④20代前半
それから月日が経つと私も大人になり、面倒なことを避けるためなんとか母親との関係を保っていた。
社会人になると父親の紹介で事務職に就き私は仕事に没頭した。余計なことは考えなくて済むし働く事が好きだった。周りが大卒の中、二十歳だった私は迷惑をかけないように脇目も振らず一生懸命働いた。ところが慕っていた50代の上司が30代そこそこの女性社員にセクハラをして飛ばされた。
ショックだった。大人はどうしようもない生き物だとつくづく思う。噂好きの女性社員達は悲鳴を上げていたが、私は被害者の女性にひとり同情できなかった。
彼女は普段から上司との距離感が近く、ボディータッチも多かった。言い方は悪いかもしれないが、正直誘っているとしか思えない接し方だった。彼女は別の男性社員とも仲が良く、毎日給湯室で二人きりで話し込んでいたのを覚えている。
若者の割に硬い考えの私は、上司とは敬う立場であり一線引くものと思っていた。だからいつも彼女には嫌悪感を抱いていた。その時点で周りの女性達とも意見が合わず、頼りにしていた上司を奪われた私は仕事を辞めることにした。
ちょうどその頃に東日本大震災が起こり、いつ死ぬかわからない現実に直面したことでなおさら環境を変えるべきだと強く思った。震災により職を失う人が多い中で不謹慎だったかもしれない。
しかし地元が被災地である私は実際にその恐怖を体感し、多くのものを失った。子供の頃によく足を運んだ父親の実家。海が見えるのどかな田舎の風景。優しかった叔母。津波から逃れた叔父に「後悔しないように生きろ」そう言われたのを今でもはっきりと覚えている。
微力ながら被災地に赴き親戚の手伝いをした。いくつもの死体がまだそこにあった。自分の不甲斐なさに気付かされた。
こうしていろいろなことが重なった私は落ち込みがより一層高まったが、そのすぐあとに仕事の契約が満了となり職場をあとにした。
それから間もなく退職した私は職業訓練所に通った。気になっていたWebデザインの勉強をするためである。ずっとこれだと思う夢や目標が見つからずくすぶっていたが、パソコンの操作は得意分野だったしweb関係の仕事には憧れがあった。
専門的で高度な知識も要するジャンルを、頭の悪い私がどこまで攻略できるのか。この挑戦は人生で初めて私の胸を高鳴らせた。落ち込んでいたのも何処へやら、私は勉強が楽しくて仕方がなかった。
職業訓練を終えるととある個人経営のショップで働き始めた私は、ネットショップの物撮り(商品撮影)やページ作成などを担当することになった。個人経営だけあってweb専門の担当がいるわけでもなく、スタッフが仕事のかたわらwebサイトを更新するようなスタイルだった。ペーペーの私は勿論右も左もわからず、しかし従業員もなにもわからず。お互いにいろいろ模索しながら必死に取り組んでいった。
元々は近くの店舗で働く予定だったがWebメインでということになり、そうなると事務所勤務がマストである。しかし事務所は自宅からかなり遠く、通うには膨大な交通費と時間が必要だった。個人経営のため福利厚生など整っているわけもなく、止むを得ず業務委託に切り替えて在宅で仕事をすることになる。
それからと言うもの朝から晩まで休みなく働いた。ペーペーの私はまだまだ完璧に仕事をこなす事ができないため、納品しては修正、納品しては修正を繰り返していた。給料のように保証されるものはなく、修正も終わり認められなければ一つの仕事が完了しなかった。もちろん修正にかかる時間は1円も発生しなかった。
そして在宅での仕事はやはり引きこもりがちになり、嫌でも母と顔を合わせる。この頃の母は私が仕事をしているにもかかわらずブツブツ話しだし、聞いてもいないニュースについてあれこれ言うのだ。私は個人的に毎日ニュースを見るので母が話すそのほとんどが既に知っている内容だった。それでも角が立たないように必死に堪え黙って聞いていた。
そのほとんどは愚痴や悪口だった。時には留守にしている家族の愚痴。母からすればストレス発散になっただろうが私は溜まる一方である。仕事にも集中できず納品も遅くなる。だんだん私も腹が立ち思わず「黙れ!」と言うこともあった。すると母は逆切れし暫くは黙るもののまた同じことを繰り返した。
働いても働いても人並みに稼ぐ事が難しいうえ、母へのストレスもあってか私は次第にお得意の精神不安定が露呈しだした。週に一回は事務所へ顔を出さなくてはならなかったが、人混みに酔うことがあり電車やバスに乗るのが怖かった。途中で下車しては嘔吐することもあった。
そのこともありこの時私は自分の中で期限をつけた。「3年間がむしゃらに働こう」そうしたらこの仕事を辞めて良いと。とてもやりがいがあり達成感も得られたが、期限がないと精神的にも肉体的にも限界があったからだ。
しかし結局3年経ってもまだ足りないと、自分に納得ができなかった私は結局その期限を5年に引き伸ばし、ようやくこの任務を完了した。この時から努力しても努力しても納得できず、まったく自分に自信が持てないことに気づいた。
とはいえ無理はしすぎたもののこの時の努力はその後大いに活かすことができたし、かなり成長したと個人的には思っている。