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九分咲き

春樹と出会って十日が経った。毎日が忙しく、それでいて楽しく過ぎていき、気が付けば桜の花びらも、ずいぶんと減ってしまった。

初めは自分を桜だと言い張るなんて、頭がおかしくなってしまったのかと思っていた。だが彼のおかげで仕事は進み、書いていた小説もついに完結を迎えることができた。誰かと話したり、時間を共にすることがこんなにも有意義であるなんて、しばらく忘れてしまっていた。


「さて、春樹が裏庭にいるのが見えたが、まだいるだろうか。」


仕事もひと段落したんだ、今日は一緒にゆっくりと過ごそう。たしか担当者からもらった美味しい紅茶が残っていたな。

カップを二つ出し、紅茶を準備する。この紅茶は味も香りもいい。彼も気に入ってくれるといいが…。

準備が出来た。紅茶とお茶菓子を持って彼の元へ向かう。今日はどんな話をしよう。彼はどんな反応を見せてくれるだろう。些細なことで構わない。彼と時間を共に出来さえすればそれでいい。話をして、話し疲れたら紅茶を飲み菓子を摘み、また話をする。

ただそれが出来ればいいのだ。


「春樹。よかった、まだここにいたんだな。僕のお気に入りの紅茶を淹れたんだ。君も気に入るといいんだ…が?」


そこにいたのは、いつものように無邪気な彼ではなく、今にも泣きだしそうなのを我慢している子供のような顔をした春樹だった。初めて見たその表情に思わず言葉を失ってしまった。


「近衛…ごめんな。俺もう、行かなくちゃ…。」


何でだ?何で春樹は謝って…。それにその言葉はあの夢と同じじゃないか。行かなくちゃってどこへ?何故?なんで夢と同じことを言うんだ?ダメだ、頭が追い付かない。やめてくれ、そんなことを言うのは。


「俺がこの桜だって話を会った時にしただろ?そして桜の花はどんどん散っていってる。そうすると俺がここにいられる時間も終わってしまう。」


桜が散るとここにいられなくなる?何をバカなことを言っているんだ。そんな話…信じられるわけないじゃないか。

そう思っているのに言葉にできないまま顔を上げると、それこそ信じられない光景が目の前に広がっていた。

風に攫われて舞い散る桜の花びら。その中に佇む春樹の姿が少し透けているように感じた。

僕は夢でも見ているのだろうか。人の姿が見えるだなんて、そんなことあるはずないじゃないか。

だとしたらなんて悪質な夢だろう。見たくもない、起こってほしくないことを見せるだなんて。


「なぁ、春樹…これは夢なんだろう?君が消えてしまうだなんて、そんなこと…。」


「ごめんよ。夢だって言ってあげたいけど、違うんだ。」


聞いたことのない声で春樹は答えた。

あぁ、どうかそんな声で答えないでくれ。そんな悲しくて寂しくて泣くのをこらえた声で、謝らないでくれ。

これが夢だったらいいのに。夢なら覚めれば消えてくれる。鮮明なものなら記憶に残ってしまうが、それもあくまで『見た夢』としての記憶だ。しかし目の前の彼は、これは夢ではないとはっきり否定した。


「なら、初めて会った時に言っていたあの言葉も。」


あの『忘れちゃったのか』という言葉。あれも冗談ではなく、本当に僕は何かを忘れている?それが何なのか分からないが、春樹はそれを覚えている?もしも春樹が本当に桜の木なら僕が住み始めた後に出会っていることになる。いつだ?何故思い出せない?そこだけ記憶が抜け落ちてしまったように。


「近衛は思い出せないんだよね。代行部、近衛は悪くないよ。昔俺たちはこの家で出会った。でも俺は桜の木で、花が咲いているときにしかこの姿になれない。そしてそれがいつなのかもバラバラなんだ。」


春樹はゆっくりと話し始めた。僕はそれを黙って聞くことしかできなかった。


「それでね、人と精霊の交流って本来はあまりしちゃいけないらしいんだ。人と精霊は住む世界が違うから、干渉は最低限に。でも俺は人間が好きだから、この姿になって出てきちゃうんだ。」


本当はダメなのにね、と無邪気に笑って見せた。


「でも、だからなのか分からないけど、精霊との記憶って消えやすいんだって。原理とかよく分からないけど、自然とフィルターがかかったみたいに思い出せなくなるんだよ。俺が近衛と出会ったのも何年も前、近衛がここに住むようになってからすぐだったからね。忘れちゃっても仕方ないんだよ。」


春樹が言っていることは半分も理解できなかった。しかし嘘を言っているようには、僕には見えなかった。


「じゃあ、桜が散っていく今、春樹も…消えてしまうのか?」


「…うん、そういうことなんだ。」


なんで春樹は笑っていられるんだ。いや、無理に笑っている、それは顔を見れば分かる。

仕方のないことだとしても、あまりにも突然すぎるじゃないか。

まだ君に感謝の言葉も伝えられていない。せっかく淹れたお気に入りの紅茶も一緒に飲めていないし、君と過ごすはずだった時間だってこれからなのに!他愛もない話をして、ほかでもない君と、笑い合っていたいのに!


「どうしてこんなにも突然なんだ!その姿になれるタイミングがバラバラなら、次にいつ会えるか分からない。僕が生きている保証もない!せっかく君と、もっと一緒にいられると思ったのに…!」


いろんな感情が込み上げてきて涙が止まらない。こんなことなら、もっと早く君と過ごしていればよかった。


「…ねぇ、近衛。もう時間がないから、一つだけお願い聞いてもらえるかな?」


春樹の姿は今にも消えそうなくらい見えなくなっていた。

涙を拭き、春樹のほうを見つめ、答える。


「あぁ、なんだって聞こう。僕にできることがあるのなら。」


これが彼からの最後のお願いになるかもしれないなら、僕はその願いを聞く。

春樹は少し恥ずかしそうに、えへへと笑った。


「あのさ、俺とのことを小説にしてよ。もしも俺のことを忘れちゃっても、そうすれば近衛の作品として残ることができるからさ。」


「あぁ…あぁ!必ず書こう!僕の小説家としてのすべてを詰め込んだ、最高の作品を!」


春樹は嬉しそうに、約束だよと言った。その瞬間、桜の木に残っていた最後の花びらが風に舞い、僕の前に落ちてきた。

そして春樹は僕の前から、姿を消した。


「うっ…くぅ…!」


言葉にできない感情と声を押し殺し、僕はしばらく泣いていた。

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