8話 巡劫回帰
「馳走になった。ではまた明日、すこし早い時間に」
サヤはいつものように礼を述べ、玄関の「扉」を静かに閉じた。
リビングテーブルに残ったのは空の皿とグラス、微かに漂うスパイスの香り。
食器を食器をシンクに置きながら声をかけた。
「ねえ、レーくん?」
レデウスはソファの上で身を丸め、器用に脚を伸ばして毛づくろいをしていた。
「明日、何しに行くか聞いてない? 千葉でしょ?」
「いえ、何も」
結衣の問いかけに、レデウスは毛づくろいの舌を止めることなく答えた。
リビングの窓から外に目を向ける。
雨雲に覆われた夜空が、街の灯りを鈍く反射していた。ちょうどニュースが流れ、アナウンサーが落ち着いた声で告げた。
「――気象庁によりますと、梅雨前線と低気圧の影響で、西日本から東日本の広い範囲で、雷をともなった激しい雨が……」
「大丈夫かなぁ……」
そう呟き、カーテンを閉じた。
明日、サヤはどこへ行くのか。
そして、何をしに行くのか。
結衣はまだ知らない。
夜の空は、濡れた墨のように重く垂れこめている。
強大なユキヒョウの背にまたがった結衣は、雨の滴る気配すら感じないまま、優雅に街を見下ろしていた。
「ほんと綺麗……」
内なる心の声たちも楽しそうに騒ぐ。
興奮――(あれって鎌倉ちゃうん!? またイキたいわー!)
欲望――(今度レーくんにモルディブ連れて行ってもらおうや! こないだ買ったどエロい競泳ビキニ着たいねん!)
不安――(それより……ほんまにこれ誰にも見つからんの? めっちゃ光ってんで……)
葛藤――(ほなら、普通に生身で飛ぶ? ――って、この雨では嫌すぎるやろ……)
薄く輝く「虹色の膜」が、周囲をすっぽりと包み込んでいた。
雨は膜の外側で弾かれ、風の影響もほとんどない。冷え込むこともなく、蒸し暑くもない。三人は、ただ静かに夜空を滑るように飛んでいた。
前方、サヤがポニーテールを揺らしながら飛行の進路を調整する。
正義感――(サヤちゃん……今日はスカート履くべきちゃうで……)
結衣は彼女の背中を見つめながら、ふと問いかける。
「ねえー、サヤちゃん! どこ向かってるのー!?」
彼女は振り向かず、淡々と答えた。
「木更津だ」
「なんでまたそんなとこー!?」
サヤは一瞬、迷うように口をつぐむ。しかし、すぐに短く答えた。
「……『戦死通知』を行う」
「え? ……は?」
結衣は思わず硬直する。
「戦死通知って……なんの!?」
サヤはなおも前を向いたまま、静かに続けた。
「儂が日本に帰還した理由の一つだ。……異世界で死んだ仲間たちの遺族へ、その死を伝えねばならない」
結衣は一瞬、言葉を失う。
内なる声たちも、一斉に沈黙した。
「……でも、いまさら言う必要ある!? もう四十年も前の出来事でしょ!? 遺族感情を考えたら――」
「行かねばならんのだ」
サヤの声はどこか遠く、淡々としている。
「……死者はただ放っておけば消えるわけではない」
「え?」
「誰かが、その死を認めねばならん」
「……それって?」
「――『巡劫回帰』」
結衣は眉をひそめた。
「ん? 巡ご……なに……?」
サヤは振り返って答える。
「『巡劫回帰』――異世界での自然現象だ。遺された者が、“死を受け入れる” ことで、初めて成される……」
「それって、つまり輪廻転生的な――」
「今夜、目にすることになる」
サヤはそう言い残し、視線を前方に戻した。
「え? ちょ――」
その時、レデウスが小さく声を上げた。
「目的地に到着します」
三浦半島の付け根を過ぎると、暗闇の中に長い滑走路が見えてくる。そこを目印に、三人はゆっくりと高度を落とし、木更津市郊外の住宅地へと降り立った。
目の前には、入母屋造りの小屋。
土砂降りの中、三人はその神社の前で二拝二拍手一拝を済ませる。
サヤは静かに奥へと向かい、短く呟いた。
「……突然押しかけて申し訳ない。帰りに扉を使わせていただきたい」
サヤが手から淡く光る何かを神棚へと捧げると、彼女はすぐに結衣の方を振り返った。
「次は着替えだ」
「着替え……?」結衣は首をかしげる。
「戦死通知を行う者としての、礼装だ」
◇◆◇◆◇◆◇
雨の中「何もない空間」が住宅街を進んでいる。
二人は礼装に身を包み、静かに歩いていた。
繊細な銀の刺繍が施された、燕尾服のような衣装。
黒い編み上げブーツ、黒のパンツ、白いブラウス、銀糸の装飾が施された黒のジャケット――。
不吉な匂いを匂わせる、中世の軍服にも似た喪の衣。
「……ここか」
サヤがある一軒家の前で足を止める。
「平成時代」を感じさせる懐かしい外観。小さな表札には、滲んだように「安堂」と刻まれていた。
結衣の背筋に、じわりと冷たいものが這う。
目の前にあるのは、四十年前に異世界へ召喚され、戻らぬままとなった者の家。
この家の人々は、今も我が子が行方不明のままだと信じている。
「もう一度確認する」サヤは低く言った。
「結衣、お前は『公証官』だ。何を聞かれてても話すな。ただ静観し、記憶せよ」
「わ、わかった……」
「決して感情的になるなよ。……それは、遺族の役割だ」
結衣は唇を噛み、無言で頷く。
手に持ったタブレットが震える。
「サヤ様からのご指示は、網膜に文字を投影いたします。インカメラを使いますので、ケースは開いたままにしてください」
サヤが付け足す。
「必要なときは目配せするので、レデウスを渡してくれ」
「う、うん……」
結衣は小さく息を吐く。
「では、はじめる」
虹色の膜がパチンと弾けると、二人の傘に大粒の雨が降り注いできた。
サヤは無言でインターホンのボタンに手を伸ばす。
――ピンポーン
チャイムは雨にかき消され、側溝に流されていく。
しばらくして、スピーカーから穏やかな老婦人の声が聞こえた。
「ええと……どなたかしら?」
彼女の声は穏やかだが、不審の色を隠せない。
インターホンのモニタに映るのは、黒い傘を持った小さな少女と、彼女を庇うように立つ若い女性――異様な二人組。
サヤは一歩、前に進み、静かに名乗った。
「夜分に失礼いたします。統合軍より参りました、『檜ノ谷・ヴェレシア・紗耶』と申します」
結衣の脳裏に、眉をひそめる老女の顔が浮かぶ。
「ぐん? ……統合軍?」
「四十年前――行方不明となった御息女について、重要なお話がございます」
「……」
「――これは『勧告』です」
サヤはゆっくりと、優しく詠唱した。
「どうか、玄関を開けて、話をお聞きください」
「……」
すこし待つと玄関の向こうから、老女が現れた。傍らには夫らしき老男の姿も見えた。
老夫婦はサヤたちを招き入れる。
それが「勧告」の影響なのか、娘の帰りを待ち続ける親の「想い」なのか、結衣には分からなかった。
客間には小さな座卓があり、急須と二つの湯飲みが置かれていた。
サヤは完璧な正座をし、深々と一礼する。
「統合軍長官より、深い哀悼の意を表するよう依頼を受けました」
彼女の声は淡々としていた。
「貴殿の御息女、安堂直子・一等剣尉は、デゥルペ峡谷において、統合前歴1017年、5月頃、33歳でお亡くなりになりました。彼女は剣技を磨き上げ、召喚第一旅団で中隊の指揮を執っていました。貴殿およびご家族のご損失に対し、深くお悔やみを申し上げます――」
老いた母親はいったい何のことか分からず、視線をちらと仏壇に向ける。
セーラー服姿の少女が、満面の笑みでピースをしていた。
サヤは続ける。
「安堂一等剣尉が、 “異世界召喚後” どのような経歴を辿ったか――」
「はぁ…… “異世界召喚” を……」
「どのような葬儀が行われ、どこに埋葬されているか。できる限りご質問にお答えします――」
「やっぱり……亡くなってたのね……」
「財産資産は、すでに配偶者様とお子様に相続されています。残念ながら、現地への訪問・弔問は不可能なため――」
「あの子……結婚してたのねぇ……」
母親はサヤの報告を淡々と話を聞くが、彼女の反応は静かで「理解できていない」ように見える。
その父親も同じだ。
「ほー、それじゃ、孫が増えるのか……」
「死」という概念が現実のものとして受け入れられるまでには時間がかかる。 しかもそれが「異世界での死」 となればなおさらだ。
「そして―― "お渡しできる遺品” はこちらが全てになります」
サヤはどこからともなく箱を取り出し、座卓の上に乗せる。
中を開けると、嗅いだことのない香りが放たれ、部屋に異界の雰囲気が漂った。
ボロボロになった生徒手帳、すこし色褪せたセーラー服のリボン。敷き詰められた革表紙の本。開いたすき間には、銀板写真が詰め込まれている。
父親は生徒手帳を手に取り、口を開く。
「一年五組A班……『安堂直子』……直子の字だ……」
母親は写真をそっと一枚抜き出し、じっと見つめた。
「……お父さん……これ……」
彼女の白い顔がみるみる紅潮していく。
指が震え、写真の角を強く握る。
「……うそ……こんなの、嘘よね!?」
「ん、どうした……?」
父親は持っていた生徒手帳を机に置き、写真を覗き込む。
そこには――
真っ白なドレスに身を包んだ娘。
隣には、“大きな角” を生やした男性。
二人は満面の笑みで、こちらに向かってピースをしていた。
仏壇の写真と同じように。
次のものを抜き出す。
――鎧姿で真剣な眼差しを向ける娘。
――大きなお腹を抱え、はにかむ娘夫婦。
――角の生えた赤ん坊を抱く娘。
――三人になった家族。
――四人に。
――さらに五人。
そして――
娘のいなくなった、家族写真。
父親の指が、かすかに震える。
沈黙が部屋に落ち、結衣は息を呑んだ。
静寂が異様に長く感じる。
バン!――
母親が座卓を叩き、声を荒げた。
「こ……こんなの、信じろっていうの!? ……これが、直子の人生だったっていうの……!?」
母親は唇を噛み、じっと娘の笑顔を見つめる。
「こんなの……こんなの……あの子の人生を……私たちは何も……」
夫の肩にしがみつきながら、母親は嗚咽をこらえた。
「っ……何も……知らない……」
結衣はそっと視線を落とす。
サヤの手が、わずかに拳を握りしめるのが見えた。
――この瞬間、老夫婦たちは、娘の死を受け入れるべきなのかを問い始めている。
だが、それはまだ、答えになっていない。
◇◆◇◆◇◆◇
静寂が空気に重くのしかかる。
老夫婦の間に流れる沈黙は、長い年月をかけて折り重なった思い出と、いま目の前に突きつけられた現実の間に揺れ動いていた。
「……あの子の何を知っているの!?」
老いた母親の声は、微かに怒気を帯びていた。
サヤは答えることができなかった。
「私は母親として、あの子がどんな風に笑っていたか知っている。でもあなたは――あなたたちは、それを何も知らない」
「私はあの子が好きだった歌や、苦手な食べ物を知っている。でもあなたは、それを知らない」
「私は……私は――」
まっすぐに母親の目を見据えるサヤ。
「……それなのに、どうしてあなたは、あの子の『死』だけを私に伝えられるの!?」
今のサヤはただの「通知官」だった。彼女が伝えられるのは、「戦場での死」だけ。
自分の仲間――「クラスメート」が、どんな夢を持っていたのか。
どんなことで笑い、どんなことで泣いたのか。
彼女の人生がどのように色づいていたのか。
――そのほとんどをサヤは知らない。
「……私は、ただの『通知官』です。私がお答えできることは、少ない……」
その言葉が妙に無機質に響いた。
結衣は、ただその光景を見つめるしかなかった。
戦場での「死」は、ただの数字だった。だが、家族にとって「死」は、決してひとつの数字などではない。
それは、「生きていた時間」そのものだった。
母親は静かに泣いた。
「すこし……時間をちょうだい……」
その時、二階に上がっていた父親が、色褪せたプラケースを抱えて戻ってきた。
「君たちが何者かわからんが、せっかく来ていただいたんだ。すこしでも、娘のことを知って帰ってくれ……」
その言葉にサヤは、小さくうなずく。
父親の語る「直子の思い出」は、どれも彼ら家族にとって鮮やかなものだった。
産院の退院日、初めて話した言葉、幼い頃に好きだった人形、習いたてのバレエ、家族で行った旅行の話、内緒にしていた彼氏の存在、日常の口喧嘩――「仲直りの口癖」
彼女が何を好きで、何を苦手としていたか。
ときおり見える母親の微笑みが、すべてを物語っていた。
サヤは静かに聞きながら、結衣の横で微かに目を伏せる。
「これは最後の日記……。いつぶりかしら……これを開くのは……」
母親は指を震わせながら、机の上の古びた日記を開く。
そこには、修学旅行の前日のことが書かれていた。
母親と口喧嘩の内容が、几帳面な文字で綴られている。
日付はそこで止まっていた。
ずっと続くはずだった日常は、そこで途絶えてしまったのだ。
母親は、やさしく指でページをなぞる。
「直子……ごめんなさい……」
声が、震えていた。
次の瞬間――ふっと、部屋の空気が変わった。
まるで、誰かに見つめられているような、妙な感覚。すぐ傍に、目には見えない「何か」が存在している。
サヤは目を閉じ、つぶやいた。
「始まる……」
光が、揺れる。
部屋を照らす蛍光灯が、かすかに、けれど確かに。
まるで、息をしているかのように。
母親はゆっくりと顔を上げた。
「あら……なにかしら……」
部屋の隅に、淡い輪郭が生まれる。
それは、やがて形を成し始め――女性の姿となった。
彼女は、笑っていた。その表情は、写真の中の少女と同じだった。
穏やかで、柔らかく、満面の――
結衣は目を見開き、母親のほうに視線を移す。
しかし、その瞳はサヤに向けられていた。
(――見えてない……?)
直子の両親には見えていなかった。
愛する娘が。
すぐ、目の前にいる娘が。
「よければ、少しだけ――直子のこと聞かせてくれないかしら?」
母親は、サヤを見つめる。
まるで、彼女の奥に「直子」の影を重ねているかのように。
「――できる限りお答えします」
優しく答えるサヤの視線の先で、安堂直子の唇が何かを紡いだ。
声は聞こえない。だが、結衣にはその言葉がはっきりと理解できた。
(……むかつく? でも、愛してるからね……?)
(どういう意味……)
(まって! ……これは、「仲直りの口癖」だ!)
論理より先に、結衣の心は動いていた。
「……あ! あのっ! す、少しだけ、私からもよろしいでしょうか!?」
刹那、結衣の網膜に文字が流れる。
(何も話すな)
結衣はケースのカバーをぱたんと閉じると、仏壇の遺影を指さした。
「なんというか……娘さん――ええと……直子 “先輩” は、いつも笑顔でした。その写真と同じように」
(おいおい……)音もなくため息をつくサヤ。
「そして、言ってました……『むかつく、でも愛してるからね』と……」
「そう……」
短い返答。
「教えてくれて……ありがとう……」
そう呟き、母親は、そっと目を閉じた。
父親も、黙って頷く。
光が――舞い上がる。
まるで風に乗る木の葉のように、静かに、穏やかに――
光の粒となった直子の姿は、ゆっくりと天へ帰ってゆく。
安堂直子は、ただ、微笑みながら――
「巡劫回帰」が発動し、すべては消えた。
残されたのは、部屋に漂う不思議な香りだけ。
母親がふと、小さな声で呟く。
「なんだか……泣いて怒ったら、急にすっきりしちゃったわ……」
「はは、母さんんらしいな。もうこんな時間だ、君たちもそろそろ帰りなさい」
◇◆◇◆◇◆◇
サヤは、短く一礼をすると、静かに立ち上がる。
老夫婦は二人を見送るために、玄関までついてきた。
母親は涙の跡が残る頬を拭いながら、サヤに尋ねる。
「そういえば、あなた……『檜ノ谷』さん、と言ったかしら?」
「はい、そうです」
「直子の同級生に、同じ苗字の男の子がいた気がするんだけど……」
「……私とは無関係な方ですね」傘を開くサヤ。
「では、失礼します」そう言い残し、サヤと結衣は家を後にした。
帰宅後、結衣はソファに横たわり、ぼんやりと天井を見上げていた。
サヤがつぶやいた言葉が、決意が、結衣の心に重くのしかかる。
――「『戦死通知』は、まだ始まったばかりだ。儂には、あと三十四人分の『戦死通知』を行う責務がある」
「……三十四人かぁ……」
――「全員を日本に帰し。すべてを救う。そのために、儂はここにいるのだ」
サヤの声には迷いがなかった。
結衣は、目を伏せた。
彼女の背負っているものは、自分が想像していたよりも、ずっと重いものだったからだ。
「……紗耶さんのご両親にも……? 自分の親に『戦死通知』も……?」
結衣は小さく息を吐く。
しばらく沈黙が流れたあと、レデウスが問いかける。
「結衣様は、これからどうされますか?」
視線を窓の外に向け、ゆっくりと呟く。
「……助けるよ。これからも」
「理由を伺っても?」
結衣は身体を起こし、レデウスの背中を撫でた。
「……見届けなきゃ」
結衣の決意を聞いて、レデウスは静かに応じた。
「承知しました」
カーテンの隙間から、雨の音が微かに聞こえた。
※魔法メモ
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【 勧告 】
種別:精神魔法
作用:相手に特定の行動を促す
反作用:記憶連続性の喪失に注意
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【 リアクション・ブクマ・コメント・ください 】
種別:生活魔法
作用:作者のやる気を引き出す
反作用:なし
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