話しかけても、笑顔は見せるのに、どこか壁を感じさせた。


 涼介は臆せず話しかけた。


「白河さん、好きな食べ物は何?」


「……なぜそれを聞くんですか」


「好きな人のことを知りたいから」


 結衣はぴたりと動きを止め、それから静かに本に視線を戻した。


「やめてください。私に構わないほうがいいです」


「なんで」


「……それが、あなたのためだから」


 その言葉の意味を、涼介はまだ知らなかった。


 結衣が心臓病を患っていることを知ったのは、入学から三週間が経った頃だった。


 体育の授業を、結衣はいつも見学していた。克也から「あの子、心臓が悪いらしい」と聞かされたとき、涼介の胸に鋭い痛みが走った。


 放課後、涼介は結衣を追いかけた。


「白河さん」


「……また高瀬くん」


 いつの間にか名前で呼ぶようになっていた涼介に、結衣はため息をついた。


「聞いた。心臓が悪いって」


 結衣の表情が、すっと閉じた。


「だったら、わかるでしょう。私に近づいても意味がないって。私はいつか、ドナーを待ちながら……」


「意味がないって、誰が決めた」


 涼介はまっすぐに結衣を見た。


「俺は白河さんのことが好きだ。心臓が悪くても、ドナーを待ってても、そんなの関係ない」


「関係ある」結衣の声は静かだったが、揺るがなかった。


「あなたが私を好きになればなるほど、辛くなるのは……あなたなんです」


 彼女は踵を返した。涼介はその背中を見送りながら、胸の中で静かに誓った。


 それでも、俺は諦めない。




第二章 遠くて近い距離


 中学の三年間、涼介は諦めなかった。


 毎朝「おはよう」と声をかけ、授業でわからないところがあれば隣に座ってノートを見せ、体育の見学をしている結衣のそばに理由をつけては座った。文化祭の準備では無理のない仕事を一緒にこなし、冬には温かい缶コーヒーをさりげなく渡した。


 結衣はいつもどこか困ったような顔をしたが、受け取らなかったことは一度もなかった。


「なんで、そんなに……」


 あるとき結衣がぽつりと言った。


「しつこいとは思わないんですか」


「思わない」


「諦める気は、ないんですか」


「ない!」


 涼介は笑った。自分でも驚くくらい、迷いのない言葉が出てきた。


「白河さんが俺に『好きだ』と言ってくれる日まで、諦める理由がない」


 結衣は何も言わなかった。ただ、缶コーヒーを両手で包んで、窓の外を見た。その横顔に浮かんだ表情を、涼介はうまく読めなかった。


 でも、悪い顔じゃなかった。


 高校は、奇跡のように同じ学校になった。


 結衣が入学式の後で涼介の姿を見つけたとき、あからさまに顔をしかめたのがおかしくて、涼介は思わず笑ってしまった。


「また同じ学校です」


「うん」


「……狙いましたね」


「受験勉強、頑張った甲斐があった」


 結衣は額に手を当てて、深いため息をついた。でもその口元が、ほんの少しだけ緩んでいるのを、涼介は見逃さなかった。


 高校に入ると、ふたりの距離は少しずつ変わり始めた。


 中学の頃より、結衣が涼介の話を聞くようになった。時々だが、自分のことも話すようになった。好きな本のこと。子どもの頃の記憶。心臓病がわかったのが小学三年生のときだったこと。


「最初は、何もわからなかった」と結衣は言った。


「ただ苦しいだけで。でも段々、自分がどういう状況にあるかわかってくる。そうすると……怖いより、申し訳なくなるんです」


「誰に?」


「親に、友達に……好きになってくれる人に」


 涼介は黙って聞いた。


「だから私は、あまり深く関わらないようにしていた。傷つけたくないから」 


「それは」涼介はゆっくりと言った。


「白河さんが決めることじゃない」


 結衣が目を上げた。


「傷つくかどうかは、俺が決める。それでも一緒にいたいと思うかどうかも、俺が決める。白河さんは、自分の気持ちだけ考えればいい」


 しばらく沈黙が続いた。


「……高瀬くんって」結衣がようやく口を開いた。


「ずるいです」


「どこが?」


「そんなことを言われたら、壁を作り続けるのが……難しくなるじゃないですか」


 それは、中学から数えて初めて、結衣が涼介に見せた降参の言葉だった。


 高校二年生の秋、ふたりは付き合い始めた。


 告白は涼介がした。いつものように、いつもと同じ真剣な顔で。


「白河結衣さん、俺と付き合ってください」


 結衣は少し考えてから、静かに言った。


「……後悔しても、知りませんよ」


「しない」


「私は、心臓が——」


「知ってる。それでも好きだ」


 また間があった。木枯らしが落ち葉を転がす音が聞こえた。


「……はい」


 小さな、でも確かな声だった。


 涼介は思い切り笑って、結衣の手を握った。結衣は少し赤くなって、でも振り払わなかった。


 これで良かった、と思っています、と後になって結衣は日記に書いた。ずっと遠ざけようとしていたのに。でも、もう疲れました。彼のそばにいることを、諦めるのが。



第三章 プロポーズ


 大学も、ふたりは同じだった。


 今度は結衣も「また同じ大学ですね」と言って笑った。中学の入学式の頃には想像もできなかった、本当に嬉しそうな笑顔で。


 付き合って四年が経った大学四年の春、涼介はある場所に結衣を連れていった。


 ふたりが出会った中学校の近く。あの桜の木が、今年も白とピンクの花を咲かせていた。


「ここに来たかったんですか?」


「うん」涼介は桜を見上げた。


「最初に白河さんを見たのが、桜の木の下だったから」


「……覚えているんですか、そんなこと」


「俺の人生で一番大事な日だからな」


 結衣は何か言おうとして、止まった。


 涼介がゆっくりと振り返り、結衣の目を見た。そしてポケットから小さな箱を取り出した。


「結衣」


 呼び捨てにしたのは、付き合い始めてから何度もあったが、今日の声は違った。


「あなたの人生を、俺にください」


 桜の花びらが、ふわりと舞った。


「俺の人生を、あなたに捧げます。全部。どこへでも一緒に行く。何があっても隣にいる。あなたが笑う日も、苦しい日も、怖い日も——全部、一緒にいさせてほしい」


 結衣の目に、みるみる光が集まった。


「……ずるいです」


「またそれか」


「だって……そんなふうに言われたら」


 涼介は箱を開けた。シンプルな、細いリングが入っていた。


「返事を聞かせてくれ」


 結衣は唇を震わせた。首を横に振った。


「……できません」


 涼介は黙って待った。


「私と結婚しても、涼介くんが幸せになれるかどうか……わからない。私はいつ何があるかわからない身体で。子どもだって産めるかどうかわからなく


て。それなのに、涼介くんの人生を縛るのは——」


「結衣」


 涼介の声は、穏やかだった。でも、揺るがなかった。


「俺は縛られたいんだ。あなたに」


「涼介く——」


「俺の幸せは、あなたと一緒にいることだ。それ以上でも以下でもない。だから、あなたが俺と一緒に生きてくれることが、俺の幸せになる」


 涼介は一歩近づいた。


「もう一度聞く。あなたの人生を、俺にください」


 長い沈黙があった。


 桜が散った。


 結衣の涙が、一粒だけ頬を伝った。


「……はい」


 声は小さかった。でも、今度は迷いがなかった。


 涼介は指輪を結衣の薬指にそっとはめながら、いつか中学生の自分に教えてやりたいと思った。


 あの桜の木の下で待っていた少女が、俺の妻になるよ、と。



第四章 命をかけた願い


 結婚式は小さなものだった。


 両家の親族と、ごく親しい友人だけが集まったその日、結衣は涙をこらえながら誓いの言葉を言った。涼介は泣かないと決めていたのに、結衣の顔を見た瞬間に決壊した。克也に後で散々からかわれた。


 新婚生活は、穏やかだった。


 結衣は定期的に病院へ通い、体調の良い日と悪い日があった。ドナーを待ちながら、それでも毎日を丁寧に生きていた。涼介は仕事から帰るといつも結衣の顔を見て、それだけで一日の疲れが消えた。


 幸せだった。ふたりとも、それを知っていた。


 だからこそ、結衣がある夜、ダイニングテーブルで静かに言ったとき、涼介は一瞬、言葉を失った。


「子どもが欲しい」


 テレビの音だけが部屋に流れた。


「……結衣」


「ちゃんと考えた末の話です」


「体に何があるかわからないのに」


「わかってます」


「お医者さんも——」


「相談します。でもその前に、涼介くんに言いたかった」


 結衣はまっすぐに涼介を見た。


「涼介くんの子どもが欲しい。それだけです」


 涼介の胸が、痛いほど締めつけられた。


「……俺は、お前を失いたくない」


「知ってます」


「子どもよりも、お前の命のほうが——」


「涼介くん」


 結衣の声は静かだったが、芯があった。


「私は、涼介くんと生きていく証が欲しいんです。私がいなくなっても、私たちが確かにここにいたという証が。……わがままだってわかってます。でも、これだけは、諦められない」


 涼介は長い間、黙っていた。


 テーブルに置かれた結衣の手に、自分の手を重ねた。 


「……主治医の先生に話してみよう」


 主治医の反応は予想通りだった。


 難色どころか、険しい顔で言葉を選びながら、それでもはっきりと告げた。「お勧めできません」と。


 妊娠中は心臓への負担が著しく増す。服用している薬の中には、胎児への影響が懸念されるものもある。最悪の場合、母体の命に関わる。


「でも、不可能ではないんですか」


 結衣が静かに聞いた。


 主治医は少し間を置いた。  


「不可能、とは言えません。ただ——」


「リスクを教えてください。全部」


 主治医は結衣の目を見た。何かを見定めるような目で。


 そして、説明が始まった。服薬管理のこと。妊娠中の心臓の状態の監視のこと。出産は必ず帝王切開になること。心臓が耐えられるかどうか、最後まで保証はできないこと。


 結衣はメモを取りながら、すべてを聞いた。


「……わかりました」


「結論を急がなくていいです。よく考えてください」


「もう考えてきました」


 主治医は涼介を見た。涼介は膝の上で手を組んだまま、うつむいていた。


「高瀬さん、あなたはどうお考えですか」


 涼介は顔を上げた。


「……妻の気持ちを、尊重したいと思っています」


 それ以上は言えなかった。言葉にすると、怖くなりそうだった。


 主治医はまた結衣を見た。


「白河さん——いや、高瀬さん。あなたの意思は固いですか」


「はい」


 迷いのない声だった。


 主治医は深く息をついた。それから、静かにうなずいた。


「……わかりました。最善を尽くしましょう」


 両家の親への報告は、覚悟していたよりも辛かった。


 涼介の母は泣いた。結衣の母は顔色をなくした。どちらの父親も、押し黙った。


「どうして」と結衣の母が言った。「何もそんな無理をしなくても」


「無理じゃないです、お母さん」


「でも先生が難色を——」


「先生は同意してくださいました」


「それは……あなたが強引に」


「お母さん」


 結衣の声は穏やかだったが、揺らがなかった。


「私は涼介くんの子どもが欲しい。それが私の望みです。この体で生きてきて、ずっと何かを諦めてきた。でも、これだけは諦めたくない」


 誰も口を開かなかった。


「怖いです」と結衣は続けた。「正直に言うと、怖い。でも後悔するほうが怖い。涼介くんの隣で、あの子がいてくれたら、と思いながら生きるほうが……怖い」


 涼介は結衣の手を握った。


 長い沈黙の末、涼介の父が口を開いた。


「……俺たちに、何かできることはあるか」


 それが、最初の同意だった。


 ひと月後、両家が改めて集まった席で、全員が同意した。結衣の母は最後まで泣いていたが、結衣の手を両手で包んで言った。


「元気な赤ちゃんを産んでね」



第五章 小さな奇跡


 妊娠がわかったのは、桜が咲く頃だった。


 検査薬の陽性反応を見た結衣は、しばらく動けなかった。涼介が後ろから肩を抱いた。ふたりとも、しばらく何も言わなかった。


 ただ、涼介の目に涙が光っていた。


「……怖い?」と涼介が聞いた。


「怖いです」と結衣が答えた。


「うん」


「でも」


 結衣は検査薬を両手で包んだ。


「嬉しい」


 妊娠中の結衣の体調は、山と谷を繰り返した。


 胎児への影響を最小限にするため、薬の量を慎重に調整した。その分、心臓への負担は増した。息切れがひどくなる日があった。動悸に夜中に目が覚める日もあった。


 それでも結衣は、毎日を丁寧に生きた。


 お腹に手を当てて、小さな命に話しかけた。涼介が録音してきた子守唄を流した。名前をふたりで考えた。男の子なら「蒼」、女の子なら「澄」と決めた。どちらも空の色をイメージした名前だった。


「空みたいに、どこまでも広がっていってほしいから」と結衣は言った。


 涼介は毎日、仕事から帰るなり結衣のそばに座った。夕食を作り、洗い物をして、お腹に「おやすみ」と言ってから眠った。


「過保護です」と結衣はよく言った。


「当たり前だ」と涼介は毎回答えた。


 妊娠七ヶ月になった頃、主治医が告げた。「来月、帝王切開で出産しましょう。これ以上引き延ばすと、心臓への負担がさらに増します」と。


 最低限の条件は満たしていた。でも、心臓の状態は予断を許さなかった。


「わかりました」と結衣は言った。


 その夜、涼介は結衣の隣で眠れなかった。


 天井を見つめながら、この手の中にあるものの重さを思った。妻の命。子どもの命。自分には何もできないという無力感。そして、それでもここにいることしかできないという、静かな覚悟。


 そっと結衣の手を握った。


「涼介くん、眠れないんですか」


「……起こしたか」


「最初から眠れていませんでした」


 涼介は苦笑した。


「怖いな」


「はい」 


「でも」


「はい」


 ふたりで暗い天井を見上げた。


「一緒に、乗り越えよう」と涼介は言った。


「はい」と結衣は言った。


 握った手を、互いに、少しだけ強くした。



終章 あなたの人生をください


 出産の日は、秋晴れだった。


 涼介は朝から病院にいるつもりだったが、前日から準備が必要な帝王切開は、夕方に予定されていた。午後に一度だけ会社に顔を出し、必要な書類だけ片付けて戻ることにした。


 病院を出る前に、結衣の病室に寄った。


 結衣はベッドの上で静かに目を閉じていた。涼介が入ってくる気配を感じたのか、薄く目を開けた。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 涼介は結衣の額に、そっと口づけた。


「すぐ戻る。子どもが生まれる前に絶対戻る」


「わかってます」


「……愛してる」


 結衣は小さく笑った。


「知ってます」


 会社での用事は思ったより早く終わった。


 涼介はタクシーを拾い、病院の名前を告げた。窓の外に秋の街が流れていく。ケヤキの並木が色づいている。


 涼介はスーツの胸ポケットに手を触れた。


 そこには、折り畳んだ一枚の紙が入っていた。


 ドナー登録を申請したのは、一年前のことだった。結衣が妊娠を望むと言い出したとき、涼介はひとつの決意をした。誰にも言わなかった。結衣にも言わなかった。


 移植適合の検査は済んでいた。


 俺の心臓は、結衣に渡せる。


 それは最後の保険のつもりだった。使わなければいいだけの話だと、自分に言い聞かせていた。でも、胸に入れていれば、俺に何かあっても間に合うかもしれない。


 ただそれだけの理由で、毎日持ち歩いていた。


 タクシーが交差点を抜けた、その瞬間だった。


 横から来たトラックのブレーキ音が、世界を引き裂いた。


 病院の廊下に駆け込んできた警察官と救急隊員の話を聞いたとき、結衣の主治医は一瞬、言葉を失った。


 事故の現場で救助された被害者の男性が、意識を失う前に救急隊員に渡したものがある、と。


「これを……病院に届けてくれ、と」


 差し出されたのは、血で汚れた、折り畳まれた紙だった。


 ドナー登録証。


 記載された名前は、高瀬涼介。


 そして、備考欄に本人の手書きで一文が添えられていた。


 妻、白河結衣への優先提供を希望します。移植適合検査済み。


 手術室では、帝王切開が始まっていた。


 結衣の心臓は、極限まで疲弊していた。医師たちは冷静に、しかし全力で動いた。


 赤ちゃんの泣き声が手術室に響いたのは、夕方の六時を過ぎた頃だった。


 女の子だった。


 小さくて、赤くて、力強く泣いていた。


 結衣はその声を、遠くに聞いた。意識が薄れていく中で、確かに聞いた。


 泣いている。生きている。


 医師の声が、どこか遠くから聞こえた。「心臓が——」


 その後のことを、結衣は長い間、断片的にしか覚えていなかった。


 夢の中で、涼介の声を聞いた気がした。「大丈夫だ、俺がついてる」という声を。


 目が覚めたとき、集中治療室の白い天井が見えた。


 体が重かった。胸のあたりに、鈍い痛みがあった。


 看護師が何かを言っていた。主治医の声も聞こえた。 


 そして、結衣は知った。


 涼介のことを。


 事故のことを。


 脈打つ心臓のことを。


 退院したのは、三ヶ月後だった。


 澄は、涼介に似て少し丸い目をしていた。


 結衣は初めて娘を抱いた日、長い時間そのまま動けなかった。


 この温かさを、あなたは知らないまま逝った。


 でも、この心臓は知っている。


 あなたが愛したこの子を、ちゃんと感じている。

 春になった。


 結衣は澄を抱いて、桜の木の下に立った。あの、中学校の近くの木。ふたりが出会った場所。プロポーズをされた場所。


 花びらが舞い散った。


 結衣は胸に手を当てた。


 トクン、トクン、確かな鼓動がそこにあった。


「澄」


 結衣は、娘に話しかけた。


「お父さんはね、ずるい人なんです」


 風が吹き桜が揺れた。


「あなたの人生をくださいって言って、自分の人生を全部置いていったんです」


 涙が、頬を伝った。


「でもね」


 結衣は微笑んだ。


「おかげで、私はまだここにいる。あなたと一緒に、ここにいられる」


 澄が、小さな手を伸ばした。結衣の頬に触れた。


「……ありがとう、涼介くん」


 声は風の中に消えた。


 でも、胸の中で、あなたの心臓が、答えるように一度だけ、強く、脈打った。

 

「あなたの人生をください」

 あなたが遺してくれた鼓動で、私は今日も生きています。



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