契約婚(2)
私はいけないと自分に喝を入れた。つい、卑下する方向に考えがちだが、私は国から手当をもらえる国に認められた聖女なのだ。気をしっかり持って王子を無事に送り届けなければならない。
私情に流されてはダメだ。
大好きな人が私の肩に寄りかかっているその部分の熱が、どうしようもなく温かくてこのままずっと時が止まればいいのにとすら思えてきた。
夏のバラが鮮やかに別邸までの道のりを彩り、馬車の外を眺めると、美しい湖のようなお堀に囲まれた優美な別邸が姿を現していた。あらゆる人の胸を打つほど美しいと言われるニーズベリー城だ。
王子がぐったりと座っている馬車が別邸に着くと、慌ただしく門が開き、お堀の上の橋の石畳を馬車はがたことと音を立てて走った。このニーズベリー城に着くと、私はいつもあまりの広大さと美しさに見惚れてしまう。城の前で従者が迎えに飛び出してきた。私は王子を彼らに任せた。
「では、あとはよろしくお願いいたします」
私が素早く身を翻して去ろうとすると、「だめだ」と王子が私の腕を掴んだ。
「まだ解毒されていない。危険だ。引き続き解毒を試みて欲しい」
王子は真剣な眼差しで私に言った。
私の職業は聖女だ。確かに解毒が終わっていなければ、引き続き解毒を行う必要はある。
「かしこまりました」
私はそう告げて、従者に運ばれる王子の後について行った。
「一体何の毒を盛られたのでしょうか?」
侍女や従者に聞かれたたが、私は「お命には問題ない状況でございます」と答えるだけにとどめた。
別邸には何度も来たことがあるが、王子の部屋に通されたのは初めてだ。別邸の薬草室にあるものは何でも使っても良いと言われて、私は別邸の台所を借りて解毒剤を作った。
「どういった成分の媚薬かわからないため、効くかどうかは分かりませぬが、解毒剤を調合してみました」
私は眠っている王子にそっと声をかけた。王子は目を開けて私をぼーっと見つめた。
私は褐色の肌に薔薇色の頬とほめてくださった第一聖女の言葉を胸に、務めて明るい笑顔で王子に解毒剤を入れたカップをすすめた。
「ありがとう」
王子は疑いもなくその解毒剤を飲んだ。王子自身が望まぬ貴族令嬢に惹かれてしまうのは私としても嫌なので、本気で解毒剤を調合してみた。効くことを心から願った。
「ちょっとこっちに来てくれるか」
王子は私に言った。私は逡巡した。王子のベッドに近づくのは、何だか違う気がしたからだ。
「お命には別状ございません。私はここでお話をお聞きします」
私は王子にそう言って動こうとしなかった。すると、王子はベッドから起き上がって私の方に歩いてきた。
「君がいなくて僕は辛い……」
王子は私を抱きしめてそうささやいて泣き出した。
――えぇっ!?私を第一聖女と間違えている?
――怖い。この状況が……怖い。
私は驚いてビクッと体を震わせて、逃れようとした。でも、王子は私を抱きしめたまま私の唇に温かい唇を重ねてきた。私は稲妻に打たれたような衝撃を受けて、体が固まってしまった。
大好きな人にキスをされると逃げられない。だめだと分かっているのに、私は思わず応えてしまった。
「君がずっと忘れられないんだ……」
彼は泣きながら私の瞳を見つめてささやき、私を抱きしめたまま私の首筋に口付けをし始めた。
私はどうしたら良いのだろう?この媚薬は解毒が効かない。私の力では解毒できないようだ。
「僕から逃げないで……お願いだから、一度でいいから君を抱きしめさせて。最後までしないから。お願い」
彼は私にそうささやいた。
なぜこうなるのか分からない。彼は泣いている。
「聖女の君はいつもこういうエプロンを上につけているよね……」
第一聖女から頂いた私のエプロンは、第一聖女のものと瓜二つだ。王子は完全に私を第一聖女と間違えている。
――抱きしめるだけなら。錯綜した王子をこのまま放置はできない。
私は覚悟を決めた。私は男女の仲になった人は今まで一人もいない。最後までしないつもりのようだし、何をされるのか分からないが、愛する第一聖女だと私のことを思い込んでいる限り、王子は私を悪いようにはしないだろう。
もはや、私は自分が何をしているのか分からなくなった。
赤く頬を染め上げた王子が私を愛おしそうに見つめて私のドレスを脱がしていくのを、真っ赤な顔をしたまま受け入れた。罪深い、と言う言葉が頭に浮かんだが、彼を受け止めてあげなければという思いもあった。
身に纏うものが全て床に落ちたとき、今度は私は逃げようと必死になった。
「待って……待って……」
ベッドに連れ込まれて後ろから抱きすくめられた。
待ってくださいっ殿下っ
王子と第一聖女の間に何があったかは知らない。確かに一時期二人は婚約していた。こういう関係が二人の間にあったのかと私は悟った。泣きたかった。
自分の感情がよく分からない。嫉妬と後ろめたさと、ダメだと言う思いと大好きな人に抱きすくめられているという思い。
「綺麗だ」
「いつにも増して君は美しいよ。大好きだ」
私は泣いた。彼は私を愛おしそうに頬を赤らめて見つめて、私を優しく抱きしめた。
どうにかなりそうだった。おかしくなりそうだ。
私は王子の胸に抱かれていた。
最後に王子は私をそっと抱きしめて「ありがとう」と言った。
私はハッとして王子を見つめた。私が誰だか気づいてくれたのだろうか。
しかし、王子はそのまま眠ってしまった。王子は服を着たままだった。私一人が服を脱がされたままで、しばらく呆然とベッドの中にいた。
男性に抱きしめられたことが今までなかったので、最後までしないと言われても、美しい瞳に熱に浮かされたような性急さを漂わせ、色っぽい破壊力のある魅力を溢れさせた最愛の王子になすべもなく翻弄された私は、呆然と放心状態だった。