契約婚(1)
時計台の鐘が鳴った。そろそろ出勤しなければならない。ロバート・クリフトン卿が私を待ち合わせ場所で待っているだろう。今日の予定にはスティーブン王子の護衛は含まれていなかった。
しかし、私の運命はこの時思わぬ方向に舵を切ったのだ。最悪な出会いと言うべき、間の悪いタイミングで私たちはそばにいたことになる。
玄関の扉がノックされた。激しく轟くように。
私は窓からそっと外を見て飛び上がるほど驚いた。片想いの相手の王子が私の家の扉を激しく叩いていたのだ。
私が通りを見ると、王家の馬車と分からない馬車が停まっていた。スティーブン王子はお忍びのようだ。
私は走るようにして玄関に駆けつけて扉をさっと開けた。傾れ込むように王子が家の中に入ってきた。
「いかがされました?」
私はなんとか王子を抱き止めようとして、衝撃のあまりに床にそのまま押し倒された。
「薬を盛られた。解毒を頼む……」
真っ赤な顔の王子は苦しそうに喘ぎながら、私にそう囁いた。王子の顔が私の胸の辺りにあって、今度は私が真っ赤になった。必死に王子の体を押しのけてなんとか王子を仰向けにした。そして王子の体の下から這い出した。
「かしこまりました。解毒を試みます」
口の中でぶつぶつ呪文を唱えて、素早く王子の体に盛られた薬の解毒を試みようとした。
見たところ命に関わるような致命的な毒薬ではなさそうだったが、真っ赤な顔をした王子は息も荒い。
「何の薬かわかりますでしょうか」
「媚薬……」
――えっ!?
「ブルク辺境伯のゾフィー令嬢から……ですか?」
一瞬の沈黙があったあと、スティーブン王子は苦しいそうな表情で答えた。
「違う。ジェノ侯爵家のエリーゼ令嬢だ。危ないと思って必死で逃げてきた。お茶のカップに盛られていた。君の家がこの辺りだと聞いておいて良かった。いきなりで申し訳ないが、すぐに解毒できるか?」
私にはそれほど力がない。でも、私は何としてでも解毒を試みなければならない。
「何かお腹に入れてください。盛られた媚薬の血中濃度を中和しましょう。私の力はそれほどありませんが、お食べになっている間に解毒を試みます」
私はキッチンの椅子に王子を座らせ、ちょうど自分用に用意していたスープと大麦粥、焼きたてのパンを出した。王子は赤らめた顔で私の顔をぼーっと見つめていたが、私がしつこく促すとゆっくりと食べ始めた。
粗末な食事で申し訳ないと思いつつ、私は必死に解毒のスキルを使った。いくつかのスキルを組み合わせて試みたが、王子は食べながら赤らめた顔で私を見つめて苦しげにしているのは変わらなかった。
「あの……少しは楽になりましたでしょうか?」
「食べたら、少しマシになったと思う」
私はほっとした。第一聖女より私の力は低い。不甲斐ない自分に情けなさを感じたが、命に関わるような事態ではないとわかり、ほっともしていた。
「このパンは君が焼いたのか?」
「さようでございます」
王子はぼんやり私の顔を見つめていたが、「うまい」と言ってくれた。
私は真っ赤になった。ただパンを褒められただけなのに、だ。
――危ない。気をしっかり保たなければ、私の心が王子に見透かされてしまう。
「ありがとうございます」
私は職務上の業務連絡のような調子を心掛けて、淡々とお礼を言った。
「楽になったのであれば、速やかに戻りましょう。ここは私の家です。あなたのような方が長居して良い場所ではございません」
私はさっと立ち上がり、王子に外に出ようと促した。王子はチラッと微笑んだ。美しい顔を赤らめて少し恥ずかしそうにする仕草に私の心はキュンとした。
だが、必死で冷静さを装う。
「さあ、行きましょう」
私が再度促すと、王子はフラフラと立ち上がって私にしなだれかかった。
「キャっ」
私はいきなり王子が寄りかかってきたのでふらついたが、必死で倒れないように足に力を込めて王子を支えた。王子の顔は赤らんでいて、潤んだ瞳でどこか悲しげに床の方に視線が落ちた。
私は彼を支えながら家の扉を閉めて、外から鍵をかけた。そのまま通りで待たせている馬車の所まで彼を支えて歩き、慌てて飛んできた御者と息を合わせて王子を馬車の座席に座らせた。
「別邸に頼む。このままでは王宮に戻れないから」
王子は御者に頼み、王子が私の手を離さないので私も馬車の中に座った。
ぐったりとした王子は私の肩にしなだれかかり、私はぶつぶつとずっと解毒のスキルを発動していた。
――だめだわ。どうしよう。私の力ではやはり完璧に解毒できないわ。最悪だ。
「陛下が僕に結婚しろと迫ったんだ。だから、妙齢の令嬢たちがこぞって私に会いにきたがるんだ。いろんな理由をつけて」
王子は少し悲しげな表情で私に言った。
「私の好きな人は別にいるというのに、彼女のことはもう忘れたかのように、吹っ切れたように振る舞う必要がある。でも情けないことに、まだダメなんだ」
私の心も痛かった。私の好きな人は別の人が好きで、傷ついて泣いている。心が寒い。
この感情は最悪の感情だ。私が落ちた沼は底なし沼で出口がない。私は大好きな人のそばにいて、彼が愛しているのは別の人だと告げられている。彼には私の感情は悟られてはならない。
「命に関わる毒でなくてよかったです。私のスキルはまだまだ足りず、完璧に解毒できずに大変申し訳ございません」
私は惨めな気持ちで平謝りした。
「楽になったのは事実だ。君は僕には好意がないだろう?君のそばにいると安心できる」
彼はぼそっと正直な気持ちを吐露した。私はその言葉に体が固まった。
彼はそのまま目を閉じた。私の肩によりかかったままで。
私の気持ちは心の奥深くにしまわなければならない。
窓の外は夏の終わりを告げていて、まもなく紅葉するであろう木々がまだ緑の葉のままで風に揺れていた。暑さは少なくなり、黄金色に染まる渓谷を見ることができるのはまもなくだ。
お昼になるというのに、考えて見れば朝から私は何も食べていなかった。空腹のはずなのに、王子が隣にいると胸がいっぱいだ。
幸せな第一聖女のことを想った。彼女は今頃大好きな人と一緒にいるだろう。私は後に残された彼女にぞっこんのまま苦しんでいる王子と、冴えない地味な聖女のままで、二人で並んで不幸せなままでいる。