霧が晴れる ゾフィー令嬢(2)
スティーブン王子とフランソワーズが熱烈に愛し合っているのを見せつけられて、私は思わず逃げ出した。
それがどういうわけか、私は奇妙な場所にいた。昔父の仕事を手伝ってくれる治安書記だったブルックと一緒に、真新しい店の中で聖女が焼きあげるパンを待っている。アッシュブロンドの髪を丁寧に一つにまとめたブルックは、今日は何だか嬉しそうだ。
私はここで一体何をしているのだろう?
そこにジェノ侯爵家のエリーゼ令嬢がおずおずとやってきた。彼女は真っ青な顔をしている。エリーゼ嬢はプラチナブロンドの髪で豊満な体を持つ、若い貴族の間では大人気の令嬢だ。その妖艶さは折紙付きだ。侍女は外に待たせているのだろう。彼女は一人でお店の中に入ってきた。
「よく来たな」
ブルックは彼女にうなずいた。フランソワーズはスキルを使ってパンをこねたり、丸くちぎって並べたりしていたが、ジェノ侯爵家のエリーゼ嬢を見るとビクッとした。
「ごめんなさいっ!私が王子に媚薬を盛ったの!」
エリーゼ嬢は泣き出した。私は衝撃のあまりに一瞬固まった。だが次の瞬間、思わず彼女の背中に手を当てて、「気持ちがわかるわ」とささやいていた。
「私も同じことをしようとしてフランソワーズに媚薬の調合を頼んだのよ。断られたけどね」
エリーゼ嬢は私の言葉に驚いた顔をして、泣きながら告白した。
「私は放火もしてしまったの。頭に来て。私が媚薬を盛ったのに、王子は逃げるようにその場から去って、その夜には第二聖女との結婚を発表されたのよ。家にその知らせが来た時、私は頭に来てしまった。本当にごめんなさいっ!大変なことをしてしまったわ!」
私は恐怖に駆られて黙ったが、思い切って告白した。
「ごめんなさい。私は、フランソワーズが媚薬を盛って王子を不当に自分のものにしようとしていると告発する置き手紙をして姿をくらましてしまったの。そのことでフランソワーズが捕まって処刑されればいいと思った。完全に私が間違っていたわ。ごめんなさい!」
私の告白を聞いてエリーゼ嬢は驚いた顔をした。
「ゾフィー嬢、媚薬を盛ったのは私なのよ。フランソワーズ嬢ではないわ」
「ええ。分かったわ」
私とエリーゼ嬢は涙を堪えきれずに、しくしく泣いた。自分が哀れでちっぽけな人間で、どうしようもなく心根が曲がっていると思えた。惨めな気持ちだった。私は最低な人間だ。
「さあ、皆さん、パンが焼き上がりましたよ」
フランソワーズは焼きたてのパンを盛ってやってきた。コーヒーも淹れてくれている。お茶もあった。
ブルックと私とエリーゼ嬢は、真新しいテーブルを前にして、お皿に焼きたてのパンが乗せられて運ばれてくるのを見た。
大麦のパン?
これは何のパン?
フェリックス・ブルックはアッシュブロンドの髪を後ろに一つにまとめて縛っていて、青い目を輝かせて私の隣に静かに座っていたが、その彼に私はそっと聞いた。
「カラス麦のパンだ。すりつぶした豆も入っているな?豆も見つけたんだな」
「えぇ、全部揃えてくれていて本当に感動したわ。ブルックありがとう」
フランソワーズはエメラルドの瞳を輝かせてブルックに礼を言った。
「美味しいっ!」
「信じられないっ!すごい美味しい!」
私とエリーゼ嬢は声を上げた。何だか幸せな気持ちに、胸の辺りにふんわり温かい空気が入ってきたような心地になった。
「僕がフランソワーズき魅せられたのは、そのパンを食べたときだ」
いつの間にかスティーブン王子が店にやってきていた。「探したよ」と少し不服そうに言ったが、フランソワーズに焼きたてのパンを配られて、やっと顔が綻んだ。
ロバート・クリフトン卿とテリー・ウィルソン卿もやってきて、それぞれ焼きたてのパンをもらった。
「僕はフランソワーズに何も貰わなかったわけじゃない。解毒をしてもらおうと彼女の家に駆け込んだ時、彼女の焼いたパンを食べた。これは媚薬以上の効果だったんだ。パンを食べた時くら僕が彼女に夢中には間違いない」
スティーブン王子が話した。フランソワーズは顔を真っ赤にしていた。
「いいね?ゾフィー嬢。僕がフランソワーズを選んだ理由は色々あるが、媚薬を盛られて不当に意思を操られたからでは決してない」
スティーブン王子は私をまっすぐに見つめて言った。
「分かりました。本当に申し訳ありません。先ほど、フランソワーズ嬢に助けていただきました。彼女は私の身代わりになってくれようとしました。短刀で刺されてしまいそうになったのは、あの男たちがフランソワーズ嬢を私だと思ったからです。彼女はスキルで私そっくりになって見せて、私への攻撃をかわしてくれたのです」
「ゾフィー!!」
そこにブルク家当主である父のジャイルズが姿を現した。ロバート・クリフトン卿あたりが知らせたのだろう。
「無事だったのか。今の話は本当か?」
「はい、本当です。ごめんなさい。私は間違った告発をしてしまいました」
私と父の会話に割って入るように、ロバート・クリフトン卿が父に報告をした。衝撃の重要事実の報告だった。
「ゾフィー令嬢を狙っていたのは、ジットウィンド枢機卿の依頼を受けた悪党どもでした。捕らえた二人が白状しました」
ロバート・クリフトン卿が静かに伝えた。
――私を狙ったのはジットウィンド卿?
「さっきはリーズ城で逆上してすまなかった」
ロバート・クリフトン卿は胸を張って「いえ、大丈夫です」と私の父に言った。父は素直に謝罪した。だが、自分の娘が殺されるところだったと知って、青ざめた様子でよろよろとそこにあった椅子に座り込んだ。
「どうぞ。よろしければ」
フランソワーズは父にも焼きたてのパンとコーヒーを出した。父は穴が開くほど褐色の髪に薔薇色の頬をしたフランソワーズの顔を見て、コーヒーを一口飲んだ。目を瞑った。そして深くため息をつくと、パンを一口食べた。
「うまいっ!なんだこれは」
父はハッとした表情になり、残りのパンを味わうようにして噛み締めて食べた。
「あなたは第一聖女よりスキルが劣ると言われますが、このパンはすごいと思いますよ。第一聖女にはない才能がありますね。これを食べると私は気分がスッキリして幸せな気持ちになりました。ついさっきまでは暗澹たる気持ちだったのに、今は希望が沸く」
父は素直にフランソワーズに言った。そうだ。それは誰しもが思ったことだろう。
フランソワーズは少し涙ぐんだ。
「私はずっと自分のスキルが劣ると思っていて苦しんでいました。でも、私には私なりに特技というものがあったのですね。ずっと」
フランソワーズは「ありがとうございます」と小さな声でお礼を言った。
「エリーゼ嬢にも、ゾフィー令嬢にも、誰にも負けないあなただけの魅力があります」
フランソワーズはそう言って泣いた。エリーゼ嬢も私も泣きながらパンを食べた。
父はジットウィンド許すまじという顔つきになり、王子とロバート・クリフトン卿と何かを相談していた。
「実はジットウィンドを失脚させられる証拠があります」
フランソワーズがにこやかに皆に告げたのは、皆が帰ろうとした時だった。




