10 すれ違う二人
「はぁ、本当にどうしてベーコンを入れたキッシュってこうも美味しくなってしまうのかしらね。ほうれん草とコーンだけより見栄えも良いし、色も賑やかになるから大好きよ」
「…………レミリア」
部屋の主であるホークス・レコルテは、フォークを手にあんぐりと口を開けてそちらを向いたレミリアを見て溜め息を吐いた。
「ここはあんたの憩いの場じゃない」
「あら、気の置けない友人の事務所は十分憩いの場に値するでしょう?」
「あんたが居ると仕事が手に付かないんだよ」
「私のことはお構いなく。自分が持って来たキッシュを食べて紅茶を飲んだら帰るわ」
「そんなこと言って…… またどうせ何か相談しに来たんだろう」
ジトッと目を細めてレミリアを見るホークスに、にっこりと微笑む。鞄を開いて取りまとめた書類の束を手渡した。
「予定通り、揃ったわ。ギリギリだけど条件を満たしているはずよ」
「あんたが思うほど簡単にいくかねぇ。シンプソンの娘でもない人間が、権利書だけで当主になるだなんて。第一、親族が黙っちゃいないだろう」
そのごもっともな指摘に、レミリアは頷いて見せる。確かに嫁いで来た身のレミリアがシンプソン公爵家の当主になるなど、誰もが反対する事案。
「あの二人はともかく、どういうわけかお義父様は他の兄妹なんかと疎遠でいらっしゃったのよ。なんでも前妻の方と離縁する際に周囲と揉めたみたいで……」
「へぇ」
ホークスは興味がなさそうに短く返事をして再び煙草の煙を吐く。その目はすでに書面から離れて、窓の外を向いていた。レミリアは見慣れた横顔を見つめながら再び口を開く。
「自分で言うのもなんだけど、あの二人よりよっぽどお義父様と向き合っていたと思うわ。今の屋敷の管理だって、アントンはすべて私任せなのよ。彼が一人になって出来るとは思えない」
「そういえば、離縁の理由は何なんだ?個人的な見解だが、あんたの夫は気が弱そうで扱いやすそうだったじゃないか」
「真実の愛を見つけたそうよ」
それまで咥えタバコで気怠げに会話していたホークスは、ハッとしたような顔をこちらに向けた。月を彷彿とさせる黄色の目に驚きとわずかな同情が浮かんだのが見て取れて、レミリアは慌てて手を叩く。
「やめてよ、可哀想だなんて思わないでほしいの。むしろ隠れて不貞するわけでもなく、堂々と告白してくれたことに感謝しているわ。私は夫の恋を応援しているから」
「しかし、そんな不誠実な………」
「誠実な人だったのよ、少なくとも結婚して愛を誓った三年前まではね。彼の心を引き留められなかった自分にも責任があるのかもしれない」
「あるわけがないだろう」
珍しく鋭い声で否定されたから、レミリアは驚いて息を呑んだ。他人の相談事で声を荒げたりしない弁護士の彼がここまで不快の念を表すとは、何か逆鱗に触れる内容だったのだろうか。
にわかに緊張を覚えるレミリアの前でタバコを揉み消すと、ホークスは長い溜め息を吐いた。わざとではないとはいえ、味方でいてほしい弁護士の機嫌を損ねてしまったことは分かる。
「………ごめんなさい、今日は帰るわ」
「ああ。その方が良いだろうね」
執務机の後ろで顔を上げないままホークスは言う。
広げていた書類を回収して荷物をまとめた後、部屋の入り口で一度だけレミリアは振り返った。くしゃくしゃと乱れた髪に手を置いて、相変わらずホークスは下を向き続けている。
ギィッと扉を押し開いたとき、背中に声が掛かった。
「あんたにとって人との縁ってのはその程度なのか?」
「え?」
「三年連れ添った男が違う女に惚れて離縁したいと言い出しても、はいそうですかで受け入れるんだな。そんなに情がない人間だと思わなかった」
「…………どうして、そんなことを貴方に、」
レミリアの問い掛けに答えは返って来なかった。閉まった扉の向こう側とこちら側で、何か大きなすれ違いが起きたことは確かだった。