③思春期
成長した分私もただ黙っているという選択肢がなくなり、怒鳴られたら怒鳴り返した。私と母は交わることなく常に火に油だった。
思春期には壮絶な親子喧嘩があり私も母の血を引いたのだろう、互いにヒステリーを起こし絶対に非を認めなかった。正直死んでくれと、殺してやりたいと思ったことは数えきれない。
——高校一年の冬、大好きだった祖父が死んだ。世界が終わったと思った。離れて暮らしていたが私にとってはとっくに家族よりも大切な存在だったのだ。今思えばこの頃から私は壊れていった。
祖父は亡くなる前は叔父夫婦と一緒に暮らしていた。それ以前は祖父母の家があったが、高齢に伴い叔父夫婦が引き取ったのだ。
叔父夫婦は私の両親とは数年前から折り合いが悪く、なにかといがみ合っていた。それから祖父が亡くなるまで滅多に祖父には会う事ができなくなった。大人は本当に勝手である。
そして祖父の葬儀で泣き喚き台無しにした母親を、わたしは一生許せないだろう。
それから母親のヒステリーにも拍車がかかった。大声で泣き喚き、物を投げたり、皿を割ることもあった。
一方祖父を失った喪失感から私も毎日泣いていた。死にたかった。消えたかった。祖父に連れていって欲しいと幾度も願った。ただ死ぬのは怖かった。そんな自分が情けなかった。でもどうしても生きる理由がこの頃の私には見つからなかったのだ。
こうして思春期に異常な精神不安を覚えた私は死ぬかもしれないという恐怖と常に戦っていた。正直精神科へ行くのはかなり抵抗があり、できれば行きたくはなかった。自分も母親のような精神疾患があることを認めるのが怖かったし、今後の人生を社会的に阻害されるのではないかという不安がありギリギリまで我慢した。
そしてそろそろ限界という頃に、藁にもすがる思いで母に「病院へ行きたい」と懇願した。すぐに返事が返ってきた。「普段の生活態度が悪いからそうなるんだ」と怒鳴られた。その時の母の軽蔑するような顔が忘れられない。
そもそも相談相手を間違ったのだ。大人になり自分で自分を救うしかないのだと気づいた。この頃何度かリストカットを試みた。死のうと言うよりは自分を傷つけたかった。心の痛みより外的な痛みの方がずっと楽だった。
誰かに相談できなかったのかという部分だが、こんな私にも一応友達はいた。ところがいつも途中で付き合うのが面倒になり、一緒に出かける約束もしょっちゅう断った。気分が乗らないのだ。申し訳ないとは思いつつも次第に疎遠になっていくパターンが多かった。
友達は欲しいがうまく付き合う方法を私は知らないのだ。恋人なんて尚更。仏頂面でへの字口で、基本的に印象が悪い私。怒っているわけではない。自分の顔が嫌いだった。笑った顔も気味が悪かった。母親によく似ていると言われていたからだろうか、とにかく顔も性格も自分という人間がたまらなく嫌いだった。
今思えば誰といるときも本当の自分を隠していたように思う。誰にも相談できないというより、話そうと思える相手に出会えなかったのだと思う。