16 離縁する二人
それからのアントンの変貌は凄まじいものだった。
発狂したかのように髪を掻き乱した挙句、夫はレミリアを睨み付けて、呪いのような罵詈雑言を浴びせ掛けた。「悪魔」「守銭奴」といった意味の分かるものから、もはやただの悪口でしかないものまで。
使用人たちは怯えた様子で壁際に寄り、睨み合う元夫婦たちをただ見守っていた。
「こんな……こんな紙切れに意味などあるものか!亡き父上と親子関係にない君が当主だと!?ふざけるな!!!ふざけるなよ……ッ!!」
「書類の有効性は弁護士の方にも確認済みですし、お義父様の定めたルールに則ると私は当主になることが出来ます。旦那様からいただいた土地と、」
「あれだけでは半分に満たない!君はイカサマをしているぞ……!それとも三年間ずっと家で過ごし続けて計算も出来なくなってしまったのか!?」
これだから家庭に籠る女は、と続けようとするものだから我慢ならなくなってレミリアは右手を振り上げた。思いっきり机に向かって振り下ろすとバンッという大きな音が鳴る。拳はジンジンと痛んだが、それよりも何よりも、滲み出る夫の本音を聞く方が耐え難かった。
「ヘイズに譲ってもらったのです」
「なに?」
「離縁の話をした際に、彼は私の今後を心配してくださったのでシンプソン公爵家の別荘が建つ北の土地を彼から譲り受けました」
「………このっ!他の男に色目を使いやがって!お前がそんな女狐だとは思わなかった!そうだと分かっていたら土地なんて分け与えずに屋敷から追い出してやったのに……!!」
拳を木製の机に押しつけたまま、レミリアは机の上でひっくり返った水の入ったグラスなどを眺める。もう何もかも元には戻らない。溢れた水が元の姿に戻らないように、すべては時間と共に進むしかない。
「なんとでも仰ってください。貴方が何を、どう喚こうが、役所が認めた当主は私です。封筒の中にはそれを証明する書類も入っています」
「クソッ!こんなことなら離縁は……!」
「離縁に関する承諾書はお互いの同意の元、二週間前に署名済みでしょう。私たちはもう夫婦ではありません。シンプソン姓を名乗ることはご自由ですが、今後この屋敷に足を踏み入れる際は事前に私に連絡をくださいね」
「なんでだよ!ここは僕の家だ、ここは僕が生まれ育った、」
「アントン、それは幻想だわ。貴方とヘイズが生まれ育ったのは南部の港町でしょう。亡くなったお義母様がお義父様と再婚した関係でこの家に転がり込んだだけ」
アントンは怒りに顔を真っ赤にしてレミリアを見た。大きく膨らんだ鼻の穴が彼の憤る気持ちを表している。
見つめ合っているうちに、三年間の思い出が少しずつホロホロと頭の中で崩れて行くような不思議な感覚があった。出会い、交際、結婚。幸せになると信じて疑わなかったあの若い日の自分に、今の光景を見せたらどんな反応を返すだろう。
チクッと心が痛んだ。
「………エロイーズ様の元へ行ってください。彼女に慰めてもらえば良いわ」
「言われなくたって行くさ!!君は悪魔だ。良いか、よく覚えておいた方が良い。連れ添った主人にこんな態度を取るようじゃ、君はきっと残りの人生上手くいかないだろううよ」
捨て台詞のような言葉を吐いて、アントンは席を立った。「本件は然るべき場所に相談する」という意思表明からして、まだ諦めてはいないのだろう。
真実の愛を与える相手である彼女は、無一文となった彼を受け入れてくれるのか。アントンは土地と当主権のことで頭がいっぱいで気が付かなかったようだが、シンプソン公爵家の資金面に関してもすでにレミリアが掌握したことになっている。あの様子だと、知った際には凄まじい剣幕で憤怒するはず。
「終わったわ、みんな………」
壁際に立つ使用人たちに語り掛ける。
まだショックを受けた顔の彼らは、どう言葉を返せば良いのか分からないようだった。レミリアは椅子から立って、厨房の方を振り返る。
「料理長、こっちに来て一杯やらない?さっきのチョコレートケーキと温かいホットワインなんかで」
返事の代わりに乾いた拍手の音が返ってきた。その音は徐々に大きくなって、やがて食堂を割れんばかりの喝采が包み込む。レミリアは下を向いて、頬を伝う涙を袖口で拭った。
明日から第二章です。
誤字の報告助かります、ありがとうございます。
しばらく見ぬ間に反応スタンプ?みたいなやつが増えたのですね。読んだ方の反応が分かって嬉しいです。
引き続き、真実の愛をお見届けください。