エピローグ 下
エピローグ 下
サイド 新垣班所属・前田
「ごふっ……!」
燃え盛る館の中で、わき腹を押さえて蹲る。俺の悪運も、これまでか……。
謎の魔術師の館に侵入したものの、そこがまさか反社とも取引のある悪徳魔術師だったとは。
そこで捕まっていた『行方不明扱いにされていた近隣住民』達。彼らを解放し、地下にあった反社との取引用だろうトラックに乗せてここから脱出させた。
魔術師VS自分を追って来た『コール』VS自分。という奇妙な三つ巴が発生したこの館。
コールから奪った武器で奮戦するも、魔術師は既に死亡。館に来ていたコールも半数ほどが奴の放った呪詛で道連れにされたが、それでも館内にまだ十人はいるはずだ。
いや……そもそも俺はここから脱出する体力が残っていない。かっこつけて、民間人の囮になんてなるんじゃなかったか……。
それでも。
「ふっ……」
俺が憧れたあの人なら。背中を追い続けたあの人ならきっと、こんな時でもニヒルな笑いを浮かべるのだ。
これで最後だと、目を閉じて土の香りをかぎながら精一杯の不敵な笑みを浮べてみせる。
新垣さん。ここまでです。どうか、加山や下田の事をよろしく――。
「うん?」
待て。自分は洋館の中にいたはず。なんで土の臭いがする?
目を開けてみるとそこには暗くなり始めた森の中で、背後からはバチバチと何かが燃える音。というかこの景色は自分が館に逃げ込む前に通った場所だ。
いつの間に館の外に?どういう事だ?
「動かないでください。出血が酷くなる」
「え?」
隣から聞こえてきた声に顔を向けようとしたら、側頭部に硬い物を押し付けられた。
これは金属か?いやそれにしても今まで触れてきた物とは材質が違う気がする。それになんだこの魔力量は。
傷の痛みではないあぶら汗がダラダラと流れていく。やばい。自分の隣にいるのはなんだ。こんなの、まるで貝人島で見た戦闘状態の『蒼黒の王』クラスの……!
「公安所属の魔術師、の方ですよね?ではご自分で止血を。こちらは見ないでくださいね?見られたら記憶が消えるまで殴らないといけないので」
「りょ、了解」
なんだその原始人みたいな方法は。
だが声の主はやるかやらないかで言えば『やる』と思った。それぐらい当たり前のように、冗談を口にしているような声音ではない事ぐらいこの仕事をしていたらわかる。
がさりと、向こうの方から音がする。前方に目を向けると、ぞろぞろと森の中を進んでくる集団がいた。
「うそ、だろぉ……」
弱音の一つも漏れ出てしまう。
たしか、前に確保した『インクイジター』とかいう米国で開発されたトルーパーのパチモンがあった。それに酷似した物が、パッと見ただけで二十機以上。
館でも一機と戦ったが、そいつを罠に嵌めて倒すのにもこんな深手を負ったんだぞ。どんだけコールの奴らはこの地に力をいれているんだ。
「ひのふの……ああ、どうやらこれで全部みたいですね。数分前に五十ほど潰したので、館で見た残骸も含めれば丁度です」
「え?」
隣の人物が前に出てきたので、咄嗟に顔を伏せる。視界に入っただけで何をされるかわからない。
だが、一瞬だけ長い銀色の髪と、
「あなた方には消えてもらいましょう。我が主のためにも」
血に濡れた黒白の槍が見えた気がした。
* * *
サイド 剣崎 蒼太
蒼の炎で燃える遺体に、そっと手を合わせる。
鹿野信夫さん。家族はいなかったらしく、親しいと呼べる友人もいないと聞いた。それでも、彼の死を村人たちに伝えた時の悲しみと動揺は本当だったと思う。
――貴方が思っているよりも、彼らにとって貴方は大事な存在だったと思いますよ。
殺しておいて、そんな事を手を合わせながら思う。
遺体が燃え尽きたのを確認し、村で貰った麻袋を背負う。一歩進むごとに、中に入れた魔道具の残骸がガチャリと鳴った。
この村に来て、色々あった。正直こんな旅行はもうこりごりだ。割に合わない。
「陛下!」
「陛下だ……」
「『蒼黒の王』陛下!」
村に戻るなり、村人たちが総出で迎えに来る。
これで鹿野さんの仇討ちとかならわかるのだが、どういうわけか跪いて首を垂れてくるのは困った。切り替えが早すぎる。
彼を殺した事に思う所はあるようだが、それ以上に『信仰』めいた感情がちらついている。正直うざったい。
「焔さん」
「ああ、新垣さん」
やってきた新垣班の面々に軽く会釈する。
「外部から連絡がありました。我々はこの後やってくる応援部隊にここを任せてから帰る予定ですが、そちらは?」
「俺とあの子はもう帰る予定です。あまり長居するわけにもいかないので。保護したあの女子高生達もよろしくお願いします」
「わかりました」
お互い愛想笑いを浮べながら会話する。まあ俺は兜をしているのだが。
だがその会話が聞こえていたのだろう。跪いている村人たちに動揺が広がっていく。
「そ、そんな。陛下がこの村から……」
「ど、どうすりゃいいんだ?もう山もこんなんだし、俺達……」
「お、おしまいだぁ……野土村はおしまいだぁ……」
「陛下ぁぁぁあ……もっと御身のお傍でぇぇぇぇ……」
勝手な嘆きを口にしてくる村人たち。あと何故かそこに混ざって号泣している江崎さん。なんなのあの子。
それはそれとして、もう帰るのだし念のため一言そえておくか。
「皆さん」
少しだけ魔力を振りまきながら口を開くと、それだけで周囲がシンと静まり返る。
普段はひたすら押さえつけている魔力だが、この怪異と化した人達だらけの村ならこれぐらい大丈夫だろう。
「俺はもう帰りますが、後の事はこの新垣さんにお任せください」
「ふっ……」
最近分かったが、新垣さんは辛いとき不敵に笑う癖があるっぽい。たいへんだなー。
「この人は俺がこの世で二番目に信用する人物です。新垣さんが一声かければ俺が戦力としてはせ参じる事は間違いありません」
「ふっ……」
嘘は言っていない。実際この人が『助けて』って連絡して来たら俺は全力で助けにいくし。
村人たちの視線が新垣さんに集まっていく。
「だからこの人を信じてください。俺を信じるなら、新垣さんも信用してください。この人の指示に従っていればだいたいどうにかなります」
「ふっ……過大な評価だね」
ニヒルな笑みの新垣さんの肩を掴みながら宣言する。
え、掴んでる理由?逃がさないためだが?
「あらかじめ言っておきます。この方を俺の家臣と勘違いする人もいるかもしれませんが、そんな事はありません」
「ふっ……もうその辺で」
「上下関係で言えば、新垣さんの方が上です。この人の指揮下になら、一時的という条件付きで入ってもいいと俺は思っています。新垣さんなら命を預けられる」
「ふっ……そろそろお帰りになった方がいいのでは?」
「新垣さん……後を、お任せします!」
「ふっ……ええ。善処しますとも」
よし。これで万一新垣さんの上司がこの村を燃やしたり実験場にしようと思っても俺の姿がちらつくな。
まあ最低限の義理立てにはなっただろう。新垣さんに対しては、ほら。治療とかしたしそれでチャラって事にしてほしい。
村人たちに群がられる新垣さんを背に、待ち合わせ場所に向かっていく。
「お待ちしておりました、御屋形様」
「お待たせ、海原さん。もう立って大丈夫なの?」
この村に来た時と同じ服装の海原さんにそう問いかければ、ムンと自慢げに胸をはってみせられた。
揺れた!
「はい。もう万全です。そもそも肉体の方は御屋形様に治してもらいましたし」
「大丈夫ならいいが、無理はしないでくれよ?大切な家臣候補なんだから」
「ええ、もちろん……今、なんと?」
目を見開いてこちらを凝視する彼女に、鎧を解いて伊達メガネの位置をなおしながら肩をすくめる。
「別に。もしも君が大人になっても俺に仕えたいと言うなら、是非傍にいて欲しいと思っただけだ。他に就職先が見つかったらそちらに行ってもらってもいいがね」
「い、いますいます!御身の傍にいます!将来も!死ぬまで!仕えます!」
「お、おう……」
凄い勢いで距離を詰められて、つい視線が右往左往してしまう。近い。なんかいい匂いがする。
なによりこちらの胸板にそのご立派なお胸様が!その先端が!大きいおかげでこの距離でも先端が当たっております!ありがとうございます!
柔らかい……服と下着ごしだと言うのに、この存在感とその奥に感じる温もりと柔らかさ。今こそ使徒としての感覚の鋭さをフルに行使する時に違いない。
「あらあら、お邪魔しちゃったかしら」
「あ、スペンサーさん。それにエマちゃん」
ああ、お胸様が離れてしまった。マジで邪魔すんなスペンサーさん。
睨みつけそうになるのを理性で抑えながら、二人に視線を向ける。治療が済みニコニコと笑顔なスペンサーさんと、その裾を掴んで俯いているエマちゃん。なんというか、村に来た時とだいぶ印象変わったな。
「貴方達、もう村を出るんでしょう?その前に色々とお礼を言わなきゃと思ってねぇ」
「それはご丁寧に」
「あら~、やっぱり普通に接してくる使徒って不気味~」
「どつきますよ」
「冗談よ冗談」
使徒にどういうイメージを持っているんだ。俺以外の使徒だって………。
やめよう。
「まずは、治療をありがとう。おかげでこの子を置いて逝かずに済んだわ」
スペンサーさんが真面目な顔になり、深く頭をさげてくる。
あの時は驚いた。エマちゃんと抱き合っていたかと思えば、どんどん魔力の流れがおかしくなっていくのだから。
慌てて治療したが、背中を始め常人なら普通に死んでいるほどの火傷を負っていたわけだし。
「いえいえ。山を燃やしたのは俺ですし」
「それと、ジョーンズ社の牽制についても、ね」
「それこそお気になさらず。後からアレの意味を考えたおかげで、この村を護る方法も浮かびましたし」
自分の影をちらつかせると魔法関係者は尻込みする。まあ、純粋な戦闘力で見ればかなり強い部類だし。大国の軍隊か神格でも持ってこられなければ大抵はどうにかなる自信がある。
あちらとしてはリスクとリターンを考えて足が止まるのも当然なわけか。
いやぁ……新垣さんに協力してもらってジョーンズ社に直接乗り込むなんて無茶な案をしなくてよかった。
「貴方は気にしていなくとも、私は感謝しているって事よ。さて、私からはとりあえず以上。他にも言いたい事はあるけれど、長く止めるわけにもいかないものね」
そう言ってスペンサーさんが肩をすくめ、そっとエマちゃんの背中を押す。
おずおずとした様子で出てきたエマちゃんだが、その視線は下に向けられたままだ。
「エマ。一番伝えたい事は、伝えられる時に伝えるべきよ。他の事だけ伝えて満足していたら、後悔することになるわ」
その言葉にようやく決心がついたのか、彼女がこちらに視線を向けてくる。
「……『蒼黒の王』、様」
「剣崎でいいよ。剣崎蒼太。それが俺の名前だ」
膝を曲げて視線を合わせながら名乗る。そう言えば、この子に本名を伝えるのはこれが初めてだったかもしれない。
なるほど。俺も伝えなければならない事を、伝えられていなかったらしい。マスクを外しながら、そんな事を思う。
「剣崎、さん。私は貴方に色々思う事があります。恨みと、感謝と、妬みと……たくさん」
「うん」
「けど、それでも。ジェイムズお姉さんを、私の家族を助けてくれてありがとうございました」
「うん。どういたしまして」
不服そうな、しかししっかりと頭を下げた少女に内心苦笑する。
なんというか、この子の人生は知らないけれど。それでも『いい家族』には巡り会えたらしい。
「それと、海原さん」
「うん?なにかな?」
どうやら自分に話が回ってくると思っていなかったのか、海原さんが小さく首を傾げる。
その隙をつくように、突然素早く動いたエマちゃんが海原さんの腰にしがみ付いた。
「え?」
「私は、エマ・ウィリアムズです。十歳です」
「う、うん」
「ジェイムズお姉さんと一緒に旅をして、これから私の『幸福』を増やしていきます」
「……うん」
戸惑っていた海原さんだが、優し気な笑みを浮かべてエマちゃんの頭を撫で始める。
二人にしか通じない事があったのか。口を挟まず、一歩離れてその様子を見守る事にした。
「これが、今の私の自己紹介です」
「うん。よくわかったよ」
「それと、私の目標をお伝えします」
海原さんから離れると、エマちゃんがビシリと音をたてて彼女を指さした。
「次は、負けません!いつかリベンジマッチをさせていただきます!」
その宣言に数秒程ポカンとした海原さんだったが、小さく吹き出してコロコロと笑う。
「ええ。いつでもお受けしましょう。『蒼太さん』の家臣候補第一位として、必ずや二連勝してみせます」
「いいえ。今度は私が勝ちます。そして二連勝して、勝ち越します!」
「人の夢と書いて儚いと言う事を教えてあげましょう!」
子ども相手に『人夢儚い』はないと思うな……。
二人そろってギャンギャンと口論した後、プイッとそっぽを向き合って歩き出す。
「話は以上です!足を洗って待っていてください!」
「上等ですとも。あとそういう時は足ではなく首です!」
なんともまあ。ようやくこの二人は年齢相応の顔をお互いに見せられたわけか。
スペンサーさんと肩をすくめ合って、こちらもわかれる。
あの二人にはきっと、これからも多くの受難がある事だろう。使徒の子供という肩書がどれほどのものか正確には知らないけども、恐らく無視して歩けるものでもあるまい。
だが、それでも。
「そう言えば、海原さんが欲しい褒美ってなんなんだ?」
「あー、それはですねー……名前で」
「名前?」
「お互いを名前で呼び合いたいなー……なんて。そう思うのですが」
歩きながら恥ずかし気にこちらへ視線を向ける彼女に、少しだけ自分の頬も赤くなる。
まさかそんな事を褒美として要求されるとは。これでは、まるで彼女が自分に惚れているみたいではないか。
「べつに、そのぐらい褒美でなくとも構わない。むしろそれだけって言うのは、流石に俺の威厳に関わるというか……」
「いえ、そもそも蒼太さんに威厳と呼べるものはないのでは?」
「突然のマジレスはやめて。泣くぞ」
これでも『様』付けで呼ばれたりするんだぞ?そこんとこ考慮して?
「では、ほら。早速お願いします!名前で!ほら!」
「あー、もう」
少しだけ頭を掻いてから、深呼吸。
「アイリ」
「っ~…………もう一度」
「アイリ」
「も、もう一度!」
「あ・い・り」
「せ、セクハラです!」
「なんで?」
「存在が、セクハラです!」
バンバンとこちらの肩を叩いて来たアイリに、苦笑を浮べるしかない。
この子が俺に思う感情が、恋慕なのか感謝を勘違いしているだけなのかは、あいにくとわからない。
けど、もしも。もしもその感情に答えが出た時があったとしたら。
「アイリ」
「待ってください。今は、今はちょっと名前を呼ぶのはストップで!」
「これからもよろしくな」
「……はい!」
どんな答えであれ、きっと満足のいくものなのだろう。
* * *
サイド 新垣 巧
「以上が、自分が山の外で遭遇した事件の顛末です」
「わかった。なによりも君が無事でよかったよ」
椅子に座った前田くんに笑い掛けながら、自分の分のコーヒーをお代わりする。
何故かうちの部下達は僕特製のコーヒーを飲みたがらない。不思議だ。
「民間人の保護。危険な魔術師の排除。君は君の職務において、素晴らしい働きをした。体の事もある。しばらく休みなさい」
「……休暇ですか!?」
「ああ。もとより、新垣班はしばらく動けない。ゆっくりするといい」
「ありがとうございます!ありがとうございます!」
何度も頭をさげて、松葉杖だと言うのに元気に去っていく前田くん。おそらくそのまま細川くん達と合流して、万歳三唱でもしてくるのだろう。
小さくため息をついて、椅子に腰かけてコーヒーをすする。砂糖だけが今の僕を癒してくれるよ……。
動けないのは『新垣班』であって、自分は別。というか、僕が他で動かないといけないから班員達を休ませないといけないわけだし。
いや、上からは『彼らも使っていいから、がんば』と言われているのだが、流石に部下達を休ませなければ。パフォーマンスに影響が出たら困る。
しばらくは、野土村の事で関係各所の緩衝材と、威圧目的で動かなければ。あー、しんど。
「……お礼を言うべきかな?」
「――不要です。僕は、僕の思うままに行動したにすぎません」
振り返らずに、背後の部屋の角へと呼びかける。
「コーヒーでも飲んでいくかい?自信作だよ」
「匂いだけで甘すぎるので、けっこうです」
「『蒼黒の王』も甘党らしいんだがねぇ……」
「……急いでおりますので。こちらの報告書は置いていきます。それでは」
唐突に現れ、そして唐突に消えた気配にまたため息がでる。心臓に悪い。
「言ったはずだよ、剣崎蒼太くん」
この独白は、ただの嘲りか、それとも罪悪感か。
「僕は、君の不利益な事もするし、全てを明かす気はないと」
その時、仕事用のスマホに通知があった。
内容を見て、思わず顔の筋肉がひきつる。今はたぶん、部下が来ても不敵な笑みを浮べられない。
スマホに表示された作戦名は、以下の通り。
『ドキワク、蒼黒の王ハーレム作戦!~ドスケベエッチ、子種をください。政府所属の名門魔術師嫁嫁合戦~!!』
うちの上司、とうとう壊れた。
* * *
サイド 尾方 響
温泉への戸をガラガラと開き、湯気の中へと入っていく。
「おー来たねー。おいでおいでー」
そう言ってこちらに笑いかける、裸の少女。
褐色の肌は瑞々しくお湯を弾き、温泉の淵に腰かけて優雅に足を組む。出る所は出て引っ込むところは引っ込んだ、理想的なプロポーションを惜しげもなく晒している。
その淫猥な体とポーズに反し、その幼さを残した美しい顔は無邪気な笑みを浮かべていた。髪型も頭の左右で銀髪をお団子にしているのもあって、少し幼く見える。
「うひょー!最っ高だぜぇ!」
なんか叫んでいるサイコ。こちらもスレンダーながら柔らかさを主張する体を惜しげもなくさらし、白い肌を上気させながらガッツポーズをとっていた。栗色の髪は後ろでアップにまとめられ、本来ならそのうなじの色気でも振りまいているのであろう。
だが変態である。絶対に近づかないでほしい。
「というか響ちゃん!なんでタオルを体に巻いているの!ここは温泉だよ?裸の付き合いだよ?」
「貴女がいるからですが?」
猛獣の前に無防備に体を晒す人間はいないと思う。
それにしてもこの体には未だ慣れない。視線をさげると、今にも巻いたタオルを内側から弾きそうな胸が目に入る。
正直、槍を振るうのに邪魔だ。だがこれも『巫女』としての特性を強める為、あそこの邪神の一面によせなければならない。
この宿にいる『もう一つの貌』よりはマシと思おう。
「あらあら。お背中を流しましょうか?」
そう言ってよってくる、やけに薄い着物姿の女将。糸目以外特徴のない顔立ちながら、その首から下はひどく淫猥だ。片方だけで人の頭よりも大きそうな胸に、ギリギリくびれのある腰。そしてたっぷりと肉の付いた尻と太もも。
薄くそして白い着物は湯気のせいか湿ってその体に吸い付き、体のラインをはっきりとさせている。胸の先端にある薄ピンク色の突起もだ。
なんというか、男子中学生の妄想を絵にしたような体だ。あれでは槍をまともに扱えない。
「いえ、結構です。御身にしてもらう事ではありません」
「まあまあ。そのご様子ですと体の手入れに不慣れなのでしょう?ここは女将として奉仕させてくださいませ」
「……よろしくお願いします」
あまり断るのも失礼か。そう考えてタオルをほどき、この体を晒す。
「おお!」
解放されて揺れる胸に跳び込もうとした変態が跳びかかろうとするが、見えない壁に阻まれて停止させられた。
「お客様。申し訳ございませんがここはそう言った行為をする場ではございません。どうかご理解ください」
「ふぁい……」
鼻をおさえてそのオッドアイを涙目にする変態。いかに彼女でも『神格』を相手にそれ以上は前に出れまい。
「じゃあ後でエッチなマッサージをお願いします!」
「通常のマッサージでしたら、お任せください」
「やったー!」
マジかこいつ。
内心でドン引きしながら、椅子に座って髪を洗われることにした。
流石『無貌ゆえに無限の貌をもつ』とされた存在。こうして髪を洗われるだけでなんと気持ちのいいことか。魔力など関係なしに、単純な技術だけで骨抜きにされそうだ。
「そう言えば、この旅館に蒼太くんも呼ぶはずだったんだっけ?」
変態の言葉に意識が現実へと引き戻される。
「ああ。けど途中トラブルに見舞われてしまったらしくてね。未来を見ないようにしていた弊害だよ。残念だね、『私』」
「ええ。せっかく一晩でこの旅館を作りましたのに。とても残念です、『私』」
女将と主上がそう言って笑い合う。
そう、この二人、いいや二柱は同じ存在。無限にある貌のうちの、側面同士。『バッファロー谷垣』というふざけた名前の女将こそ、かの邪神の化身なのである。
……本当になんだこの名前。どんなネーミングセンスをしているのか。
「けど招いてどうするつもりだったんだい、ハニー達。あの子はもうゲームに巻き込めないんだろう?」
「勿論もてなすつもりでしたよ、一人のお客様として。存分に身も心も癒して頂けるよう、誠心誠意ご奉仕するつもりでした」
そう答える女将。
たしか、会長はこの邪神との戦いに勝利する事でもう『巻き込まれない』という権利を得たのだったか?
「ま、あちらから私達のやっているゲームに乗り込んでくる場合は別だけどね」
カラカラと嗤う主上。やっぱクソだな。
「ですが、癒して差し上げたいのは本当でしたよ?なんせ、我が子はもう限界の様子でしたから」
背後から聞こえる女将の声に、自分の表情が硬くなるのがわかる。
今も極楽のような感覚を彼女の手から感じながらも、しかし心は冷えていく。
「あの子、もういつ心が壊れるかわからないものねー。よく『人の心』をここまで保ったと思うよ?出会いがよかったのかなー」
「ふーん。あ、そう言えば『落ち武者』は?あいつもこっちに来てないけど。まあ来ていても絶対に女湯にはいれないけどね」
興味なさ気な変態に、主上もまたぞんざいな様子で答える。
「うん。もう数カ月もしないうちに準備を済ませるらしいからね。儀式の用意を頑張っているよ」
「――どこで、でしょうか」
お湯で髪についた泡を流されながら、主上に問いかける。
「東京。あそこで眠る、私の子供の体を使うらしいよ」
読んで頂きありがとうございます。
感想、評価、ブックマーク。いつも励みにさせて頂いております。どうか今後ともよろしくお願いいたします。
この少し後に第六章のプロローグを投稿させて頂く予定です。そちらも見て頂ければ幸いです。




