⑥30代
フリーランスになりしばらくは、母のこともある程度我慢し過ごした。母の症状も比較的安定していたように思う。いつの間にか本当の気持ちは心の奥に封印し、この時初めて私が理想としていたただただ普通の家族になれたような気がする。
——しかしその時は突然やってきた。ある朝、母親のヒステリーが始まった。以前記したように、私は母のこのヒステリー状態にトラウマがある。萎縮してしまうのと同時に、「どうしていつもそうなんだ!」と言う抑えきれない怒りが湧き出してくるのだ。
これさえも今まで我慢しなだめてきたものの、今回ばかりは違った。母は愛犬に手をあげたのだ。私の心がどうにもならないとき唯一の心のよりどころである存在。なんなら母親より家族より大切な存在だった。
私も30代になり結婚する気はないため、親にとっては孫のように母も可愛がっていた。どこかバラバラだった家族をその愛くるしさで繋ぎ止めてくれたのもこの子である。
遊びたくて少しいたずらをした愛犬に「この馬鹿犬!」と叩き出したのだ。しかもそれは庭先だった。母はいつものように愛犬の世話をしていたが、テレビ見たさに急いでいた。愛犬の行動がロスを招き怒り狂ったのである。
——その瞬間、私の中に閉じ込めていた30年間の憎しみが一気に吹き出した。殺してやろうと思い力任せに突き飛ばしたのだ。
起き上がってもなお喚く母を無理やり家の中に押し込み、再び何度も強く突き飛ばした。それでも母は暴言をはき家の奥に消えた。もっと何かで頭を殴ればよかったと後悔したほど、私にははっきりとした殺意があったのだ。
このとき私はやはり殺したいほど母を憎んでいたのだと気づいた。こんな母親でも情があり、いつか良い関係が築けたらなどど甘い考えだったのだ。
父が帰ると母は涙ながらに軽く叩いただけだと主張し、私が必死に説明するも父はわたしに「出て行け」と言った。今まで知ってか知らずか他人事だった父が、何もわからないくせに母に加担したことに失望した。
少なくとも私は仕事に真面目な父を尊敬していた。こんな娘でも定年した父のサポートができるよう、親孝行ができるよういろいろと考えて生きてきた。しかしそんなもの必要なかったようだ。私は一体この親に何を期待していたのだろうか。
その後も母からは「お前なんかずっと大嫌いだったんだ」と絶叫され、こっちのセリフだと思いながらも再び怒りがこみ上げ私も「殺してやる」と叫んだ。いつかこんな日が来てもおかしくないと思っていた。やはり母とは本当の意味で親子にはなれなかったのだ。
母は自分の非を認めず謝ったことはない。良い事悪いことの区別がつかない、そんな母を見てまともな子供が育つわけがないのだ。私は結婚もしないし子供もいらない。母のように本来大切にすべき相手を傷つけるようなことはしたくないからだ。母親の精神異常を受け継いだ私が産んだ子供も、同じ運命を辿る可能性がある。そんな恐ろしい賭けはできない、ここで終わった方が良いのだ。
世の中には沢山の親子の形がある。私のようにもしくはもっと酷い親子関係の方もいると思う。一つ言えることは子供は純粋で、どんなことをされてもそれが母なのだと認識し愛情を欲しがるものだ。
そう思われているうちに早く現状に気づき、周りの大人はサポートするべきだ。一度壊れてしまったものは元には戻せない。子供の愛情が憎しみに変わらぬように。私は一生母を、父を憎むでしょう。
— 終 —
つたない文章を最後まで読んでいただき有難うございます。
いつかこの人生が無駄じゃなかったと思える日が、これを読み返して過去の話だと笑い飛ばせる日が来ることを願います。