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⑤20代後半

仕事を辞める1年くらい前に戻る。この頃私は徐々に仕事の量を減らし、他の仕事と掛け持ちをするようになった。言ってしまえは自分が指定した5年という期間に押し潰されそうになっていたからである。


久々の外の空気は格別で、期間限定で棚卸しの仕事、それが終わると営業の仕事に就いた。しかしこの後者により私のドン底が確定する。


この営業職というのはいわゆる訪問販売の仕事で、毎日物を売れば売るほど収入になる。稼げる人は1日で3万以上稼ぐ人もいた。一見美味しい話だが、世の中見ず知らずの人間から物を買う人はなかなかいない。営業センスがなければ難しいのだ。


鬱々していた私は明るい雰囲気の職場にいれば気分が晴れるのではないか、努力すれば私にもできるのではないかと無謀にも期待してしまったのだ。


ところがこの仕事も業務委託だったため労働時間は関係なく、毎日朝は7時に出勤し、仕事の後には先輩方から積極的に話を聞かなくてはならず帰宅は0時近いこともザラ。


1日の動く範囲は広く長時間にわたり、終了間際には走って売り歩くことも。急激に体重が落ちたため、もともと不安定だった精神状態がさらに悪化。食事も睡眠もまともにとれず、貧血で倒れたこともあった。


明くる朝、絶望的な気分で目が覚めた。どうしても布団から這い出ることができず、しばらく蹲った。理由のない絶望感である。


それから午前中は鬱々とした気分が続き、午後になると次第に楽になった。夕方から夜にかけては元気そのもので再び朝に絶望が襲うのだ。後にわかったがこれが日内変動である。


これまでは気づいていなかったが、以前も基本的に仕事は夜にならないと捗らなかった。朝は気分が重く仕事をしても捗らず、夜にかけてどんどんテンポが良くなった。仕舞いには寝ないで朝まで仕事をしたこともあったのだ。


話を戻すと朝が早いこの仕事を続けるのがキツくなり、志半ばで限界が来た私は1人の先輩と食事に行く機会があった。思い切って自分の精神状態について相談すると、その人も過去のストーカー被害の後遺症で精神疾患を患ってたのだ。見た目には分からないことが多い心の問題、内容こそ違うものの普段明るくても辛い思いをしている人がいるのだと知った。


私はこの先輩の勧めで病院へ行くことを決意。あんなに躊躇していたのにこの時すぐに行動できたのは、先輩の理解と後押しがあったからだと思う。


最初に精神不安を覚えた16歳の頃から実に11年。私は27歳になっていた。そして最初の診断ですぐに鬱病だとわかり、結局私は仕事を辞めた。


この時行った病院は先生との相性が悪く、その後すぐに別の心療内科へと足を運んだ。ここでの診断は双極性障害だった。鬱的なものだろうと予想はしていたが、私の場合は常に気分が落ちているわけではなく浮き沈みがあった。とても落ち込んでいる時はなにも手につかないこともあったが、そこから急に元気になるのだ。それが双極性障害の『双状態』である。


自覚はなかったがたまに来るそのパターンがいつしか楽しみになり、躁状態になるとここぞとばかりに仕事に没頭し嫌いな外出も増え行動力もかなりあった。思い出すと笑ってしまうのが、日本人との交流もまともにできない私が英語も話せないのに国際文化交流会に一人で突撃したこともあった。正直内容は覚えていない。


しかし躁状態になればなるほどその後の鬱状態は重かった。やっと自分でもしっくりくる診断結果だったと思う。


私は一度個人で抱えていた仕事全てから手を引き、再び環境を変えることを決意。病院に通いながら、一度就職をして規則正しい生活を送ることにした。


予想通り体調も整い、今まで一人で仕事をこなしてきた分会社での仕事はどこか楽に感じた。本来仕事が好きだった私はまたひたすらぼっとうした。しかし人間関係だけはなかなか上手くいかなかった。


比較的幅広く仕事ができた私は上司からは重宝され、後輩からはとても頼りにしてもらった。しかし近しい男性社員などからは恐らく嫌われていたと思う。ついつい意見してしまう事があり、今思えばあたりも強かったのかなと思う。


これも私の悩みの一つだった。良い事悪い事を頭で考える前に口から出てしまう。傷つけてしまった人もいたと思う。本当に嫌になるが母親そっくりではないか。


さらにこれまで報酬制だった私は給料に見合った仕事ができていない事が不満だった。同じ不満を他人にも押し付け、この人はなんの成果を出したんだろうかとさらに不満になった。


組織の中で生きていくには自己中心的ではダメだし、相手を思いやりチームワークも大切だ。しかし私にはそれができなかったのだ。自分がしてきた努力と相手を比較するなんて、私は相手の何を知っているのだろうと深く反省した。


それから私は専門外の仕事も多く任されるようになり、それはどんどん自分が本来やりたい事から遠ざけて行った。残業や持ち帰りの仕事「どうしていつも私はこんなに忙しいのだろう」「普通に仕事ってできないのだろうか…」不器用すぎる自分にも腹が立った。


病院へ行くようになり薬よりも「今の環境を変える事が一番だ」と思うようになった私は早急に上司に相談。約2年ほどで私はフリーランスに転身した。というか元の個人事業主へ戻ったのである。理解のある上司で本当に良かったと思う。


それからと言うもの前回よりは働き方も学び、無理せず働けるようになった。しかし自宅で仕事をすると言うことは、再び母親との関係が問題になる。


私も良い歳だったが症状を安定させるべくマイペースに働いていたため一人暮らしをする余裕はなかった。もちろん生活費は渡していたが、できれば母親とは離れた方が良いはずだろう。願いとしてはもっともっと稼いで一人暮らしをしたい。でもそのもっともっとが私には出来ず、本当に自分には失望するばかりだった。世の中金である。


もともと我が家は決して裕福ではなかった。父親はそれなりの企業に勤めていたが常に生活は困窮しており、これが原因で母親のヒステリーが巻き起こることもしばしば。私は頭も悪く高校は私立になってしまったために、さらに母はストレスを溜めているようだった。


こうして母のイライラは私に罪悪感を背負わせ続け、これもまたどんどん私を追い込んでいった。この時、世の中は「金」だと心の底から思った。

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